週が明けて、月曜日の朝を迎えた。

 昨晩もあまり眠れなかった……初めて見た陽葵の泣き顔が、頭に焼き付いて離れなかったから。

 俺ができることは、せいぜい陽葵の夢を叶えてあげること。一番大事な命を救うことはできやしない。『ずっとそばにいるからね』って、希望に満ちた言葉さえ言ってあげられないのだ。

「あまりにも無力だ……はあ」

 盛大に嘆息し、朝の挨拶を交わす生徒たちをすり抜けるようにして歩く。

 しばらく廊下を進むと、教室前で陽葵を見つけた。
 不意に目が合う。陽葵は照れくさそうに笑った。

「あ、三崎くん。昨日は恥ずかしいところを見られちゃったね」

 えへへ、とはにかむ陽葵。後ろに手を回して、恥ずかしそうにしている。
 普段は見せない乙女チックな反応が可笑しくて、つい笑ってしまう。

「な、なんで笑うのさぁ! 三崎くん、性格悪い!」
「あはは、ごめんな。遊園地、俺も楽しかったよ。また行こう」
「三崎くん……うん! いろいろあったけど、いいデートだったよね!」
「……デート?」

 背後から声が聞こえて、慌てて振り返る。

 そこには由依が立っていた。ニヤニヤしながら、俺と陽葵の顔を交互に見ている。

「話はすべて聞かせてもらったわ……陽葵。あなた、三崎くんとデートしたのね?」

 尋ねられた陽葵は、顔を真っ赤にして抗議した。

「ち、違うの、由依! 三崎くんとは、そういう関係じゃ……」
「でも、遊園地でデートしたんでしょ? 楽しかったって言っていたし、恥ずかしいところも見せちゃったって」
「たっ、ただの遊びだもん! 三崎くんとは遊びの関係!」
「その言い方は誤解を招くと思うわよ?」
「とにかく! 付き合ってるとか、そういうんじゃないから!」

 陽葵は「私、今日は保健室登校だから!」と言い残して、早歩きで去っていった。

 となると、次の標的は俺である。
 由依は俺の脇腹をひじで突いた。

「それで? どこまでいったのよ」
「いや。普通に遊んだだけなんだけど……」
「うそ……あんなに可愛い子とデートしたのに口説かなかったわけ?」
「だから、そういうんじゃないんだって!」

 俺は陽葵がデートに誘ってきた経緯を説明した。もちろん、彼女が泣いて弱音を吐いたことは言わない。あれは二人だけの秘密だ。
 話を聞き終えた由依はため息をついた。

「はぁ……なんというか、陽葵らしいわね」
「そうかもな……ところで、陽葵は由依と二人きりのとき、弱気な一面を見せたりするのか?」
「たまにね。昔はよく泣いていたけど、最近は全然だわ。気をつかっているのか、弱音は隠しちゃうのよ」
「そっか……」

 その話を聞いて確信した。
 昨日、観覧車で思ったことは間違いなんかじゃない。陽葵は、どこにでもいる普通の女の子だ。

「俺、由依が『陽葵は強くない』って言った意味、ようやくわかったよ」

 陽葵は前を向いて生きるために、強いフリをしているだけ。仲間の俺たちは、それを強さと履き違えてはいけなかったんだ。

 悔しいけど、俺は陽葵を救えない。
 それでも、ときには泣いてしまう陽葵のために何かしてあげたいんだ……今まで由依が陽葵を支えてきたように。

「由依。俺たち三人で寄り添って強くなろう。それがこのバンド……『スリーソウルズ』の意義だと思うから」

 由依は驚いたような顔をしたが、すぐに表情を和らげた。

「……ふふっ。そうね。陽葵もきっとそれを望んでいるわ」

 由依は穏やかな笑みを浮かべながら、「またね」と言い残して去っていった。

 やるべきことはわかっている。ライブだ。陽葵の夢を叶えてあげられるのは、メンバーの俺にしかできないことだから。

「よし……まずは歌詞だな」

 楽曲のテーマは『応援歌』。
 他の誰でもない、精いっぱい生きる君のための歌詞を書こう。


 ◆


 くだらないホームルームが終わり、気づけば放課後である。授業中もずっと歌詞を考えていたせいか、時間が経つのを早く感じた。

 歌詞はできていなくても練習はある。俺は鞄とベースを持ち、教室を出て音楽室へ向かった。

 廊下を歩いていると、

「ああ!? テメェ今なんつったよ!」

 前方から男の怒鳴る声が聞こえてきて、ふと視線を向ける。

 そこには男女が向かい合って立っていた。何やら言い争いをしている。

 一人は大沢だ。先ほどの怒鳴っていたのは彼だろう。
 そして対面にいるのは……陽葵?

