日本が大正に入ってからすぐの世。
東京から遠く離れた山の麓の村に天本家の屋敷があった。華族である天本家の屋敷は立派なものだ。そこに住む天本家の面々は常に煌びやかな生活をしている。一人を除いては。
「いやだわ、お姉様、床に紙屑が散らばっているじゃない。さっきお掃除したばかりではないの? まったく、何をしているのかしら」
義理の妹の天本陽菜に指摘され、天本羽月は庭に面している廊下を見た。陽菜の言う通り、床にはなぜか紙屑が散らばっている。ここの廊下はつい十分前に羽月が雑巾がけをしたばかりだ。
羽月が顔を上げると陽菜がにやにやしているのが見える。ああ、いつもの陽菜のいやがらせか。羽月はそう悟ったが言い訳はせず、「陽菜さん、申し訳ございません、すぐにお掃除いたします」と箒と塵取りを手に取り紙屑を片付け始めた。
その時、春の生ぬるい突風が吹き、羽月の身窄らしい着物と陽菜の高価そうな着物の裾を駆け抜けて行った。風は着物だけでなく、廊下に散らばっていた紙屑を四方八方へと吹き飛ばしていく。陽菜はわざとらしく「あーあ」と大きな声を上げた。
「いやだわ、お姉様がのろのろしているから、紙屑がどこかへ飛んで行ってしまったじゃない。ちゃんと一つ残らず拾い上げておいてね」
陽菜の言葉に羽月は無表情のまま「承知しました」と紙屑を追いかけ始めた。陽菜は羽月が紙屑と格闘している姿を見ながら満足そうな笑みを浮かべる。
「拾おうと思った紙屑が風に飛ばされるなんて、本当、お姉様って運が悪いわよね。さすがは『薄命の娘』だわ」
薄命の娘と呼ばれて、羽月は身体をびくりと震わす。そうだ、自分がこんなにもみじめな思いをしているのは、自分が薄命の娘だからなのだ。でもこんなみじめな生活もあと五年もすれば終わる。
自分は二十歳で死ぬ運命なのだから。
羽月がこの世に生まれた時、東京で有名な占い師に運命を見てもらった。その時、羽月は占い師に「この娘は呪われた運命にある」と言われたのだ。
「この娘には暗く重い未来がのしかかっている。この娘には天本家の跡を継がせてはいけない。いや、継ぐことはできないだろう。この娘は二十歳には死んでしまう呪われた運命だ」
その後、産後の肥立ちが悪かった羽月の母親があっけなくなくなると、父親は占い師の言葉をあっさりと信じてしまった。羽月は天本家の離れで使用人の子どもたちと同じように育てられ、まるで最初から使用人だったかのように天本家の雑用をさせられた。
使用人たちは羽月にひどいことはしなかったが、羽月を「薄命の娘」と噂し忌み嫌うように遠巻きに接していた。父親は羽月の母親の妹を妻として娶り、すぐに生まれた陽菜は「いずれは天本家の跡継ぎを迎え入れる娘」として丁重に育てられたのだった。
陽菜は物心ついた頃から、なぜか羽月にちょっかいを出すようになった。陽菜は美しい娘だし羽月は常に身窄らしい着物服を着ている使用人同然の立場だと言うのに。陽菜は羽月に身の回りの世話をさせては、先ほどのような意地悪を繰り返していたのだった。
羽月は今の境遇を辛いと思いつつ、どうせ自分は二十歳で亡くなる運命なのだからと諦めていた。いつか使用人同士が話しているのを聞いたことがある。「今辛い思いをしていても、現世で真面目に暮らしていれば、来世で幸せな生活が待っている」と。
羽月は来世に期待していた。来世こそは二十歳以上長生きをして、できれば自分を愛してくれる優しい旦那様と一緒になって幸せに暮らしたい、そういう幻想を抱いて生きていた。
その日の夜、どこかへ出かけて帰ってきた父親の表情は暗かった。愛情などほぼかけられたことがなかった羽月だが、それでもあまりにも父親の表情が暗かったため心配になった。
迷惑かもしれないけど声をかけようか。そう迷った羽月よりも先に陽菜がわざとらしく眉を顰めながら父親に話しかけた。
「まあ、お父様、どうなさったの? 顔色がとても悪いわ。具合でも良くなくて?」
最愛の娘に声を掛けられた父親だが、その表情はなぜかもっと暗くなった。羽月には今にでも泣き出しそうな顔にも見えた。
「ああ、陽菜。それが……。お前にとても大切な話があるんだ。お母さんと一緒にすぐに客間に来なさい」
「まあ、何があったの? ――お姉様、客間にお茶を持ってきて」
「はい、承知しました」
父親は羽月にとっても一応は父親だ。父親の表情の暗さは気になる。お茶を持っていけば父親の顔色の理由が聞けるかもしれない。
羽月は台所でお茶の用意をすると、すぐに客間へ行った。
客間の前で「失礼いたします」と言ってから羽月がふすまを開けると、陽菜の「いやあ!」という悲鳴にも似た声が聞こえてきた。顔を上げると父親だけでなく陽菜や陽菜の母親である義母まで顔色を悪くしている。まるで死神でも迎えに来たかのような表情だ。
「どうしてなのです? どうして陽菜が龍神の花嫁に選ばれたのですか?」
陽菜の母親が悲鳴に似た声を上げる。「龍神の花嫁」と聞いて、羽月は思わず声を上げそうになった。
天本家の住んでいる村の山の上には昔から龍神が住んでいる。龍神は遥か昔から山とこの村の守り神と言われており恐れられている存在だ。龍神は50年に一度代替わりをし、その時に村の若い娘を花嫁として龍神に差し出すのが決まりだった。
その花嫁を与えることによって、龍神は村を守り、村に悪さをしないという約束になっているらしい。そして今年はその50年に一度。どうやら龍神の花嫁に陽菜が選ばれたようだった。
「いやです! 私は龍神の花嫁なんかになりたくありません!」
「陽菜、龍神の花嫁になるのは名誉なことなのだよ。だから……」
「いやです! 噂によると龍神は猿か野犬のように卑しい存在だと聞きます。証拠に50年ごとに龍神へ嫁いだ娘たちは一度も戻ってきたことがないではないですか。私、お父様やお母様のところから離れることなんてしたくありません。――そうだわ!」
