その翌日――
「おう」
「……」
昨日と同じシチュエーションで、清冬様は現れた。遊女でも何でもない私と会うために遊郭へと足を延ばし、医者として働く元・妻である私と同室する。昨日と比べて変わったことと言えば、私が遊女の姿ではなく普通の着物姿で出て来たこと。あとは……「おう」と。私に挨拶をするようになったこと。
「今日は何の用でしょうか」
「〝またいらしてくださった〟とか、可愛い言い方できないのか」
「……私が清冬様を歓迎する道理がありませんし」
素直に言うと、清冬様が「チッ」と大きな舌打ちをした。顔に出来たシワの数がどんどん増えても、それでも整った顔は見ごたえがあるのだから悔しいったらない。……この顔で、何人の女を虜にしてきたんだろう。私が嫁いだ後だって、こうやって女遊びをしていたのだろう。清冬様の代わりに屋敷で治癒を行っていた私の事などは、一切考えることもなく。
「酌をしてくれないのか」
「……私は遊女ではないので」
「なんだ、遊女以外は酌をしてくれないのか?」
「〝なんだ〟、なんて……。ここ(遊郭)での遊び方は、清冬様はとっくにご存じのはずでしょう?」
言うと、清冬様はムッとした顔つきになる。言葉にするなら「不機嫌の上塗り」だ。
「あいにくだが――遊郭の暖簾をくぐったのは、お前を探しだして初めてのことだ」
「え」
「故に、ここでのしきたりも楽しみ方も知らない。金を積めばたいていの事はまかり通るという事だけは分かったがな」
ニヤリと笑った顔の裏で、こうやって私と会うためにいくらのお金を積んでいるんだろうと不安になる。清冬様、まさか無駄にお金を使っているのでは……?
「毎日遊郭通いなんて、ツツジさんが心配しますよ」
「だから早くお帰りくださいって? 昨日も言ったが、俺は用があってここに来ているんだ。俺が明日もここに来るか来ないかは、お前次第なんだぞ」
「……」
その「用」というのは、まさか求婚……? と予想するまでもなく、清冬様が座る横に、昨日見たと同じ白いバラが置かれてある。薄黄色の畳に映える白――この色が、まさか私への「求婚の証」だなんて。あんな仕打ちを受けた後では、とてもじゃないが信じられない。
「花束と一緒にお帰りください」
「その心は?」
「……あなたは離縁の際に〝治癒能力が手に入ったからお前は用済み〟とおっしゃいました」
「そんな酷い言い方はしていない」
「同じことです」
ピシャリと言うと、清冬様は取り付く島もないとあきらめたのか、キセルに火をつける。この際だから思っていることは言っておこうと、背筋をのばして続きを話した。
「私はここで働きながらも治癒の糸を伸ばして、日登家の屋敷にいるケガ人へ治癒を施しています。それでは気に入りませんか? 治癒能力を自分の物にしないと気が済みませんか? 本来なら、自分から縁を切った相手に再び求婚を申し込むなど、屈辱的な事のはず。ですが清冬様は、なんのためらいもなしにやってのける。それは裏を返せば……私の能力が欲しくてたまらないから。そんなに治癒能力が欲しいですか?」
「……そうだ、と言ったら?」
「っ!」
カッと顔に熱が集まったのは知っていたけれど、振り上げた手が清冬様の頬に向かっていると気づいた時は、もう自分では止めることは出来なくて――パチン。気づいた時は、私は清冬様を叩いていた。
「あ……っ、すみません」
「……」
急いで手を引っ込め、頭を下げる。いくら憎い相手と言えど、叩くのは良くなかった。手を上げるのは、卑しい者のすることだろうから。もう私は〝そんな事〟はしないと……あの掘っ立て小屋の中、子供たちの寝顔を見ながら誓ったのだ。
「……」
「俺が欲しいといったのは能力だけではない」
「――え?」
黙りこくった私を見たままキセルをくわえ、すうと息を吐く清冬様。叩かれた頬が私の手と呼応するように、それぞれ似た色を帯びてきた。
「俺が屋敷にいない間のこと、ツツジを始め色んな者から聞いた。親父の看病も熱心にしてくれたそうだな」
「! そんなこと……当たり前のことです」
「子供らのことがあるからか?」
「……最初は確かにそうでした」
そう。最初は「子供たちのため」に頑張ってるだけだった。そのはずだったけど、屋敷に足を踏み入れた初日――あの時の干扇様の優しいお姿が、私の心にはずっとあった。
「私は孤児でした。もちろん私を捨てた親の顔なんて覚えていません。親というのは自分勝手なものだと、そう思っていました。だけど、干扇様は違った。自分のお命を削ってまで子供に徒する姿……私の親に少しでもこういった想いはあっただろうかと、いや、あったはずだと。理屈はないですが、そんな希望が持てたのです。それまで親のことを思い出す時は、暗い気持ちばかりでしたから。干扇様が、それを変えてくださったんです」
「……そうか」
カンッと、キセルの雁を灰入れに落とす清冬様は、どこか遠くを見ていて……昨日と同じく、私は見入ってしまった。澄んだ瞳の奥では、今、干扇様の事を思い出しているのだろうか。
