鳥の囀で目を覚ます。障子越しに朝の光がさしていた。

 いつの間にか眠ってしまったようだ。隣の床には人の気配はない。恭一郎は戻らなかったのだろうか。

 小夜は手早く身支度をして、台所に向かう。
 この家の勝手はわからないが、少なくとも杉本家では朝餉の支度は小夜の仕事であった。

 廊下を左に曲がりまっすぐ進むと、濃い紫ののれんの向こうに低い板間と土間がちらりと見えた。

 もうすでにご飯が炊けるいい匂いが漂っている。使用人が朝餉の支度をしているのだろう。

 「おはようございます」

 のれんをくぐると中年の女が一人、洗った青菜を籠に入れていた。

 小夜が挨拶をすると驚いたような顔をする。

 「奥様? どうなさったのですか?」
  
 奥様と呼ばれドギマギする。元婚家の杉本家でそう呼ばれたのは数えるほどだ。

 「さ、小夜と申します。今日からお世話になります。朝餉のお支度のお手伝いにきました」
 
  小夜は緊張のあまり自分の名前を噛んでしまう。

 「まあ、奥様がそのようなことをする必要はありませんよ。私の仕事ですから」
  そう言われても困ってしまう。
  
  杉本家では家事をしないと怒られたし、不手際があると食事を抜かれた。それは実家も同じで……。

 「やることがないと落ち着かないんです。どうかお手伝いとさせてください」
 
 板間からぺこりと頭を下げる。

 「あらあら、まあ」 
 
 彼女は八重と名乗り、犬神家では長く食事の支度をしているという。
 小夜のために土間に降りても大丈夫なように、草履を持ってきてくれた。

 余計仕事を増やしてしまったようで小夜は恐縮する。

 「では、八重さん、私に犬神家の味を教えてください」
 小夜はたすき掛けをして土間に降りる。

 「そんな大げさなものはございませんよ。ご当主はなんでも食べてくださいますから、ただその食べる量が多くのでびっくりなさいますよ」
 
 八重はそういってほっこりとした笑みを浮かべる。

 退魔師というのは強い神通力とそれを使いこなす異能を持っていて、力を使うととても腹が減るのだとか。小夜は初めて聞く話に熱心に耳を傾けた。

 そして恭一郎は夜明け前に帰って来たという。

 (帰って来たのなら、どうして旦那様は寝室にいらっしゃらなかったのかしら)

