「間宮くん?」

鼓膜を通して伝わる声に、思わず驚く。

「あ、ああ。ごめん。どうかした?杵村さん」

向けた横目のすぐ側には、心配そうに俺を見つめる杵村さんの顔があった。

「はい、晩ご飯。…とは言っても、慎ましやかなものだけどね」

静かに笑う杵村さんが、俺にカップラーメンと箸を差し出した。カップのふたの隙間から、もくもくと煙が上がっている。

「ありがとう。わざわざ作ってくれたのか?」

「さっき、『明里ちゃんとご飯用意してくるね』って言わなかった?」

「え?あ、ああ。そういえばそうだったな」

俺はさも思い出したかのように言葉を返した。その時、杵村さんの隣でカップ麺を食べている明里と目が合った。

「……」

数秒ほど重なり合った視線は、明里の方から外された。

手元のカップ麺に視線を落とす。醤油スープの香りが、煙に乗って鼻に運ばれてくる。しかし食欲は湧いてこない。

「はやく食べないと、麺が伸びてうどんになるよ?」

「うん。でも、いまいちお腹空いてなくて」

俺の言葉に、ほんの少しだけ眉をひそめる杵村さん。

「非常時なんだから、食べられる時に食べなきゃダメよ」

「そうだな。…ごめん、杵村さん」

まったくの正論に、素直に謝る。こんな時になんて呑気なこと言ってんだ、俺。

「別に謝ることじゃないよ。…間宮くんの心は、きっと別の場所にあると思うし」

小さく呟いた杵村さん。その横顔は、どこか寂しそうに見えた。



突然高熱を出した凪沙は、あの後すぐに病院に運ばれた。

風邪なのか、なにか他の病気なのか、原因はわからない。

ただ、俺の心には巨大な不安がのしかかっていた。そしてそれと同じくらい、あることも気になっていた。


『りっくん…私をおいていかないで』


意識を失った凪沙が、呪文のように繰り返していた言葉。

「おいていかないで…」

体育館の高い天井を見上げて、俺は呟く。

薄い畳の上に寝かせた体は、節々が痛んだ。

かなり疲弊していたが、頭は考えることを止《や》めてくれない。


凪沙がシノであることは、ほとんど確定していた。

そして、凪沙の記憶上にいた男の子が、俺であることも。

カツサンド。小学校。あったはずの家。東雲とシノ。そして、凪沙の髪飾り。

俺と凪沙の間に存在する奇妙な記憶の一致は、かつて二人が幼馴染だったことを物語っていた。……とある致命的な矛盾を除けば。


一つ、また一つ。

体育館の大きな照明が消されていく。消灯時間だ。

暗闇が広がるにつれ、周囲のざわめきも徐々に静まっていく。

館内は、すっかり夜の静寂《しじま》に飲み込まれた。

「舞夏さん」

俺と杵村さんに挟まれる形で横になっている明里が、囁き声を出す。ちなみに杵村さんのお母さんは、俺たちから少し離れたところで眠っていた。

「どうしたの?」

杵村さんが優しく囁き返す。

「なにか、話してくれないかな」

「……」

杵村さんは黙り込む。消灯後の会話はマナー違反だ。周りの迷惑になる。だけど、明里から発せられた声には、先行きの見えない不安が見え隠れしていた。

杵村さんも同じことを感じたのだろう。明里の懇願に、甘く囁き返した。

「わかったわ。ただし小さな声でね。…これは、前に本で読んだ話だけど…」

それから、杵村さんの話が始まった。なんとなく、俺も耳を傾けてみた。

それは、突然人格が変わった男の話だった。

温厚で誰にでも優しかった男が、ある日を境にガラッと性格が変わった。口調が荒くなったり、他人に暴力を振るうようになったり。周りの人は、当然困惑した。

そんなある日、殺人事件が起きた。犯人は、件《くだん》の男。無抵抗な女性を一方的に痛めつけた、凄惨な犯行だった。

警察の取り調べで、男は奇妙な供述をした。『俺は、もう一つの世界から来たんだ』と。それから真実が明らかになった。

実は男は、並行世界からやって来ていて、こっちの世界にいたもう一人の男は、既に殺されていた。殺人犯の方は、幼い頃に両親を亡くし、それ以降グレて、人を殺めてしまう。しかしこっちの世界の方は、両親が生きていて、毎日幸せに暮らしていた。