なんて思っていると――
「しかし孤児の生まれであるにも関わらず、日登家の妻になれたとは。とんだ棚からぼた餅だな」
「どなたかのおかげで、キッパリ縁もなくなりましたがね」
再びピシャリと言うも、清冬様のお心には響いてないのか。ばかりか「だから言ってるだろう」と強気な態度。
「俺からの求婚を受け入れれば、再び〝日登家の嫁〟という名誉な地位が手に入るぞ?」
「いくら名誉でも、その旦那様であるあなたが、こうも心無いお方だと先が思いやられます」
「ほう……」
顔の横の長い髪の間から覗く、切れ長の瞳。妖しく弧を描く口元……しまった。いくら憎い相手とは言え、あけっぴろに物を言い過ぎた。一言「すみませんでした」と添え、立ち上がろうとする。話はまとまらないし、何より私は忙しい。この人の代わりに何人ものケガ人を抱えているのだから。
だけど立ち上がる私の手を「掴むのが当然」と言わんばかりに。パシリと、清冬様は躊躇なく握った――その時だった。
パサッ
「これは?」
「あ、」
落ちたのは、年季の入った小さな財布。財布と言っても、小さな巾着に紐がついているだけという簡易的な物だ。
「これはお前のか? 血もついてるしボロボロじゃないか。今から買いに行くか? 好きなのを選ぶといい」
「ち、ちがいます! これは、私のじゃなくて……っ」
「?」
清冬様の手にあった財布を乱暴に取り返す。あぁ、なんで出てしまったのか。見られたくなかったのに……。
すると清冬様は「これは聞いた話だが」と胡坐をかいて正面から私を見た。
「末春という名は親父がつけたそうだな。元の名は春ノ助だったとか」
「! そうですが……なにか」
「どうして男の名前を使った?」
その質問をした時、わずかに清冬様の目が鋭くなった気がした。なんて真剣な顔をするんだろう。あなたにとって、それほど気になる内容でもないだろうに。
「男か?」
「へ?」
「別れた男の名前を使っているのかと聞いている」
「そんなに女々しく見えますか、私が……」
真剣な顔で私に尋ねる清冬様を、一歩引いた目で見る。日本のどこに、別れた男の名前に改名する女がいるというのか。
「たまたまですよ。私は孤児で何も知らないので、春ノ助という名前が男名ということも、つけた後に初めて知ったのです」
「――その巾着も、男物だな」
「!」
それを悟られないために素早く奪ったというのに。清冬様、きっちり見ていたのか……。抜け目のなさに感服、と同時に落胆する。
「どこで巾着を拾った?」
「……これは私の家にあった物です」
「ウソだな」
「……っ」
どこをどうしてウソだとバレるのか。この状況を抜け出せない悔しさから唇を強く噛む。と同時に、昔の記憶が脳裏に滲み出始めた。
街を行きかう人の中を潜り抜け、一人の男へ近寄り、卑しく手を伸ばす自分の姿を――
「おい、末春」
「――っ!」
ぐいっと手を引かれ座ったのは、なんと清冬様の膝の上。あぐらの中にすっぽりと私のお尻がおさまっている。
「な、は、離してください!」
「お前を買って正解だったな」
「こ、ここで私に何する気ですか! 楼主を呼びますよ……っ?」
だけど清冬様は脅しにも怯まず、決して私を離さなかった。何をされるか構えていると「寝ろ」の一言。
へ……、寝る?
「手が震えてる。顔色も悪い。寝ないと倒れるぞ」
「でも仕事が、」
「言ったろ。お前の時間は俺が買っている。その俺が寝ろと言ってるんだ。それに――どうせこの場から逃げられないのだから、さっさと夢の中にでも逃げたらどうだ?」
「ぐ……」
力の強い清冬様に抗っても、所詮は抜け出すことが出来ず。言われた通り、諦めて脱力する。するととっくにキセルを手放していたらしい清冬様が、まるで私を包み込むように後ろから抱きしめた。
「な、」
「お前の打掛だ。返してやってるだけだ、受け取れ」
振り返ると、確かに私の打掛が私の体にかかっている。そうだ。昨日、清冬様に渡してそれきりだった。
「これを返すために、わざわざ遊郭へ?」
「ばかいえ。言ったろ、求婚するために来てるのだと」
「……諦めてください」
すると温かくなってきて睡魔が訪れたのか、頭がぼんやりとしてくる。そう言えば働きづめだった事を思い出し、瞼を閉じることにした。少しだけ、小言を言いながら――
「清冬様……私に執着するのは、おやめください」
「理由を聞こう」
「今は能力が使えますが、もしやいつか使えなくなる時が来るかもしれません――その時、高貴な身分をもたない私は、日登家にとって本当に用済みの存在になる」
「深い関係になる前に離れておきたいということか? 存外に寂しがり屋なんだな」
「そういうわけではなくて」と呟いた私の脳裏には、睡魔と、そして昔の光景。
――うわあああ、春ノ助ぇぇ!!
唇をキュッと噛み、瞳を強く閉じる。
そして――
「私と関わるのは、清冬様のためになりません。
なぜなら私は、人殺しですから」