 小夜はそんな不安を振り払って、洗い立ての青菜を手に取る。

 「では、早速お手伝いしますね。これは汁物につかうのですか?」

 二人がかりで食事の支度をした。
 食材も多く、鍋も重いので老女には重労働ではと思えるのに、八重は手際よくこなしている。
 
 箱膳には、ご飯とみそ汁の他に肉、焼き魚、煮物、漬物が添えられた。その量が朝食とは思えないくらい多い。

 八重が小夜の分の膳も用意してくれた。人に朝餉の準備をしてもらったのはここ数年ない事だった。

 小夜は八重に礼を言うと、彼女は面食らったような顔をした。

 八重は小夜の事情を知らないようだ。

 家柄の良い嫁だと勘違いしているのだろう。いや、家柄は悪くないが、小夜は石女の出戻りだ。

 恭一郎の部屋を聞いて箱膳を運ぶ。驚くほど重い。後ろでは先ほど掃除していた使用人がお櫃を運んでくれる。そのお櫃も見たことがないほど大きい。

 襖越しに声をかけると、恭一郎が「入れ」という。

 小夜の姿を見てかすかに彼の表情が驚いた。

 「こんなに早く起きていたのか?」

 「はい」
 
  小夜は恭一郎の前に箱膳を置く。お櫃を置いて、使用人が去っていた。

 「小夜、お前の分の膳はどうした?」
 「八重さんが作ってくれました」
  小夜は嬉しそうに頬染めて答える。この後朝餉を食べるのが楽しみだ。

 「一緒に食べないのか?」
  不思議そうに恭一郎が聞いてくる。

 「申し訳ありません。この家のしきたりがわからなくて」
  小夜は戸惑い、頭を下げる。こんなことを言われたのは初めだ。

 「いちいち謝ることではない。この家にはしきたりというものは特にない」

  今のところ恭一郎の機嫌を損ねていないようで、小夜はほっとした。

  恭一郎は八重が言った通り本当によく食べる。あっという間にお櫃のご飯もなくなってしまった。

 「お代わりをお持ちしましょうか?」
 
小夜が席を立とうとする。

 「もういい。お前も朝餉をとれ。俺は朝が早く時間も不規則だ。気兼ねせずに、朝昼晩と好きな時間に食事をするといい」

 「え? 旦那様を待っていなくてもよいのですか?」

 「仕事で何日も帰らぬこともあるし、いつ帰るかもわからない。俺に合わせていたらお前が餓死してしまうぞ」

  恭一郎はさらりというが、それほどたいへんな仕事なのだろう。

 「ありがとうございます」 
 小夜は深く頭を下げる。
 杉本家では帰ってこない夫を待ち続け、一日食にありつけない日もあったので、本当にありがたい言葉だった。

 「ところで、お前はどこで食事をするつもりだ」
 
 「もちろん、土間でございます」
 
 当然のように彼女が答えると、恭一郎がかすかに眉根を寄せる。

 「それは、お前が以前いた。杉本家のしきたりか?」
  何かまずいことを言ってしまったかと、小夜はどきどきした。

 「いえ、実家もそうでした。だから、そういうものだと思っておりました」
 小夜は部屋で食事をとることなどなかった。

 「小夜の実家は岩原家。神職華族であろう? なぜそのような生活をしていたのだ。まるで女中のようではないか」
 
 恭一郎は小夜について何も知らないのだろうかと不安になる。

 普通は仲人に聞かされるものだと思うが、それとも石女の自分に恭一郎自身が、興味を持てなかったのか。

 小夜は逡巡しつつも口を開いた。

 「あの……私の母は父を残して失踪してしまいました。後妻に入ったのが、現在の義母でして」
 
 話し出したものの言葉に詰まる。

 「複雑な家庭に育ったのだな。だが、母親が失踪したのはお前のせいではないだろう」

 恭一郎は進んだ考え方の持ち主のようで小夜は驚いた。
 少なからずそのことで小夜は「あの女の娘」とさげすまれてきた。しかし、誤解があってはならないので、先を続ける。

