ジージーとうるさいセミの鳴き声と、窓から差し込む朝日の眩しさで俺は目を覚ました。

「ふぁ…ねむ…」

瞼を擦りながら階段を降りる。向かった先の台所は白い陽の光に包まれていた。

「さてと…」

俺は一旦伸びをしてから、フライパンを火で温め始めた。これから朝食を作る。三人分の。

トースターで食パンを焼いている間に目玉焼きとウインナーを焼く。パチパチと火の音がして、油が少し跳ねる。


「おにいちゃんおはよぉ…」

眠た気な声を出して、パジャマ姿の明里が降りてきた。まだ瞼が半分上がってない。

「おはよう。凪沙は?」

目線はフライパンのまま俺が答える。掃除してない空き部屋は埃まみれだったため、昨晩凪沙は明里の部屋で寝たのだった。

「まだ寝てるよ。相当疲れてるみたい。ふあぁ…」

明里が大きな欠伸をして答えた。俺は「ん」と頷き、皿に乗せたトーストに焼き上がった目玉焼きを乗せていく。

出来た朝食をリビングに運び、俺はちゃぶ台の前に腰をおろした。陽の光で明るいため電気はつけない。

「今日は暑くなりそうだね」

明里がカーテンを開けて言った。相変わらずセミの声がうるさい。

「だな」

短く答えて俺は壁にかけられた時計を見た。
七時十分。凪沙はそろそろ起きてくるだろうか。

そう考えていると、ドタドタと階段を降りる音が聞こえてきた。足音は次第に大きくなり、ガチャッといってリビングの扉が開いた。

「おはよう。少し遅くなったわ」

パジャマ姿の凪沙が入って来た。袖を余らせ、肩口が少しだぼついている。長い黒髪は乱れ気味で、アホ毛が一本立っていた。

「おはよう。朝ごはん作ったから食べようぜ」

俺は振り返って言った。凪沙は無言でちゃぶ台に座り、明里も座った。三人で朝食を摂るという、この家に引っ越して初めての光景がそこにあった。

トーストを齧り、明里がテレビをつけた。朝のニュースが映り、女性アナウンサーのはきはきとした声がリビングに広がる。

「今日はどうするんだ?」

俺は左手に座る凪沙に聞いた。

「とりあえず午前中のうちに東高へ電話してみるわ。もし私に親がいるのなら、突然いなくなった私のことを心配して高校側にも連絡するでしょうし」

言いながら凪沙はコーヒーを飲んだ。

「そうだな。俺と明里は学校があるけど、もしダメならうちにいてくれ。記憶を取り戻して自分の家に帰るまでは、うちで生活すればいい」

昨晩凪沙がシャワーを浴びている間、俺と明里が出した結論は「凪沙の身元が明らかになるまではうちに泊める」だった。

「…ごめんなさい。迷惑かけるけど、正直とても助かるわ」

凪沙は申し訳なさそうな顔をする。俺は肩をすくめ、

「気にしないで。俺たちは大丈夫だから」

俺はウインナーを口に放り込んだ。

「あ!そうだおにいちゃん、今お金いくらある?」

突然思い出したように明里が俺を見た。

「お金?貯金なら五、六万はあったはずだけど…なんでいきなり?」

俺は手をとめて目を丸くした。明里は「はぁ」とため息を吐いて口を開く。

「いやさあ、凪沙さんスタイル良いから私のパジャマ小さくておにいちゃんの着てんじゃん?下着も同じく私のじゃ合わなくてさ。パンツはいいんだけどブラとか私のじゃ絶対入らないからさ…」

