「んん…」
カーテンから差し込む光で、目を覚ます。枕元のスマホを手に取る。午前六時半。
夏休み二日目、俺はいつも通りの時間に起きて、三人分の朝食を作る。
トーストの上に焼き上げたベーコンエッグを乗せ、俺と凪沙の分のコーヒーを淹れる。
七時までに用意を終えて、朝食の並んだちゃぶ台の前に腰をおろした。
LINEを開くと、一件通知が来ていた。昨日の夜、日付が変わる直前に送られたものだ。
送り主は杵村さん。「その子のこと聞いてみるから、わかったらまた連絡するね」というメッセージが、杵村さんの柔らかな声で脳内再生される。
「了解、ありがとう」とだけ返す。
「ふう」と俺は一息吐く。
昨晩明里の提案を受けて俺は、高校に入って初めてクラスの女子にLINEを送った。
一応形だけ入ってはいるクラスLINEから杵村さんのアカウントを追加して、俺から凪沙の話を持ちかけたのだ。
車峰小卒の知り合いで、「凪沙」という名前の女子を知っている人がいないか聞いて欲しい、と。
もしこれで凪沙を知っている人が現れたら、この記憶探しの旅もグッとゴールに近づく。凪沙の正体を知る大きな手がかりになることも間違いない。
窓から差し込む光に目を細めていると、凪沙と明里が二人して降りてきた。
「おはよー!」 「おはよう間宮くん」
「ああ、おはよう」
パジャマ姿の二人に声をかける。少し乱れてはいるものの、綺麗な黒髪を揺らした凪沙が正座する。明里はドカンと勢いよくあぐらをかく。
『いただきます』
三人の声が重なる。みんなで皿に手を伸ばす。
なんというか、この光景にも少しだけ慣れてきた。凪沙と明里はすっかり仲良しだし、風呂上がりですれ違うと少しドキドキはするものの、家の中を歩く凪沙を見ても違和感は感じなくなっていた。
「おにいちゃん、今日お昼友達と食べてきていい?」
明里が俺を見る。
「いいけど、お金はあるか?」
「うん!」
明里が元気よく頷く。中学は今日終業式で夏休みに入るため、明里は午前中で下校となるのだ。
俺は手元にあったリモコンに触れ、テレビをつける。女性アナウンサーが伸びのある声でニュースを読み上げた。
『昨日、米神市内で車が電柱に衝突する事故がありました。怪我人はおらず、運転手の男性も無事でした。警察の取り調べでは、『突然ブレーキが効かなくなった』と男性は話しており、車を調べたところ、故障等は見られなかったということです。つづきまして…』
「不思議な事故だな」
俺はトーストを齧りながら呟いた。「誰かがイタズラしたのかな?」と明里が返す。凪沙は黙々と朝食を食べていた。
その後、学校に行く明里を送り出した俺に凪沙が話しかけてきた。
「間宮くん、図書館に行きたいのだけれど」
「図書館?」
俺が聞き返す。凪沙はこくり、と頷いて、
「記憶喪失に関して調べたいの。私みたいにある日突然記憶を失った人って世の中にたくさんいるし、似たような事例とかちゃんと病名のついた症状もたくさんある。もしかしたら、私に対しての何かヒントになるかもしれない」
真っ直ぐ俺の顔を見つめる凪沙。俺は頷き、
「わかった。じゃあ、市立図書館に行こう。九時に開くから、支度して出かけようか」
「了解」
凪沙は頷き、洗面所に続く廊下へ歩いていった。俺は着替えに二階の自室へ向かった。
八時四十分くらいに家を出て、昨日と同じ二人乗りで図書館に向かった。
日差しが降り注ぐ道中、後ろに座る凪沙に質問してみる。
「何か、新しく思い出したことはないか?」
凪沙は数秒の沈黙を経て、口を開いた。
「そうね…少しだけ、小さい頃のことを思い出したわ」
凪沙は帽子のつばを押さえる。この黒いスポーツキャップは、先日凪沙が購入したものだ。
