「能力が手に入った今、もうお前は必要ない。俺と離縁してもらう」
「あなたは……」

 顔の横にある髪が、わずかに長い黒髪の人。高い鼻をなぞっていくと、鋭い目つきと重い視線がぶつかる。口は真一文字に閉じられているものの、今にも悪態をつきそうだ。


 ある日の朝。
 部屋で身支度を整えていると、声もなしにいきなり襖が開いた。盗賊かと思ったけど、盗賊にしては随分といい着物を身に着けている。派手な柄が描かれている黒色の着物の下に、赤色の長襦袢(ながじゅばん)。羽織は白色だけど、金色の装飾が両肩についている。その姿を一望して、この方が私の旦那様――日登(ひのぼり)清冬(きよふゆ)様だと分かった。

 だけど、さっきの発言。改めて頭の中で整理すると……。

――能力が手に入った今、もうお前は必要ない。俺と離縁してもらう

 結婚して三年。初めて会った旦那様から離縁を申し込まれた。そういうことになる?

「お初にお目にかかります、旦那様。妻の末春でございます。旦那様が家を不在にされている間、こちらのお屋敷にて過ごしておりました。お会い出来て嬉しゅうございます」
「俺の話を聞いてなかったのか? さっさと出て行けと言っている」
「……」

 どうやら、聞き間違いではなかったみたい。それにしても、どういうこと? 日登家が私の力を欲したから、私はここにいるのに? 清冬様がお帰りになったところで無能なんだから、継続して私がお屋敷にいないといけないんじゃないの?――と様々な疑問が渦巻く中、それでも笑顔を張りつめたまま至極おだやかな物腰になるよう努める。

「恐れながら旦那様、私は現在三百人ほどの治癒にあたっております。そんな中で私が不在になれば、傷ついた者たちは、」
「俺が引き継ぐ。心配いらない」
「……?」

 え、どういうこと? だって清春様は、治癒能力が使えないのでしょう?
 すると私の目の前に、バラバラと何かが降って来る。それは本当に小さな小さな瓶――あ、これって確か、私の血を採る時にいつもツツジさんが持っていた小瓶だ。それがどうして、清冬様の手にあるのだろう。

「お前の能力、全てこの清冬が手に入れた。だからお前は用済みというわけだ」
「……え?」
「試しにお前の血を俺の体に入れてみた。するとどうだ? 上手い具合に融合してくれ、今では俺でも治癒を行うことが出来る」

 言うや否や、私が張り巡らせている治癒の糸を、手刀でスパッと切る。その後、瞬時に自分で新たな糸を張り巡らせ、けが人の治癒を継続した。屋敷の中の雰囲気を察するに、急患が出た様子はない。となれば、清冬様は本当に能力を使えるようになったらしい。

「……っ」
「声が出ないほど悔しいか? 聞けばお前は身分が低いという。そんなお前からすると、この三年は実に優雅なものだったろうな。一時の夢を見られて幸せだっただろう」
「ちが、違います……」

 この三年が優雅? 何を世迷言をおっしゃる。私がこの三年間、どんなに血のにじむ思いで過ごしていたか微塵も知らないくせに。離縁だ出て行けなんて言われて、悲しむはずがないでしょう。今だって、嬉しさで緩んだ口元を隠すのに必死だというのに――

「能力の開花、まことにおめでとうございます。確かに、私はもう必要ありませんね。婚姻の儀の時に血判を押しましたので、アレを燃やしてください。それで離縁になりましょう。私は早々に出て行きます。しかし一つだけ問題が。一緒に来た十人の子供たちは、どうなりましょう?」
「安心しろ。あの子らは皆そろって優秀だ。引き続き日登家で面倒を見る」
「そうですか、ありがとうございます。それでは旦那様、どうかお元気で」

 手をついてお辞儀をする。清冬様は私を冷たい眼差しで見ていたが、私が「しかし」と顔を上げた瞬間、端正な顔に影を落とした。

「私が去るということは、私の一部である治癒能力も一緒になくなるということ。
 というわけで元・旦那様――

 私の能力、返していただきます」

「は?」と清冬様が口を開ききる前に、私は清冬様に抱き着いた。隙間なく体を押し当てる。すると耳のあたりで、なにやら騒々しい音がひっきりなしに聞こえる。これは……? 不思議に思って顔を上げると、なんと真っ赤な旦那様の顔。どうやら唸りを上げていたのは、清冬様の心臓だったらしい。

「お前……何をしている!」
「え、うわっ!」

 力強く押され、なすすべなく畳の上をすべる。思いもよらぬ反撃に出た短気な清冬様を見上げると……やっぱり赤い顔をしている。まさか、こんな事で恥ずかしがってる? いや、そんなわけはないだろう。こんないい歳した男性が、女慣れしていないなんて。それに、家を不在にしていた間も、修行だなんだの合間に女を買うこともあったでしょう。成人男性が欲を我慢できるはずないだろうし。

