三日後の夕刻に、恭一郎は帰って来た。
その日、恭一郎が一緒に夕餉をとりたいと言っていると知らせを受けた。
配膳の手伝いをしようとすると、使用人たちから止められ、小夜はとぼとぼと恭一郎の部屋へと手ぶらで向かった。
上げ膳据え膳で至れり尽くせりの犬神の家が、居心地が良いかといえば答えに詰まる。小夜は今までこのように大切にされたことがないから、なんとなく落ち着かないのだ。
三食おいしい食事が食べられるのはとても喜ばしいことだが、働かない人間が食べていいのかと妙な罪悪感を抱いてしまう。
恭一郎の部屋へ行くと、和装に着替えた彼が座っていた。軍服姿も和装姿もきりりとしていて美しい。この結婚は釣り合わないことばかりだ。
「旦那様、お帰りなさいませ」
玄関で恭一郎を迎えられなくて残念だ。三つ指をついて挨拶をする。
「床は冷たかろう。さっさと部屋に入れ」
「はい」
下座に座ると、使用人が小夜のためにふかふかの座布団を運んできた。
小夜は恐縮しながら座る。
「どうだ。家にはなれたか?」
「いろいろとよくしていただき、ありがとうございます」
小夜が頭を下げ、着物やそのほか道具、屋敷で大切にされていることなどつらつらと礼を述べていると「もういい。当然のことだ」と呆れたように恭一郎に遮られた。
それを合図に、部屋に膳が運ばれてきた。
料理は相変わらず綺麗に盛り付けられている。お出汁のよい香りが漂ってきた。
八重はとても料理が上手い。煮魚に茶わん蒸し、山菜の天ぷらが添えられている。小鉢は切り干し大根だ。八重の作る切り干し大根は、歯触りがよいのに味がしっかり染みていて美味しい。朝餉の手伝いで八重に料理を教わっているが、小夜はまだこの域に達していなかった。
恭一郎が黒塗りの箸をとったのをみはからってから、小夜は「いただきます」と手を合わせた。
静かな中で食事は進んでいく。
食後のお茶は小夜が淹れた。
小夜は今まではご飯茶碗に白湯や薄い玄米茶を注いでいたが、この家では必ず湯飲みに煎茶やほうじ茶を注ぐ。
今日はほうじ茶の茶筒が用意されていた。とてもいい茶葉を使っているので、急須に湯を注いだ途端、馥郁としたいい香りが広がる。
小夜はこの優しい味が好きだ。
「小夜、お前はこの家で家事をやりたいそうだな」
「はい、ぜひやらせていただきたいです」
「それはなぜだ?」
「何もしないのに、ただでおいしいご飯をいただくわけにはまいりません」
小夜はきっぱりと答えた。
「それは本気で言っているのか?」
少し驚いたように恭一郎が言う。
「もちろん本気でございます。八重さん、いえ、八重……のようにうまく料理はできませんが、頑張りたいと思います。それにお掃除も出来ればさせていただきたいのです」
「掃除は式神にやらせている」
「え?」
小夜は意味が分からなくてきょとんした。
「神職の娘なのに、式神も知らないのか?」
「いえ、存じております。ただ普通の人間にしか見えなくて……」
家の掃除をするために式を使うなど聞いたことがない。
「この家で人あるのは石本と八重と庭師の大山だけだ。後は皆、式だ」
言われてみれば、確かに八重や石本のように強い存在感を放っていなかった。そう、それらの存在が薄くて、名前を尋ねようとすら思わなかった。
「すごい……です」
小夜は驚き過ぎてそれ以外の言葉見つからなかった。式神がいるということは使役している者がいるということで。つまり、目の前の恭一郎がやっていることのだろうか。だとしたら、とんでもない術者である。
「それから、この家は古いから付喪神もいる」
付喪神と聞いて驚いた。小夜もあまりお目にかかったことがない。途端にそわそわしだす。
「付喪神って……、何かお供え物とかしなくてもよろしいのでしょうか?」
たいていの神は、大切にしないと祟り神になる。
「それは当主の仕事だ。問題ない。それより問題なのはお前だ」
「私が何か?」
小夜はどきりとした。
「そんな不安そうな顔をするな。どうも普通の人間より、勘が鋭いようだ。普通は式神の存在に気づかない。ましてや人の姿だと認識するとは。仲人から何も報告は受けていないが、何か特別な修行でもしていたのか?」
小夜は実母の言葉を思い出し、反射的に首を横にふる。
「いいえ、私は何も……」
消え入りそうな声で答えると、目を伏せた。