陽菜は修羅場の席にお茶を持って行っていいのかどうか戸惑っている羽月の傍に行くと、なれなれしく羽月の腕を掴んだ。
「お姉様が龍神の花嫁になるのはどうかしら? 卑しい龍神には私よりもお姉様の方がお似合いだわ」
あまりにも意外な展開に、羽月はただ「いっ、いやです……」首を横に振った。
「陽菜、羽月はだめだ。羽月は呪われている薄命の娘だ。そんな娘を龍神の花嫁にするなんて……」
「でも、私はいやなんです! お姉様が呪われているなら、そんな運命の娘、むしろ龍神の花嫁に相応しいではありませんか。私はあんな山の上でこれから先ずっと暮らすなんて耐えられません! 絶対にいやです」
陽菜がいうと、義母も大きく頷く。
「あなた、陽菜の言う通りです。陽菜が龍神の花嫁になるなんて、そんな可愛そうなことは私もしたくありません」
「うっ、うん……」
父親はただただ気まずそうな表情をしていた。
それから数日後。
羽月は白い婚礼用の打掛を着て、自室に座っていた。華やかな衣装を着ているというのに、羽月の表情は暗い。
陽菜が龍神の花嫁に選ばれたその日、陽菜と義母はかたくなに「龍神の花嫁なんていやだ」と言い続けた。そして勝手に羽月を龍神の花嫁として差し出すことを決めたのだった。
「でも、お前たち、龍神に知られたらどうするんだ? 花嫁が違うと言われたら……」
「いやだわ、お父様、龍神は昔から猿や野犬のように卑しいと言われているではないですか。猿や野犬に初めて会った人の区別なんてわかるわけありませんわ」
陽菜が言うと、義母は大きく頷いた。
「そうよ、あなた。相手は龍神とは言え、どうせ相手が男か女かぐらいの違いしかわからないでしょうよ。大体、陽菜はどうして龍神に花嫁に選ばれたのですか? どうせ、陽菜が美しいからだとは思いますが」
確かに陽菜は華やかな雰囲気の美人だった。この村で一番美人と言っても言い過ぎではない。
「それは私にもわからない。神社の長から『陽菜が龍神の花嫁に選ばれた』と言われただけだ」
「まあ、では龍神が選んだのではなくて、あの神社の長が陽菜を選んだというの?」
「いや、長は龍神のお告げだと言っていた」
「どちらにしても、誰も龍神が陽菜を選んだという確かな証拠はないということですわよね? あら、ではちょうどよいではありませんか。やはり陽菜ではなく、あの薄命の娘を龍神に嫁がせるべきよ。まあ陽菜に比べればかなり見劣りしますけど、綿帽子を被せれば猿か犬かわからないような龍神に知られることはないでしょう」
そう言いながら、義母と陽菜は大きく笑った。父親は妻と陽菜に何も言わなくなった。そして羽月も抵抗を止めた。
羽月は龍神への婚礼の準備をしながら、今までの人生を振り返った。そしてこれからの人生を考えた。今までの人生は最悪だった。誰もが羨むような華族の家柄に生まれたというのに、生まれた直後に母親を亡くし、占い師には「この娘は呪われていて二十歳まで生きられない」と予言される。血の繋がった父親には愛された記憶がない。父親と再婚した義母と義妹は自分を愛するどころか憎く思っていやがらせをしてくる。そして義妹の代わりに得体の知れぬ龍神の花嫁にされようとしているのだ。
(――これからの人生だって、良いことは何も起こらない)
羽月は義母と陽菜のいやがらせのせいでとっくに枯れたと思っていた涙を流しながら思った。
もしかするとこれからの人生、良くなることはおろかもっと嫌なことが起こるかもしれない。第一、龍神が自分を偽の花嫁だと知ったらどうなるのだろうか。陽菜の言う通り龍神が猿や野犬のように野蛮なものだったら、激高してその場で殺されてしまうかもしれない。
しかし、羽月はむしろその場で殺された方が良いのかもしれないと思った。どうせ二十歳で亡くなってしまう薄命の定めだ。もし龍神が自分を偽の花嫁だと気づいたら、その場で「どうぞ離婚してください、そして殺してください」と申し出よう。
死ぬのが少し早くなるだけだ。もしかすると、来世ではもっと幸せに満ちた人生が待っているかもしれない。
婚礼用の打掛を着た羽月は今まで見たこともないような豪華な駕籠に乗せられて家を出た。
家を出る前に義母と陽菜には言われた。
「お姉様、偽の花嫁だと知られても、ここには戻ってこないで頂戴ね」
「そうですよ、例え龍神に離婚されて追い出されても、ここには居場所がありませんからね」
「お姉様がここに戻ってきたら、私が本当の花嫁だとわかってしまうじゃない。絶対に戻ってこないで頂戴ね」
羽月は暗い表情をしながら思わず父を見た。父は羽月が視線を向けた途端目を反らす。羽月はため息をつくと「わかりました」と返事をした。
羽月が屋敷を出る時、誰も羽月がいなくなるのを惜しまなかった。むしろ義母と陽菜は「清々した!」という表情で笑っている。
ただ玄関先でふわふわとした毛並みの白猫だけがずっと鳴いていた。
あの猫はこの屋敷にいつの間にか住み着いた野良猫だ。羽月の唯一の味方だった。羽月は自分のわずかな食事を猫に与え、可愛がっていた。義母や陽菜にひどいことをされた時はよく猫を抱きしめて泣いた。猫はただ黙って羽月に抱きしめられたまま喉を鳴らしていた。
羽月はせめて最後に猫にお別れを言いたいと思ったが、すでに駕籠は出発してしまった。やがて猫の泣き声が聞こえなくなると、羽月はあきらめて涙を流した。
打掛を着た羽月を乗せた駕籠は、龍神がいると言われている山を登っていく。
羽月は自分が着ている打掛に目を落とした。これから偽とは言え花嫁としてこんな豪華な着物を着られたのはせめてもの救いだった。二十歳で死ぬ運命の自分には、婚礼の着物が着られるなんて思っていなかった。束の間だが「誰かの花嫁になる」という女性の幸せを感じられて、羽月は少しだけ心がときめくような気持ちになった。