「ぶっ!」

俺は思わず口に含んだコーヒーを吐き出した。
本人のいるところで、そんな刺激強めの単語を並べられて平静を保てるはずがない。

「…私今真剣に話してるんだけど?」

顔を上げると、明里がキツい表情で俺を睨みつけていた。さらにちらっと左を見ると、少し頬を赤くした凪沙がトーストを齧っていた。

「わ…わりぃ。で、なんだ?」

俺はなるべく真剣な表情を作って聞いた。

「だからさ、凪沙さんの着るものを色々と買う必要があるのよ。それで今日私たちが学校行ってる間に、凪沙さんにお金渡して買って来てもらおうと思って」

「ああ。なるほどな…」

俺は事情を把握し、顎に手を当てた。

経済的援助は祖父母がしっかりしてくれているおかげで、お金に不自由は全くしていない。一通り服や下着を揃えたところで痛い出費にはならないだろう。

「わかったよ。凪沙、後でお金渡しとくから…その、しっかりと買ってこいよ」

俺は凪沙から目を逸らす。妹め、年頃の男子に一体何を言わすんだ。

「あ、ありがとう間宮くん。いつか出世払いで返すわね」

凪沙も俺から目を逸らして言った。なんとも気まずい空気が流れる。明里はそんな俺たちを見て「?」を浮かべていた。



「じゃ、俺たちは学校行くから」
「またね凪沙さん!何かあったら電話してね」

それぞれの制服に着替えた俺と明里は、玄関で凪沙に手を振っていた。

「気をつけてね」

凪沙はクールな表情で手を振り返した。

俺たちは家を出て、学校への道を歩き出した。
むわっとした暑さを全身に浴び、早速汗が出てくる。ジージーと鳴くセミの声は、確実に朝よりも大きくなっていた。

「あっつぅ…」

明里が肩をだらっと下げた。

「早くクーラーの効いた教室に飛び込みたいな」

俺も額に汗を浮かべて答える。少し歩くと、目の前に信号が現れた。

「じゃね、おにいちゃん」

明里は信号を待たずに曲がっていく。俺の通う高校と明里の中学は方角が違うのだ。

「おう。気をつけろよ」

俺はスクールバッグを持っていない左手を少し挙げ、妹を見送った。

ふと、空を見上げる。

瑠璃色の空に真っ白な太陽が輝いていた。照りつける日差しが容赦なく俺の肌を焼く。

「夏か…」

俺は今年で十七回目となる夏を、頭のてっぺんからつま先まで全身で感じ取った。


*******

クーラーの効いた教室に入ると、あまりの涼しさに息を吹き返した。

始業まで残りわずかなこともあり、教室内は既に生徒で溢れかえっていた。

みんな席を立って、それぞれ楽しそうに話し込んでいる。俺はそんなクラスメイトたちを尻目に、教室の後ろを通ってそそくさと自分の席へ向かう。

すると、どかっと誰かと肩をぶつけた。否、ぶつけられたという方が正しいだろう。

「いってーな。どこ見て歩いてんだよ」

見ると、俺の前にある男子生徒が立ち塞がっていた。カッターシャツを全開にし、くすんだ金色の髪を逆立たせた男。俺より頭一つぶんだけ背が高く、見下ろされる構図になる。

「…ごめん」

俺は小さく謝罪を述べる。すると男の周りに立つ仲間たちが、へらへらと笑みを作った。

「は?今何か言った?」

金髪の男がわざとらしく自分の耳に手を当てる。俺は嘆息し、

「ぶつかって悪かったよ。今後は気をつける」

俯き加減に、今度はちゃんと声を張ってそう言った。俺は男の間をすり抜けようと身をよじる。

「おっとお!まだ席にはつけねーぜ?」

男は体を横移動させて俺の進路を塞ぐ。

「……」

俺は無言で立ち尽くす。はぁ、全く勘弁してくれよ…

朝からクラスの不良、岩田永治《いわたえいじ》とその一味に絡まれ、俺はどんよりとした暗い気持ちになる。

「人にぶつかっといて、そんな薄っぺらい謝罪で許されると思ってんの?なあお前ら」

