夏休みは、すべて音楽に捧げた。

 八月上旬。家に引きこもり、曲と歌詞を考える日々を送った。どこにも出かけなかったけど、好きな人のことを想っていた時間は充実していた。

 八月中旬。無事に新曲は完成し、練習が始まった。
 陽葵はまだ入院生活を送っている。足が透過してしまっているので、移動は車椅子だ。
 練習するためには外出許可が必要だったが、足以外は健康だったため、なんとか連れ出すことができた。幽霊病の「治るのも一瞬」という、気まぐれな性質のおかげである。まあ足は透過したままなので、それもまた気まぐれな性質のせいなのだが。

 あっという間に時間は過ぎていき、気づけば八月も終わりを迎えようとしていた。

 今日は八月三十日。ライブ当日だ。

 ライブといっても、ライブハウスで演奏するわけではない。会場は小さなイベントスペースだ。あるのは最低限の機材だけ。客も呼んでいない。文字どおり、俺たち『スリーソウルズ』の貸し切りライブである。メンバーで話し合った結果、誰もいない会場でやろうという結論に達したのだ。

 万が一、演奏中に陽葵が消えてしまったら、客やスタッフに迷惑がかかる。だから、客もスタッフも入れずに演奏できる、この場所を選んだのだ。

「おーっ。ライブハウスに比べたら、ちょっぴり小さいね」

 車椅子に座る陽葵が笑った。夏らしく白いワンピースを着ており、よく似合っている。ちなみに、車椅子を押しているのは俺だ。

「悪いな。近場で条件が合う場所、ここしかなかったんだ」
「全然いいよ。私たちしかいない、世界で一番静かなライブなんだしさ。これで安心して泣けるね、三崎くん!」
「俺が大泣きする前提で話すのやめて?」

 ツッコミを入れると、陽葵も由依も笑った。普段どおりのやり取りなのに、今日は愛おしく感じてしまう。

「……なあ、陽葵。ご両親を呼ばなくて本当によかったのか?」

 もしかしたら、娘の最後のライブになるかもしれないのだ。さすがに見てもらうべきだったのでは?

「ありがとう、三崎くん。でも、いいの。実は大沢くんたちとのライブのとき、こっそり呼んだから。パパもママも、とっても喜んでくれたんだ」
「そうだったのか。でも、今回は最後かもだし……」
「……死ぬかもしれないライブに来てなんて、親不孝なこと言えないよ」
「……ごめん。そのあたりは、家庭と陽葵の気持ちの問題だよな。深入りして悪かった」
「あ、暗い顔するの禁止だからね! 今日は笑顔でいないと!」

 そう言って、陽葵は笑った。今まで見てきた強がりの笑顔じゃない。心の底からこぼれた笑みだ。嬉しい反面、何かが起こる予兆な気がして胸騒ぎがする。

 ……いけない。余計なことは考えず、楽しいライブにすることだけを考えよう。

「三崎くん。由依。ごめんね、私のワガママに付き合わせちゃって」

 陽葵は俺たちに謝罪した。

「今さら謝るなよ。今までずっとワガママ言いっぱなしだったろ。な、由依?」
「ええ。付き合わされるこっちの身にもなってほしいわ」
「えー! なんか二人が冷たーい!」

 陽葵の言い方が可笑しくて、みんなで笑い合った。

 これでいいんだ。最後のライブのつもりで挑むけど、お別れするって決まったわけじゃない。涙は最後の瞬間まで取っておいて、今は笑顔で思い出を作ろう。

 陽葵は車椅子に座ったまま、ギターを手に取った。

「三崎くんのボーカル、楽しみだなぁ」
「任せろ。声楽には自信がある。俺の通知表、音楽は常に4だ」
「いやそこは5じゃないんかい」

 笑いながら、陽葵はギターを優しく爪弾いた。
 体に負担がかかるから、陽葵はもう歌えない。今日はギターに専念してもらい、俺が代わりにボーカルをやることになっている。

 声楽に自信があるなんて真っ赤な嘘だ。
 でも、上手く歌う必要なんてない。今日のライブは俺の想いが届けば成功だろう。

 二人の準備が終わったのを見計らい、声をかける。

「陽葵。準備はできたか?」
「おっけー」
「由依は?」
「ええ。いつでも大丈夫よ」

 二人の視線が俺に向く。
 俺は静かにうなずき、ネックに手を添えた。

 ……演奏開始の合図がない。

 ちらりと由依を見る。演奏前だというのに、スティックを持った手を下ろしていた。

「由依? どうした、機材トラブルか?」
「それはこっちのセリフよ。早くMCやってくれるかしら?」
「えっ!? 観客いないのに!?」
「当たり前でしょう。観客はいないけど、これはライブなのだから。ね、陽葵?」
「そうだー。やれやれー」

 女子二人がニヤニヤしながら野次を飛ばしてくる。俺をイジるときだけ、妙に結束してくるのやめてくんない?

