午後の授業を何とかやり過ごし、放課後。

凪沙のこともあり、とっとと家に帰るために俺は高速でバッグに荷物を詰めて教室を出た。

玄関で靴を履き替え、外に出る。むわっとした空気が全身にまとわりつく。

暑さは既にピークを過ぎたものの、未だに太陽は白く輝き、空から熱を撒き散らしている。

俺は人気の少ない裏門へと歩みを進めた。すると門の手前で「おい」と声をかけられた。

振り向くと、茂みから手にジュースの缶を持った岩田とその仲間二人が姿を現した。

「……何?」

俺は目を合わせることなく答えた。すると岩田は缶をくしゃっと握りつぶし、茂みへ投げ捨てた。

「何じゃねえんだよてめぇこら。今朝の件、俺まだ納得いってないんだけど?」

岩田は俺を睨みつけ、じわじわと距離を詰めてくる。俺は体が固まって動けない。

「…もう謝ったじゃないか。土下座なんてするほどのことでもないだろ」

なんとか喉から声を絞り出す。すると岩田はニッと唇の端を歪めた。

その瞬間、踏み込んだ岩田が俺の腹に強烈なボディブローを喰らわせた。

「ぐっ……」

俺は腹を押さえ、思わず片膝をつく。殴られた瞬間呼吸が止まり、じわじわとした痛みが胃の中に広がった。

「土下座しねえんだな?なら殴られるってことでオッケーだよなぁ?」

岩田は爛々とした瞳で俺を見下ろした。そして今度は俺の髪を鷲掴みにして、地面に顔を押しつけた。

「ゔっ…やめ…ろ…」

口の中に土が入る。俺は声を絞り出した。

「でも、既にお前に選択権はないぜ。しっかりと土下座もしてもらうからな」

岩田はぐいぐいと俺の額を地面に擦り付ける。

「はは!間宮がドゲザしてらぁ」
「おい!スマホ出せよスマホ!撮ろうぜ」

仲間たち二人はケラケラとはしゃぎながら、ポケットからスマホを取り出した。

「や…めろ…」

「言うべき言葉を間違えてんぞ。『すみませんでした』だろうが?おら、心を込めて謝れよ」

岩田は強い力で俺の顔を押し込み続ける。立ちあがろうにも重心が固定されていて体が言うことを聞かない。

「くそぉ…」

固く噛み締めた歯の隙間から声を漏らした。
もう一度、謝るしかない。

俺がそう思った時-。

「あなた、今すぐその手を離しなさい」

凛とした声が響いた。岩田が力を緩め、顔を上げる。

「聞こえなかった?今すぐその汚い手を彼から 離して」

岩田は俺から手を離し、立ち上がった。その隙に俺も顔を上げ、距離を取る。

そして振り返ると、紺色のセーラーに身を包んだ凪沙が、ゆっくりとこちらに歩みを進めていた。

「なぎ…さ…?」

突然現れた黒髪の少女に、俺を含めこの場にいる誰もが目を丸くした。凪沙は俺の前に立ち、岩田と向き合った。

「あなた、弱い者イジメ?最低ね。人間のクズよ」

凪沙は不良の岩田に少しも物怖じせず、キツい視線で睨みつけた。

「あぁ?何だてめぇ。間宮の知り合いか?」

岩田も物凄い剣幕で凪沙を睨みつける。見ている俺がドキッとしてしまいそうだ。

「あなたには関係ないでしょ?それとそこの下っ端二人、さっき撮った写真を今すぐ消して」

凪沙は少し離れたところにいる岩田の仲間たちをスッと指差した。仲間たちは一瞬顔を見合わせ、それから薄ら笑いを浮かべた。

「君、東高の生徒だよね?こんなとこに何の用?てか結構可愛いね」

「写真消して欲しいならさぁ、何か見返りが欲しいところかなあー」

仲間たちはずいずいと距離を縮め、岩田の隣に並んだ。

「見返り?一体何が欲しいのかしら?」

凪沙は表情一つ変えず、至極冷静に返した。仲間たちは凪沙の身体に舐めるような視線を這わせ、口を開いた。

「そりゃあまあ…ね」

「この後俺たちと付き合ってくれたら、たくさんイイことしてあげるよ」

ヘラヘラ笑う男たちを前にして、凪沙は心底呆れたように「はぁ」とため息を吐いた。

「あいにく、あなたたちみたいな下衆な男は趣味じゃないの。痛い目に遭いたくなかったら、とっとと帰って一人暗い部屋の中画面の前でハッスルすることをお勧めするわ」