「まあ、いい。庭の掃き掃除や八重の手伝いくらいならしてもいいだろう。それから先日、朝餉の時お前がいいかけていたことだが、なんだ?」
話は聞いてもらえるようでよかった。小夜は慌てて背筋をのばす。
「は、はい、私は許嫁である杉本家の直之様の元に嫁ぎましたが、直之様にはすでに恋人がいらっしゃいました」
「別に珍しい話ではないな。だが、俺に前夫の話をしてどうする?」
困惑をにじませた表情で小夜を見る。
「その続きがありまして、直之様の恋人がお峰さんというのですが、たいそうやきもち焼きで、直之様は祝言直後から、お峰様のところでお過ごしでした」
拙い小夜の話に恭一郎がため息をつく。
「だが、杉本が子もうけて結婚したのは、森川家の絹子といわなかったか」
恭一郎は、いちおう小夜の事情は知っているようで安心した。
「は、はい、お峰さんと付き合いながら、絹子様とも付き合っていたそうです」
慌てて付け加える。
「小夜。俺は何を聞かされているのだ? 杉本の乱れた女関係などどうでもよいのだが」
恭一郎は訝しげな視線を小夜に向けると、茶をすする。
彼が小夜に結論を求めていることは明らかだ。
「その、つまり私は一度も直之様と床を共にしておりません」
小夜が覚悟を決めてそう言った瞬間、恭一郎は茶をむせた。
「どうして、そのようなことになるのだ?」
さすがに驚いたようだ。恭一郎の鉄面皮が初めて崩れる。
「あ、あの、直之様は恋というものに、誠実でありたいとおっしゃっておりました。それに直之様のお相手もやきもち焼きが強かったので」
あたふたとして小夜が言い訳をする。とどのつまり小夜に女としての魅力がまるでなかったのだろう。小夜が口を噤むと再び沈黙がおちる。
やがて、恭一郎がため息をついた。
「つまりお前は、杉本の手がついていないのに、石女として離縁されたのか? 石女というのは杉本が絹子を嫁にもらいたいがための方便か?」
「はい、そうなります」
恭一郎は理解が早いようで助かる。
「お前の実家はなんと言っている」
「実家へは言わないようにと、口止めをされています。それに実家に帰るとひどく叱られ、誰も私の話を聞いてはくれませんでした。この縁談が決まるまで、私は土蔵に閉じ込められておりました。」
小夜がそこまで一気にしゃべると口を噤んだ。本当に父の怒りはすさまじくこの縁談がなければ、小夜は吉原に売られるところだった。
部屋にはしんと沈黙が落ちる。
「なぜ、そんな扱いを受ける。杉本家にも実家にも。お前はずっと虐げられていたのか?」
「その……実家では粗相が多くてよく叱られました。日に一度は食事をいただけましたので、別に虐げられると言うほどでもありません。それに母がいた頃はかわいがってもらいました」
「通りで痩せている。杉本家では食事はもらえたのか?」
恭一郎は、淡々と質問を続ける。
「あ、あの、残り物をいただきました」
自分の卑しい生い立ちが恭一郎にバレてしまった。犬神家は名家、本家とどんなやり取りがあるのか知らないが、いったいどういう経緯で小夜はこの家にもらわれたのかわからない。この場で離縁されるかもしれないと緊張に身を固くする。
小夜が不安でいると、とつぜん、恭一郎がふふふと笑い出した。
「な、なにがおかしいのでしょう?」
「犬神の本家はお前が石女でないと困るのだ」
やはりと小夜は思った。どいうわけか小夜というより、恭一郎は跡目をのぞまれていないらしい。きっと祝言の時親戚もそのことで怒っていたのだろう。
「理由をお伺いしても?」
「お前には関係のない話だ」
そう言って、恭一郎は口を引き結ぶ。
もうそれ以上は小夜の質問には答えてはくれる気はないのだろう。
小夜はしょんぼりと肩を落とす。
「面倒な奴だ。まだ言いたいことがあるのか?」
恭一郎がため息をつく。
「あの、それで私は石女では……ないかもしれないので、離縁されるのでしょうか?」
小夜の言葉に恭一郎は合点がいったといようすで片眉をあげる。
「なるほど、お前はそれが不安だったわけか。別にばかではないようで、良かった。今のところお前と離縁する気はない」
「今のところ……」
引っ掛かりのある言い方である。やはり離縁前提なのだろうか。
「小夜。言いたいことがあるのなら、はっきりと手短にいえ」
「はい、では恐れながら、旦那様、小夜には下心があります」
「は?」
