「……っ!」

凪沙からのLINEを見た俺は、息を詰まらせた。

これは、ただの結果報告なんかではない。

文字の裏に隠された、絶望、不安、焦燥といった暗い感情。

はっきりとそれらを読み取ってしまった俺は、無意識的に足が動いていた。

「おにいちゃんっ!」

駆け出した俺の背に、明里の呼び声が届いた。

「これ、返すの忘れてた」

そう言って、明里が何か黒い物体を投げてきた。ぱしっと受け取り、視線を落とすとそれは、俺のスマホだった。

俺が驚いたように顔を上げると、明里は静かに笑っていた。わずかに唇が動き、「いってらっしゃい」と呟いた。

「……いってきます」

俺はスマホを握りしめ、再び駆け出した。言葉を交わさずとも、互いの気持ちを理解しあえる俺と明里。

それは、兄と妹が二人で今日まで紡いできた、確かな愛情の証明だった。


「さむ…」

病院の外に出た途端、俺は身震いした。

真夏の夜は、しんしんと降る雪で白に染まっていた。

薄い病衣のまま外に出たことを後悔するが、すぐに今やるべきことに意識を切り替えた。

『間宮くん!?意識が戻ったの!?』

ツーコールほどで電話に出た凪沙が、慌てたように言ってきた。

「ああ、ほんのさっき。俺が眠ってる間、ずっと看病してくれてたって聞いたよ。ありがとう」

『あたりまえじゃない…私のせいで間宮くんや明里ちゃんを危険に巻き込んだのだから。私がしなくて誰がするのよ』

「ああ…ありがとな」

凪沙らしい言葉に、思わず笑みが溢れる。が、すぐに俺は顔を引き締めた。

「凪沙、今どこだ?」

一瞬、間が空く。

『バス停よ。…以前、間宮くんと雨宿りした』

俺は一瞬あの日を思い浮かべ、口を開いた。

「そこで待ってて。すぐ行くから」

『え…?間宮くん、体大丈夫なの?それに、雪もすごいし…』

「今は自分のことより、凪沙のことが心配なんだ」

『……!』

一方的に通話を切り、雪降る街を駆け出した。凪沙の待つバス停を目指して。



粉雪がぱらぱらと、俺の頭上や肩に降り注ぐ。
走り回って上がった息が、白くなって出てくる。

「七月とは思えないな…」

異常気象に顔をしかめた時、道路脇に佇むバス停が見えた。屋根は雪に覆われて白くなっていた。

歩調を緩め、ゆっくりと近づく。暗いバス停から、うっすら人の気配を感じた。

「おはよう、間宮くん」

突然聞こえた声に、俺はビクリとした。少し警戒しながらバス停の中を覗く。

「…驚かせちゃったかしら。ごめんなさい」

そこにはベンチで一人、膝を抱えるようにして座る凪沙の姿があった。その髪は、綺麗な真珠の貝殻の髪飾りで留められていた。

「いや別に。…ていうか、『おはよう』ってなんだよ」

俺はぽりぽりと頬を掻きながら言った。時刻はPM六時を過ぎている。もっとも、AMに書き換えれば「おはよう」の使用圏内になるけど。

「だって、丸々三日も寝てたのよ?だったら間宮くんにだけは、『おはよう』がいいかなって」

「どういう理屈だよ」

「こういう理屈よ」

ふと、凪沙と目が合った。そしてどちらからでもなく、俺たちは笑みを溢した。

俺は凪沙の隣に腰を下ろした。

「雪、ついてるよ」

凪沙が俺の肩に触れ、一瞬ビクッとしてしまう。

「ごめん。怪我、痛かった?」

「いや、そういうわけじゃないけど…」

凪沙に触られてドキっとしたとは言えない。

「ごめんね。迎えに来させて」

凪沙が優しい手つきで、肩の雪を落としてくれた。

「いや、俺が勝手に来ただけだし。それで凪沙…」

「家、思い出したの」

俺が話を切り出した瞬間、凪沙が被せるように言葉を発した。

「車峰地区にある一軒家よ。それで、早速今日行ってみたんだけど…家なんて何もなかった。あったのは、『売地』の看板だけ。私の記憶違いだったみたい」

ふっ、と凪沙が笑った。その横顔は、諦めの色を覗かせていた。

「凪沙…」

俺は、ただ呟くことしかできなかった。

こんな時、何か気の利いた言葉がすぐに出てくれば、どんなに助かることだろう。

だけど生憎なことに、俺は口下手で励まし下手だった。

「…私は、どうすればいいと思う?」

凪沙が問うように呟いた。

「これまで通り、失った記憶を取り戻せるよう努力するしかないんじゃないか」

「ええ。それはそうなんだけど…」

凪沙が言葉を濁す。

「ちょっとずつだけど、日々記憶は戻ってきている。通っていた小学校、髪飾り、自分の家。だけど、そのどれもが私の存在を証明し得る証拠にならないの。小学校と家に至っては、私の記憶と現実が矛盾している始末。これは、私の記憶が間違っているのかしら…」