「具体的にはどんな感じだ?自分に関する情報を思い出したのか、エピソード的なのを思い出したのか」
「エピソードね。私の髪飾りに関するものよ」
「髪飾り?」
俺が海辺で倒れている凪沙を見つけるキッカケとなった、真珠の貝殻の髪飾り。今は帽子で隠れて見えないが、凪沙は常に大事そうに着けている。
「この髪飾りは…小さい頃、幼馴染の男の子にもらったものなの」
「そうなのか」
凪沙は帽子の上から、髪飾りがある位置をそっと触れる。影がかかって、凪沙の顔が見えなくなる。
「それから私は、この髪飾りを今までずっと着け続けている」
凪沙の言葉を聞いた俺はなんとなく、息を一つ吐き出した。
「…よっぽど、大切なんだな」
凪沙は頷き、「そうね」と言ってまた手で頭に触れた。
「俺が言ってるのは…髪飾りじゃなくて、その男の子のことだよ」
「え?」
凪沙が俺の顔を見る。その目は大きく開いていた。
図書館に到着し、木々に囲まれた駐輪場に自転車を止める。大きなセミの鳴き声と、緑の葉から漏れ出る白い光。
「髪飾り、その男の子から貰ったから大切なんじゃないのか?」
自転車から降り、凪沙に尋ねた。
「…わからない。けど、その子と仲が良かったのは、おそらく事実よ」
俺は頭の中を整理し、あることを思い出す。
「もしかして、昨日行ったカフェのカツサンド、一緒に食べた男の子って…」
「たぶん、同じ子よ」
凪沙がゆっくりと頷く。ジージーとセミの鳴き声が鼓膜を揺らす。
「ということは、その男の子が凪沙の記憶を取り戻す一つの鍵になるわけか」
「そうなるわね」
俺は顎に手を当てる。杵村さんに聞いてもらった人の中に、もしその男の子がいれば…。
しかし幼馴染か。それに異性の。
俺は自分の記憶の引き出しを探る。
たしか昔、俺にも幼馴染というか、仲の良い女子が一人いた。名前はたしか…「シノ」と、俺は呼んでいた。普通にあだ名で、本名はもう忘れてしまった。
「間宮くん?」
気づけば、凪沙が訝しげな顔を向けていた。
「何か考えがあるの?」
「いや…そういうわけでは」
俺は一瞬逡巡してから、口を開いた。
「俺にも昔、幼馴染がいたんだ。女の子の。
ただ…」
「ただ?」
俺は一呼吸置いてから、言葉を発する。
「その子は、死んでしまった」
「え…」
俺の言葉に、凪沙が顔を真っ青にした。一瞬の静寂が俺たちの間を横切る。
「十年前の地震で、建物の倒壊に巻き込まれたんだ」
凪沙がビクッと肩を震わせた。俺はハッとして、すぐさま口を開く。
「ごめん。凪沙の記憶とは関係ないのに、こんな重い話をしちゃって…中、入ろうか」
俺が図書館の入口を指差すと、「うん」と小さく言葉を発して、凪沙が歩き出す。俺もそれに並び、二人して図書館へと入っていく。
クーラーの効いた図書館は、ひんやりとして心地良かった。人はまばらで、お年寄りの方が多い印象だ。
俺たちは医学書が置いてある本棚へと足を進めた。見ると、横一列に健康や医療に関する本が並べられていた。
「記憶に関する本は…」
本棚をゆっくりと眺めて、歩いていく凪沙。俺は黙ってついていく。
「ここね」
凪沙が立ち止まる。そこには、認知症の解説書や記憶障害に関する本が収まっていた。
「見ていきましょうか」
本棚から一冊抜き取り、ぱらぱらとページを繰《く》る凪沙。俺も目についた本を開き、眺めてみる。
「解離性健忘《かいりせいけんぼう》…。激しいストレスや精神的ダメージから引き起こされる記憶障害で、自分にとって重要な情報が思い出せなくなる」
俺は紙面に印刷された文字をそのまま読み上げた。凪沙が肩を寄せて覗き込んでくる。
「私のも、これなのかしら?」
下から俺の顔を見上げる凪沙。俺は首を捻り、