「だから! 三崎くんのこと馬鹿にしないでって言ってるの! 彼、すっごくベース上手いし、作った歌詞もキラキラしてるし! あと、たまにだけど優しくて頼りになるんだから!」

 臆することなく、陽葵は大沢に怒鳴り返していた。

 ……もしかして、俺のことで喧嘩しているのか?

 話の経緯はわからない。だが、おそらく大沢が陽葵の前で俺を小馬鹿にしたのだろう。それを受けて、陽葵は俺をかばって怒ったんだと思う。

 あの陽葵があんなに怒るなんて……体に障らないか心配だ。

 それと『たまに優しい』って言い方は遺憾である。遊園地では、ちゃんと「優しい」って言ってくれただろ。

「はあ? あんな陰キャのベース野郎、どうせ根暗な音しか出せねぇだろうが」
「むーっ! 聞いたこともないくせに決めつけないでよ! あの根暗な音、最高にロックなんだからね!」
「あっそ。せいぜいライブ当日は楽しませてくれよ?」
「ふーんだ! そうやって人を見下すような人に、うちのバンドは負けないもん!」
「なんだと!」
「なにさぁ!」

 二人は一歩近づき、一触即発ムードになった。

 ……これちょっとマズくないか?
 頭に血が上った大沢が、陽葵に手を上げる可能性もある。怪我でもしたら大変だ。

 俺は喧嘩の仲裁をすべく、慌てて駆け出した。

「おい! やめろ、二人とも!」
「えっ? み、三崎くん?」
「陽葵! お前は体弱いんだから、あまり無茶するな――あ」

 二人に近づいたとき、何かにつまずいた。

 倒れながら足元を確認する。床の上には、学生鞄が無造作に置かれていた。やたらボロボロで使用感がある。たぶん、大沢の鞄だろう。失敗した……慌てていたから、足元なんて確認しなかったわ。

 ……などと考えているうちに、俺は転倒した。上手く受け身が取れず、床に顔を軽く打ってしまう。

「三崎くん!? 大丈夫!?」

 陽葵が俺のそばに駆け寄ってきて、素早くしゃがんだ。

「いてて……」
「大変! 鼻血ぶーしてる! 保健室行かなきゃ!」
「平気だよ。軽く打っただけ……というか、目の前でしゃがむな。パンツ見えてる」
「え……あっ!」

 陽葵は慌ててスカートを抑えた。顔を赤くして俺を睨んでいる。

「……私のパンツ見て鼻血ぶーしたの?」
「ちげーよ! 転んで鼻を打ったんだ! お前が危なっかしいから、止めに入ろうとしたせいで!」
「うっ……ごめんなさい」

 しゅん、としおらしくなる陽葵。

 ……ちょっと言い過ぎたかな。そんなに落ち込まれるとは思わなかった。

「まあ、その……俺をかばってくれたんだろ? 礼は言っておく。ありがとな」
「三崎くん……もー。素直じゃないんだからぁ」

 何故か嬉しそうな陽葵。どうして喜んでいるかわからないけど、元気が戻ったならいいか。発作も出ていないみたいだし。

 離れたところから俺を見ていた大沢は、露骨に舌打ちをした。

「……ちっ。根暗野郎のせいでシラけたわ」

 そう言って、大沢は自分の鞄を背負った。そのまま去ろうとしたので、陽葵は立ち上がって声を荒げる。

「ちょっと! どこ行くのよ!」
「あ? ライブハウスだけど?」
「三崎くんに謝りなよ! あなたの鞄のせいで転んだんだから!」
「そんなの三崎の不注意だろ。俺は悪くないね」
「なっ……何その言い方!」
「じゃあな。せいぜい負けたあとのことでも考えておくんだな」