やがて自分の乗っている駕籠がどこかにおろされるのを感じた。さっきまで耳元に感じていた人の足音が離れていくのがわかる。目的地についたのだ。花嫁を乗せた駕籠は山のある場所まで運ばれると、そこで駕籠だけおろされて残される。しばらくそのまま放置されると、龍神のお付きのあやかしが花嫁を迎えに来る、そういう手筈になっているのだ。
花嫁はあやかしが声をかけるまで駕籠から出てはいけない。羽月はそう言われていたが、周りがどんな状況になっているのか気が気でなかった。自分はこのまま龍神の元へ行って殺されるのだろうか。いくら薄命の運命の自分とはいえ、死ぬのは怖かった。
どれくらいそのままでいただろう。羽月は恐怖ですっかり冷たくなった自分の身体を抱きしめるように時間が経つのを待った。やがてどこからか足音が聞こえてくる。これは龍神の使いのあやかしの足音だろうか、それとも人間の匂いを嗅ぎつけた熊の足音だろうか。どちらにしても自分を死に導くものだろう。羽月はこれから来る恐怖を考えて瞼を強く閉じた。
「――花嫁様の駕籠だ!」
駕籠の外で誰かが言う。羽月の耳に飛び込んできたその声は、意外にも穏やかそうな男性の声に聞こえる。
「花嫁様、どうぞ駕籠の外に出てらっしゃってください!」
次に女性の声が聞こえる。その声も羽月の耳には穏やかで嬉しそうな声に聞こえた。
羽月はまだその声の穏やかさが信じられなかった。今まで散々嫌な目にあったのだ。駕籠の外に出れば、また嫌な思いをする。きっとそうだ。
しかしいつまでも駕籠の中にいることはできない。声や足音の様子からすると、どうやら駕籠の周りにはたくさんのあやかしが集まっているらしい。自分がここで籠城しても、いずれは外にいるあやかしに引きずり出される。羽月は覚悟を決めて駕籠の御簾から恐る恐る顔を出した。
羽月が顔を出すと、駕籠の周りにはたくさんの人がいた。あやかしだと思っていたが、そこにいるのは普通の人のように見える。あやかしは一見、普通の人間のように見えるのだろうか。羽月は今まであやかしの話は聞いたことがあるが、それこそ龍神のように猿や野犬のように野蛮なものだと聞いていた。
羽月の顔を見ると、人々の間から歓声が上がった。
「まあ! 花嫁様、お美しいわ!」
「真っ白な着物を着て、何てきれいなんだ!」
周りにいる人はみんな笑顔で自分の姿を見て嬉しそうだ。
(――私が美しい? きれい?)
人々が口々に言う言葉が羽月には信じられなかった。今までの人生で「美しい」「きれい」など言われたことがない。そんな言葉を言われるのはいつも義妹の陽菜と決まっている。しかも、みなが自分を歓迎しているように見えるのも不思議だ。
義母と陽菜はいつも自分を見ると嫌そうな表情をするし、父親は視線を反らす。家の使用人は嫌な顔こそしないまでも、「薄命の娘」と言われている自分と目を合わそうとしない。
羽月が戸惑っていると、一人の中年の女性が近づいてきて、優しく羽月の手を取った。
「まあ、花嫁様、こんなに冷たい手をなさって。長旅大変でございましたね。さあ、あの馬に乗ってください。すぐにお屋敷へお連れしますから」
「馬?」
馬などどこにもいない、と羽月が思っている、突然駕籠のすぐ近くに大きな何かが降り立った。それは翼の生えた馬だった。羽月が驚いていると、中年女性は「ほほほ」と上品に笑う。
「人間の世界では空を飛ぶ馬は珍しいかもしれませんね。このあやかしの世界では日常的に空飛ぶ馬で移動しますのよ」
「では、ここはあやかしの……」
自分は本当にあやかしの、龍神のところへきてしまったのだ。羽月は表情を硬くしたが中年女性、いやあやかしの女性は笑顔のままだ。
「花嫁様、驚かせて申し訳ございません。でも、私たち花嫁様がいらっしゃるのをとても心待ちにしていたのですよ。さあ、あの馬に乗ってお屋敷へ向かいましょう」
「あの……、そのお屋敷には龍神様がいらっしゃるのでしょうか?」
「いえ、龍神様がいらっしゃるのは一年後です」
羽月は中年の女性と一緒に翼の生えた馬に乗った。馬はふわりと宙に浮くと、二人を乗せたまま空を飛び始めた。
「わあ……」
思わず羽月の口から声が出る。自分や村人があんなに難儀して昇ったり下ったりしていた山が遥か下に見える。空から見下ろす村の風景は素晴らしかった。あんなに嫌な思い出ばかりの村なのに、その風景には感嘆の声が上がる。そして、馬の乗り心地が素晴らしい。空を飛んでいるというのに体制を崩すこともなく、まるで高級な柔らかい椅子に座っているようだった。
空を飛んでいる間に、さっきの中年女性はこれからのことを簡単に話してくれた。
「花嫁様、先ほども言った通り龍神様が花嫁様をお迎えにいらっしゃるのは一年後です。花嫁様は人間の世界でずっと暮らしていたので、龍神様の花嫁になるために花嫁修業をしなくてはならないのです」
「花嫁修業……?」
羽月は思わず身構えた。修業とはどんな辛いことをしなくてはならないのだろうか。今までいた屋敷の使用人が嫁姑問題について話しているのを何度も聞いたことがあるが、花嫁修業はとても辛く大変らしい。
姑にいびられ、家事の全てをこなさなくてはならず、それは妊娠や出産しても変わらないと。やはり龍神の花嫁になるのは一筋縄にはいかないのだ。
顔色を変えた羽月を見て、女性はにこりと微笑んだ。
「まあ、花嫁様、そんな表情をなさらないでください。花嫁修業とは言っても、花嫁様があやかしの生活に慣れるために準備みたいなものです。花嫁様は何も心配なさらないでください。花嫁様は龍神様の身の回りのお世話をするのがお仕事。身の回りのことがご自身でできるようになる、それが花嫁修業になります。ただ花嫁様のお世話は私たちあやかしもいたしますので。――さあ、着きましたよ」
翼の生えた馬が動きを止め、そのままふわりと木々の間を降りていく。まったく衝撃がないまま地面に馬が着地すると、目の前に立派なお屋敷が見えた。
(――まあ、何て大きなお屋敷なの?)