 ……どうしよう。話すこと、何も用意してないんだが。

 陽葵に贈るメッセージはすべて新曲に込めた。だから、歌う前に多くを語るのは野暮ってもんだろ?

 曲紹介のMCなんてさらっと済ませて、音楽で話そう。
 それが口下手で根暗な俺らしい。

 俺はマイクに顔を近づけた。

『では……スリーソウルズ、貸し切りライブを始めます』

 話し始めると、陽葵も由依も真剣な顔つきになる。
 俺はMCを続けた。

『これから演奏するのは陽葵のために作った曲ですが……正直、作詞は難航しました。感謝の気持ちを贈ろうか。それとも思い出を語ろうか。俺らしく、幽霊病に憎しみを込めた歌詞にしてやろうか……全然気持ちがまとまらなくて大変でした』

 ちらりと由依を見る。歌詞作りで悩んでいた俺の背中を押してくれてありがとな。

『悩んだんですが……結局、全部詰め込みました。陽葵に聞いてほしいこと、たくさんありすぎたので。ありがとうとか、楽しかったとか、理不尽な世界なんて滅びちまえとか……騒々しい歌詞ですが、全部、本当の気持ちです』

 陽葵と目が合う。彼女はもう泣いているような顔をしていて、こっちまで涙が出そうになった。

『陽葵に届くように、一生懸命歌います……陽葵、由依。今日は全力で突っ走ろう!』

 ベースを持つ手に力を込めて、俺は言った。


『新曲――「春ハ君、夏ノカゲロウ」』


 由依のドラムに合わせてベースを弾く。ベースラインをテンポよくギターが駆ける。三つの音に俺の歌声が乗り、一つの音楽となっていく。

 陽葵に比べたら拙い歌声だった。「ボーカルはまるで駄目だね」。くすくすとさえずるように、陽葵のギターが笑った気がした。
 下手くそでもかまわない。俺はありったけの想いを歌詞に込めて歌った。

 なあ、陽葵。
 少しだけ、俺の想いを聞いてくれ。
 そうだな。まずは俺たちの出会いから振り返ろうか。

 ――光の見えない、黒い春を過ごしていた。

 前を向くことさえ怖くて俯いていた自分。いつものように自己主張できず、気に食わないラブソングを演奏していた。ライブハウスを出て、自分を呪いながら家路を歩く日々。

 でも、あの日は違った。
 陽葵が俺をバンドに誘ってくれた。
 最初はなんて強引なヤツだと思った。ワガママで自分勝手で、関わりたくないとさえ思ったっけ。

 だけど、君の生き方に焦がれてしまった。

 ――人生は一度きり。楽しまないと損。

 その言葉が夜闇を駆ける大彗星のごとく、俺を照らしてくれたから。

 弦をフレットに押さえ込まないでサムピングした。すぐさまミュート音を鳴らす。ゴーストノート。君が好きだと言ってくれた、幽霊の音。この曲は君に捧げる曲だから、ベースの手数が多くたっていいよな? 今夜は俺の音を聞いてくれ。

 指先から想いがあふれて止まらない。

 本気でこの世を呪ったよ。どうして陽葵が消えちゃうんだって。流行りのジャパニーズ・ロックは言っていたんだ。『音楽は世界を救う』と。それなのに、どうして女の子一人救えない? 大勢に愛される楽曲は虚飾されていて、欺瞞と偽善で満ちている……その証明に他ならなかった。

 頼むよ。誰か教えてくれ。
 人が簡単に消えるこの世界で、俺は何に縋って生きればいい?