「なっ…」
「この…クソアマがぁ…」

完全に仲間たちの怒りを買った凪沙。一人が目を血走らせて凪沙に襲いかかった。

すると凪沙はひらりと身をかわして、男の股間を鋭く蹴り上げた。

「うげえっ!」

男は情けない叫び声をあげ、地面にうずくまった。手は蹴られた股間を押さえている。

「何してくれてんだコラァ!」

もう一人の男が凪沙を突き飛ばした。凪沙は勢いよく地面に倒れ込む。

「なぎさっ!」

俺は思わず叫び声をあげた。凪沙に駆け寄ろうとするが、わしっと手首を掴まれる。

「お前の相手は俺だぜ?」

岩田が舌舐めずりをして俺を見た。そして俺の腹に強烈な膝蹴りを叩き込んだ。

「がっ…!」

俺は口から唾を吐き出し、またもや地面に膝をつく。しかし今度はキッと岩田の顔を見上げ、なんとか立ち上がる。

「お、やる気か?」

岩田は少し笑って半身に構え、ファイティングポーズを取る。俺は一瞬後ろを振り返る。男と凪沙は必死の形相で取っ組み合っていた。

「うおおおおおおおおおおお!!」

俺は覚悟を決め、走って岩田に突っ込む。

「はっ。わかりやすく正面から来るバカがいるかよっ!」

岩田は思い切り振りかぶる。そして腰の入った右ストレートが勢いよく飛び出した。

俺は岩田の拳が当たる一歩手前で、わずかに体制を沈めた。そして、そのまま岩田の脚を取って体重を預けた。

「うおっ!」

俺の渾身のタックルは見事に決まり、俺が上になる形で岩田は地面に倒れ込んだ。

「…っ!この野郎っ!」

岩田は暴れ馬のようにバタバタともがくが、俺にのしかかられているため身動きがとれない。

「くそっ…!」

俺は目をつぶりながら、振り上げた拳を岩田の鼻っ柱に叩き込んだ。ゴキッと嫌な音がして、俺の拳にジンジンとした痛みが広がった。

「ぐがっ…」

岩田が顔を逸らした。鼻血がつーと流れ出る。
俺がもう一度殴るために再び拳を振り上げた時。

「コラお前らぁ!一体何をしてるんだ!!」

大人の男の野太い声が響く。顔を上げると俺たちの周りは下校しようとする生徒たちが集まり、奥から教師が駆けつけて来るのが見えた。

「ヤバい…っ!」

俺は熱くなった頭が急速に冷えていくのを感じた。今のこの状況は、俺が岩田を一方的に殴っているようにしか見えない。

俺は岩田から離れ、地面に投げていたバッグを手に持って後ろに駆け出した。

「この…っ!クソアマめぇ…」

「はなしてっ…!ううっ…」

凪沙は、男に馬乗りになられて首を絞められていた。ハッとした俺は男の背中を思い切り蹴飛ばした。

「うわあっ!?」

男は頭から茂みに突っ込んだ。俺は急いで凪沙の手を取り、走り出した。 

「ここから逃げるぞ凪沙!」

「間宮…くん…」

凪沙は目を丸くしていたが、すぐに立ち上がって俺と一緒に走り出した。後ろから教師の「待たんかお前らー!!」と叫ぶ声が聞こえたが、構わず俺たちは走り続けた。



「はあ…はあ…」

俺たちは家の近くの公園に駆け込んだ。

学校からずっと走りっぱなしだったため、互いに息を切らし汗を流していた。

凪沙は額の汗を拭って、ブランコに腰かけた。
俺も隣のブランコに腰をおろし、乱れた息を整えた。

「大丈夫か…?凪沙…」

右に座る凪沙の顔を見る。唇が少し赤黒く腫れていた。地面に倒れたせいで制服も茶色く汚れている。

「まあなんとか。…間宮くんは?」

凪沙が俺を見る。俺は少し笑って、

「殴られはしなかったから、俺は大丈夫だよ」と答えた。凪沙は小さく息を吐いてから、少しだけ口元を緩めた。

「…やればできるじゃん」

「え?」

俺は聞き返す。

「だから、ちゃんと戦えるじゃない。あの金髪、殴ってやったんでしょ?」

凪沙は俺の赤くなった拳を見て言った。

「…小学生ぶりに、人を殴ったよ」

