古風な土産物屋が立ち並ぶ商店街を抜けると、正面に見えたのは立派な瓦屋根の和風建築だった。四棟からなる木造三階建てで、屋根のてっぺんには白鷺(しらさぎ)の像が鎮座する。

「はあー。やっぱりいいねえ、道後(どうご)温泉・本館。生で見られるのは何年ぶりかなあ」

 うんうん、と満足げに頷くのは二十代半ばほどの優男だった。薄墨色の着流しに濃紺の羽織。彫りの深い顔立ちに色素の薄い瞳。ほのかに異国の血を思わせるその容姿は、周囲の観光客、特に女性客の注目の的である。

「ねえ。あの人のルックスやばくない? ハーフ系かな」
「背も高いしモデルさんかも。あんた、ちょっと声かけてみなよ」
「やだやだ。無理だって!」

 にわかに黄色い声が上がり始めるが、当の本人は特に気にした様子もなく目の前の和風建築に魅入っている。銅板製の屋根は青みがかっていて、降り注ぐ陽光がより美しくそれを照らし出していた。

「お」

 と、不意にスマホの着信音が響く。男が羽織の(たもと)から取り出して見ると、画面には『璃子(りこ)』の文字が表示されていた。途端に目をすがめ、チッと小さく舌打ちしてから応答ボタンを押し、無言で耳に当てると、

「いま舌打ちしたでしょう」

 スピーカー越しに、恨めしげな声が飛んできた。まだ幼さの残る少女の声だったが、感情が滲み出てドスが利いている。
 男は悪びれた様子もなく、

「舌打ちねぇ。なんでわかったんだ? そっちには聞こえてないはずなのに。もしかして俺、監視されてる?」

「あなたの反応なんて確認しなくてもわかります。私が何年あなたの世話をしてきたと思ってるんですか」

 どうやら勘だけで当てられたらしい。男が沈黙していると、スピーカーの向こうからは盛大な溜息が聞こえてきた。

「で、今はどこをほっつき歩いているんです? どうせまた遠くまで観光に行っているんでしょう。さすがに毎回毎回、行き先も告げずにふらふらと出歩かれては困りますよ。あなたには本家の人間としての責務があるんですから」

「へいへい。用事が終わったらすぐ東京(そっち)に帰りますよ。明後日の予定にさえ間に合えばいいんだろ? 心配しなくても、そんなに遠い場所じゃないから大丈夫……」

 舌先三寸で切り抜けようとしていると、そこへ土産物屋の方から、客を呼び込む声が高らかに響く。

「坊っちゃん団子いかがですかー!」

 恰幅の良い中年女性が発した溌剌(はつらつ)とした声は、見事にスピーカーを通り抜けていった。

「坊っちゃん団子? って、まさか愛媛にいるんですか? 遠いにも程があるでしょう!」

 怒号が耳をつんざき、思わずスマホを遠ざける。
 速攻でバレた。坊っちゃん団子といえば愛媛県松山市を代表する銘菓だ。夏目漱石(なつめそうせき)の小説『坊っちゃん』に登場する団子をモチーフにしたものである。よりにもよってそんな、街の代名詞ともいえる商品名を背後から叫ばれるとは不覚。

「とにかく早く帰ってきてください。今すぐです。間違っても今から温泉に入ろうだとか天守閣に登ろうだとか夏目漱石のデスマスクを見に行こうだとか考えないでくださいね!」

 まるで頭の隅から隅まで見透かされているような気がして、もはや言葉もない。
 そのまま通話を切られるかと思いきや、

「あ、ちょっと待ってください」

 と、何やら向こうで確認を取り合うような間があった。
 嫌な予感がする。こういう時、考えられる事態は一つしかない。

「お待たせしました。前言撤回です。やっぱりまだ東京には帰らなくて結構です。本日はそちらに留まってください。丁度良い案件が発生しましたので」

 ほら来た、と男は顔を歪めた。こうなっては逃げるわけにもいかない。

「また面倒事に巻き込まれるのか。つくづく、この家の血筋に生まれたことを呪うよ」

「きっと前世での行いも悪かったからバチが当たったんですよ。観念して行ってきてください。今回問題になっている人物の写真と、名前と住所は後で送りますから」

 先刻までとは打って変わり上機嫌になった璃子は、通話の最後に優しげな声で激励を送る。

「名探偵の出番です。永久(ながひさ)家の未来のためにも、しっかりと呪いを返してきてくださいね。天満(てんま)さま」