前に入院したときと違い、陽葵の容態はすぐには安定しなかった。退院はおろか、面会さえできない。由依の話によると、まだ透過現象が治まらず、体の不調が続いているらしい。
俺にできることは何もなかった。
毎度のことながら、こういうとき、自分の無力さを嫌というほど痛感する。
待つことしかできないのが、本当に苦しくて、悔しかった。
◆
陽葵の回復を待つ日々を送るうちに、夏休みに突入した。
七月某日。俺は陽葵が入院している例の病院にやってきた。ようやく容態が安定し、面会できるようになったらしい。
なお、由依は今朝のうちに面会を済ませて来たそうだ。陽葵と会ったら泣いてしまうから、俺と行くのは恥ずかしいのだとか。気持ちはわかる。俺も今から泣いてしまいそうだから。
陽葵が入院している病室の前まできた。五〇五号室。前と同じ病室だった。
俺はドアをノックした。
「陽葵。お見舞いに来たよ。開けてもいいか?」
「待ってました! どうぞ入って!」
いつかと同じように明るい声が返ってくる。
それが空元気でないことを祈りつつ、病室に入った。
病室の雰囲気は前と同じだった。違うのは二点。窓から射し込む陽光が、夏らしく眩しいこと。そして、点滴の他に見慣れない謎の装置が増えていることだ。
「おいっす! 心配かけてごめんね!」
上体を起こし、笑顔でそう言う陽葵。例によってパジャマ姿だ。
……気づいてしまった。
陽葵の体が、以前よりも痩せ細っていることに。
「陽葵……もう容態は大丈夫なのか?」
俺が心配そうに尋ねると、陽葵は首を左右に振った。
「ううん。大丈夫じゃないみたい」
「えっ?」
大丈夫じゃ、ない……?
俺は陽葵の次の言葉を泣きたい気持ちで待つ。
しばらくして、陽葵は笑った。
「お医者さんが言ったの。私、もうあまり長くないんだって」
遠くのほうで力いっぱいセミが鳴いている。
夏なのに寒気がして、体の内側が冷たい。この病室だけ季節外れの冬みたいだ。
「……それって、消えちゃうってこと?」
俺はかろうじて声を絞り出した。
「うん。足、治らなくて。今は掛け布団で隠しているけど、ずっと消えたままなの」
「……嘘だ」
「そんな顔しないで、三崎くん。足がなくても演奏はできるから――」
「嘘、つかないでくれよ」
「えっ? 何それ。ひどいなぁ」
陽葵は困ったように笑った。
やめてくれ。そんな痛々しい笑顔、見たくないよ。
「全部本当のことだよ。私がもうすぐ消えちゃうのも、足がなくても演奏できることも」
「じゃあ、その笑顔もかよ」
「えっ……?」
「強いフリはしなくていい。前にそう言ったじゃないか。辛いときは泣いてもいいんだ……俺たち仲間だろ」
「三崎くん……ずるいよ」
陽葵の顔が見る見るうちに歪んでいく。
「私だって笑ってなんかいたくない! 本当は泣いていたい! でも、不幸な私が泣いたら、君が笑えないじゃん! 大切な人を悲しませたくないじゃん!」
陽葵は泣きながら本音を叫んだ。
俺はそれを黙って受け止める。
「三崎くんと出会ってから、生きたいって思っちゃったんだよ! 君と一緒に音楽を続けたいって! 青春したいって! それくらい、君は私の中で大事な人なんだからっ!」
ばんっ、とベッドを叩く音が室内に響く。
「一緒にいたら楽しくて! 演奏したら胸が熱くなって! あの日のデートだって、私にとっては特別な思い出なの! それとも何!? 君は私のこと、大切に想ってないの!?」
「陽葵のこと、一番大切に想ってる」
「だったら……えっ?」
不意に陽葵の声が止んだ。
たぶん、俺が泣いているからだ。
「俺だって失いたくないよ……もっと陽葵と一緒にいたい」
「三崎くん……」
「わかってくれ。大切に想っているからこそ、君の辛そうな笑顔を見るのが辛いんだ」
「でも、そしたら三崎くんは……」
「悲しいけど、悲しくない。俺は陽葵が安心できる居場所になりたいんだ。だから……最後までそばにいさせてくれ」
「そんな嬉しいこと言わないでよ……頼っちゃうじゃんかぁ……!」
陽葵は嗚咽を漏らし、痩せた矮躯を震わせた。頼りない姿になった陽葵を見て、俺の涙も止まらなくなる。
どうして俺は泣いている?
仲間を失うのが悲しいから?