つまり幼い頃に、両親が死んだ世界と生きた世界で、分岐が起こっていたのだ。
男は自分の親が死ななかった世界に行って、人生をやり直そうとした。しかし結局、環境により歪んだ性格は変わらず、同じ過ちを繰り返してしまった…。

「たとえ世界が違えど、一度形成された人格は変わらない…作者が伝えたかったのは、こういうことかな?」

話を聞き終えた明里が尋ねた。

「どうだろうね。勿論そういう解釈もあると思うけど、結局は作者にしかわからないことも多いんじゃないかな。…そろそろ寝よっか、明里ちゃん」

「うん。話、おもしろかった。おやすみ舞夏さん」

「おやすみ」

二人の囁き声が、暗闇に薄く響く。

そして俺は、毛布の下にある自分の体に走った痺れに、一人ぞくぞくと震えていた。

両親が死んだ世界と、両親が生きた世界。

並行世界から来た男。

脳裏に微かな記憶が蘇ってくる。

あれは、凪沙と二人で図書館に行った時だった。

凪沙が記憶喪失に関する文献を読み漁っている最中、俺は、ある科学の本に夢中になっていた。

…たしかそこには、一つの解釈としての、並行世界に関する記述があった。

世界は可能性の数だけ存在する。量子力学の領域では、そのように考えないと説明がつかない事象が数多くあるらしい。

…そしてそれは、たった今、凪沙が置かれている状況と全く同じだ。

凪沙が、俺の幼馴染の東雲凪沙―シノ本人であるなら、凪沙は死んでいないとおかしい。これが唯一にして最大の矛盾点で、ずっと俺の頭を悩ませてきた。

だけどもし。

俺が生きている世界は、十年前に凪沙が死んだ世界で。

あの日、夜の皆生で出会った記憶喪失の少女が。

この夏を共に過ごし、灰色だった日常に彩りをくれた、あの少女が。

《《十年前の地震で、命を落とさなかった世界》》から来た、《《もう一人の東雲凪沙》》だったなら。


……全てに、説明がつく。





プルルルルルル。

「ん…?」

半分だけ瞼を開ける。顔の横に置いたスマホが震えていた。

「朝っぱらから誰だよ…」

重たい頭を起こす。薄暗い体育館の床に、何十人もの人たちが横たわっていた。

そういえば俺たち、避難してたんだ。

ゆっくりと昨日の記憶が蘇ってくるのを感じながら、今なお鳴り続けるスマホに視線を向ける。

「な…っ!」

絶句する。発信主は祖父母が営む病院だった。そしてそこは、突如意識を失った凪沙が、ほんの昨日運ばれた病院でもあった。

すぐに立ち上がり、寝ている人たちの隙間を通って、校庭に出た。

真夏の太陽の輝きと、アブラゼミの声に包まれる―と思ったが、空は厚い雲に覆われ、いつもはうるさいセミたちも静まり返り、世界は灰色に変わっていた。

嫌な予感を胸に、俺は病院からの電話に出た。

「もしも…」

『間宮律さんの携帯で間違いないですね!?実はかなり大変な事態になっておりまして…』

電話の奥から、女性の慌てた声が流れ込む。耳がキーンとなり、同時に心臓の鼓動が一段階早まった。

「あの、どうされたんでしょうか。まさか凪沙に…」

『凪沙さんの姿が、どこにも見当たらないんです!』

「え…」

瞬間、頭が真っ白になる。規則的な鼓動をやめた心臓が、何かを訴えるように荒れ狂い出した。

『六時頃、容体を窺いにお部屋を覗いた時には、既にいなくなっていて…凪沙さんは、昨日から高熱で意識不明のままでしたので、もしもの事があればと思い、現在職員総出で探し回っているのですが…』

ぐるぐると眩暈《めまい》がしてきた。凪沙が、失踪…?