 ……そんなことを考えながら詩を書いている時点で、音楽に縋っているのだろう。

 音楽が陽葵の夢ならば、俺はそれを希望と呼ぶことにする。
 君の眩しい生き様こそ、俺のロックンロールだ。

 限りある命を授かっても、キラキラした青春を送りたい……君がそう望むから、俺は音を鳴らし続けるよ。たとえ君がいなくなっても、空の向こうで笑う君へ届くように。

「――――」

 サビ前で音程を外してしまった。陽葵がリクエストしたんだから、クレームは受け付けない。気にせず俺は、好きな人を想いながら歌声を響かせる。

 もっとたくさんの君を知りたかった。泣いて、笑って、怒ってほしかった。バンドを続けたかった。もう一回デートがしたかった。頬を赤く染める、可愛いらしい横顔が見たかった。できることなら、この先もずっとそばにいたかった。

 ああ。これじゃあ、まるで俺の嫌いなラブソングじゃないか。下手くそでごめん。俺の気持ちが伝わらないように気をつけても、やっぱり音楽は雄弁で、真面目で、正直だったみたいだ。

 降参だ、認めるよ。今となっては、ラブソングは嫌いじゃないさ。愛する人に想いを届けるなんて素敵じゃないか。でもやっぱり、嘘で着飾った歌詞が鼻につくんだけどさ。「やっぱり君って捻くれているよね」って、いつもみたいに笑ってくれ。

 なあ、もういいだろう。
 俺の恋心なんて、お前は一生知らなくていい。
 名残惜しいけど、最後に感謝の気持ちを聴いてくれ。

「――――」

 ラストのサビに差しかかる。
 世界から音楽が消える。俺のボーカルソロだ。

 陰キャぼっちの俺に、居場所をくれてありがとう。
 人は変われるってことを教えてくれてありがとう。
 人生の儚さと尊さを見せつけてくれてありがとう。
 俺と出会ってくれて、ありがとう。

 俺の気持ちに呼応するかのように、音楽が戻ってきた。

 三人そろって感情的な演奏をしている。精彩を欠いた拙いギターも、走ってしまうドラムも、下手くそなボーカルも、全部このベースに乗せて強く響け。

 伝えたいことが多くてごめん。
 天国に持っていく手土産にしては、荷物になりすぎたかもしれない。

 でも、本当はまだまだ足りないんだ。

 これで終わりにしたくない。
 これが最後だなんて、信じたくない。

 だからね。
 どこにいても、俺たちは音楽で繋がっているって信じることにするよ。

 さようなら。俺の大切な人。
 ありがとう。陽葵。

 そして、演奏が終わる。

 室内は静寂に包まれた。胸を突き破りそうな心臓の音と、荒い呼吸音だけが耳にまとわりついて離れない。

 ふと隣を見る。

 車椅子の上には、陽葵のギターがあった。
 彼女が着ていた真っ白なワンピースは床に落ちている。

 そいつの持ち主は、どこにもいない。

「……陽葵?」

 車椅子のシートに触れる。
 手に伝う温もりは、命がそこにあったことを教えてくれた。わずかに濡れているのは、きっと涙のせいだろう。

 太陽に向かって伸びる向日葵みたいな笑顔も。
 たまに弱音を吐きなら、泣きじゃくる顔も。
 俺のために真剣に怒ってくれた顔も。
 車椅子の上には、もうなかった。

 大切な人を失った悲しみがとめどなく溢れてくる。

 陽葵は、消えてしまったんだ。

 ……最後の演奏になってしまった。

 今日のライブ、楽しんでくれただろうか?
 夢を叶えて、幸せな気持ちで旅立てただろうか?
 そうであったら、俺は嬉しい。

 ……そのはずなのに、どうしてだ。

 涙が、止まらないんだ。

「陽葵……ううっ……ぁぁぁっ!」

 俺も由依も、その場で泣き崩れた。大声を出して、子どもみたいにわんわん泣いた。死んじゃ嫌だとか。もっとバンド続けたかったとか。叶わない夢を叫び続けた。

 俺はこの世界が大嫌いだ。未来を考えたら、残酷で辛いことばかり。この張り裂けそうな痛みを背負って生きていくなんて辛すぎる。

 なあ。こういうとき、陽葵ならどうする?

 ……そうだよな。
 いつだって前を向いていた君なら、きっとこうする。

 俺は涙と鼻水まみれの顔で笑った。

「今までありがとう……陽葵」

 君を好きになって、本当によかった。