 大沢はヘラヘラ笑いながら去っていった。

「むきーっ! 絶対に負けないんだから! 見てなさいよね!」

 その場で地団駄を踏む陽葵。だから、パンツ見えるからやめろってば。

 俺は立ち上がり、鼻の下を指で擦った。うわっ、マジで鼻血が出てる。そんなに痛くなかったんだけどな……。

 驚いていると、陽葵が心配そうに俺の顔を覗きこんだ。

「三崎くん。血、止まってないじゃん。保健室いこ?」
「……うん。そうするよ」
「まったくもう。仲間に心配かけないでよね」

 それは俺のセリフだと思ったが、野暮なことは言わないでおいた。
 だって、俺のために大沢と喧嘩してくれたのが嬉しかったから。

 ……信頼できる仲間がいるって、いいもんだな。

 そんな当たり前のことを思いながら、保健室に向かうのだった。


 ◆


 その後、俺は保健室で先生に治療を受けた。

 すでに鼻血は止まり、痛みもほとんどない。万が一、鼻の痛みが続くようであれば、病院で検査を受けるように、と先生に言われた。

 今は陽葵と二人で保健室にいる。先生は職員室に用事があるらしく、しばらく帰ってこないらしい。俺は安静にするついでに留守番を任されたのだった。

「それにしても、驚いたよ。三崎くんが急に大声出して駆け寄ってきたから」

 陽葵は呆れたように肩をすくめる。

「いや普通は止めに入るだろ。陽葵の病気のこともあるし、そうでなくても男女の喧嘩なんて危なっかしい」
「普通は止めに入る、か……本当にそう?」
「なんで疑問系なんだよ」
「だって、少し前の三崎くんだったら、ああいうことしたのかなって思ってさ」

 言われて、ふと考える。

 さすがにあの状況なら止めに入ると思う。男女の対格差を考えれば、喧嘩して怪我をするのは女の子だ。仮に相手が陽葵じゃなくても、ああしたと思う。

 でも、これだけは言える。
 陽葵だから、あんなに必死になったんだ。
 大切な仲間を守りたい……あのときの俺は、無意識にそう思っていた。

「私と大沢くんの喧嘩、止めてくれてありがとね」
「どういたしまして。あんまり無茶するなよ?」
「うん……変わったね、三崎くん」
「変わった? 俺が?」

 聞き返すと、陽葵はこくりと頷いた。

「少し前の三崎くんは自分のやりたいこと、言いたいこと……そういうの我慢して、いつも辛そうな顔してた」
「辛気臭い顔なのは変わってないぞ」
「ふふっ。そういう軽口が多いのもね」

 くすくすと笑いつつ、陽葵は話を続けた。

「今日、三崎くんは危険を顧みず、喧嘩の仲裁に入ってくれた。それはきっと、自分の感情に従って、素直に行動した結果だと思うの。君はもう我慢せず、自分のやりたいことができるようになったんだよ」
「そうかな……そうだといいけど」
「きっとそうだよ、私、今の三崎くんのほうが好きだな」
「えっ?」
「あ、その……変な意味じゃなくてね!? 仲間として頼りがいがあるってこと!」

 何を必死になっているのかわからないが、陽葵は慌てて言い訳した。彼女の頬はほんのり赤くなっている。

「……もし俺が変われたとしたら、それは陽葵のおかげだ」
「そんなことないよ。私はただ、ちょんと背中を押しただけだもん。変われたのは三崎くんが頑張ったからじゃん」
「だとしても、変わる勇気をくれたのは陽葵だよ」
「な、なんだよぉ……照れくさいからやめてってば」

 恥ずかしがり、スカートの裾をきゅっと引っ張る陽葵。こういう普段は見せない仕草は可愛らしい。

「……あのね。実を言うと、私も三崎くんに感謝してるんだ」
「感謝……俺がバンドに加入したことか?」
「それもあるけどさ。私が変われたのも、君のおかげだから」
「俺のおかげ……?」

 いまいちピンと来なかった。

 俺が陽葵と最初に出会ったのはライブハウスの前だ。あのときから、陽葵は自己主張ができて、前向きに生きていたはず。それは今も変わらない。あれから何がどう変化したというのだろう。

 不思議に思っていると、陽葵は微笑んだ。小さな唇が優しい曲線を描く。

「……実はね。私、三崎くんに言いたいことがあるの」
「言いたいこと?」

 見つめ合って、そんなあらたまった態度を取られると緊張する。心臓の鼓動が速まり、頬がかあっと熱くなってきた。

「三崎くん」
「な、なんだ?」
「君は知らないと思うけど、私はね――」

 言いかけたとき、保健室の引き戸が勢いよく開く。

 驚いて振り向くと、そこには息を切らした由依が立っていた。

「三崎くん、大丈夫!? 転んで怪我したって聞いたわよ!? それに陽葵も大沢くんと喧嘩したって……あら?」

 俺と陽葵の顔を交互に見ると、由依は急にニヤニヤし始めた。

「もしかして……イチャついていたのかしら?」

 由依がからかうと、陽葵は慌てて立ち上がった。

「ち、違うの、由依! これはそういうんじゃなくて……」
「はいはい、邪魔してごめんね。私は先に音楽室に行くから、二人はどうぞ続きをお楽しみください」
「ちょ、誤解だから! 私はただ、三崎くんとおしゃべりしていただけ!」
「陽葵。ベッドはあっちよ?」
「んなっ……! つ、使うわけないでしょ! ばかぁ!」

