ピンポーン。

インターホンを押すと、軽快な音が鳴り響いた。すぐにカタッと受話器を取ったような音がして、機械越しに杵村さんの柔らかな声が届く。

『少し待っててね。今開けるから』

「わかった」

俺は短く返し、額の汗を拭う。隣には直立不動の姿勢と落ち着いた表情を貫く凪沙の姿。

俺と凪沙は現在、杵村家の玄関の前にいた。


一時間前、図書館で届いたLINE。「今から会えない?」との急な誘いに少しドギマギしたが、用件は一つしかないためすぐに返信した。

「OK。場所はどこにする?」

一分もしないうちに返信は来た。

「私の家で。夜まで親いないから」

余計な一言にため息を漏らしていると、追加で杵村さんの家への大体のルートと、目印となる建物の情報が送られてきた。

俺と凪沙は図書館を出て、コンビニで昼飯を買って食べ、初めて行く女子の家へと自転車を走らせた。

「わざわざありがとう。入って」

茶色く塗られた扉が開き、中から現れた杵村さん。髪型は学校と同じおさげだが、服は水色のキャミソールとショートパンツで、かなりの露出度だ。白い肩や重量感のある胸元がこれでもかというくらい強調されている。

「お邪魔します…」 「お邪魔するわ」

俺は遠慮がちに、凪沙はいつもと変わらずで中に入る。そこまで広さはないが、綺麗に整頓された玄関。靴箱の上の水槽には、オレンジの光沢を纏った金魚が優雅に泳いでいる。

「あなたが凪沙さんね?私は間宮くんと同じクラスの杵村舞夏よ」

靴を脱いだ俺たちを見て、杵村さんがスッと手を差し出した。

「よろしく杵村さん。記憶喪失の凪沙よ」

凪沙は差し出された手を握りしめた。

「……」

目の前で握手を交わす二人の姿に、俺は見入ってしまった。

杵村舞夏と凪沙。

出会うはずのない二人が、今こうして出会い、言葉を交わす。

自分の匙《さじ》加減一つで、誰かと出会ったり別れたり、全く違う結末を迎える。

そして俺たち一人一人の結末が、世界全体の結末を形作る。そう考えると世界を変えるのも案外簡単にできる気がしてくる。だって、幾千ある可能性の中から未来を選ぶのは、自分以外の何者でもないから。

「じゃあ、私の部屋に上がりましょうか」

杵村さんの優しい声で現実に引き戻される。

「あ…ああ」

今から女子の部屋に入る。ただそれだけのことが妙に俺の心臓を掴んで離さない。

一段一段、白い階段を昇っていく。杵村さんの背中を見上げる形の俺と凪沙。

「間宮くんに女子の友達がいるなんて意外ね」

「それ、捉えようによってはただの悪口だぞ」

「その上こんなに可愛い」

「外見は関係ないだろ」

いつもクールな凪沙らしからぬ軽口を叩かれ、俺の額が汗ばんだ。

階段を昇り切ると、部屋が並んだ廊下に出る。
一階に負けず劣らず、二階もかなりの面積だ。

手前から二番目のドアを開ける杵村さん。俺たちは促されるまま中へ足を入れる。

そこには白を基調とした清潔感溢れる空間が広がっていた。どことなく甘みのあるウッディーな香りが鼻腔をくすぐる。

「お茶入れてくるから。その辺に座ってて」

そう告げて杵村さんは部屋を出ていく。

楕円形の座卓の前に敷かれたクッションに、俺たちは腰をおろした。

なんとなく落ち着かず、俺は部屋中をきょろきょろと見回した。すると隣の凪沙がジト目を向けてきた。

「女の子の部屋、入ったことないの?」

部屋童貞を一瞬で見抜かれ、顔をしかめる。

「まあ…な。女子と関わる機会なかったし」

「機会はあったのに見過ごしてただけじゃないの?」

「そんなこと…ある、か。うん…」

二秒で言い負かされた。ぴんと背筋を伸ばして正座する凪沙は、今まで見たどの人間よりも堂々としていた。やがてドアが開き、おぼんに三人分の麦茶を乗せた杵村さんが帰還した。