山の中にこんな屋敷があったなんて、と羽月は驚いた。今まで住んでいた天本家の屋敷もかなり大きく立派だったが、目の前にある屋敷は天本家のものとは比べられないほど素晴らしかった。まるで天下人が住むような豪邸だ。
「ここが今日から花嫁様がお住まいになる屋敷です。さあ、お入りください」
「あっ、はい!」
羽月は先に馬から降りていた女性の手を取った。気づくと屋敷まで続く道には両側に人がずらりと一列に並び、みな頭を下げている。
「龍神様の花嫁様、ようこそいらっしゃいました!」
「まあ、何て美しい花嫁様かしら!」
ここにいるのは普通の人間に見えるが、すべてあやかしなのだろう。みな花嫁として来た自分を歓迎しているようだ。羽月は戸惑いつつも、歓迎の声に思わず口元に笑みを浮かべた。
「まあ、花嫁様。初めて笑われましたね。やはり素敵な笑顔ですわ」
女性が言う。今まで自分の笑顔を見てこんなに嬉しそうに接してくれる人はいなかった。いや、羽月は物心ついた頃から「笑う」ということを忘れていたようだった。
(――もしかして、ここはいいところなのだろうか?)
羽月は人々の歓迎の声の中を歩きながら、また笑みを浮かべた。
それから羽月はその立派な屋敷で過ごした。あやかしはみな、羽月を歓迎してくれたが「もしかすると、この歓迎は最初だけでは?」と身構えていた。しかし、いつまで経ってもあやかしたちは羽月に優しく丁寧に接してくれる。羽月は段々この屋敷とここに住んでいるあやかしたちのことが大好きになってきた。
羽月は前の屋敷にいた時のように身の回りのことは自分でした。それだけでなく、食事の支度や屋敷の掃除などもやろうとした。あやかしたちは「まあ! 花嫁様はとても器用でいらっしゃるのですね」と感心してくれるのだった。
「花嫁様は今までの花嫁様よりも気立てが良くて、本当にお優しいのですね」
主に羽月の身の回りの世話をしてくれるあの中年の女性のあやかしが本当に感心したような表情で言う。
「今までの花嫁より、ですか?」
そう言えば、龍神には花嫁を50年ごとに差し出すことになっている。自分の前にも花嫁がいたはずだ。
「ええ、今までの花嫁様もお美しかったですが、今の花嫁様のように率先して働こうなんて方はいらっしゃらなかったです。私たちはとても嬉しいですが、花嫁様はそこまでなさらなくても大丈夫ですよ。龍神様とご自身の身の回りのことをするだけで結構ですから」
あやかしがいう「花嫁修業」とは、この屋敷で過ごしながら龍神と自分の身の回りのことができるようになることと、あやかしの霊気に慣れることなのだそうだ。人間の世界にいた人間がすぐに龍神の元へ行くと、あやかしの霊気に充てられてしまうらしい。だから一年の修業が必要なのだそうだ。
羽月はあやかしたちの言う通り、自分の身の回りのことはして、あとはあやかしたちに任せて、余った時間は庭を散歩したり本を読んだりしてすごした。羽月は今までの家事で荒れ放題だった手がきれいになり、顔のつやも良くなった。毎朝身支度で顔を見るたびに、まるで別人のように幸せそうな表情をした自分が写るようになった。
「本当にありがとうございます。よくしていただいて。私、ここへ来ることができて本当に幸せです」
ある日、羽月はあやかしに頭を下げた。下げた途端にほろほろと涙がこぼれてきた。あやかしは「まあまあ!」と慌てて羽月の手を取った。
「私たちは50年に一度、龍神様の花嫁様が来るのをとても待ち望んでいるんです。私たちが花嫁様に尽くすのは当たり前のことですよ。そして、末永く龍神様とお幸せになられてくださいね」
「はい……」
羽月は頷いたが、心の中は複雑だった。自分は陽菜の身代わりで来た偽りの花嫁なのだ。そのことが知られたら、このあやかしたちや龍神はどう思うのだろうか。しかも自分は二十歳に亡くなってしまう薄命の娘。例えこのまま偽物だと知られなくても、自分が二十歳になって亡くなってしまえば、その後の龍神の身の回りの世話をするものがいなくなってしまう。
(――偽物だと知られた時はどうすればいいんだろう)
その時は素直に謝ろう。そして龍神に離婚を申し入れて、罰として自分を殺してくれ、と懇願しよう。その時まではこのあやかしたちの世話になろう。束の間の幸せをかみしめよう、羽月はそう心に思った。
羽月があやかしの屋敷に移り住んで一年近くが経った。
「まあ、花嫁様、とても美しい銀色の髪になりましたね」
あやかしの女性が羽月の髪を櫛でときながらうっとりとした表情で言う。龍神の花嫁は一年間の花嫁修業をするうちに、あやかしの霊気に慣れて銀色の髪になる。それは羽月も聞いていたが、自分の黒髪がどうやって銀色になるのだろうかと不思議だった。
しかし、不思議なことに長い月日が経つうちに自分の黒髪からどんどん色素が抜けて行き、今となっては生まれた時からこの色だったのではないかと勘違いするほど、きれいな銀色の髪になってしまったのだ。
「そろそろ旦那様の龍神様がお迎えに来る頃ですわね」
あやかしの女性がなにげなく言うと、羽月は身体を震わせた。羽月は自分が偽の花嫁と知られるのを恐れて身体を震わせたのだが、あやかしの女性はどうやら龍神が迎えに来ることに緊張したと勘違いしたらしい。あやかしの女性は「大丈夫ですよ!」と明るい口調で言う。