「離縁されてしまうと私は実家で厄介者。もう帰ってくるなと言われております。二度目の離縁となりますと、もらってくださる方もいません。そうなると小夜は身を売って生きていくしかありませんが、それは嫌なのです。
だから、旦那様が私を離縁なさった後、使用人として屋敷で雇っていただきたいのです。この家の家事はしっかりと覚えます。どうかお願いいたします! そしてできれば、八重さん……いえ、八重の作るおいしい料理を覚えたいのです」
小夜は一気にそこまで喋ると頭を下げた。再び沈黙が落ちた後、くつくつと笑い声が聞こえてきた。
小夜が驚いて顔を上げると、恭一郎が笑っている。そんな顔は初めて見た。
「あの……。旦那様?」
「小夜は、面白いな」
恭一郎は実に楽しそうに声を上げて笑うと、約束してくれた。もしも離縁するようなことがあれば、屋敷でつかってくれると。
小夜はほっとして、涙が零れた。
「ありがとうございます。小夜は、このご恩を一生忘れません」
「まったく、いちいち大げさな奴だ。まあ、離縁することはないがな」
最後にぼそりと付け加えられた恭一郎の言葉は小さくて、小夜には聞き取れなかった。
「はい? いまなんと?」
「話が済んだのなら、部屋に戻れ。俺は疲れたから休みたい」
また、犬のように恭一郎の部屋から追い払われてしまった。
だが、ようやく将来が定まったことで、小夜はようやくぐっすりと安心して眠りにつくことができた。
翌朝、小夜は張り切って、八重の元へ朝餉の手伝いに行った。
「奥様、おはようございます」
「八重さん、聞いてください!」
小夜は目を輝かせて子犬のように八重の元へ走り寄る。
「奥様、八重でございます」
八重は優しい笑みを浮かべながらも、きっぱりとことわりを入れる。
「あ、はい、……八重。その私、旦那様と離縁したら、ここの使用人として働くことになりました」
「はあ?」
八重がびっくりしてのけぞった。
「八重さん、これからもよろしくお願いします」
小夜はぺこりと頭を下げる。
「なっ! ご当主はなんてことを!」
驚愕する八重をよそに、小夜は張り切って仕事を始めた。
「八重さん! 今日は私がかまどの火をおこしますね」
「奥様、ちょっとお待ちを! 八重がやりますので! ああ、煤だらけになってしまいますよ」
その日、恭一郎が一緒に夕餉をとりたいと言っていると知らせを受けた。
配膳の手伝いをしようとすると、使用人たちから止められ、小夜はとぼとぼと恭一郎の部屋へと手ぶらで向かった。
上げ膳据え膳で至れり尽くせりの犬神の家が、居心地が良いかといえば答えに詰まる。小夜は今までこのように大切にされたことがないから、なんとなく落ち着かないのだ。
三食おいしい食事が食べられるのはとても喜ばしいことだが、働かない人間が食べていいのかと妙な罪悪感を抱いてしまう。
恭一郎の部屋へ行くと、和装に着替えた彼が座っていた。軍服姿も和装姿もきりりとしていて美しい。この結婚は釣り合わないことばかりだ。
「旦那様、お帰りなさいませ」
玄関で恭一郎を迎えられなくて残念だ。三つ指をついて挨拶をする。
「床は冷たかろう。さっさと部屋に入れ」
「はい」
下座に座ると、使用人が小夜のためにふかふかの座布団を運んできた。
小夜は恐縮しながら座る。
「どうだ。家にはなれたか?」
「いろいろとよくしていただき、ありがとうございます」
小夜が頭を下げ、着物やそのほか道具、屋敷で大切にされていることなどつらつらと礼を述べていると「もういい。当然のことだ」と呆れたように恭一郎に遮られた。
それを合図に、部屋に膳が運ばれてきた。
料理は相変わらず綺麗に盛り付けられている。お出汁のよい香りが漂ってきた。
八重はとても料理が上手い。煮魚に茶わん蒸し、山菜の天ぷらが添えられている。小鉢は切り干し大根だ。八重の作る切り干し大根は、歯触りがよいのに味がしっかり染みていて美味しい。朝餉の手伝いで八重に料理を教わっているが、小夜はまだこの域に達していなかった。
恭一郎が黒塗りの箸をとったのをみはからってから、小夜は「いただきます」と手を合わせた。
静かな中で食事は進んでいく。
食後のお茶は小夜が淹れた。
小夜は今まではご飯茶碗に白湯や薄い玄米茶を注いでいたが、この家では必ず湯飲みに煎茶やほうじ茶を注ぐ。
今日はほうじ茶の茶筒が用意されていた。とてもいい茶葉を使っているので、急須に湯を注いだ途端、馥郁としたいい香りが広がる。
小夜はこの優しい味が好きだ。
