小夜はいつのように朝餉の支度の手伝いをする。
 
 今日の味噌汁は初めて出汁とりから、小夜が作った。八重に味見を頼む。

 「どうですか? 八重さん、犬神家の味になっていますか」

 「奥様、どうか八重とおよびください。お出汁が優しくて、とてもおいしいです」

 「ありがとうございます。でも八重にはまだまだかないません」
 
 小夜は恭一郎の箱膳を運び、式たちが小夜の箱膳とお櫃を運ぶ。

 恭一郎の許可をもらい部屋に入ると、今日の彼は珍しく和装姿だ。

 「旦那様、今日はお仕事がお休みなのですか?」

 「そうだ。新婚なのだから、休暇をとれと言われた」

 「そういうものなのですね」

 小夜が嫁いだ杉本家は呉服屋を経営しいて、実家も神社だったので、お役所勤めというものが今一わからない。

 いつものように恭一郎が箸をとったのを見計らって、小夜は「いただきます」と手を合わせる。

 しかし今日はいつもと違い、恭一郎が味噌汁の碗を手に取る様子をとどきどきと見守っていた。

 「ん?」

 一口飲んでかすかに首を傾げる。

 「どうかしましたか?」

 小夜は食い気味に聞く。

 「いや、いつも出汁の味が違うと思ってな」

 「申し訳ありません。今朝は私が出汁をとりました。以後犬神家の味を再現できるよう精進いたします」

 慌てて小夜が謝ると恭一郎は呆れたような顔をする。

「謝ることはない。これはこれでうまい。それに犬神家の味など別にない。作る者によって、出汁に違いが出て当然だろう」

 恭一郎のこだわりのなさに驚いた。それに小夜の料理をうまいと言ってくれたのは、恭一郎が初めてだ。小夜は、そのことに感動する。

 「ありがとうございます」

 今日は味噌汁のほかにだし巻き卵も小夜が作った。見た目は綺麗にできているが、味が心配だ。

 小夜は固唾をのんで見守っていると、恭一郎はだし巻き卵に手を付ける。

 「このだし巻きも、小夜が作ったのか。うまいから大丈夫だ。そんな食い入るよう見るな」

 「はい、申し訳ありません」

 「いちいち謝るな」

 「はい、申しわけ……」

 小夜もだし巻き卵に手を付けた。やはり八重には遠く及ばないと思うが、今まで小夜が作ってきた中で一番おいしく感じた。

 八重はよい師匠だと思う。このまま料理が上手くなれば、この屋敷を首になったとしてもほかの屋敷や料理屋で働けるような気がしてきた。

 あらかた食事がすんだころ、恭一郎が口を開く。

 「小夜。今日は出かけるぞ」

 「承知いたしました。何時ごろお戻りでしょう」

 「お前も一緒だ」

 「え? 私もですか? あの、どちらへ」

 犬神の親戚の家だとしたら、少々気が重い。

 「銀座など、どうだろう。それとも上野がいいか?」

 「え……?」

 突然のことに小夜は首を傾げた。

 「新婚というのは、二人でどこかに出かけるそうだ。ちょうど神社や川べりの桜も満開だ」

 小夜は今まで誰かとどこかに出かけたことなどない。お使いで家を出ることはあっても、花見を楽しむ余裕もなかった。

 「はい、ぜひお供いたします」

 ここへ嫁いでそろそろ半月が過ぎる。小夜はまだ一度も屋敷から出たことがなかった。
 

 玄関で待ち合わせて二人はさっそく出かけた。

 顔合わせの時もここへ嫁ぐ時も、小夜には風景を見る余裕がなかった。長い築地塀ばかりが目に入り、そとの景色を楽しみむどころではなかったのだ。

 恭一郎の後ろについて少し歩くと、ほどなくして大通りに出た。

 通りの両側には小間問屋や甘味処、金物屋など商店が立ち並んでいる。人の往来も多く人力車が行きかっていた。久しぶりに感じる街の喧騒。

 ここは小夜が育った場所よりずっと開けている。にぎやかで華やかで、さすがは東京の中心地だ。小夜はひたすら小走りで、恭一郎の後をついて行く。

 「小夜、御堀端までいってみないか」

 そう言って振り返った恭一郎が、小夜を見て驚愕している。

 「は、はい、ぜひ……」

 息も絶え絶えに小夜は何とか返事をする。

 「すまぬ、小夜」

 立ち止まり、小夜の背中をさすってくる。

 「いえ、小夜は鍛え方が足りないのです」

 小夜はぜえぜえと息をする。恭一郎の足が速くて途中からは緩やかな上り坂を走っていた。

 「鍛えてどうする。俺の配慮が足らなかった。茶屋で休むか?」

 「旦那様、小夜は大丈夫でございます。しかし、驚きました。旦那様は、健脚なのですね」

 直之もこれほど足は速くなかった。それに直之と恭一郎とでは上背と足の長さが全然違う。
 恭一郎の方が体を鍛えているのにすらりとしていて、町で目立つほど背が高いのだ。
 