違う。それはきっと、正確な答えではない。
胸が張り裂けそうなこの痛みの正体に、本当はとっくに気づいている。
俺は、陽葵のことを好きになってしまったんだ。
最初は面倒なヤツだと思った。やかましいうえにグイグイくる、俺の苦手なタイプの女子だったから。
成り行きでバンドに加入すると、俺は陽葵の病気のことを知った。それでもへこたれない君を強いと思った。憧れ始めたのは、この頃だったと思う。
それから陽葵は俺を変えてくれた。人生は一度きり。言いたいことを言えって。俺の悩みを真剣に聞いて、ぽんと背中を押してくれたんだ。大沢に反論できたときは、なんだか君に近づけた気がして、とても誇らしかったのを覚えている。
その後、ライブのオーディションに向けて必死に練習した。誰かのために一生懸命になれるなんて、初めてのことだったかもしれない。この頃から、少しずつ君に惹かれていたのだろう。
決定的だったのは、陽葵とのデートだ。
あの日の俺は、心のどこかで浮かれていた。もしかしたら、陽葵に異性として意識されているのかも……そんな淡い気持ちを抱いている時点で、惚れていないわけがないだろう。いつも明るくて、笑顔が素敵で、可愛くて、俺のことを支えてくれて……陽葵を好きになるのは自然なことだった。
観覧車で本音を聞いたとき、君を守りたいと思った。
同時に、好きになってはいけないのだと自覚した。
恋愛はできない。もし自分がいなくなったら、残された恋人が辛い思いをする……陽葵がそう言ったからだ。
だから、俺は自分の恋心に気づかないフリをした。保健室で陽葵のことを考えて、胸が苦しくなったときもそう。好きな人が消えてしまうことが悲しかったのに、それを認めなかった。
でも、やっぱり無理だよ。
胸を叩くこの痛みは、どうしても無視できそうもないんだ。
好きって言えない以上、俺の恋は人知れず散っていくのだろう。
それがきっと、俺たちの青春のハッピーエンドだ。
「三崎くん……手、握って?」
「……ああ。わかった」
言われたとおり、陽葵の小さな手を握る。パジャマの袖から伸びる腕は針金のように細く、病的なまでに白い。
「ごめんね。自分から握るのすら怖いの……ねえ。私の手、ちゃんとある?」
「大丈夫だ。ちゃんと、ここにある」
握る手に力を込める。
生きているよって、伝えるために。
「いつまで握れるのかな? いつまで……三崎くんのそばにいられるのかな?」
「わからない。でも、最後の瞬間までそばにいさせてくれ」
「……ありがとう。最後ついでにワガママ言ってもいい?」
「なんだ?」
陽葵が俺を見つめる。涙の痕が残る頬はほんのり赤くなっていた。もしかしたら、俺も同じように頬を染めているのかもしれない。だって、好きな人と手を繋ぎ、見つめ合っているのだから。
無言のまま、俺たちは見つめ合う。
しばらくして、陽葵は照れくさそうに笑った。
「ごめん。やっぱりなし。恥ずかしいや」
「なんでだよ。言えって」
「だーめ。さすがに無理だってば」
「願い事なら叶えてやるから。俺を信じろ。な?」
「三崎くん……じゃあ、もう一回ライブやりたいな」
「ライブって……それ前にも言ってたぞ?」
忘れるはずがない。バンド対決後、陽葵が倒れたときに交わした約束だ。
不思議に思っていると、陽葵は誤魔化すように笑った。
「ふふっ、そうだっけ? じゃあ、あらためて約束してくれる?」
「……まあ、わかったよ。ライブだな? 演奏できるか?」
「うん。ギターは大丈夫だよ。でも、もう歌えそうにないから……最後は君の歌が聞きたいな」
「えっ? 俺がボーカル?」
「嫌なの? 私との約束、破っちゃうの?」
陽葵は「うるうる」と擬音を声に出し、あざとく泣き真似をした。まったく。調子が戻ったと思ったらすぐこれだ。
「はいはい、わかったよ。歌は俺に任せてくれ」
「ありがとう。ついでに、新曲もお願いしちゃおうかな。歌詞だけじゃなくて曲も作ってくれる? えっと、曲調はね……」
「俺らしい曲だろ? わかってるよ。任せてくれ」
「ふふっ、さすがだね。いつもみたいに、エモいベースでよろしく」
――幽霊になる私に、君のゴーストノートを聞かせて?