「小夜、お前はこの家で家事をやりたいそうだな」
「はい、ぜひやらせていただきたいです」
「それはなぜだ?」
「何もしないのに、ただでおいしいご飯をいただくわけにはまいりません」
小夜はきっぱりと答えた。
「それは本気で言っているのか?」
少し驚いたように恭一郎が言う。
「もちろん本気でございます。八重さん、いえ、八重……のようにうまく料理はできませんが、頑張りたいと思います。それにお掃除も出来ればさせていただきたいのです」
「掃除は式神にやらせている」
「え?」
小夜は意味が分からなくてきょとんした。
「神職の娘なのに、式神も知らないのか?」
「いえ、存じております。ただ普通の人間にしか見えなくて……」
家の掃除をするために式を使うなど聞いたことがない。
「この家で人あるのは石本と八重と庭師の大山だけだ。後は皆、式だ」
言われてみれば、確かに八重や石本のように強い存在感を放っていなかった。そう、それらの存在が薄くて、名前を尋ねようとすら思わなかった。
「すごい……です」
小夜は驚き過ぎてそれ以外の言葉見つからなかった。式神がいるということは使役している者がいるということで。つまり、目の前の恭一郎がやっていることのだろうか。だとしたら、とんでもない術者である。
「それから、この家は古いから付喪神もいる」
付喪神と聞いて驚いた。小夜もあまりお目にかかったことがない。途端にそわそわしだす。
「付喪神って……、何かお供え物とかしなくてもよろしいのでしょうか?」
たいていの神は、大切にしないと祟り神になる。
「それは当主の仕事だ。問題ない。それより問題なのはお前だ」
「私が何か?」
小夜はどきりとした。
「そんな不安そうな顔をするな。どうも普通の人間より、勘が鋭いようだ。普通は式神の存在に気づかない。ましてや人の姿だと認識するとは。仲人から何も報告は受けていないが、何か特別な修行でもしていたのか?」
小夜は実母の言葉を思い出し、反射的に首を横にふる。
「いいえ、私は何も……」
消え入りそうな声で答えると、目を伏せた。
「まあ、いい。庭の掃き掃除や八重の手伝いくらいならしてもいいだろう。それから先日、朝餉の時お前がいいかけていたことだが、なんだ?」
話は聞いてもらえるようでよかった。小夜は慌てて背筋をのばす。
「は、はい、私は許嫁である杉本家の直之様の元に嫁ぎましたが、直之様にはすでに恋人がいらっしゃいました」
「別に珍しい話ではないな。だが、俺に前夫の話をしてどうする?」
困惑をにじませた表情で小夜を見る。
「その続きがありまして、直之様の恋人がお峰さんというのですが、たいそうやきもち焼きで、直之様は祝言直後から、お峰様のところでお過ごしでした」
拙い小夜の話に恭一郎がため息をつく。
「だが、杉本が子もうけて結婚したのは、森川家の絹子といわなかったか」
恭一郎は、いちおう小夜の事情は知っているようで安心した。
「は、はい、お峰さんと付き合いながら、絹子様とも付き合っていたそうです」
慌てて付け加える。
「小夜。俺は何を聞かされているのだ? 杉本の乱れた女関係などどうでもよいのだが」
恭一郎は訝しげな視線を小夜に向けると、茶をすする。
彼が小夜に結論を求めていることは明らかだ。
「その、つまり私は一度も直之様と床を共にしておりません」
小夜が覚悟を決めてそう言った瞬間、恭一郎は茶をむせた。
「どうして、そのようなことになるのだ?」
さすがに驚いたようだ。恭一郎の鉄面皮が初めて崩れる。
「あ、あの、直之様は恋というものに、誠実でありたいとおっしゃっておりました。それに直之様のお相手もやきもち焼きが強かったので」
あたふたとして小夜が言い訳をする。とどのつまり小夜に女としての魅力がまるでなかったのだろう。小夜が口を噤むと再び沈黙がおちる。
やがて、恭一郎がため息をついた。
「つまりお前は、杉本の手がついていないのに、石女として離縁されたのか? 石女というのは杉本が絹子を嫁にもらいたいがための方便か?」
「はい、そうなります」
恭一郎は理解が早いようで助かる。
「お前の実家はなんと言っている」
「実家へは言わないようにと、口止めをされています。それに実家に帰るとひどく叱られ、誰も私の話を聞いてはくれませんでした。この縁談が決まるまで、私は土蔵に閉じ込められておりました。」