「こんなに気立てが良くて美しい花嫁様、龍神様は絶対に気に入られると思いますよ。龍神様は花嫁様と同じくらい、それはそれは美しい神様なんです」
「そっ、そうなのですね」
羽月はこの女性のあやかしの優しさも自分の幸せももうすぐ終わりなのだろうと思うと泣きたい気持ちになった。しかし、今まで良くしてもらったあやかしたちに自分の悲しそうな顔を見せられない。羽月はなるべくあやかしたちがいう「素敵な笑顔」を保つようにした。
そして、その日は突然訪れた。
「花嫁様!」
羽月の髪がすっかり美しい銀色に変わってしまってから数日後。あのあやかしの女性が嬉しそうに羽月の部屋へとやってきた。
「まあ、どうされたのですか? そんなにはしゃいで」
「今夜、龍神様がお屋敷にいらっしゃるそうです!」
あやかしの女性は何とも嬉しそうに頬を紅潮させながら言う。女性と違い、羽月はさっと顔色を青くした。
(――そんな)
このあやかしの屋敷に嫁いで以来、今までの人生で一番幸せな時間だった。屋敷の住人には優しくされて、ゆったりとした時間を過ごすことができた。
今夜、龍神が迎えに来る。あやかしは今まで騙すことができたとしても、龍神は神だ。さすがに自分が偽の花嫁だと気づくだろう。あやかしは「龍神は美しい神様」と言っていたが、龍神と言うだけあって残酷な神様かもしれない。
(――私が偽の花嫁だと気づいたら、その場で離婚されて殺されてしまうかもしれない)
羽月は着物の裾を強く握った。いやこの屋敷に来てからの穏やかな幸せな時間を考えれば、今日殺されても構わないかもしれない。生まれた時から「薄命」「二十歳まで生きられない」と呪われた運命を予言され、義母や義妹には虐げられ、実父には無視され続けた。そんな自分を憐れんで、人生が最後に幸せな時間を与えてくれたのだ。もう、今日自分の命が尽きても構わない。
(――それに私は放っておいてもあと数年で亡くなる運命だし)
そう考えると、何だか自分の体の中によくわからない力がみなぎってくるかのようだった。
(――最後ぐらい、凛として終わらせよう)
龍神に偽の花嫁とばれたら「はい、確かに偽物です。離婚して、私をこの場で殺してください」と言おう……。
「花嫁様、大丈夫ですか? 顔色が……」
あやかしの女性に話しかけられて、羽月は我に返った。あやかしの女性が心配そうに自分の顔を覗き込んでいる。羽月は今までこの女性を騙していたことを心の中で謝った。
「失礼しました、ちょっと驚いてしまいまして……」
「花嫁様、初めて龍神様にお会いになるのですものね。緊張しますよね。大丈夫です、龍神様は花嫁にお優しいのですよ。それに花嫁様はお美しいだけでなくとてもお優しくていらっしゃいます。龍神様もきっと花嫁様を気に入られるでしょう」
あやかしの女性が言うと、羽月は何とか笑みを浮かべた。
「そうですね、龍神様に気に入っていただけると嬉しいのですが」
その日の夜、羽月はこの屋敷の奥にある一番大きい部屋で龍神の登場を待っていた。あやかしたちが用意してくれた美しい着物は羽月の銀色になった髪にとても似合っていたが、羽月の表情は暗かった。
義妹の陽菜は「龍神は猿や野犬のように野蛮」と言っていた。あやかしたちの話を聞いてみると、少なくとも野蛮ではなさそうだ。しかし、相手は神様。自分を偽の花嫁だと見破ることは簡単だろう。
さっき死ぬ覚悟を決めたというのに、その時が来るといろいろと今までを考えて泣きそうになってしまう。羽月は何とか涙を流さないように奥歯をきつく噛んだ。
その時、部屋のふすまが開く音がした。とうとう龍神が来たのだ。羽月は慌てて頭を下げて龍神を出迎えた。自分の心臓の音がうるさいくらい耳に響いてくる。龍神と思われる足音は段々と近づいてきて、羽月の目の前で止まった。
「龍神様、お初にお目にかかります」
羽月が震える声で名乗る。羽月が頭を下げ続けていると、頭の上から声が聞こえてきた。
「いつまで頭を下げているのだ? 顔を上げてみろ」
聞こえてきた声は余りにも美しく凛とした声だった。男性の声なのに、まるで鈴を振ったかのように耳に心地よく響き、身体の中にすっと溶け込んでくるようだ。羽月は声に誘われるかのように顔を上げた。
声も美しかったが、自分の目の前に立っている人物はもっと美しかった。髪は今の羽月と同じ銀色をしている。目の色は黒っぽいがどことなく青みを帯びているようにも見えた。肌は白く、男性にしては繊細な顔立ちをしているが、男性らしい力強さも感じる。
羽月は昔、生まれ育った村の神社で見た掛け軸の絵を思い出した。掛け軸に描かれている神様はとても美しかったが、目の前にいる龍神はその神に似ていて、それよりも遥かに美しかった。
「失礼いたしました」
「いや、いい。一年も待たせて申し訳なかった。――その銀の髪、とても似合っているぞ」
「――」
羽月は思わず顔を赤くしてしまった。龍神は少し顔をほころばせた。その表情は少し子供っぽくなり、可愛らしささえ感じさせる。