陽葵は弾んだ声でそう言った。
いくらでも弾くよ。
ゴーストノートを消えていく君に。
伝えたくても伝えられない、臆病な恋心を隠したまま。
「陽葵……最高の演奏をしような」
「うん。私、がんばるね」
うなずき、静かに微笑み合う。
蝉のやかましい鳴き声は、もうだいぶ遠くなっていた。
俺にできることは何もなかった。
毎度のことながら、こういうとき、自分の無力さを嫌というほど痛感する。
待つことしかできないのが、本当に苦しくて、悔しかった。
◆
陽葵の回復を待つ日々を送るうちに、夏休みに突入した。
七月某日。俺は陽葵が入院している例の病院にやってきた。ようやく容態が安定し、面会できるようになったらしい。
なお、由依は今朝のうちに面会を済ませて来たそうだ。陽葵と会ったら泣いてしまうから、俺と行くのは恥ずかしいのだとか。気持ちはわかる。俺も今から泣いてしまいそうだから。
陽葵が入院している病室の前まできた。五〇五号室。前と同じ病室だった。
俺はドアをノックした。
「陽葵。お見舞いに来たよ。開けてもいいか?」
「待ってました! どうぞ入って!」
いつかと同じように明るい声が返ってくる。
それが空元気でないことを祈りつつ、病室に入った。
病室の雰囲気は前と同じだった。違うのは二点。窓から射し込む陽光が、夏らしく眩しいこと。そして、点滴の他に見慣れない謎の装置が増えていることだ。
「おいっす! 心配かけてごめんね!」
上体を起こし、笑顔でそう言う陽葵。例によってパジャマ姿だ。
……気づいてしまった。
陽葵の体が、以前よりも痩せ細っていることに。
「陽葵……もう容態は大丈夫なのか?」
俺が心配そうに尋ねると、陽葵は首を左右に振った。
「ううん。大丈夫じゃないみたい」
「えっ?」
大丈夫じゃ、ない……?
俺は陽葵の次の言葉を泣きたい気持ちで待つ。
しばらくして、陽葵は笑った。
「お医者さんが言ったの。私、もうあまり長くないんだって」
遠くのほうで力いっぱいセミが鳴いている。
夏なのに寒気がして、体の内側が冷たい。この病室だけ季節外れの冬みたいだ。
「……それって、消えちゃうってこと?」
俺はかろうじて声を絞り出した。
「うん。足、治らなくて。今は掛け布団で隠しているけど、ずっと消えたままなの」
「……嘘だ」
「そんな顔しないで、三崎くん。足がなくても演奏はできるから――」
「嘘、つかないでくれよ」
「えっ? 何それ。ひどいなぁ」
陽葵は困ったように笑った。
やめてくれ。そんな痛々しい笑顔、見たくないよ。
「全部本当のことだよ。私がもうすぐ消えちゃうのも、足がなくても演奏できることも」
「じゃあ、その笑顔もかよ」
「えっ……?」
「強いフリはしなくていい。前にそう言ったじゃないか。辛いときは泣いてもいいんだ……俺たち仲間だろ」
「三崎くん……ずるいよ」
陽葵の顔が見る見るうちに歪んでいく。
「私だって笑ってなんかいたくない! 本当は泣いていたい! でも、不幸な私が泣いたら、君が笑えないじゃん! 大切な人を悲しませたくないじゃん!」
陽葵は泣きながら本音を叫んだ。
俺はそれを黙って受け止める。
「三崎くんと出会ってから、生きたいって思っちゃったんだよ! 君と一緒に音楽を続けたいって! 青春したいって! それくらい、君は私の中で大事な人なんだからっ!」
ばんっ、とベッドを叩く音が室内に響く。
「一緒にいたら楽しくて! 演奏したら胸が熱くなって! あの日のデートだって、私にとっては特別な思い出なの! それとも何!? 君は私のこと、大切に想ってないの!?」
「陽葵のこと、一番大切に想ってる」
「だったら……えっ?」
不意に陽葵の声が止んだ。
たぶん、俺が泣いているからだ。
「俺だって失いたくないよ……もっと陽葵と一緒にいたい」
「三崎くん……」
「わかってくれ。大切に想っているからこそ、君の辛そうな笑顔を見るのが辛いんだ」
「でも、そしたら三崎くんは……」
「悲しいけど、悲しくない。俺は陽葵が安心できる居場所になりたいんだ。だから……最後までそばにいさせてくれ」
「そんな嬉しいこと言わないでよ……頼っちゃうじゃんかぁ……!」
陽葵は嗚咽を漏らし、痩せた矮躯を震わせた。頼りない姿になった陽葵を見て、俺の涙も止まらなくなる。
どうして俺は泣いている?
仲間を失うのが悲しいから?