小夜がそこまで一気にしゃべると口を噤んだ。本当に父の怒りはすさまじくこの縁談がなければ、小夜は吉原に売られるところだった。
部屋にはしんと沈黙が落ちる。
「なぜ、そんな扱いを受ける。杉本家にも実家にも。お前はずっと虐げられていたのか?」
「その……実家では粗相が多くてよく叱られました。日に一度は食事をいただけましたので、別に虐げられると言うほどでもありません。それに母がいた頃はかわいがってもらいました」
「通りで痩せている。杉本家では食事はもらえたのか?」
恭一郎は、淡々と質問を続ける。
「あ、あの、残り物をいただきました」
自分の卑しい生い立ちが恭一郎にバレてしまった。犬神家は名家、本家とどんなやり取りがあるのか知らないが、いったいどういう経緯で小夜はこの家にもらわれたのかわからない。この場で離縁されるかもしれないと緊張に身を固くする。
小夜が不安でいると、とつぜん、恭一郎がふふふと笑い出した。
「な、なにがおかしいのでしょう?」
「犬神の本家はお前が石女でないと困るのだ」
やはりと小夜は思った。どいうわけか小夜というより、恭一郎は跡目をのぞまれていないらしい。きっと祝言の時親戚もそのことで怒っていたのだろう。
「理由をお伺いしても?」
「お前には関係のない話だ」
そう言って、恭一郎は口を引き結ぶ。
もうそれ以上は小夜の質問には答えてはくれる気はないのだろう。
小夜はしょんぼりと肩を落とす。
「面倒な奴だ。まだ言いたいことがあるのか?」
恭一郎がため息をつく。
「あの、それで私は石女では……ないかもしれないので、離縁されるのでしょうか?」
小夜の言葉に恭一郎は合点がいったといようすで片眉をあげる。
「なるほど、お前はそれが不安だったわけか。別にばかではないようで、良かった。今のところお前と離縁する気はない」
「今のところ……」
引っ掛かりのある言い方である。やはり離縁前提なのだろうか。
「小夜。言いたいことがあるのなら、はっきりと手短にいえ」
「はい、では恐れながら、旦那様、小夜には下心があります」
「は?」
「離縁されてしまうと私は実家で厄介者。もう帰ってくるなと言われております。二度目の離縁となりますと、もらってくださる方もいません。そうなると小夜は身を売って生きていくしかありませんが、それは嫌なのです。
だから、旦那様が私を離縁なさった後、使用人として屋敷で雇っていただきたいのです。この家の家事はしっかりと覚えます。どうかお願いいたします! そしてできれば、八重さん……いえ、八重の作るおいしい料理を覚えたいのです」
小夜は一気にそこまで喋ると頭を下げた。再び沈黙が落ちた後、くつくつと笑い声が聞こえてきた。
小夜が驚いて顔を上げると、恭一郎が笑っている。そんな顔は初めて見た。
「あの……。旦那様?」
「小夜は、面白いな」
恭一郎は実に楽しそうに声を上げて笑うと、約束してくれた。もしも離縁するようなことがあれば、屋敷でつかってくれると。
小夜はほっとして、涙が零れた。
「ありがとうございます。小夜は、このご恩を一生忘れません」
「まったく、いちいち大げさな奴だ。まあ、離縁することはないがな」
最後にぼそりと付け加えられた恭一郎の言葉は小さくて、小夜には聞き取れなかった。
「はい? いまなんと?」
「話が済んだのなら、部屋に戻れ。俺は疲れたから休みたい」
また、犬のように恭一郎の部屋から追い払われてしまった。
だが、ようやく将来が定まったことで、小夜はようやくぐっすりと安心して眠りにつくことができた。
翌朝、小夜は張り切って、八重の元へ朝餉の手伝いに行った。
「奥様、おはようございます」
「八重さん、聞いてください!」
小夜は目を輝かせて子犬のように八重の元へ走り寄る。
「奥様、八重でございます」
八重は優しい笑みを浮かべながらも、きっぱりとことわりを入れる。
「あ、はい、……八重。その私、旦那様と離縁したら、ここの使用人として働くことになりました」
「はあ?」
八重がびっくりしてのけぞった。
「八重さん、これからもよろしくお願いします」
小夜はぺこりと頭を下げる。
「なっ! ご当主はなんてことを!」
驚愕する八重をよそに、小夜は張り切って仕事を始めた。
「八重さん! 今日は私がかまどの火をおこしますね」
「奥様、ちょっとお待ちを! 八重がやりますので! ああ、煤だらけになってしまいますよ」