岩田が仲間を見渡す。仲間たちは薄ら笑いを浮かべて、ゆっくりと頷いた。

「どう謝ればいいんだよ…」

俺はぼそっと呟く。足がほんの少しだけ震えてくる。岩田は不気味な笑みを浮かべ、そっと床を指差した。

「土下座しろよ。ド、ゲ、ザ」

「……」

俺は差された床を見つめる。ろくに掃除されてないせいで、木の床は少し黒ずんでいた。

「それか、一発ブン殴られるか。ちょうど昨日テレビでボクシング見たからよ、誰かを殴りたくてウズウズしてんだよなぁ俺」

そう言って、岩田はバキッと拳を鳴らした。
俺は下ろした視線を上げることができず、汚い床を見つめ続ける。

「俺は慈悲深いからさぁ、どっちがいいか選ばせてやるよ間宮。土下座か殴打か。さあ、どっちだ?」

岩田がおどけたような口調で言葉を発する。
「うっわ、理不尽!」
「さっさとドゲザしたらぁ?」

岩田の仲間たちは愉快なものを見るような目で言ってくる。俺は心臓が締め付けられる感覚を味わい、ごくりと唾を飲み込む。なんだか苦い味がした。

「おら、さっさと選べよ。それとも両方か?」

頭上から物凄い圧を感じ、俺は震える膝をわずかに折り曲げた。もう土下座してしまおうか…いや、ここで土下座なんてしたらコイツらは味を占めるだけだ。きっと事あるごとに土下座を要求され、もしかしたらもっと屈辱的なことをやらされるかもしれない。

「あと五秒以内に決めねぇと両方になっちまうぞ…」

岩田が少し語気を強めた時。

「あっ!間宮くんちょっといい?」

後ろから声がした。岩田と仲間たちが顔を上げ、俺も振り向いた。

「なんか先生が呼んでるみたいよ」

クラス委員長、杵村舞夏が手招きしていた。

「…っ!わかった、今行く…!」

そう言って俺は駆け出す。岩田たちは「チッ」と小さく舌打ちして、顔を背けた。

すんでのところで窮地を脱し、俺は安堵の息を漏らす。

「こっちこっち」

そう言って杵村さんは教室の外に出ていった。
俺もその後に続き、教室を抜けて廊下に出た。

廊下はシーンとしていて、微かにセミの声が聞こえるだけだ。先生などどこにもいない。

「ありがとう杵村さん。…助かったよ」

俺は首に手をやり、視線は下のままで言った。

「なんとか間に合ってよかったわ。あ、先生が来た。教室に戻りましょう」

杵村さんが廊下の奥を見て言った。それと同時に始業チャイムが鳴り響いた。

「う、うん…」

俺は杵村さんと共に、すっかり冷えきった教室へ戻った。


すぐに担任教師が姿を現し、朝のホームルームが始まった。業務連絡も早々に、昨晩観た映画の感想を熱く語り出したので、俺は肘をついて窓の外をぼーっと眺めた。校庭の隅に立つ木々は陽の光を受けて、木漏れ日を降らせていた。

その後は授業がはじまった。

特に真面目に聞くわけでもなく、ひたすらボーっとして過ごす。教師の目を気にして一応ノートだけはとるが、内容は一つも頭に入っていない。

野球部の坊主頭が当てられて、何かふざけたことを言った。クラス中が笑いの渦に包まれる。

俺は表情を変えることなく、下がってきた瞼にそのまま従った。目を閉じて、ゆっくりと夢の世界へ溶け込んでいく。


午前中の授業を終え、昼休憩になった。

俺は今朝コンビニで買った惣菜パンをバッグから取り出し、袋を開けた。

家でのご飯は必ず自炊するようにしているが、自分が学校に持っていく昼飯はオール冷凍食品の弁当で済ませたり、今日のようにコンビニで何か買うことが多い。中学は給食なので明里の弁当はいらないし、俺一人が食べるだけのためにわざわざ作るのは面倒だ。

ベッドホンを耳につけ、音楽を流す。大体昼休憩はこうして音楽を聴きながら、自分の席で一人昼飯を食べて過ごす。クラスメイトたちは机をくっつけ合って食べている。時々その光景をチラリと見つつ、俺は音楽の世界に自分を沈めていく。