「お待たせ。どうぞ」

杵村さんはコップを置いて、俺たちの正面に座る。ふわり、とおさげが小さく揺れた。

「いただきます」

凪沙は遠慮の欠片なく麦茶を飲み込んだ。俺は両手の拳を握ったまま微動だにしない。

「間宮くん、もしかして緊張してる?」

「え?いや、そんなことない…けど」

俺の顔を覗き込む杵村さんと、目を逸らす俺。

「家で私を見ても、顔色一つ変えないのにね」

相変わらずのジト目を放つ凪沙。俺の首筋を汗が伝う。

「あっ、そうか。二人は同棲してるんだっけ?」

杵村さんが思い出したように言った。

「ああ、そうなんだよ。まあご飯食べる時くらいだけどな。家で同じ部屋にいるって言ったら…」

「ご飯は間宮くんが作ってるの?」

「うん。でも昨日の夕飯は、凪沙も手伝ってくれて…」

「凪沙さん、間宮くんの作るご飯おいしい?」

杵村さんの質問が凪沙に飛ぶ。凪沙は数秒ほど杵村さんの意味深な笑みを見つめ、口を開いた。

「…おいしいわよ。きっと将来、良いお嫁さんをもらうんじゃないかしら」

「……」

なんでそんなどこか引いたような視点で言うんだよ。俺は凪沙の横顔をちらっと見る。

「うふふ。私も間宮くんの作ったご飯、食べてみたいな…なんて言っちゃって」

杵村さんが上目遣いで言ってくる。かすかに上気した頬と少し眠たげに垂れた目が妙に色っぽく見え、俺は耳が真っ赤になるのを感じた。

「そろそろ本題に入る頃合いじゃないかしら。どう思う間宮くん?」

凪沙が鋭い視線を向ける。俺は慌てて頷き、

「そ、そうだな。杵村さん、今日呼び出してくれたのって、昨晩の件についてで合ってる?」

「ええそうよ。間宮くんに頼まれた通り、車峰小卒の友達に聞き込みをしたわ」

杵村さんは真顔に戻り、俺たちを見据えた。

「で、どうだった?…凪沙を覚えてる人は、いたか?」

早速結果を聞きにかかる。凪沙も真剣な表情で杵村さんを見つめていた。


「それがね…凪沙さんのことを知っている人は、私が聞いた中では誰一人としていなかったの」

『…!』

俺と凪沙の驚愕が重なる。

「みんな『そんな子しらない』って。凪沙さんが車峰で六年間も過ごしたのなら、同じクラスじゃなくても存在くらいは認識してていいはずなんだけど…」

杵村さんは暗い顔で言った。「そんな…」と隣で呟く凪沙。俺は奥歯を噛み締める。

「凪沙さんは、私たちと同い年の十七歳で合ってるんだよね?」

杵村さんが問う。凪沙は頷き、

「ええ。年齢に関しては記憶が戻って、十七歳で間違いないわ」

「そう…」

杵村さんの顔が暗さを増した。そして不意に立ち上がると、勉強机の上に置かれた大きなアルバムを手に取った。

「これ、友達に貸してもらった車峰小の卒業アルバムよ。今から五年前、現在十七歳の卒業生の」

凪沙がアルバムを受け取り、ページを開く。
俺も覗きこんだ。

卒業生一覧。

全部で三つ、それぞれのクラスの卒業生の顔と名前が掲載されている。

俺と凪沙は一組から順に目を通していく。

一組には、「凪沙」という名前と顔写真はなかった。俺は唾を飲み下し、二組の方へ目を向ける。

そこにも凪沙の姿はない。そして最後の望みである三組にも、凪沙の姿はなかった。

「そんな…嘘でしょ…」

凪沙が震える声で呟く。俺も頭が混乱していくのを感じた。


凪沙がどこにもいない……。


「凪沙さん、本当に車峰小に通っていたの?もしくは途中で転校して、卒業まで在籍してなかった可能性は?」

杵村さんの問いに、凪沙は首を横に振る。

「私の記憶では…絶対に私は車峰の生徒よ。転校なんてしていない。絶対、ここを卒業したはず」

「矛盾してる…」

俺は呟く。凪沙が俺の方を振り向く。そして俺の両肩をガッと掴んできた。

「今思い出せるかぎりの記憶は確かなものよ!間宮くんと行った数々の小学校、どこもピンと来なかったけれど、車峰だけは違ったの!私の中の記憶と合致するのは、あそこだけなのよ!」