『もしかして間宮さんの方に来ていたりは…?』

「いえ。来てません…」

ほとんど勝手に口が動いた。

「見つかり次第また連絡する」と残し、通話は切られた。

「……」

呆然とその場に立ち尽くす。無色無音の世界に、心が侵食されていくような気がした。

「さむ…」

ぶるっと肩を震わす。八月なのに強烈な寒気がした。精神が乱れ、体がバグを起こしているようだ。

「間宮くん!」

後ろから声が聞こえ、ハッとして振り向く。

「急に体育館を出ていって…何かあったの?」

眠たげな目尻に憂いを湛《たた》えて、杵村さんが立っていた。

「杵村さん…」

たくさんの言葉が頭の中で渦巻く。だけど結局どれを口にすべきかわからず、選んだのは沈黙だった。

「良ければ話してくれない?何か力になれるかも」

「……」

杵村さんは本気で俺を心配してくれている。ここは素直に相談すべきか。しかし…

正体不明の何かが俺をためらわせていた。

その時。

プルルルルルル。

再び俺のスマホが、音を鳴らした。急いで確認すると、「非通知」の表示。

「出たら?」

杵村さんが言った。

「ああ」

拭えない不信感をよそに、スマホを耳元に当てた。

『もしもし、間宮くん?』

「その声は…凪沙っ!?」

俺の言葉に、目の前の杵村さんの細い肩が僅かに揺れた。

『ええ。私は間宮律…もとい、「りっくん」の幼馴染の東雲凪沙よ』

「……っ!」

電話口から伝わる澄んだ声音は、ゆっくりと、しかし確実に、俺の心を動かした。

『やっと全部、思い出したわ』

「凪沙…」

互いの存在が、確定した瞬間だった。


「……ってそうだ!おい凪沙、病院抜け出してどこにいるんだよ!?」

感慨にふけるあまり、重大なことを忘れていた。

『その点については心配無用よ。熱は引いたし、体調も戻った。だから管《くだ》を外してベッドから抜け出して、今は病院から少し歩いたところにある電話ボックスにいるわ』

「今言った全ての行動が十分心配に値するんだけどな…」

俺は深い溜息を吐いた。少しの安堵も含めて。

『だけど、これから起こる事については心配が必要よ』

「え?」

凪沙の声色が一気に変わった。

『粗方《あらかた》の見当はついていると思うけれど、どうやら私は並行世界から来たみたい。私がもといた世界ではあなたは死んでいて、こちらの世界では私が死んでいる。今は十年前の地震による死者が入れ替わった状態ね』