龍神は羽月の前に座ると、羽月をまじまじと見始めた。そして、小さく「あっ」と声を上げた。羽月の胸がまるで何かに掴まれたかのように痛みを感じる。この龍神の表情、もしかすると偽の花嫁だと気づいてしまったのだろうか。
「お前は、誰だ?」
「申し訳ございません……!」
羽月は再び頭を深々と下げた。「本当に申し訳ございません。私は偽の花嫁です。本当の花嫁はまだあの村にいます」
「どういうことだ?」
「申し訳ございません、龍神様、私は確かに偽の花嫁です。――どうぞ私と離婚してください。そして、私を殺してください」
羽月は畳に額を押し付けて、初めて会った結婚相手に頭を下げた。身体が震えているのは寒いからではない、これからの自分の行く末を恐れてのことだ。嫁いだ一年前からこうなることはわかっていたのに、殺される覚悟はしていたのに、実際に殺されそうな状況になると、恐怖で身体が震えるのが自分でも滑稽だった。
「とにかく顔を上げろ」
「はっ、はい!」
羽月は恐る恐る顔を上げる。目の前には何とも美しい男性――龍神が座っている。いつ殺されるかわからない状況だと言うのに、羽月は龍神の美しさにはっとさせられてしまう。
龍神は醜い姿をしていると聞いていたが、噂とは違う。しかし、龍神が美しいか醜いかは関係ない。どちらにしても、自分はこれから殺されるのだ。龍神が羽月に近づいてくる。羽月は覚悟を決めて固く目を閉じた。
「安心しろ、殺しはしない」
「えっ?」
羽月は思わず瞼を開けた。あの美しい龍神の顔が近くにある。
「怖がるな。何もしないから安心しろ。選ばれた花嫁でなく別の娘を寄こすなんて、村人たちに何か事情があったのではないか? お前、どうして偽の花嫁としてここに来ることになったのか話してくれないか? 正直に話したからと言って、私は何もしないから安心しろ」
「本当ですか?」
「ああ、信じていい。あやかしたちはみんなお前のことを『優しく気立ての良い娘』と言っていた。そんな娘が嘘を言うなんて、よっぽどの理由があるのだろう。とりあえず、全てを話してみろ」
龍神は目を細めた。その眼差しは今まで接してきたあやかしたちと同じように優しそうだった。
「――はい」
羽月は龍神にぽつりぽつりと今までのことを語った。自分は村の華族の家の出身であること、生まれてすぐに母親を亡くし、占い師に「二十歳までに死ぬ薄命の運命」と言われてしまったこと。父親と再婚した義母とその娘の陽菜に散々虐げられてきたこと。陽菜が龍神の花嫁に選ばれたがいやがり、自分が代わりに花嫁として輿入れしたこと。
龍神は優しい眼差しでずっと話を聞いてくれた。羽月は話しながら何度も目頭を押さえた。
「そうか、辛かったな」
羽月がすべてを話し終えると、龍神はあの鈴のような声を絞り出すように言った。羽月はその言葉を聞いた途端、涙が再びあふれ出るのを感じた。
(――龍神様が私に同情してくれている)
ここにいる人たちは何て優しいのだろう、と羽月は思った。あやかしは良くしてくれ、龍神は自分の話を聞いてくれた。あやかしも龍神も人でないものだと言うのに、なぜこんなに人間の自分に良くしてくれるのだろうか。
「私のようなものの話を聞いて下さり、ありがとうございます。無理やりとはいえ、私は龍神様やあやかしのみなさまを騙してしまいました。本当に申し訳なく思います。私は偽の花嫁です、どうぞ、私と離婚してください」
「お前がそんなに言うなら、離婚はしてもいい。ただ、お前、ここを出て行ってどうするのだ?」
「はい?」
「生まれ育った村にはもう帰れないだろう。それにその髪……」
「あっ……」
羽月は思わず自分のすっかり銀色になった髪に触れた。この色の髪ではどこへ行っても好奇の目で見られてしまうだろう。
「お前、とりあえず、しばらくここで住んでみないか?」
「えっ? こちらにいてもよろしいのでしょうか?」
「ああ、ここのものはお前をとても好いている。それにあやかしたちにとってお前は私の花嫁に違いない。私と離婚すれば、また一年かけて髪も元の色に戻る。そうしたら、お前を人間の正解に戻して、その時は好きなところへいけばいい。それまでは私の身の回りの世話をしてもらえるとありがたい」
「あっ、ありがとうございます! 私、心を込めて龍神様のお世話をいたします」
「ああ、頼むぞ」
羽月はまた龍神に向かって頭を下げた。一年かければ髪の色は元に戻るし、人間の世界にまで送ってもらえる。それまでは心を込めて龍神の世話をしよう、羽月はそう心に誓った。
こうして龍神と偽の花嫁である羽月は離婚したが、羽月は一年間は名目上「花嫁」として龍神の世話をすることになった。
翌日、羽月が龍神の屋敷へと行く時、今まで世話をしてくれたあやかしたちは嬉しそうな表情をしながらも羽月との別れを惜しんで涙を流してくれた。
「花嫁様、とうとう龍神様の元へ……。嬉しいですが、淋しくなります」
「そんなに悲しむな。花嫁は時々こちらへ顔を出すようにする。その時はまた花嫁の世話を頼む」
「もちろんです! 龍神様、どうぞ花嫁様をよろしく頼みます」
「今までありがとうございました、ここでの日々、とても楽しかったです」
羽月が言うと、あやかしたちは再び涙を流した。羽月も涙を流した。