 「小夜。それは誰と比べている」
 
 恭一郎の眉間にしわを寄せ、ちょっと機嫌の悪そうな顔をする。
 
 「あ、いえ、あの、一般的な男性と比べて」
 
 「もうよい」
 
 そう言ったきり、恭一郎はむっつり黙りこんでしまったが、歩調は小夜に合わせ、とてもゆっくりと歩いてくれる。
 
 (やっぱり、優しい旦那様です。離縁後も、きっと良い雇い主になってくれるでしょう)
 
 小夜の口元がほころぶ。
 
 結婚してから半月たつが、一度も手を挙げられたことはない。それどころか怒鳴りつけられたこともない。そのことに小夜は安堵を覚える。
 

 緩やかだが長い坂を上り下りして、のんびり歩いていると、やがて御堀端の枝垂れ桜が見えてきた。
 
 「旦那様、すごく綺麗です。まるで薄桃色に景色が霞んでいるように見えます」
 
 桜の花びらが舞っている景色に、小夜はいたく感動した。
 
 「俺は、通勤や警邏の途中で見るが、なるほど休みの日に見るとまた違うな」
 
 ふわりと風が吹き抜けて、桜の花びらが小夜の元まで運ばれてくる。

 「まるで桜のトンネルのようです」

 小夜は花びらを掴もうとして両手を広げた。

 「桜のトンネル?」

 「はい、本物のトンネルは見たことはありませんが」

 恭一郎が小夜の言葉にふと笑みを浮かべる。

 「トンネルは、このように美しいものではない。それどころか窓を開ければ途端に煤だらけになる。そうだな、長期休暇が取れたら一緒に汽車に乗ろう」

 小夜は汽車に乗ったことがない。

 「本当ですか。楽しみです!」

 祝言の日はどうしようかと不安だったのに、嘘のように気持ちが晴れている。小夜はいつもここを追い出されたら、どうしようという恐怖の中で生きてきた。

 ところが犬神家ではそれがない。

 八重はとても親切で優しいし、石本も丁寧で声を荒げることもなく、いつも紳士的だ。

 犬神家に来てから、誰にも叱られていないことに気が付いた。

 ふと「卑屈だ」といった恭一郎の言葉よみがえる。このまま犬神家においてもらえれば、小夜は自分が変われるような気がしてきた。

 小一時間ほど、桜を見ながらのんびりと歩くと、恭一郎が茶店に寄らないかという。小夜は喜んで頷いた。彼女は茶店に入るのは始めてだ。恭一郎はみたらし団子を小夜はみつ豆を食べた。

 「とてもおいしいです。この甘いおもちのようなものはなんですか?」

 あまりのおいしさに頬が緩んでしまう。

 「それは求肥だ。食べたことがないのか?」

 「はい、初めてです。とてもおいしいものなのですね。女学生が夢中になるのがわかります」

 小夜は腹違いの妹のように女学校に通っていない。娘らしい華やかな柄の着物にはかま姿で女学校に通う彼女がうらやましかった。彼女からは羽二重餅やくずもちや、みつ豆、それにかふぇの話を聞いた。