パンを平らげ、手持ち無沙汰になった俺は再びボーっと窓の外を眺め始めた。すると何やら人の気配がして、俺は顔を上げた。

「あ、もう食べ終わっちゃった?」

弁当箱を掲げた杵村さんが立っていた。

「…何か用?」

俺はそっけなく答える。杵村さんは俺の正面に回り、前の席の椅子を引いて座った。

「お昼一緒にどうかなって。由佳ちゃんたちは学食行ったみたいだし」

おさげを揺らして杵村さんが言った。由佳ちゃん、というのは杵村さんとよく一緒にいる女子たちの一人だろう。

「ここで食べるのか?」

俺はヘッドホンを外し、首にかけた。杵村さんは弁当の蓋を開け、すでに食べる気満々だ。

「…だめ?」

杵村さんは上目遣いにこちらを見てきた。俺は一瞬ドキッとして目を逸らした。

「…だめじゃない、けど」

なんとか口から言葉を吐き出す。今朝岩田に絡まれているところを助けてもらった恩もあるため、邪険にはできなかった。

「やったぁ。じゃ、いただきます」

杵村さんは両手を合わせ、綺麗な所作で弁当を口に運び始めた。中身をちらっと見ると、女の子らしいカラフルな彩りが広がっていた。

「…杵村さん、今朝はありがとう」

「ん?」

俺の言葉に、杵村さんは顔を上げる。

「岩田たちにイチャモンつけられてたとこ、助けてくれただろ」

「ああ、そのことね。別に気にしなくていいのよ」

杵村さんはさして表情を変えず、静かに言った。

「…なあ杵村さん」

「ん?今度はなにかな?」

俺の問いかけにまた顔を上げる杵村さん。

「なんで俺みたいなやつに構うんだ?」

俺はずっと気になっていた疑問を口にする。杵村さんは一瞬目を丸くしたが、すぐにニッと意地悪そうに唇を上げた。

「…知りたい?なんで私が、間宮くんを気にかけているか」

「いや、知りたいっていうか…純粋に気になるだけだよ」

「それ、つまり知りたいってことだよね?」

「う…」

どんどん杵村さんのペースに巻き込まれていく。俺は言葉に窮した。

「間宮くん、メサイア症候群って知ってる?」

「…メサイア症候群?」

突然飛び出した知らない単語に、俺は首を傾げる。

「そう。例えばね、人助けをする人がいるでしょ。自分が犠牲になっても困っている他者を放っておけない、みたいな。そういう人って、実は無意識のうちに自分が誰かに助けてもらいたいって思ってることが多いんだって」

「そ…そうなのか?」

突然始まった心理学の講義。俺に構わず杵村さんは話を続ける。

「それはね、自分に自信が持てない人がなんとか自我を保つために、他人の救世主になる選択をすることが多いからなんだって。誰かを助けることで得られる満足感で、逆に自分を肯定してあげる、みたいな。こんな心理状態にある人のことをメサイア症候群って言うの」

「ああ…なるほど、な」

俺はなんとなく理解した。しかし、なぜいきなりそんな話を始めたのだろう。杵村さんはふっと俺から視線をそらし、箸で卵焼きをつつき始めた。

「私ね、自分のことあんまり好きじゃないの。
大して何の経験もないのに無駄に知識だけはあるとことか、中途半端に何でも出来ちゃうせいで、すぐ飽きてやめちゃうとことか。…要は、私は間宮くんを助けることでしか自分を肯定出来ない偽善者なのかなって」

「……」

俺は言葉を失う。正直何て返事をすればいいのか分からなかった。

「…ごめんね。何か自虐的になっちゃって、反応に困るよね。とにかく私は、みんなが思ってるほど優しくなんてないから。だから間宮くんも、今朝のこととか全然気にしないで」

杵村さんは微笑んだ。しかしその笑みには、どこか悲しげな色があった。

「じゃ、私席戻るね。そろそろ昼休憩終わっちゃうし」

「あ…」

俺が言葉を発するより早く、杵村さんは席を立って行ってしまった。俺一人になった机には、ふわっとシャンプーの甘い香りが漂っていた。