強い力で掴まれ、ゆすられる。俺は顔を俯けながらも、たった今目にした現実を口にする。

「だけど…事実として、凪沙は車峰を卒業していないんだ。これは明らかな矛盾なんだよ。この場合、どちらかが間違っていると考えざるを得ない。凪沙の記憶か、卒業アルバムか」

「それはそうだけど…現に思い出せる私の記憶はこれが全てなのよ!」


「落ち着いて、凪沙さん」


杵村さんの柔らかな声が響き、熱くなった凪沙と困惑する俺の頭に、すんと溶け込んでいく。

「もしかしたらまた何か思い出すかもしれないし、ここで揉めても仕方ないよ」

杵村さんは優しく微笑んだ。凪沙は俺の肩から手を離し、一度深呼吸した。

「…ごめんなさい、少し取り乱してしまった。間宮くんも、急に掴んじゃってごめん」

俺は慌てて手を振る。

「い…いや、謝るようなことじゃないよ。誰だって、自分の存在が否定されたりしたら、冷静でなんかいられないよ」

口をついて出た自分の言葉にハッとする。

凪沙は、自分の存在を否定されているんだ。

凪沙のものとしか思えない東高の制服。
しかし、東高に凪沙らしき生徒は在籍していないという事実。

通っていたはずの小学校。
しかし、凪沙を知る同級生は誰一人としておらず、卒業生一覧に凪沙の姿はない。


現時点において、凪沙がこの世界に存在することを裏付ける証拠が何一つない。

「間宮くん大丈夫?」

杵村さんが心配そうに俺の顔を覗き込む。

「あ、ああ… 。ちょっとボーっとしてたよ」

俺は無理矢理口角を上げ、麦茶を喉に流し込んだ。冷たい液体が喉を伝って一気に胃に着水する。

「しかし…振り出しに戻ったわね」

凪沙がため息と共に言葉を吐き出す。杵村さんは少しの間沈黙を続け、やがて自ら破った。

「これは一つの可能性の話だけど」

俺と凪沙が顔を上げる。

「虚偽《きょぎ》記憶って知ってる?」

俺と凪沙が顔を見合わす。それから、二人とも首を横に振った。

「自分の記憶と現実にズレがある時、指摘されることが多いの。人間の記憶って、結構簡単に後から改変できちゃうのよ。これは実際にあった例なんだけどね」

一拍置いて、杵村さんは言葉を続ける。

「性被害に遭ったある女性が、警察に七枚の男の顔写真を見せられた。この中の誰かに、犯人はいないかと警察は尋ねた。するとこの女性は、Dさんを犯人だと言ったの。顔も声も体格も、女性は何もかも覚えていて、Dさんのことを思い浮かべるだけで泣き出してしまいそうになった。警察はDさんを犯人と断定しにかかったのだけど、事件が発生した時、Dさんには生放送のテレビに出演していたというアリバイがあった。おまけに事件が起こった時、女性はテレビを点けていてDさんの姿を目にしていたの」

「つまり、女性はテレビに映っていただけのDさんの顔や声を、犯人だと間違って記憶してしまっていた、ということ?」

凪沙が結論をまとめ上げた。杵村さんは頷き、

「そうよ。女性にとっては嘘偽りのない真実の記憶として、頭の中に保存されていたの。それが現実とは全く異なるものだとしてもね」

「……」

俺は頭の中で今の話をまとめていた。

つまり、凪沙が車峰小に通っていたというのは虚偽記憶であり、真実とは異なる。杵村さんはそう言いたいのだろう。

「だけど、制服の件はどうなる?小学校に関しては凪沙の記憶そのものだけど、東高の制服を着ていたことは紛れもない事実だろ」

俺はもう一つの謎を口にした。

「それはわからないわ。今の虚偽記憶の話も、あくまでその可能性がある、という程度の認識に留めてね」

杵村さんが肩をすくめて言った。凪沙は顎に手を当てて考え込んでいる。


俺たちの頭の中は、深まる謎と渦巻く困惑に支配されていた。


日が暮れてきた頃、俺たちは杵村家を後にした。別れ際に「いろいろと協力ありがとう」と杵村さんにお礼を述べたら、「このお礼は間宮くんの手料理で十分よ」と言われ、苦笑いをするしかなかった。