「俺が死んでいた…?」

つい驚きが走るが、可能性の数だけ分岐が起こる以上、なんら不思議ではない。俺が震災で命を落としていた可能性は、誰にも否定できない。

『一%でも可能性があれば、新たな世界は生まれる。だけど裏を返せば、可能性がゼロの世界は存在し得ない。…これが何を意味するか、わかるかしら』

「可能性がゼロ…」

たとえば、奇跡。

起きるはずのないことが起きた時、人はそれを奇跡と呼ぶ。

だとしたら、奇跡は可能性に含まれない。

「……!まさか…っ!」

そこまで考えて、ようやく凪沙の言葉の意味するところを理解する。

『そう。量子力学の多世界解釈では、並行世界間の移動や干渉は本来あり得ないの。だから…《《私がこの世界に存在することはあり得ない。あってはならないの》》』

「そんな…」

奇跡という矛盾。そしてその矛盾の象徴である凪沙。

精工な論理を基に成り立つ世界からすれば、凪沙の存在は欠陥そのものだ。

だとしたら世界はどう動くだろう。

それはきっと、考えるまでもないほどに単純明快だ。


『おそらく私は、この世界に殺される』

「……っ!」

嘘だと思いたかった。

だけど現実は残酷だ。

正しい論理にそぐわない記述を、プログラマーが排除するように。

世界は、「東雲凪沙」という存在を抹消するだろう。


「あ…」

ふいに杵村さんが、空を見上げた。それにつられて、俺も視線を上げる。


空から降ってきたのは、白い雪だった。

ひらり。淡い粉が一片《ひとひら》、俺の頬を冷たく撫でた。

先程から感じていた寒さは、幻覚ではなかった。

『雪が降ってきたわね』

凪沙が、不自然なくらい落ち着いた声で言った。

『この夏、二度目の雪。私が《《こっち側》》に干渉した影響でしょうね』

「!」

真夏に雪という矛盾。それは、世界が鳴らす警笛なのかもしれない。

「凪沙の存在を認めることは決してない」という。


「俺は…一体どうすれば」

眩《まばゆ》い白銀に染まっていく空を見上げる。世界はこんなに綺麗なのに、どうしてか、俺の幼馴染を殺したがっている。

『間宮くん。あなたの取るべき行動はただ一つよ』

凛とした、力強い声。死を突き付けられた人間のそれとは思えない。いや、死を覚悟した人間だからこそ出せる、魂の尊厳なのかもしれない。

『おそらくまた…大きな地震が起きる。手遅れになる前に、明里ちゃんと杵村さんを連れて逃げて』

「また地震が起きる…?」

悪寒が背中を駆け上がった。突如迷宮に閉じ込められたような困惑と、底知れぬ恐怖が、俺の頭を覆い尽くした。

『ええ。限りなく確信に近い予感がするの』

「だったら凪沙も逃げないと。病院のすぐ近くにいるんだよな?俺が迎えに行くから、一緒に避難…」

『それは出来ない』

「な…っ!」

一瞬スマホを落としそうになる。意識を集中させて、折れそうなくらい強く、再度スマホを握り締めた。

『地震が世界によって意図的に起こされたものだとしたら、その目的は何かしら?…無論、私を殺すためでしょうね。ならば私が逃げる理由はないわ』

「そんなこと言ったって…!凪沙まさかお前…」

『むしろ、私が生きようとあがけばあがくほど、関係のない人まで犠牲になるわ。私の息の根を止めるその時まで、世界は地震を起こし続けるでしょうから』

「どうしてだよ…どうして凪沙が…」

目の奥が熱くなり、視界が涙で滲む。

どうして凪沙が、犠牲にならないといけないんだ。偶然起こった奇跡に巻き込まれ、こっちの世界に迷い込んだだけなのに。

記憶を失って、現実との矛盾に苦しんで。

それでも真っ直ぐに、前を向き続けた凪沙が、どうして命を落とさなきゃいけないんだ。

不条理なんて言葉で語れない、はるか遠い空の彼方まで届くほど、胸に広がる果てしない悔しさ。…まだ十七歳の俺は、この気持ちをどうすればいいのか分からなかった。分かりたくなかった。

『ねえ間宮くん』

電話の向こうから、優しい声が響いてくる。

『私、こっちの世界に来れて、これっぽっちも後悔してない。だって、全部私が望んだことだもの。間宮くんのいる世界に行きたいって、ずっとずっと、願ってた』

「凪沙が…望んだ…?」

『うん。私、あっちの世界で間宮くんを…りっくんを失ってから、ずっと何も出来ずにいた。動き出せずにいた。だけどこっちに来て、りっくんと出会えて、また私は前を向くことが出来た。永遠なんてものに手を伸ばすくらい、楽しい時間が過ごせた』

「なぎ…」

『あなたと過ごした、この夏を忘れない。…さようなら』

「なぎさっ!!」

叫んだ時には、もう通話は切れていた。固く握り締めていたはずのスマホが、するりと手を抜け、砂の上に落ちた。

「間宮くん…」

杵村さんが側に寄ってくる。俺は俯けた顔を上げることが出来ず、零れ落ちた涙が描く模様と、その上に降りる雪をただ眺めた。

世界は白に覆われていた。俺の心も白に覆われていた。

…凪沙。

俺は、お前を…



「きゃっ!」


ぐらぐらぐらぐらぐらっ!


突然、世界が傾いた。

地核が揺らぎ、反転する視界。


…終わりの、始まりだった。