 まさか自分が食べられるようになるとは思ってもみなかった。

 「それほど幸せそうな顔で、みつ豆を食べる奴は初めて見たぞ」

 あきれているのか、恭一郎がぼそりと呟く。

 「びっくりするほどおいしくて涙が出そうです。甘いものって食べるととても幸せな気分になれるものなんですね」
 「おい、小夜、本当に泣くな」

 困ったような声で恭一郎がいうので、小夜は慌てて袂で涙をぬぐって微笑んだ。

 その時、すぐそばで、だしぬけに声をかけられた。

 「あれ、隊長じゃないですか?」

 小夜はびっくりしてみつ豆の入った碗を落としそうになった。すんでのところで恭一郎が支えてくれる。

 「なんだ、行平か。何の用だ」

 不機嫌な声で恭一郎が応じる。目の前には感じのいい笑みを浮かべた二十代半ばの洋装姿の男性が立っていた。

 「あ、もしかして、奥さんですか?」

 にっこりと小夜に微笑みかける。小夜が口を開きかけるが、それを制するように恭一郎が言う。

 「妻の小夜だ。小夜、こいつは同僚の藤田行平という。軟派な男だから気を付けろ」

 まるでこいつとは口を聞くなというような表情だ。

 「ひどいな、隊長」

 行平と呼ばれた男性は、気にしたふうもなく能天気に笑っている。

 「こんなところにいていいのか? こっちをにらんでいる洋装の娘はお前の連れではないか?」

 「あっ、そうだ。こっちも連れがいるし、よかったら一緒にこれから飯でも食いに行きませんか? 牛鍋なんてどうです?」

 行平は明るく人懐こい人物のようだ。しかし、小夜は人見知りしてしまう。そのうえ、行平の連れと思われる女性はなぜか不機嫌な様子で小夜をにらんでいる。

 「断る」

 「わかりました。新婚の邪魔はしませんよ。奥さん、それではまた今度」

 ひらひらと手を振って洋装の娘の元へ去っていった。

 「断ってしまってよかったんですか?」

 「いいんだ。あいつは腕のいい退魔師だが、女癖が悪い」

 「まあ、それはいけませんね」

 小夜の実父にしろ、杉本にしろ、女癖が悪かった。しかし、二人とも非常に外面はよかったことを思い出す。
 
 二人は茶店をでると街をそぞろ歩いた。
 
 「そうだ、小夜。呉服屋へ行かないか? 着物を作ってやろう」
 
 「いえ、たくさんありますので、いりません」
 
 小夜はびっくりしてかぶりを振る。
 
 「なぜだ? その着物が気に入っているのだろう。石本から、小夜は毎日同じ着物を着ていると聞いた。お前は桜が好きなようだし。薄桃色の反物で着物をつくるといい。それ一枚では不便だろう」
 
 なぜか、恭一郎が着物を買ってくれようとする。
 
 「いえ、結構です。お着物はたくさんありますから、これ以上いりません」
 
 確かにこの着物は気に入っているが、引き出しの一番上に入っていたからきているだけだ。
 
 離縁するかもしれないのに、すべての着物に手を通すのは気が引ける。
 
 どう断ろうかと思ったその時、一羽の大きな烏が恭一郎の元へ飛んできた。
 
 『伝令、銀座方面に妖魔出現。犬神大尉出動されたし』
 
 小夜は烏がしゃべったのでびっくりしたが、ただの烏ではなく、式か人に使われている妖の類だろうと気づいた。
 
 「旦那様、小夜は大丈夫でございます。一人で家に戻れますので、どうかお仕事へ」
 
 「え? 小夜、お前、今の烏の言葉が」
 
 恭一郎が途中まで言いかけた時、「隊長!」と叫ぶ声が遮った。
 
 行平がこちらへ向かって走ってくる。さっきほどとは打って変わって、引き締まった顔つきをしていた。
 
 「小夜、少し待て、今式をつけよう」
 
 恭一郎がポンと手を打つと突然目の前に屈強な男が現れて、小夜は腰が抜けるほど驚いた。
 
 「だ、旦那様、こちらの方は」
 
 「式だ。いい加減になれろ。途中で車でも拾え、この式はお前を無事に家に届けたら消える。さあ、いけ」
 
  そう言って、小夜の手に幾銭か握らせると、恭一郎は行平と共にあっという間に去っていった。

  不思議なことに突然屈強な男が突然現れたのに、街を行きかう人々は誰もきづいていない。式を扱えない小夜は理解に苦しむ。

 (いったい、どうなっているの?) 

 その後、小夜は式と共に屋敷返った。式は屋敷に小夜を送るとふっと消えた。




 翌日、小夜は八重に「旦那様」とのお出かけが、とても楽しかったと話した。特にみつ豆のおいしさに感動したと話をすると、八重がくずもちを買ってくれた。

 その日のお三時にはくずもちにきな粉と黒蜜をかけていただいた。

 まだまだ世の中には小夜の知らないおいしいものがたくさんあるのだと知った。

 
――結局、恭一郎はその後一週間もお勤めで帰ってこなかった。
  


 恭一郎と結婚して、ひと月が過ぎた。

 この家に嫁いできて、小夜は母がいなくなって以来、始めて穏やかな生活を送っている。しかし、恭一郎が寝所を訪れないのはそのままで……。

 (やはり、離縁も時間の問題かしら)

 しかし、恭一郎が優しいことはわかっている。きっとここの使用人として雇ってくれることだろう。心の準備だけはしておくことにした。


 桜の季節が終わり、犬神家の庭にはつつじが咲き始めた。あれ以来恭一郎とは一度も街へ出ていない。彼は仕事でほとんど家にいないことが多いのだ。非番の時も呼びだされることもままある。

 「なぜ、これほど旦那様は、お忙しいのでしょう」

 玄関先で、いつものように切り火をして恭一郎を送り出した小夜はぽつりとつぶやく。

 「雨が多くなる季節が近づくにつれ、鬼道がひらき妖魔が増えるのですよ」

 石本が答える。 

 「旦那様が、心配です」

 穢れ多く、空気が澱んだ場所に鬼道がひらき、そこから妖魔がわいてくる。

 小夜は忙しい恭一郎が体を壊さないかと心配になるが、石本や八重によると恭一郎はとても頑強でここ数年病気一つしていないのだそうだ。