帰り道、入道雲がかかったと思ったら、すぐに夕立に見舞われた。

激しい雨と、ゴロゴロ轟く雷。

俺たちは屋根のあるバス停に駆け込み、しばしの間雨宿りを強いられた。

「すごい雨だな」

びちょびちょになった前髪をかきわけて、俺が言った。凪沙はTシャツの水を絞って、古びたベンチに座り込む。

俺も隣に座ろうかと迷ったが、お互い濡れた状態で至近距離にいるのは色々とマズいと思い、立ったままで我慢した。

凪沙は帽子を脱いで、濡れた太ももの上に置いた。雨で湿った髪は艶を放ち、つい見惚れてしまいそうになるのを堪える。

降りしきる雨。鼓膜を大きく揺らす雷。灰色の空。そして、冷えた体。

俺はため息を吐いてから、なんとなく口を開いた。

「まるで世界が洗い流されるみたいだな」

「……」

凪沙からの返答はない。ただ、雨が地面を打つ音だけが耳に響く。

俺はポケットからスマホを取り出した。
十七時二十分。

夕飯何作ろうかな……なんて、日常に自分を押しやっていたら。

「私のいない世界なんて」

凪沙の澄んだ声が、雨音の間を縫うように俺に届いた。

「私のいない世界なんて、全部洗い流されて消えてしまえばいい」

どこか投げやりな、だけど強い意志も含まれた言葉。

「…凪沙は、今ここにいるだろ」

俺は雨を見ながら呟く。

「私が今ここにいるということを、今ここにいてもいいということを、認めてくれるモノが何もないわ」

俺は凪沙を見る。背中を丸め、俯き、髪からは雫が滴り落ちている。かつて見たことがないほど、打ちひしがれていた。

「…俺が認める」

雨音に打ち消されそうな声量。だけど凪沙の耳にはちゃんと届いて、凪沙は顔を上げた。

「たとえ世界がお前の存在を認めなくても、俺がお前を認めてやる」

自分で自分を殺したくなるような臭い台詞だ。
呆気に取られたのか、凪沙も何も言わない。

「世界と張り合うつもり?」

凪沙が言った。俺はゆっくりと口を開く。

「まさか。俺は神でも悪魔でもない。どこにでもいる高校生だよ」

「…ちょっとだけ頼りない、ね」

凪沙が少しからかうように言った。俺はぽりぽりと頭をかき、凪沙の目を見据えた。

「俺は、頼りない一《いち》高校生として、頼りない一《いち》高校生のやれることを全力でやるよ」

「え?」

凪沙が少し驚いたような目で俺を見る。
俺は大きく息を吸ってから、言葉と一緒に吐き出した。

「凪沙の記憶を取り戻す。凪沙の存在を世界にも認めさせる。そのために、全力を尽くすよ」

大雨の中、バス停の屋根の下で。

俺は、生まれて初めて本気で願った。

この目の前の少女が抱える孤独や不安を、何もかも消し去ってあげたいと。

「……」

凪沙は無言だ。一向に止まない雨と雷が、ひたすら地面を打ち続ける。

俺は歩みを進めて、凪沙の隣にそっと腰をおろした。二人の距離が縮まる。

すると-。

「え…?」

凪沙が、突然俺の肩に頭を乗せてきた。

「ちょ…おい…」

心臓の鼓動が一気に早まる。リンスの良い匂いが鼻をくすぐり、凪沙の濡れた身体から発せられる熱が伝わる。

「間宮くん…」

凪沙が呟いた。


「今だけ…許して」


凪沙から発せられた声。そこには、どうしようもない孤独や不安、寂しさの色があった。ぽやっとしていた頭が、徐々に覚醒していく感覚がした。

「うん…」

俺は、凪沙の肩に手をまわそうとしたが、やめた。

俺が本気で凪沙を助けたいという気持ち。

そして、居場所という居場所をなくした凪沙の、底の見えない孤独。

二人の抱える思いは、痛いくらいに伝わり合っていた。