俯きながら言う凪沙。俺は地面に視線を向け、考えを巡らす。

最初にある命題を正しいと仮定し、その仮定の下に推論を進める。その結果矛盾が発生した時、それは最初の仮定が間違っているから、とする証明方法を背理法《はいりほう》と呼ぶ。

この背理法に従って考えるのであれば、凪沙の記憶は間違っていることになる。

一.凪沙の記憶は正しいと仮定。

二.凪沙の記憶が正しいのであれば、凪沙の家は車峰地区に存在する。

三.しかし現実に、凪沙の家は存在しなかった。ここで二と矛盾が発生する。

四.この矛盾は、一の仮定が間違っているため、発生した矛盾である。

五.よって、"凪沙の記憶は正しい"というのは間違いである。


簡単な推論だ。何も難しいことはない。

だがそれは、苦労して思い出した凪沙の記憶が、実に単純な推論によって全て否定された、ということだ。


「間違った記憶を植え付けられているとか。以前杵村さんが話してた、虚偽記憶ってやつ」

「本物の記憶が偽物に書き換えられているってこと?だとしたら、どうして書き換えた偽の記憶まで、私に忘れさせるのよ。普通、私に嘘の記憶を保持していてほしいから、書き換えるわけでしょ?なのにわざわざ、本物だけじゃなく偽物の方まで、すっかり忘れさせる必要があるのかしら」

「それもそうだな。本物も偽物も全て喪失させてしまうんだったら、わざわざ書き換える意味がないよな」

もちろん、記憶を喪失させて、ようやく思い出した記憶も偽物、という二段構えのギミックを施された可能性もある。

しかし、そんなことが果たして人間の手で行えるのか。とてもそうは思えない。

「私って、一体何者なのかしらね」

凪沙がぼやく。俺は黙ってその横顔を見た。

「世界はいつになったら…私の存在を認めてくれるのかしら」

降りしきる雪よりも儚い、そんな声音が響いた。

「家以外のことで、思い出したことはないか?」

俺が問うと、凪沙は少しだけ間を置いてから口を開いた。

「私には、とても大切な人がいた。私に優しさと明るさをくれた人が。その人は私にとって、他の誰にも代え難いくらい大事で…」

凪沙が言葉を止める。見ると、今にも泣き出しそうな顔で唇を噛み締めていた。

「大事で…私はその人のことを、ずっと想い続けていた。だけど…」

握りしめた拳を震わす凪沙。

「だけど、その人と過ごした記憶がないの」

「そんなに、大切な人なのにか」

俺の言葉に、凪沙が頷く。

「正確に言うと…その人との記憶は、小学生で止まっている。おそらく、地震の前後で…」

「……!」

俺の両親、そして俺の幼馴染の、「シノ」の命を奪った、あの地震。

やはり凪沙の記憶に関しても、十年前の地震が関係しているのか?