「かもな。ただ、ショッキングな出来事をキッカケに発症するみたいだから、そういうことがあったかどうかが分からないと、断言は出来ないな」
「ショッキングな出来事…覚えてないわね」
天井を見上げて考え込む凪沙。俺は本を閉じ、元あった位置に戻す。
凪沙は三冊ほど手に取り、俺と目を合わせる。
「私、向こうのテーブルで目を通してくるから。間宮くんは好きに見てていいよ」
「わかった。終わったらそっちに行くよ」
「ええ」
そう言って、凪沙は読書スペースのテーブルへと向かって行った。
俺はさっきと別の本を取り、ページを繰る。記憶障害の原因は、脳への外傷、加齢、うつ病、心的ストレスなど多岐に渡る…。
記憶をなくす前の凪沙に、よっぽどショックな出来事があったのか、それとも強く頭をぶつけたのか…。
俺は考えを巡らすが、特に何も思い浮かばない。
医学的な線で考えようにも、俺には知識が足りなさすぎる。それに、なんとなくこっちの線で突き進むのは違う気がした。
凪沙の正体や記憶喪失の謎は、もっと別のところにある気がする。
俺は何となくサイエンスのコーナーへ足を進めた。本棚いっぱいに、知的好奇心をくすぐられるような本がたくさん並んでいる。
基本的に無気力な俺も、こうした科学や宇宙に関する本を見ると心が躍り出す感覚になる。
ぼーっと眺めていると、一冊の本が目にとまった。タイトルは「量子力学で見る世界」。ページを開くと、二重スリット実験やらシュレディンガーの猫やら、どこかで耳にしたような実験の数々が並んでいた。
気づけば俺は、それらをガッツリ読み入っていた。
「しまった…」
俺はポケットからスマホを取り出す。時刻は正午過ぎで、凪沙と別れてから二時間ほど経っていた。
本棚の間を抜け、読書スペースのテーブルへ向かう。見ると、一人黙々と本を読む凪沙の姿があった。
「凪沙」
声をかけると、凪沙は本から顔を上げた。ほんの一瞬、嬉しそうな笑みを見せたが、すぐにいつもの真顔に戻る。
「二時間ぶりね間宮くん。何か面白い本はあった?」
「ま、まあ…。そっちは?何かわかったか?」
凪沙は一つ息を吐いて、手元にある本に手を置いた。重ねられた本たちは、どれもかなりの分厚さだ。
「記憶障害に関する基礎的な知識は頭に入ったわ。だからといって、何か私の正体を掴むための鍵が手に入ったわけではないけど」
「そうか…。どうする?もう十二時を過ぎたけど、昼飯でも食べに行くか?」
凪沙は肘をついて、本棚の方を見やる。
「ご飯の前に…。ここって、漫画は置いてあるのかしら」
「漫画って、ジャンプとかマガジンとか?」
「まあ、そのへんね。少年漫画の類よ」
凪沙から出た意外な言葉に、俺は少しだけ口元を緩めた。
「漫画読むんだな。どっちかっていうと、難しい小説とか哲学の本を読みそうなのに」
凪沙は立ち上がり、読み終えた本たちを手に持って歩き出した。
「そういうのも読まなくはないけど…。難しくて途中で断念したりもあるから、どちらかと言えば分かりやすくて少し雑な漫画の方が好きよ」
「『友情・努力・勝利』的な?」
「そうそう。そんな感じの」
見ると凪沙も口元を緩めていた。本を元の位置に戻し、図書館全体を見渡す。お昼時のせいか、来た時より人の数が少なかった。
「雑誌が置いてあるのは、こっちだな」
そう言って奥の方へ進むと、凪沙が横に並んできた。二人で歩き出す。
「間宮くん、もし嫌だったらいいんだけど…」
凪沙が話を切り出す。俺は横を向いた。
「亡くなった幼馴染の話、もう少し聞かせてもらえるかしら」
「……」
予想していなかった言葉に、俺は口をつぐんでしまう。
「無理にではないわ。辛い記憶だろうし、嫌ならもう聞くつもりは…」
「シノは」