龍神と羽月はあやかしと一緒に屋敷の庭にある大きな池へと来た。羽月はなぜ池に来たのだろうかと不思議だったが、龍神は「では、みなのもの、また」と言って池の中へと入っていく。
「龍神様!」
羽月は慌てて龍神に声を掛けたが、あやかしの女性が羽月の手を取って龍神と同じように池に入るようにと促した。
「花嫁様、この池は龍神様のお屋敷に通じているのです。どうぞ心配なさらすに、この池にお入りください」
「そうなのですね……。わかりました、みなさま、ありがとうございました。また会いに来ます」
「花嫁様、お元気で!」
羽月はあやかしたちに見送られながら、目を閉じて池の中へと入って行った……。
池に入ったというのに、水の冷たさを感じなければ服が濡れた感じもしない。その代わりに何か温かいものに包まれているような感覚がある。
「もう目を開けてもいいぞ」
龍神の言葉を聞いて、羽月は瞼を開けた。
「まあ、ここは……!」
羽月の目の前に小さいが何とも品のいい屋敷が建っていた。隣にはさっき自分が入った池がある。自分はどうやら池を通ってこの場所へたどり着いたらしい。
「ここが私の住んでいるところだ。あやかしの屋敷がある場所や人間の世界とはまったく違う場所だ」
「神様の住む場所、なのでしょうか?」
「まあ、そういえばそういうことになるな」
「では、私は死んでしまったのでしょうか?」
羽月が真顔で聞くと、龍神は優しそうな表情のまま首を横に振った。
「神の住む場所が人間にとっての死者が行く場所とは限らない。もちろんここは人間の世界とは違う場所ではあるが……。気分はどうだ?」
「いえ、何ともありません。ただ何となく体が温かくとても心地よいような感じがします」
羽月はさっきから身体の温かさを感じていた。何といえばいいのか、さっきまでいた場所よりも体がすっきりとして心地が良いような気持ちがする。
「それは良かった。この世界は人間が入ると、身体に不調を感じてしまうこともあるのだ。ただお前の髪はすっかり銀色になっているし、ここに来ても大丈夫だったようだ」
「だから、一年間もあのあやかしのお屋敷で過ごさなくてはいけなかったのですね」
「そうだ。――さあ、これからお前が住む家がここだ。これから私の世話をよろしく頼む」
「はい、よろしくお願いいたします。――あの、ここには他にどなたかはいらっしゃらないのでしょうか?」
羽月は周りをきょろきょろと見渡した。前の屋敷はあやかしたちがたくさんいてにぎやかだったが、ここはとても静かな場所だった。
「ああ、ここには私とお前しかいない」
「ええっ? そうなのですか?」
まさか龍神と二人きりになってしまうとは。しかも自分は龍神と離婚している。神様とはいえ、結婚していない男性と二人きりとは。羽月は顔を赤くしたが、龍神は微笑んだ。
「大丈夫だ、心配しなくていい。私は一応神だから、もう離婚した人間に手を出すことはない。ただお前の髪が黒く戻るまでここにいて、私の世話をしてもらえればいいんだ」
「でも、龍神様、私と離婚したのはいいですが、次の花嫁はお探しになるのでしょうか?」
羽月はずっと気になっていたことを聞いてみた。龍神と自分は離婚したが、龍神は次の花嫁を娶りはしないのだろうか。
「それはお前がここからいなくなったら考えよう。まずはお前を人間の世界へ無事に帰すことが先だ」
龍神と羽月、離婚してしまった二人の奇妙といえる同居生活が始まった。
龍神の屋敷は今までいたあやかしの屋敷よりは小さいとはいえ、人間の世界の村に住んでいた時の羽月の家よりも大きかった。龍神は屋敷の奥の部屋を羽月の部屋に宛がってくれた。
「龍神様のお世話と言うと、何をすればよろしいのでしょうか?」
羽月が恐る恐る聞くと、龍神は答えた。
「それこそ花嫁のようなことをしてくれればいい。私は龍神の仕事をするから、食事を作って屋敷の掃除をしてもらえればありがたい。あやかしからお前の料理は美味しいと聞いているから、とても楽しみだ」
「まあ、そんな……」
羽月は恥ずかしくなり顔を赤くして俯いた。しかし、龍神が偽の花嫁と気づいても優しく接してくれて「人間の世界へ帰してやる」と言った言葉を思い出した。
あやかしだけでなく龍神にも良くしてもらった。この恩はちゃんと返さなくてはいけない。羽月は顔を上げた。
「あやかしの皆さまがおっしゃるほど美味しいとは言い切れませんが……、龍神様が喜ばれるように頑張ってお料理をお作りします!」
羽月が気ごちない笑顔を浮かべながら言うと、龍神は嬉しそうに頷いた。
「ああ、楽しみにしている」
羽月は龍神から宛がってもらった部屋で寝起きをしながら、精いっぱい龍神の世話をした。
龍神は羽月の料理をとても喜び「旨い」と言いながら、美味しそうに食べてくれる。屋敷を掃除すると、「お前がきれいに掃除してくれるから、快適に過ごせて助かる」とお礼を言ってくれる。羽月は離婚したとはいえ、旦那様ともいえる立場の龍神がここまで自分に優しい言葉をかけてくれるのが嬉しかった。
羽月のいた天本家では使用人が何か世話を焼くのが当たり前で、父親も義母も義妹の陽菜も使用人にお礼を言うことなんてなかった。もちろん自分が何かしても家族から何かお礼を言われることはなかったし、それが当然だと思っていた。