俺は自分の拳に視線を落とした。びゅう、と風が吹いて、さわさわと公園の木々が揺れた。

「小学生の時は、普通にケンカしてたの?」

凪沙が問うてくる。俺は笑って頷き、

「たまにな。昔はこれでも、やんちゃな方だったから」

「…そうなんだ」

凪沙はスカートから伸びる自分の脚に視線を落とした。白い皮膚には、少し砂がついていた。

「てか、なんで凪沙があそこに?」

俺は忘れていた疑問を口にする。

「散歩してたら、たまたま通りかかったのよ。そしたら間宮くんが不良に絡まれてたから、助けないとって思って」

「散歩って…東高へ連絡する件はどうなった?服とかは買ったのか?」

俺は次々と質問を投げかける。

「東高に電話してみたけど…『凪沙』なんて名前の生徒は在籍していないって。一応警察にも行って、捜索願いが出されてる人がいないか聞いてみたけど…」

「いなかったのか?」

俺の言葉に、凪沙はゆっくりと頷いた。

「で、午後から服を買いに行って、荷物が多くなったから一旦家に帰ったの。その後は暇だったし、歩いて街の景色でも見てたら何か思い出すかもって思って」

「それで、散歩してたわけか」

俺の言葉に、凪沙は再び頷いた。

俺は腕を組み、公園にあるジャングルジムを見ながら口を開いた。

「凪沙が東高の生徒じゃないとすれば…その制服は、一体誰のものなんだ?」

俺は凪沙の方を向いて言った。きい、とブランコのチェーンが音を鳴らす。

「…私以外の誰かのもの、ということになるわね。でもそれにしては、随分とサイズがぴったりだわ。まるで私用に誂《あつら》えられたかのように」

凪沙は地面を蹴ってブランコを揺らし始めた。
風でスカートの端が少し持ち上がる。

「…歳の近い姉妹がいたか覚えてるか?」

俺は質問を繰り返す。

「家族構成に関しては、思い出したわ。私は一人っ子で、父と母の三人暮らし。だから、この制服が姉や妹の物である線はナシね」

「そうか…」

謎が深まる。だとすれば、凪沙は友達の制服を借りて着ているということか?普通に考えて、それは意味のわからない行動に思える。

ぐるぐると思考を巡らすが、なんだか疲れてきた。俺はゆらゆらと揺れる凪沙の横顔を見て、ふと口を開いた。

「…凪沙は、何で俺を助けてくれたんだ?」

「え?」

キイ、と音を立て、凪沙がブランコをとめた。

「…誰かを助けるのに、理由なんているの?」

「え…」

今度は俺が聞き返した。凪沙は綺麗な瞳で、まっすぐ俺の顔を見つめていた。

「理由がないと人を助けられない方が、おかしいと思わない?」

凪沙はどこまでも純粋な瞳を俺に向ける。西に傾いた夕陽が、凪沙の顔を赤く照らした。

俺が何も言わないでいると、再び凪沙が口を開く。

「それに私は、さっき間宮くんを助けたなんて思ってない。さっきの状況を打破したのは、あくまであなた自身よ。私はキッカケになっただけ」

「凪沙…」

カナカナカナ、と遠くでひぐらしが鳴いた。夕陽のオレンジに染まった公園に風が吹き、木々が静かに揺れ動く。

「…でも世の中には、自己満足のためだけに誰かを助ける人もいるだろ?凪沙は、そういう人のことはどう思う?」

俺の脳裏に、昼休憩に杵村さんと交わした会話が浮かんでくる。

「そういう人、私は嫌いね。だけどそういう人を『偽善者だ』って批判してる人はもっと嫌い」

まっすぐな瞳を前方に向ける凪沙。俺はその綺麗な横顔を黙って見つめる。

「そうやって上から目線で他人を批判する人って、往々にして何も行動を起こさない人だから。だったら、動機は不純でも結果として誰かを助けてる人の方がまだマシよ」

「…そうか」

俺はゆっくりと息を吐き出した。なんだか全身が急激な脱力感に包まれる。

俺はブランコから立ち上がった。凪沙が俺の方に首を持ち上げる。

「帰るか」

「…うん」

凪沙もゆっくりと立ち上がる。ブランコがキィ、と寂しげな音を出す。

沈みゆく太陽の下、俺たちは家への道のりを歩き出した。