俺は言葉を被せる。今度は凪沙が目を見開く。
「シノ…?」
「ああ。俺はその子のことをそう呼んでた。確か本名をもじったあだ名だけど」
俺は一呼吸置いてから、言葉を発する。
「シノは、明るくてちょっとやんちゃな…というか強気な女の子だった。男子とも張り合うくらいの。で、なぜか俺とシノはよく一緒に遊んでて…あんまり覚えてないけど、まあそんな感じの子だったよ」
シノの姿がぼんやりと浮かぶ。短めの髪はとても綺麗で…たまに見せる笑顔が、すごく可愛いかった。
「だけど…小二の時、地震のせいでシノは亡くなってしまった。他にも何人か亡くなった同級生はいたけど、俺はすごくショックだった。仲の良かった子が急にあの世へ行ってしまうなんて…」
凪沙が真剣な、だけど何かを悼むような目で俺を見つめる。
「だけど俺も父さんと母さんが亡くなって、明里と二人きりになって…。何とか親戚が引き取ってくれて、施設には入れられずに済んだけど。突然環境は変わるし、おばさんたちには冷たい視線を向けられるしで…。シノのことは、すぐに忘れてしまった。俺は自分のことで精一杯だったんだ」
「…ありがとう間宮くん。このくらいで大丈夫よ」
「…そうか」
話を打ち切った凪沙は少し俯き、帽子の影で顔が見えなかった。
気づけば雑誌コーナーに着いていた。さっと見渡してみるが、凪沙の好きなジャンプやマガジンなどの少年漫画はなさそうだった。
「ない感じだな」
「…そうね」
俺たちはその場に立ち尽くした。ふと、窓の外を見ると、小さな鳥が一匹飛んでいた。
風に乗って颯爽と行くわけでもなく、行き場を失ったかのようにふらふらと空を彷徨《さまよ》っていた。
「はあ…」
俺が息を吐き出した時、ポケットの中のスマホがピロンと鳴った。
見ると、画面には「今から会えない?」という杵村さんからのLINEが表示されていた。
カーテンから差し込む光で、目を覚ます。枕元のスマホを手に取る。午前六時半。
夏休み二日目、俺はいつも通りの時間に起きて、三人分の朝食を作る。
トーストの上に焼き上げたベーコンエッグを乗せ、俺と凪沙の分のコーヒーを淹れる。
七時までに用意を終えて、朝食の並んだちゃぶ台の前に腰をおろした。
LINEを開くと、一件通知が来ていた。昨日の夜、日付が変わる直前に送られたものだ。
送り主は杵村さん。「その子のこと聞いてみるから、わかったらまた連絡するね」というメッセージが、杵村さんの柔らかな声で脳内再生される。
「了解、ありがとう」とだけ返す。
「ふう」と俺は一息吐く。
昨晩明里の提案を受けて俺は、高校に入って初めてクラスの女子にLINEを送った。
一応形だけ入ってはいるクラスLINEから杵村さんのアカウントを追加して、俺から凪沙の話を持ちかけたのだ。
車峰小卒の知り合いで、「凪沙」という名前の女子を知っている人がいないか聞いて欲しい、と。
もしこれで凪沙を知っている人が現れたら、この記憶探しの旅もグッとゴールに近づく。凪沙の正体を知る大きな手がかりになることも間違いない。
窓から差し込む光に目を細めていると、凪沙と明里が二人して降りてきた。
「おはよー!」 「おはよう間宮くん」
「ああ、おはよう」
パジャマ姿の二人に声をかける。少し乱れてはいるものの、綺麗な黒髪を揺らした凪沙が正座する。明里はドカンと勢いよくあぐらをかく。
『いただきます』
三人の声が重なる。みんなで皿に手を伸ばす。
なんというか、この光景にも少しだけ慣れてきた。凪沙と明里はすっかり仲良しだし、風呂上がりですれ違うと少しドキドキはするものの、家の中を歩く凪沙を見ても違和感は感じなくなっていた。
「おにいちゃん、今日お昼友達と食べてきていい?」
明里が俺を見る。