「そんなに驚かれなくても……大げさですよ。私は能力を返してもらっただけです」
「は? 能力を、返す?」

「抱擁すれば能力は移動できるんですよ。あれ? ご存じなかったですか。あぁ、だから月に一回、私の血を体内に取り込んでいたんですものね。清冬様が帰ってきてくだされば、この方法を早く教えてさしあげることが出来ましたのに」
「な……!」

 すごく悪女っぽい事を言っている。だけど私が怒るのも無理はない、はずだ。だって三年も姿を見せなかったくせに「ほしかったのは力だけ。お前はいらない」でポイ捨てされるのだから。……だけど怪我をしている軍人に非はない。干扇様との約束もあるし、ここに運び来まれるケガ人は、私が引き続き遠方から治癒することにしよう。

「治癒の糸を放ちました。ここにいる人たちの治癒は、私が継続して行いますのでご安心を。それでは」
「おい、待て。じゃあ結局、俺には……!」

「治癒の力はございません。清冬様がもっとお優しければ、結果は違っていたかもしれませんがね」
「――っ」

 悔しそうに顔を歪める清冬様の隣を通り過ぎる。その時、ほのかにだけどお酒の香りがした。……やっぱり。修行だなんだと表向きは体裁のいいことを言っても、蓋を開けてみれば朝からお酒をたしなむ放蕩者だったんだ。頭の中に、布団に横になりながらも必死で治癒に励んでいた干扇様を思い出す。この放蕩者が能力さえ使えれば、干扇様はもっと長生きできたはずなのに。

「干扇様、お可哀想に……」

 ポツリと呟いた言葉が清冬様に聞こえたか聞こえていないか知らないが、部屋を出た私は一度も振り返ることなく、ツツジさんに事情を話して屋敷を後にする。最後に元気な子供たちの声を聞く事ができて、少しだけ安心した。あの子たちさえ元気なら、私は――

「あ、そうだ」

 日登家の敷地から出る前に、干扇様のお墓を目指す。少し歩けば、立派なお墓に鮮やかな花が添えられていた。その鮮やかさは、さっき清冬様が来ていた着物を思い出してしまって……つい顔が歪む。

「干扇様、あなたの息子がやっと帰ってきましたよ。代わりに、今度は私が出て行きますが」

 ふっと笑うと、風の音と一緒に干扇様の笑い声が返ってきた気がした。と同時に、何かの香りが私の鼻に届く。これは……

「さっき清冬様から香った、お酒の匂い……?」

 見ると、墓石の下からじわじわ乾いてきているものの、全体的に濡れた形跡がある。干扇様のお墓にお酒をかけてあげたのだろうか。そして、親子水入らずの時間を過ごしたのだろうか。その時、清冬様はなにかおっしゃったのかな。

――すまないな、親父

「とか? ……って、なに勝手に想像してるの私は」

 だけど、放蕩者だと思っていた清冬様が、帰って一番に父・干扇様のお墓参りに来ていたことに、力んでいた肩の力が抜けた。なんだ、そういう一面もあるんだ。あの冷徹な顔の裏、優しさのカケラくらいは持っているのかもしれない。

「あ、じゃあさっき私が言った言葉」

――干扇様、お可哀想に

「あれが清冬様に聞こえていたら、ちょっとかわいそうなこと言っちゃった……かも?」

 少しだけ悶々とするも、身勝手に離縁されたことを思い出して両頬をぱちんと叩いた。

「追い出されたのは私の方だし、清冬様への同情の余地なし。窮屈なお屋敷で暮らさなくていいし、万々歳!」

 その後すぐ日登家を後にする。

 そして離縁から一週間後。
 私が身を置いた場所は――

「初めまして、末春(みはる)です。どうぞ、よしなに」

 遊郭に身を落としていた。

 といっても医者として、だ。女郎ではないため、客引きもしない。ここで働く人はお金がなく大変な生活を強いられているというのに病気にかかることが多い。その人たちの助けになればと、医者と偽って住み込みで働いている。

 そんな私が、どうして「末春」と名乗って部屋に通されたか。それは店一番の花魁姉さんが出て来るまでの時間稼ぎを任されたからだ。「今回限りだよ、お願い」と日ごろからお菓子をたくさんくれる花魁姉さんからそう言われては、首を横に振る事も出来ず(決して餌付けされているわけではない)こうして助っ人にきているというわけだ。

 が――世の中は狭いと、よく言うもので。

「ほぉ、身寄りがなくてついに女郎になったか」
「へ……清冬様!?」

 妖艶な笑みを向けて出迎えてくれたのは、元旦那様の日登清冬様だった。