通いの結婚している使用人も「旦那は本当に何もしない。私も働いているのに、ご飯を作っても当たり前のような顔をしている」とため息を吐いているのを見て、それが当たり前なのだろうと思っていた。
しかし、龍神は違った。神様だと言うのに、それこそ人間に併せ持っているような「善意の心」を持っていた。羽月は龍神にお礼を言われたり喜ばれたりするのがうれしくて、ますます精を出して龍神の身の回りの世話を熱心にするようになった。
龍神はお礼をいうだけでなく、事あるごとに羽月にきれいな着物や小物や本を贈ってくれた。
「まあ、龍神様、私は龍神様の本当の花嫁ではないのです。こんなに高価なものをいただくわけには……」
羽月は遠慮したが、龍神は「ぜひ受け取ってほしい」と言った。
「確かにお前と私は離婚した間柄だ。でも私はお前がここに来てからとても助かっている。そのほんのお礼だからぜひ受け取ってほしい」
そう言われ、羽月はお礼をいって龍神の贈り物を受け取った。羽月の部屋はそんな龍神の贈り物が段々と増えて行った。
羽月は一日の自分の仕事を終えて部屋に戻ると、時々龍神からの贈り物を眺めてはうれしい気持ちになり、反対に淋しい気持ちにもなった。
(――この生活も一年だけの限定なのだ)
羽月はそっと部屋の鏡を見た。自分の髪は相変わらず銀色だ。髪の間をかき分けてみても、黒い髪が一本も見つからない。しかし、やがて龍神の言った通り、この銀色の髪が黒く戻り始めて、すっかりすべてが黒くなった時、自分は龍神の屋敷から立ち去って人間の世界へ戻らなくてはいけないのだ。
(――私が人間の世界へ戻ったら、龍神様はまた別の花嫁を娶るのだろうか)
そんなの当たり前だろう。龍神には花嫁が必要なのだ。しかし、そのことを考えると羽月は胸がぎゅっと締め付けられるような気持ちになるのだった。
(――できれば、このままずっと龍神様の近くにいたい)
あの時、どうして龍神の花嫁に選ばれたのが陽菜だったのだろうか。もし私が本当の花嫁だったら、あやかしや龍神に囲まれて花嫁としてずっと暮らしていけたのに。
やはり自分は薄命の運命なのだ、生まれた時から呪われた運命なのだ。羽月は大きなため息をついた。
*
その頃、人間の世界の天本家は厄介なことになっていた。
「そんな……。あの川が氾濫したのは、天本家のせいではありません!」
羽月と陽菜の父親が玄関先で村人たちに怒鳴っている。村ではこの間の雨で川が一つ氾濫して水害が出てしまったのだ。幸いそこまでひどい被害はなく、元々取り壊す予定だった近辺の空き家が数軒流されただけだった。
しかし、それほどの大雨でもないのに川が氾濫してしまったのは天本家のせいだとうわさされたのだ。龍神の花嫁に選ばれたのに花嫁に行かなかった陽菜のせいだと責められたのだ。
陽菜は羽月が嫁に行ってからしばらくは大人しくしていたが、すぐに外出してしまい、龍神に嫁いだのが陽菜ではなく羽月だと知られてしまった。義母と陽菜はしばらく「羽月を龍神の花嫁に差し出したけど、だから何?」という表情をして過ごしていたが、少しすると村人が騒ぎ始めたのだ。そこへこの大雨。村人の怒りは一気に天本家へと集まった。
「あの川はあれくらいの雨で氾濫したことは今までなかったんだ! こんなことが起こるなんて、龍神が花嫁の取り違えに気づいて起こったからではないのか?」
「それなら、偽の花嫁が龍神から突き返されるでしょう! 羽月が戻ってこないなら、龍神は偽の花嫁に気づいていないのではないのですか?」
義母が夫に加勢して大きな声を出すが、玄関先に集まった村人は首を横に振った。
「薄命の娘はもう龍神に偽物だと知られて殺されてしまったのだろうよ。その内、この村にもっとひどい祟りがおこるかもしれない。そうしたら、俺たちは天本家を許さないからな!」
「そうだ! 娘のわがままでこの村が破滅したら絶対に許さないぞ!」
村人たちはそう吐き捨てるように言うと、大きな足音を立てながら天本家から出て行った。
陽菜は村人と両親が言い争う様子を屋敷の奥からじっと見ていた。自分をさんざん甘やかしてくれる父親と母親が悲しそうな表情をしているのを見ると、憎悪の炎を目に浮かべた。
(――お父様とお母様にあんなひどいことを言うなんて、許さない)
文句を言った村人たちだって、もし自分たちが龍神の花嫁に選ばれたら、あんなことは言わないはずだ。身代わりを渡せるなら、村人たちだってそうするはずだ。
(――まったく、お姉様は何をやっているの!?)
そして、陽菜は自分の代わりに龍神に嫁いだ義姉の羽月を心の中で呪った。お姉様が上手くやればこんな目に合わなかったのに。何て役立たずな娘なのだろう。
(――村の人もお姉様も、こんな災害を招いた龍神も許さないんだから!)
陽菜が怒りに任せて廊下を音を立てながら歩いていると、向こうからふわふわの白猫が歩いて来るのが見えた。猫に行く手を阻まれる形になった陽菜はますます怒りを感じた。
「何よ! こんな猫! 出て行きなさい!」
陽菜は近くにあった箒を手に取ると、猫を叩こうとする。猫は「ぎゃあ!」という泣き声を上げると、そのまま縁側から庭に出て、どこかへと走り去ってしまった。