「いいけど、お金はあるか?」
「うん!」
明里が元気よく頷く。中学は今日終業式で夏休みに入るため、明里は午前中で下校となるのだ。
俺は手元にあったリモコンに触れ、テレビをつける。女性アナウンサーが伸びのある声でニュースを読み上げた。
『昨日、米神市内で車が電柱に衝突する事故がありました。怪我人はおらず、運転手の男性も無事でした。警察の取り調べでは、『突然ブレーキが効かなくなった』と男性は話しており、車を調べたところ、故障等は見られなかったということです。つづきまして…』
「不思議な事故だな」
俺はトーストを齧りながら呟いた。「誰かがイタズラしたのかな?」と明里が返す。凪沙は黙々と朝食を食べていた。
その後、学校に行く明里を送り出した俺に凪沙が話しかけてきた。
「間宮くん、図書館に行きたいのだけれど」
「図書館?」
俺が聞き返す。凪沙はこくり、と頷いて、
「記憶喪失に関して調べたいの。私みたいにある日突然記憶を失った人って世の中にたくさんいるし、似たような事例とかちゃんと病名のついた症状もたくさんある。もしかしたら、私に対しての何かヒントになるかもしれない」
真っ直ぐ俺の顔を見つめる凪沙。俺は頷き、
「わかった。じゃあ、市立図書館に行こう。九時に開くから、支度して出かけようか」
「了解」
凪沙は頷き、洗面所に続く廊下へ歩いていった。俺は着替えに二階の自室へ向かった。
八時四十分くらいに家を出て、昨日と同じ二人乗りで図書館に向かった。
日差しが降り注ぐ道中、後ろに座る凪沙に質問してみる。
「何か、新しく思い出したことはないか?」
凪沙は数秒の沈黙を経て、口を開いた。
「そうね…少しだけ、小さい頃のことを思い出したわ」
凪沙は帽子のつばを押さえる。この黒いスポーツキャップは、先日凪沙が購入したものだ。
「具体的にはどんな感じだ?自分に関する情報を思い出したのか、エピソード的なのを思い出したのか」
「エピソードね。私の髪飾りに関するものよ」
「髪飾り?」
俺が海辺で倒れている凪沙を見つけるキッカケとなった、真珠の貝殻の髪飾り。今は帽子で隠れて見えないが、凪沙は常に大事そうに着けている。
「この髪飾りは…小さい頃、幼馴染の男の子にもらったものなの」
「そうなのか」
凪沙は帽子の上から、髪飾りがある位置をそっと触れる。影がかかって、凪沙の顔が見えなくなる。
「それから私は、この髪飾りを今までずっと着け続けている」
凪沙の言葉を聞いた俺はなんとなく、息を一つ吐き出した。
「…よっぽど、大切なんだな」
凪沙は頷き、「そうね」と言ってまた手で頭に触れた。
「俺が言ってるのは…髪飾りじゃなくて、その男の子のことだよ」
「え?」
凪沙が俺の顔を見る。その目は大きく開いていた。
図書館に到着し、木々に囲まれた駐輪場に自転車を止める。大きなセミの鳴き声と、緑の葉から漏れ出る白い光。
「髪飾り、その男の子から貰ったから大切なんじゃないのか?」
自転車から降り、凪沙に尋ねた。
「…わからない。けど、その子と仲が良かったのは、おそらく事実よ」
俺は頭の中を整理し、あることを思い出す。
「もしかして、昨日行ったカフェのカツサンド、一緒に食べた男の子って…」
「たぶん、同じ子よ」
凪沙がゆっくりと頷く。ジージーとセミの鳴き声が鼓膜を揺らす。
「ということは、その男の子が凪沙の記憶を取り戻す一つの鍵になるわけか」
「そうなるわね」
俺は顎に手を当てる。杵村さんに聞いてもらった人の中に、もしその男の子がいれば…。
しかし幼馴染か。それに異性の。
俺は自分の記憶の引き出しを探る。
たしか昔、俺にも幼馴染というか、仲の良い女子が一人いた。名前はたしか…「シノ」と、俺は呼んでいた。普通にあだ名で、本名はもう忘れてしまった。