 「実は母は出自がわからない者なのです。狐の妖ではと言われております」
 
 恭一郎が呆れたような顔をした。

 「くだらん。もう下がっていいぞ。お前も朝餉をとるといい」

  退魔師の恭一郎が妖と聞いて、そんなふうに答えるとは思ってもみなかった。

 小夜は「はい」と一度は恭一郎の言葉に頷いた。

 だが、小夜にはどうしても確かめなければならないことがあった。

 言うのは憚れるが、黙ってもいられない。

 「あの、なぜ、私のような石女を娶って下さのでしょう」

 「本家の意向だ。分家は本家にさからない」
 
 恭一郎はそう言って口を引き結ぶ。それ以上は話す気がないようだ。

  小夜は勇気を振り絞る。
 
「それは私との間に子を設けないということですよね」
 
 恭一郎は眉間にしわを寄せる。いつ怒り出すかと小夜はひやひやした。実際、父も前の夫もとても気が短かった。

 「だからどうだというのだ?」

  彼は柳眉を軽く寄せ、じっと小夜を見る。

 「あの、少し長い話になりますが……」

 「小夜。俺はこれからまた仕事に出なければならない。次の機会にしてくれ」

 ぴしゃりと話を打ち切られてしまった。

 「は、はい」

 「しばらくは夜勤が続いて忙しい。俺は当分夫婦の寝所の行くことはないから、お前は部屋で好きに過ごせ。使用人の手は足りている。お前が手伝わずともよい」

 「はい、かしこまりました」

 しかし、小夜はこれには従うつもりはない。しっかり手伝う予定だ。もしかしたら、この離縁されても屋敷においてもらえるかもしれない。そんな思いもあった。  

 「それから、お前はなぜそのような着物を着ている?」
 「え?」

 恭一郎に言われて己の着物を見る。実家から持ってきたものだ。小夜はこの義母のお古の着物しか持っていない。

 「箪笥に着物が入っていただろう?」
 「人様の家のものですから、勝手に開けてはいません」
 小夜が慌てて首を振ると、恭一郎が呆れたような顔をする。

 「では、今すぐお前の部屋の箪笥を開けて、好きな着物を選んで着が換えろ。お前の部屋にあるものはすべてお前のものだ」
 小夜は恭一郎の言葉に目を見開いた。

 「え……? あ、ありがとうございます」
 驚きに声を震わせて、頭を下げる。

 「お前はいちいち大げさだ。これでは使用人のようではないか。卑屈すぎる。それから、その着物に思い入れがないのならば捨てろ。この家にはいつ客人が来るかもわからん。身だしなみは整えてくれ。さあ、もう用はない。部屋から出ていけ」
 まるで犬を追い払うような言い方だが、別に怒ってはいないのだろう。終始淡々とした口調だった。

 小夜は慌てて箱膳をさげ、台所に運ぶ。
 八重に片づけは手伝うと言いおいて、足早に自室に向かった。

 着替えている時間はないので、実家から持ってきた行李を開け、そこから火打石を持ちだし、玄関に向かう。夫をお見送りしなくてはならない。

 恭一郎はすでに長靴を履いていた。

 「旦那様」

 小夜は思わず声をかけた。恭一郎は小夜の手に握られている火打石を見て、片眉を上げる。

 「ほう、切り火か」
 「はい」

 小夜は上がり框からおり突っ掛けを掃くと、背伸びをして恭一郎の後ろの右肩に、カツンカツンと石を打つ。
 すると不思議そうな顔をして、小夜を振り向いた。

 「お前は……」
 「ご不快でしたか?」
 不安になって尋ねると、恭一郎は首を横に振る。

 「いや、なんでもない」
 彼は何かを言いかけてやめた。

 「小夜、俺の帰りは待たなくていい。では行ってくる」
 「行ってらっしゃいませ」

 玄関先に立ったまま恭一郎が門の向こうに消えるまで見送った。



 その後すぐに八重の元に向かうと、ほとんど洗い物は済んでいた。

 「奥様、洗い物などしなくていいですよ。手が荒れてしまします。それより朝餉がさめてしまいましたね」
 「すみません」

 せっかく八重が小夜のために整えてくれたのに申し訳なく思う。

 「私に謝らないでください」
 そんなやりとりの後、小夜は「いただきます」と手を合わせると、まず汁物をいただいた。冷めていても出汁がしっかりときいている。

 「今度お出汁の取り方を教えてください」
 「私が、奥様にお教えするのですか?」

 八重が驚いたように目を丸くする。

 「とても美味しいです」

 「でしたら、私のことは八重をお呼びください。でないと私が旦那様に叱られてしまいます」
 小夜は普段から使用人とは同僚のような付き合いをしてきた。実家でも杉本の家でも、女中のような扱いを受けてきたからだ。