「私とカフェでカツサンドを食べて、この髪飾りを贈ってくれた子。覚えてる?」

「あ、ああ。もちろん」

俺は一瞬遅れて頷いた。すると、そこでようやく、頭の中で話がつながった。

「まさかその大切な人ってのは…」

「そう。髪飾りをくれた子のことよ」

目の前の道路を車が横切り、ヘッドライトの明かりが飛び込む。

凪沙の髪飾りが、光の反射で一瞬輝いた。

「そうか…だけど地震の前後でその子の記憶が途切れてるってことは…」

「おそらく、犠牲になったんだわ」

凪沙が、声を落とした。

よっぽど大切な人を亡くしたのだ。辛いに決まっている。地震で両親を亡くした俺には、その気持ちが痛いほどわかった。

だが俺は、同情と一緒にあることに気がついた。

それは、俺と凪沙の共通点だった。

「俺と凪沙は、お互い地震で幼馴染を亡くしている…」

「…そうね」

俺はシノを。凪沙は髪飾りの男の子を。

気温は低いというのに、俺の首筋を汗が伝った。

なにか、嫌な感じを孕む偶然だった。

ふと、凪沙の顔を見る。

押し寄せる不安に必死で耐えるような、苦し気な様子が見て取れた。

おそらく凪沙は、自分の家があるはずの空虚な空間を見たその瞬間から、ずっとこんな調子だったと思う。

ようやく目を覚ました俺に心配をかけまいと、無理に気丈に振る舞っていたのだ。

そう思った途端に胸が苦しくなる。

「凪沙」

「?」

俺の呼びかけに顔を上げる凪沙。その瞳は、悲しみと諦めの色を浮かべていた。

「たとえ世界がお前の存在を認めなくても、俺がお前を認めてやる」

「間宮くん…?」

あの時と同じ、自分自身に殺意を覚えかねない臭い台詞を吐く。

困惑顔を浮かべた凪沙を、真剣に見つめ続ける。

「…世界と張り合うつもり?」

やがて凪沙が言葉を発した。

「まさか。俺は神でも悪魔でもない。どこにでもいる高校生だよ」

「そうね。妹がピンチになったら必死で助けに行って、落ち込んでる女の子に優しくできる、どこにでもいる高校生ね」

「な…っ」

台本にない台詞に、一瞬動揺した。凪沙はおかしそうに笑っていた。俺は一度息を吸い込み、言葉と一緒に吐き出した。

「俺は、妹思いの紳士な高校生として、妹思いの紳士な高校生のやれることを全力でやるよ」

「それ、自分で言うの?」

「自他共に認めないと、ダメだろ?」

「あら、かっこいいこと言うわね」

「な…っ」

俺はまたもや動揺した。凪沙は笑ってベンチから立ち上がり、屋根の外に出た。

「雪、積もるかしら」

空を見上げた凪沙がぼやく。言葉と一緒にでた息は白かった。

「どうだろう。でも、こんな異常気象長くは続かないだろ」

俺も屋根の外に出た。雪で覆われた足元は白く、周囲は雪明かりで闇をぼかしていた。

「てか、寒くないのか?」

俺は凪沙を見やった。薄手のTシャツにショートパンツで、完全に真夏の服装だ。いや、本来ならこの服装でいいはずだった。おかしいのは気候の方だ。

「寒いに決まってるじゃない」

凪沙は自分の両腕を抱えてみせた。

「だよな」

呟き、俺は自分の服を見下ろした。薄っぺらい病衣の下は裸だった。

これじゃ、凪沙に着させるのも無理か…。

「えいっ」

「うわっ!」

突然、俺の肩に冷たい塊がぶつけられた。見ると、したり顔の凪沙が手で雪を丸めていた。

「なにするんだよ、いきなり」

「寒い時は、体を動かして温まるのが一番よ」

「普通、雪合戦以外の種目でやるよな…」

と、二発目の雪玉が飛んで来た。

俺は頭を下げてギリギリで躱す。

「やるわね。間宮くんも遠慮なしで来なさい」

身を屈め、すぐに三発目を作りだす凪沙。

「いいか、これは正当防衛だからな…?」

観念した俺は、足元の雪を手で拾い上げた。

「くらえ!」

俺は遠慮なく雪玉を投げつけた。

しかし、凪沙は華麗な身のこなしでそれを避けた。地面に当たった雪玉が砕け散る。

「甘いわ!」

「うわっ」

凪沙の投げた玉が腹にヒットした。服の中に入り込んだ雪が、俺の肌に冷たい感触を与え、思わず「つめた…」と声を漏らす。

「あははは。ほら間宮くん、こっちよ」

凪沙が腰に手を当てて言った。

「くそ、覚悟しろよ…っ!」

俺は二発目の玉を丸め始めた。



それから、俺たちは無邪気に雪をぶつけあった。子どもみたいにはしゃいで、走り回って、夜空に笑い声を響かせた。

互いに満足するまで投げあった頃には、すっかり体が火照っていた。

「あ~!久しぶりにすると楽しいわね、雪合戦」

頬を赤くした凪沙が、ベンチに座り込んで言った。

「ほんと、小学生ぶりにやったよ」

あがった息を整えながら、俺は言った。

柄にもなく、全力で楽しんでしまった。

「やっぱり、間宮くんといる時が一番落ち着く」

凪沙が、目を細めて言った。くすぐったいのを我慢して、俺も口を開いた。

「俺も、凪沙といる時が一番…生きてるって思える」

「…そう」

凪沙が静かに呟く。

空を見上げた。白い粉たちはもう落ちてこなかった。

雪が…止んだ。

「さてと。体も温まったし雪も止んだし、そろそろ病院に戻るか」

「私も。明里ちゃん、待ってるんでしょ?」

凪沙がベンチから立ち上がった。

歩み始めた俺の隣に、凪沙が並ぶ。

さすがに今日は星が見えないな、なんて考えてたら、俺と凪沙の手がぴとっと触れた。慌てて距離を取ろうとした瞬間、凪沙の華奢な手が俺の手をぎゅっと握りしめてきた。

「凪沙」

隣を見る。そこには、俺を見上げる綺麗な顔があった。

「体は温まったけど、手は冷たいわ。…いいでしょ?」

「…!も、もちろん」

俺も凪沙の手を握り返す。ひんやりとした柔らかい感触に包まれる。

手をつないで、二人で歩きながら、俺は思った。

季節外れの雪も、悪くないな。



だけど、この時の俺は知らなかった。

世界を動かす歯車が、確実に狂い始めていることを。

永遠のようなこの時間が、着実に終わりへと向かっていることを。