「間宮くん?」
気づけば、凪沙が訝しげな顔を向けていた。
「何か考えがあるの?」
「いや…そういうわけでは」
俺は一瞬逡巡してから、口を開いた。
「俺にも昔、幼馴染がいたんだ。女の子の。
ただ…」
「ただ?」
俺は一呼吸置いてから、言葉を発する。
「その子は、死んでしまった」
「え…」
俺の言葉に、凪沙が顔を真っ青にした。一瞬の静寂が俺たちの間を横切る。
「十年前の地震で、建物の倒壊に巻き込まれたんだ」
凪沙がビクッと肩を震わせた。俺はハッとして、すぐさま口を開く。
「ごめん。凪沙の記憶とは関係ないのに、こんな重い話をしちゃって…中、入ろうか」
俺が図書館の入口を指差すと、「うん」と小さく言葉を発して、凪沙が歩き出す。俺もそれに並び、二人して図書館へと入っていく。
クーラーの効いた図書館は、ひんやりとして心地良かった。人はまばらで、お年寄りの方が多い印象だ。
俺たちは医学書が置いてある本棚へと足を進めた。見ると、横一列に健康や医療に関する本が並べられていた。
「記憶に関する本は…」
本棚をゆっくりと眺めて、歩いていく凪沙。俺は黙ってついていく。
「ここね」
凪沙が立ち止まる。そこには、認知症の解説書や記憶障害に関する本が収まっていた。
「見ていきましょうか」
本棚から一冊抜き取り、ぱらぱらとページを繰《く》る凪沙。俺も目についた本を開き、眺めてみる。
「解離性健忘《かいりせいけんぼう》…。激しいストレスや精神的ダメージから引き起こされる記憶障害で、自分にとって重要な情報が思い出せなくなる」
俺は紙面に印刷された文字をそのまま読み上げた。凪沙が肩を寄せて覗き込んでくる。
「私のも、これなのかしら?」
下から俺の顔を見上げる凪沙。俺は首を捻り、
「かもな。ただ、ショッキングな出来事をキッカケに発症するみたいだから、そういうことがあったかどうかが分からないと、断言は出来ないな」
「ショッキングな出来事…覚えてないわね」
天井を見上げて考え込む凪沙。俺は本を閉じ、元あった位置に戻す。
凪沙は三冊ほど手に取り、俺と目を合わせる。
「私、向こうのテーブルで目を通してくるから。間宮くんは好きに見てていいよ」
「わかった。終わったらそっちに行くよ」
「ええ」
そう言って、凪沙は読書スペースのテーブルへと向かって行った。
俺はさっきと別の本を取り、ページを繰る。記憶障害の原因は、脳への外傷、加齢、うつ病、心的ストレスなど多岐に渡る…。
記憶をなくす前の凪沙に、よっぽどショックな出来事があったのか、それとも強く頭をぶつけたのか…。
俺は考えを巡らすが、特に何も思い浮かばない。
医学的な線で考えようにも、俺には知識が足りなさすぎる。それに、なんとなくこっちの線で突き進むのは違う気がした。
凪沙の正体や記憶喪失の謎は、もっと別のところにある気がする。
俺は何となくサイエンスのコーナーへ足を進めた。本棚いっぱいに、知的好奇心をくすぐられるような本がたくさん並んでいる。
基本的に無気力な俺も、こうした科学や宇宙に関する本を見ると心が躍り出す感覚になる。
ぼーっと眺めていると、一冊の本が目にとまった。タイトルは「量子力学で見る世界」。ページを開くと、二重スリット実験やらシュレディンガーの猫やら、どこかで耳にしたような実験の数々が並んでいた。
気づけば俺は、それらをガッツリ読み入っていた。
「しまった…」
俺はポケットからスマホを取り出す。時刻は正午過ぎで、凪沙と別れてから二時間ほど経っていた。
本棚の間を抜け、読書スペースのテーブルへ向かう。見ると、一人黙々と本を読む凪沙の姿があった。
「凪沙」