違う。それはきっと、正確な答えではない。
胸が張り裂けそうなこの痛みの正体に、本当はとっくに気づいている。
俺は、陽葵のことを好きになってしまったんだ。
最初は面倒なヤツだと思った。やかましいうえにグイグイくる、俺の苦手なタイプの女子だったから。
成り行きでバンドに加入すると、俺は陽葵の病気のことを知った。それでもへこたれない君を強いと思った。憧れ始めたのは、この頃だったと思う。
それから陽葵は俺を変えてくれた。人生は一度きり。言いたいことを言えって。俺の悩みを真剣に聞いて、ぽんと背中を押してくれたんだ。大沢に反論できたときは、なんだか君に近づけた気がして、とても誇らしかったのを覚えている。
その後、ライブのオーディションに向けて必死に練習した。誰かのために一生懸命になれるなんて、初めてのことだったかもしれない。この頃から、少しずつ君に惹かれていたのだろう。
決定的だったのは、陽葵とのデートだ。
あの日の俺は、心のどこかで浮かれていた。もしかしたら、陽葵に異性として意識されているのかも……そんな淡い気持ちを抱いている時点で、惚れていないわけがないだろう。いつも明るくて、笑顔が素敵で、可愛くて、俺のことを支えてくれて……陽葵を好きになるのは自然なことだった。
観覧車で本音を聞いたとき、君を守りたいと思った。
同時に、好きになってはいけないのだと自覚した。
恋愛はできない。もし自分がいなくなったら、残された恋人が辛い思いをする……陽葵がそう言ったからだ。
だから、俺は自分の恋心に気づかないフリをした。保健室で陽葵のことを考えて、胸が苦しくなったときもそう。好きな人が消えてしまうことが悲しかったのに、それを認めなかった。
でも、やっぱり無理だよ。
胸を叩くこの痛みは、どうしても無視できそうもないんだ。
好きって言えない以上、俺の恋は人知れず散っていくのだろう。
それがきっと、俺たちの青春のハッピーエンドだ。
「三崎くん……手、握って?」
「……ああ。わかった」
言われたとおり、陽葵の小さな手を握る。パジャマの袖から伸びる腕は針金のように細く、病的なまでに白い。
「ごめんね。自分から握るのすら怖いの……ねえ。私の手、ちゃんとある?」
「大丈夫だ。ちゃんと、ここにある」
握る手に力を込める。
生きているよって、伝えるために。
「いつまで握れるのかな? いつまで……三崎くんのそばにいられるのかな?」
「わからない。でも、最後の瞬間までそばにいさせてくれ」
「……ありがとう。最後ついでにワガママ言ってもいい?」
「なんだ?」
陽葵が俺を見つめる。涙の痕が残る頬はほんのり赤くなっていた。もしかしたら、俺も同じように頬を染めているのかもしれない。だって、好きな人と手を繋ぎ、見つめ合っているのだから。
無言のまま、俺たちは見つめ合う。
しばらくして、陽葵は照れくさそうに笑った。
「ごめん。やっぱりなし。恥ずかしいや」
「なんでだよ。言えって」
「だーめ。さすがに無理だってば」
「願い事なら叶えてやるから。俺を信じろ。な?」
「三崎くん……じゃあ、もう一回ライブやりたいな」
「ライブって……それ前にも言ってたぞ?」
忘れるはずがない。バンド対決後、陽葵が倒れたときに交わした約束だ。
不思議に思っていると、陽葵は誤魔化すように笑った。
「ふふっ、そうだっけ? じゃあ、あらためて約束してくれる?」
「……まあ、わかったよ。ライブだな? 演奏できるか?」
「うん。ギターは大丈夫だよ。でも、もう歌えそうにないから……最後は君の歌が聞きたいな」
「えっ? 俺がボーカル?」
「嫌なの? 私との約束、破っちゃうの?」
陽葵は「うるうる」と擬音を声に出し、あざとく泣き真似をした。まったく。調子が戻ったと思ったらすぐこれだ。
「はいはい、わかったよ。歌は俺に任せてくれ」
「ありがとう。ついでに、新曲もお願いしちゃおうかな。歌詞だけじゃなくて曲も作ってくれる? えっと、曲調はね……」
「俺らしい曲だろ? わかってるよ。任せてくれ」
「ふふっ、さすがだね。いつもみたいに、エモいベースでよろしく」
――幽霊になる私に、君のゴーストノートを聞かせて?
陽葵は弾んだ声でそう言った。
いくらでも弾くよ。
ゴーストノートを消えていく君に。
伝えたくても伝えられない、臆病な恋心を隠したまま。
「陽葵……最高の演奏をしような」
「うん。私、がんばるね」
うなずき、静かに微笑み合う。
蝉のやかましい鳴き声は、もうだいぶ遠くなっていた。