 しかし、ここでは違う。

 「わかりました。えっと、八重……これからもよろしくお願います」
 小夜の言葉に、八重は嬉しそうに笑った。

 小夜は部屋に戻り、桐箪笥の引き出しを開ける。すると銘仙の着物が入っていた。薄桃色で華やかな色合いで着るのがもったいないくらいだった。

 そしてその奥はさらに値段が張りそうな着物がいくつも。

 大きな箪笥は部屋に二竿あり、引き出しをあけていくと着物、新しい襦袢から浴衣、帯に帯締めまですべて新品で整えられていた。

 引き出しのついた漆塗りの小箱には鏡におしろい、紅、つげの櫛、かんざし、椿油などが入っている。 

 小夜の嫁入り道具は母の形見である行李一つだ。

 「どうして?」

 嬉しさより、戸惑いがまさる。

 しかし、考えても答えは出ないので、小夜は一番上にあった。薄桃色の春らしい着物に着替えた。

 この着物で炊事をするのは気が引けるが、小夜は腰ひもでたすき掛けをして、今度は昼餉の準備を手伝うために台所に向かう。

 ちょうど八重は白湯を飲んで一服していたところらしく、小夜の姿を見て驚いていた。

 「奥様、どうなさったのです。とてもお着物はお似合いですが、まさかまた炊事をなさるおつもりで?」
 「はい、もちろん、お手伝いいたします。それに教えていただきたいこともありますし、旦那様はいつお帰りになるかわからないのですよね。いつも昼餉や夕餉の準備をしてお待ちになっているのですか?」

 「いいえ、そのようなことはございません。旦那様のお帰りは伝令が知らせてくるので。奥様、どうか、お部屋でお楽なさってくださいませ。昨日祝言を上げたばかりでお疲れでしょうに」

 八重にそう言われては仕方がない。小夜はがっかりしていると「お疲れではないときに、朝餉の時だけよろしくお願いいたします」と八重が慰めるように言葉をかけてくれた。

  部屋に戻り小夜が意気消沈していると、ほどなくして八重が茶と落雁を持ってやってきた。

 使用人からそんなことをされたのは初めてで驚いた。
 「ありがとうございます」

 小夜がうわずった声で礼を言うと、八重は困ったような顔をする。

 「奥様はどうしても家事をやりたいのですか?」
 「はい、お邪魔でなかったら」

 「とんでもございません。奥様が邪魔だなんて。今、家令と話してまいります。少しお待ちくださいませ」

 家令の石本はすでに紹介されている。なんともいえない威厳があり、少し怖い感じがする。純和風の家屋にそぐわない洋装姿で眼鏡をかけているのが特徴的だ。

 そんな石本が、小夜の部屋を訪ねてきた。

 しかし彼は襖を開けた先の廊下にいて、小夜の部屋に一歩たりとも入ってこない。なんでも「奥様の部屋」に男性の使用人が入るのはもってのほかだとか……。

 小夜はそれがこの家のしきたりなのかと思った。こうやって手探りでひとつずつ覚えていくしかない。

 「奥様は家事をしたいと八重から聞きました。それでしたら、まずはこの家をご案内しましょう。犬神家は退魔師というお家柄、立ち入り禁止の区域などございます。それも合わせてお知らせできたらと存じます」

 「それはぜひ」
 確かに、知らずに入ってはいけない場所に行ってしまうのは怖い。
 
 板張りの廊下は綺麗で、屋敷の中は掃除が行き届いている。確かにこの家に小夜が家事を手伝う隙はなさそうだ。

 廊下を行きかう使用人は多そうには見えないのに、綺麗に屋敷を磨き上げている。

 実家でも杉本家でも家事をすることだけが小夜の存在意義だった。それなのに、ここでは何もすることがない。

 (一日何もせず、どのように過ごしたらいいのかしら)

 屋敷の案内が終わると、次は広い庭に出た。

 「奥様、ここでしたら、多少の掃き掃除をしても大丈夫です。今、庭師を呼んできます」

 そこで庭師の大山という胡麻塩頭のガタイの良い中年男性を紹介された。小夜は丁寧に挨拶をする。

 すると「奥様、石本、大山とお呼びください。さん付けはなしで」とはっきり断られてしまった。

 小夜はこの時になって初めて、自分の生活環境が百八十度変わってしまったことに気が付いた。

 ここでは本当に小夜を「奥様」として扱ってくれている。