「今日、西宮先生休みらしいぞ。確か、代わりの先生が来てるはずなんだけどなぁ。休憩中か?」

 そう言って先生は「まあいいか。俺にも軽いもんなら対処できる」と椅子に座った。
 西宮先生とは、保健室の先生だ。

「……ありがとう、ございます」

 先生と二人きりという状態がただ単に気まずくて、目を逸らす。別に、先生のことを意識しているだとか、気持ち悪いものは持っていない。

「蒼井、足見せてみろ。……うわ、こりゃあ、足捻っちゃってんなぁ」
「……すみません」

 先生は、私の足の具合を見て眉を下げた。
 
「なんで蒼井が謝るんだよ。何かあったんだろ?」
「……言うほどでもありません」

 あの三人のことはどうも言えなかった。
 私はあいつらに、怯えているのだろうか。
 それを認めたくない自分がいて、顔を上げることができなかった。
 ……あんな下等な人たちに負けるなんて。
 プライドも何も、全てやられていて、涙すら出なかった。
 それなのに、嫌だということだけは感じていた。

「…………そうか」

 ……深く問い詰めないんだ。
 それが、嬉しかったのか、それとも悲しかったのかは分からない。
 ただ、この先生は意外とチャラけてないんだなと、そう、一言思った。

「ささ、湿布貼るぞ。ん? あれ、これ、どうやって貼るんだ……?」
「…………」

 ……軽い処置なら出来るんじゃなかったんかい。

 軽い処置、というのはまさか絆創膏とかだろうか。
 それはあまりにも軽すぎる。いや、軽すぎる。
 
 だが、そんな文句をたれる必要はないだろう。そもそも、数学の先生にやってもらうというのがおかしな状況なのだ。
 私も、先生に頼りすぎた。

「先生、私、自分で出来ます」
「……うーん、これはどうやって剥がすんだ? あー、こうか!? いや、違う……ん? あ、蒼井! すまん、聞いてなかった。何だ?」
「自分で、出来ます」


 あまりのズッコケ具合に笑いそうになったのは秘密だ。

 ◇◇◇

「じゃあ、蒼井、気をつけろよ。あと、はい。今やってる授業の先生に渡しておけよ」

 先生は、一枚の紙を私に渡した。それは、授業に遅れた理由が書かれた紙だった。
 ……あ、そっか。これないと、ズル休みしたことになるんだ。
 
 ありがとうございます、と言って、私は踵を返した。

 先程は先生の頭の方が心配になったが、彼は先生らしく、しっかりしたところもあるようだ。何故だか、私が母親になったように安心していた。

 ◇◇◇

「……えー、みんな、細胞の構造については何となく分かったかな?」
「はーい」
「じゃあ、実験の説明をするよ」

 私が教室のドアを開けようとすると同時にそんな声が聞こえてきた。
 ……綾野先生だ。
 綾野先生は、私が好きな先生だ。
 いや、好きというと気持ち悪いかもしれないけれど、先生は私の中で嫌いではない、という枠組みに入ると確信して言える。
 誰に対しても公平だし、私にもよく話しかけてくれる。生徒にも数学の先生の人気とは意味が違えど、人気が高い。

 色素が薄い茶色の髪に、透き通ったような瞳。スタイルも良く、声もキーキーと煩さくない高い声で、元々持っているものだけでも、この人は綺麗だと言える。

 ……綾野先生なら、大丈夫かな。
 
 あのホームルーム後に話しかけてきた先生などとは違って、遅れて来た私も、許してくれるはずだ。
 ……そういえば、あの先生も優しかったな。
 少しズッコケ部分があったけれど、私を心配してくれて、その上、手当てもしてもらった。
 お礼が足りていなかったと今になって後悔した。

 とりあえず後ろのドアをトントン、と鳴らす。
 実験が始まったのか、教室の中が途端に騒がしくなった。聞こえるはずがなかった。
 もう一度、トントン、と鳴らした。
 だが、届かなかった。
 ……どうしよう。このままじゃ、本当にズル休みになっちゃう。
 もういっそ、ドアを鳴らさずに入ってしまおうか。
 いや、でも、ドアを鳴らして教室に入ることはこの学校では校則に等しい。それを破ってしまっていいのだろうか。

「……だめ、だよね……」

 どうすればいいかと悩んでいると、隣からカタッと何かが落ちる音がした。

「…………ねこ……?」

 目の前には灰色の猫が綺麗に座っていた。
 首元には首輪が付けられていて、そこをよく見ると、英語で「revenge」と書かれている。
 ……revengeって、復讐って意味だっけ。……復讐?
 何だろう、と思う前に何故猫がそんなものを付けているんだろうと思った。
 飼い主に付けられているのだろうか。いや、それとも野良猫なのか。でも、首輪が付いているのを見る限り、根っからの野良猫というわけではなさそうだ。

「……どうしたの? ここは学校だよ……早く帰りな」

 そう言っても動く気配がなかったので、持ち上げて窓から出そうとする。
 ……あはは……まあ、猫に通じるわけないよね。何やってんだ、私。
 猫は私に触られるのが嫌なのか、ジタバタと動いている。そのフサフサの毛を手放そうとした……その時。

『何やってんだ!? オレを殺す気かぁ?』
「ぎゃっ……!!」

 その声に驚いて、猫から手を離した。
 その拍子に猫は宙へと飛んだ。

『うぉっ……っと、と、と………………』

 猫は体操選手のようにレールの上を歩いて、窓に張り付く。窓に張り付いて、離れようとしない。

『おい! 見てるんじゃなくて、助けろよ!』
「あ、う、うん」

 窓に張り付いた猫を私は慌てて教室に下ろした。

 猫は立っている。立っている。

 二足で。

「いや……どゆこと?」