声をかけると、凪沙は本から顔を上げた。ほんの一瞬、嬉しそうな笑みを見せたが、すぐにいつもの真顔に戻る。
「二時間ぶりね間宮くん。何か面白い本はあった?」
「ま、まあ…。そっちは?何かわかったか?」
凪沙は一つ息を吐いて、手元にある本に手を置いた。重ねられた本たちは、どれもかなりの分厚さだ。
「記憶障害に関する基礎的な知識は頭に入ったわ。だからといって、何か私の正体を掴むための鍵が手に入ったわけではないけど」
「そうか…。どうする?もう十二時を過ぎたけど、昼飯でも食べに行くか?」
凪沙は肘をついて、本棚の方を見やる。
「ご飯の前に…。ここって、漫画は置いてあるのかしら」
「漫画って、ジャンプとかマガジンとか?」
「まあ、そのへんね。少年漫画の類よ」
凪沙から出た意外な言葉に、俺は少しだけ口元を緩めた。
「漫画読むんだな。どっちかっていうと、難しい小説とか哲学の本を読みそうなのに」
凪沙は立ち上がり、読み終えた本たちを手に持って歩き出した。
「そういうのも読まなくはないけど…。難しくて途中で断念したりもあるから、どちらかと言えば分かりやすくて少し雑な漫画の方が好きよ」
「『友情・努力・勝利』的な?」
「そうそう。そんな感じの」
見ると凪沙も口元を緩めていた。本を元の位置に戻し、図書館全体を見渡す。お昼時のせいか、来た時より人の数が少なかった。
「雑誌が置いてあるのは、こっちだな」
そう言って奥の方へ進むと、凪沙が横に並んできた。二人で歩き出す。
「間宮くん、もし嫌だったらいいんだけど…」
凪沙が話を切り出す。俺は横を向いた。
「亡くなった幼馴染の話、もう少し聞かせてもらえるかしら」
「……」
予想していなかった言葉に、俺は口をつぐんでしまう。
「無理にではないわ。辛い記憶だろうし、嫌ならもう聞くつもりは…」
「シノは」
俺は言葉を被せる。今度は凪沙が目を見開く。
「シノ…?」
「ああ。俺はその子のことをそう呼んでた。確か本名をもじったあだ名だけど」
俺は一呼吸置いてから、言葉を発する。
「シノは、明るくてちょっとやんちゃな…というか強気な女の子だった。男子とも張り合うくらいの。で、なぜか俺とシノはよく一緒に遊んでて…あんまり覚えてないけど、まあそんな感じの子だったよ」
シノの姿がぼんやりと浮かぶ。短めの髪はとても綺麗で…たまに見せる笑顔が、すごく可愛いかった。
「だけど…小二の時、地震のせいでシノは亡くなってしまった。他にも何人か亡くなった同級生はいたけど、俺はすごくショックだった。仲の良かった子が急にあの世へ行ってしまうなんて…」
凪沙が真剣な、だけど何かを悼むような目で俺を見つめる。
「だけど俺も父さんと母さんが亡くなって、明里と二人きりになって…。何とか親戚が引き取ってくれて、施設には入れられずに済んだけど。突然環境は変わるし、おばさんたちには冷たい視線を向けられるしで…。シノのことは、すぐに忘れてしまった。俺は自分のことで精一杯だったんだ」
「…ありがとう間宮くん。このくらいで大丈夫よ」
「…そうか」
話を打ち切った凪沙は少し俯き、帽子の影で顔が見えなかった。
気づけば雑誌コーナーに着いていた。さっと見渡してみるが、凪沙の好きなジャンプやマガジンなどの少年漫画はなさそうだった。
「ない感じだな」
「…そうね」
俺たちはその場に立ち尽くした。ふと、窓の外を見ると、小さな鳥が一匹飛んでいた。
風に乗って颯爽と行くわけでもなく、行き場を失ったかのようにふらふらと空を彷徨《さまよ》っていた。
「はあ…」
俺が息を吐き出した時、ポケットの中のスマホがピロンと鳴った。
見ると、画面には「今から会えない?」という杵村さんからのLINEが表示されていた。