 ぎゃあぎゃあと口論しながら、二人は保健室を出ていった。おーい。怪我人を置いていかないでくれー。

 一人残された俺は深いため息をついた。

「はぁ……結局、陽葵が何を言いたかったのか聞けなかったな」

 まあ重大なことなら、そのうち話してくれるだろう。陽葵は人に遠慮せず、なんでも話すタイプだし。

 それにしても……デートした日から陽葵の意外な一面を知ることが多い。

 私服は大人びていて、柄にもなく可愛いとか思ってしまった。ゴンドラの中、初めて見る泣き顔はしおらしくて、見ていて辛かった……というか、あいつ恋愛に憧れを抱いていたんだな。全然知らなかったわ。
 今日だってそう。顔を赤くしたり、照れくさそうにしたり、見つめてきたり……普段とは違い、女の子っぽい仕草が多かった。

 そこまで考えて、ふと針で突かれたような痛みを心に感じる。
 君との思い出をなぞると、どうしてこんなに苦しくなるのだろう――。

「陽葵!」

 そのとき、女子の悲鳴が耳をつんざいた。
 今の声は明らかに由依だった……廊下のほうから聞こえたぞ!?

 慌てて廊下に飛び出る。

 視界に飛び込んできた光景を見て血の気が引いた。
 由依の足元に、陽葵が倒れている。

「由依! 何があった!?」
「それがわからないの! 立ち話していたら、急に倒れて……!」
「そんな……まさか幽霊病?」

 近づき、陽葵の手を確認する。しかし、透過している様子はない。

 ……幽霊病じゃない?
 じゃあ、陽葵はどうして倒れたんだ?

 疑問に思っていると、

「ねえ、三崎くん……!」

 由依は震えながらある方向を指さした。

 彼女の指先に視線を向ける。
 陽葵の制服のスカートから、健康的な脚がすらっと伸びている――はずだった。

 どういうわけか、彼女の両脚が消えている。

「なん、で……?」

 目を凝らすと、脚の輪郭がぼんやりと見えた。半透明になっているのだろう。紺のソックスと白い上履きは、まるで宙に浮いているみたいだ。

 以前、由依と交わした会話を思い出し、背筋が凍る。


『過去の文献によれば、手だけじゃないの。例えば、足が透けてしまった人もいる。陽葵もそうなってしまう可能性は十分にあるみたい』


 どうしてだよ。今までは、体調が悪くなるにしても演奏後だったじゃないか。さっきまで大沢と元気に喧嘩していたのに……悪化するにしても突然すぎるだろ。

 苦しそうに顔を歪める陽葵と目が合う。
 彼女は涙をこぼした。

「お願い、三崎くん……見ないで……!」

 透過した脚を見ないで、という意味なのは理解できる。
 だが、その言葉の真意と、涙の理由はわからなかった。

「三崎くん! 救急車呼んで! あと先生にも連絡! 早くッ!」

 由依の声で、はっと我に返る。

 俺は走って職員室に向かい、保健の先生に事情を説明した。そのまま救急車を呼ぶと、しばらくして陽葵は病院へ連れていかれた。

 その後、どうやって自宅に帰ったのかは覚えていない。気づけば俺は、暗い自室で泣いていた。

 あまりにも無力な自分に腹が立つ。

 俺が陽葵にしてやれることは、あいつの夢を叶えてあげること。
 それしかできない。
 彼女の命を救うことなんて、できやしないんだ。

 新曲の歌詞を作れば、前に進めるだろうか。
 冷たい弦を爪弾けば、何かが変わるだろうか。

 そう信じるしかないなんて、俺と陽葵は似た者同士なのかもしれない。
 だって、そうじゃないか。
 残酷なこの世界で、『前向きに生きる』と自己暗示をかけながら、ひっそりと隅っこで泣いているのだから。

 どれくらい涙を流したのだろう。
 泣き疲れた俺は泥のように眠った。

 そして翌日。
 由依から陽葵が入院したと聞かされた。