診察の結果、予想通り、捻挫だと言われた。

「良かったです。もしも骨が折れていたらと思ったら……」

 オヨヨヨヨ、と隣で口を押さえているのは、昨日、初めて会った私の旦那様、筒鳥肇さんである。
 恥ずかしいからと、すぐに車の中には入ったけれど、病院内では目も当てられなかった。肇さんはまるで、大病を克服した人のように私に接していたからだ。

 捻挫だって言いましたよね。さらにもう一つ、私は付け足した。

「あの時、捻った、と言ったではありませんか。大袈裟な」
「いいえ。そんなことはないです。現に、立っていられないほどの痛みに見えました」
「それは錯覚です。私は立てます。実際、肇さんの横で立っていましたよね、昨日。さらに今朝も、肇さんが部屋にいらした時の私は、立っていたと思うんですが」

 身支度を整えて、さぁ朝食を食べに行くぞ、と部屋を出ようとした直後、肇さんが私の部屋を訪れたのだ。
 これまで何度も会わせてほしい、と頼んでも会わせてもらえなかったのに、とんだ豹変ぶりである。

 昨日はたまたま、問題が発生したから、私の前に現れたのだとばかり思っていたのに……。

 私を困惑させたのは、これだけではなかった。なんとその後、ダイニングまで歩くのは大変だから、と私を横抱きにしたのだ。
 廊下では使用人たちから、驚きの眼差しを一身に受け。ダイニングでは一足先にテーブルについていた冴子様に、温かい視線を向けられてしまい……私の羞恥は限界を超えた。

 もう、気にした方が負けなのだと。そう、思うことにした。
 だって、この病院に行く時でさえ、車に乗るまでと降りてからは、自分の足で歩かせてはもらえなかったのだ。

 その理由が、先ほどの肇さんの言い分である。

「あれは僕が横で支えていたからです。今朝は芹の手を(わずら)わせないように早起きしたのでしょう? 弓維さんは何でも一人でやろうとするから」
「……そこについては否定しませんが、どうしてそこまで、私のことを知っているんですか? 冴子様や芹に聞いたのであれば、どれだけ肇さんに会いたがっていたか知っていたはずです」

 あの秘密の文通相手に愚痴るほどに。

「……拒否していたのは、謝ります。そこまで弓維さんが不便をしているとは、思ってもみなかったんです。こういう容姿ですから、僕も色々と不安で……」
「あの時、肇さんの容姿について、私と冴子様だけが大丈夫だと仰いませんでした?」

 昨日、初めて会ったというのに、何故か肇さんは確信を持って言っていた。それなのに、不安とはどういうことなのだろうか。
 すると、肇さんは柔らかい笑みを私に向けた。ドキッと胸が高鳴るほどの。

「母さんはともかく、弓維さんは随分と年月が経っていましたから。今も変わらないままなのか、なんて誰にも分かりません」
「……やっぱり、私と肇さんは昨日が初対面ではないんですね」
「はい」
「すみません! 私……」
「いいんですよ。大丈夫ですから。だから頭を上げてください。それに約束したではありませんか。僕が弓維さんの前に、姿を現さなかったのか。それをお話すると」

 そうだけど。今の会話と合致しない。肇さんは何が言いたいのだろうか。

「そのために、ちょっと寄り道をしたいのですが、いいですか?」
「構いませんが、屋敷ではダメなんですか?」
「はい。弓維さんに思い出してもらうためには、あの場所がいいんです」

 場所? 肇さんと初めて会ったかもしれない場所とは……。

「そこはどこですか?」
斐川(ひかわ)神社(じんじゃ)です」
「え?」

 そこって、実家である川本呉服店の近くにある神社。小さい頃は何度も何度も通ったから覚えている。けれど、そこで肇さんに会った記憶はない。多分、だけど。

 私は改めて肇さんを見る。金色の瞳は、昔遊んだビー玉のように美しく。青味がかった黒髪は、油を塗ったのかのように艶を帯びている。

 いつ頃、斐川神社で会ったのか分からないけれど、子どもの頃の肇さんは綺麗だったんだろうな、とつい想像してしまった。

「……弓維さん」
「はい」
「そろそろ、手を離してくれませんか?」
「え?」

 気がつくと私は、肇さんの髪を撫でていた。その後、車の中で悲鳴を上げたのは言うまでもない。


 ***


 斐川神社は、けして大きな神社ではなかった。いや、こじんまりしているからこそ、小さかった私が気軽に行けたのだ。
 夏は暑さを凌ぐために、御神木に覆われた境内へ。何を言っても聞く耳を持ってもらえず、悔しくて座り込んだ石鳥居。

 ひたすら喚きたくて、暴れたくなった時も行って、境内を駆け回った。参拝者が少ないからできたことだけど。今、思うととても失礼な子どもだった。

「あの、降ろしてください。いくら何でも、これは神様に失礼ですよ」

 散々、子ども時代に失礼なことをしてきた実感が湧くと、罪悪感に苛まれた。けして、肇さんに横抱きにされたまま参拝するのが恥ずかしい、というわけではない。

「怪我人を歩かせる方が失礼なのでは?」
「怪我をしていても歩けるのに、これでは甘えているのと同じです」
「僕は今までの分も、弓維さんを甘やかしたい、という表明を神様にしたいのですが」
「っ!」

 今まで拒絶されていただけに、反論できなかった。

「これからは、誰がどう見ても、弓維さんを筒鳥家の嫁と言わせて見せます。もう、使用人などと言わせません」
「……その節は兄がとんだ失礼を」
「いいえ。お陰で弓維さんとの距離が、こうして縮めたのですから。それに、これで弓維さんも、母さんに恩返しができるのではありませんか?」
「え?」
「嫁として、堂々と渡り合えれば、母さんの負担も減ります。母さんの秘書として枠から、脱せられるんですよ」

 私、肇さんに言ったことがあった? ううん。昨日も今日もバタバタしていて、そんな会話をする余裕はなかった。それなのに……。

「どうして?」
「知っているのか、ですか? 答えは……あぁ、ここです」

 肇さんは私が降ろして、と言っていたのにも関わらず、石鳥居をくぐり、境内の奥へと歩いていた。参拝できる状態ではないとはいえ、これはいいのだろうか。
 しかし、そうも言っていられなかった。何故ならその場所は、私がよく泣いていた場所だったからだ。

 まるで抜け道に繋がるかのような小道に、私は視線を逸らせなかった。ここなら、神主さんにも参拝者にも気づかれずに、ずっと身を潜めていられる。
 私が見つけた、秘密基地のような場所だったのだ。

 それをどうして肇さんが?

「参ったな。これだけでは思い出してもらえなかったようですね」
「……すみません」
「では、ヒントを。ここで誰かに物を貰いませんでしたか? 子どもには似つかわしくない、万年筆とか」
「っ! まさか!」

 あの万年筆と紙をくれたのが、肇さんだっていうの? それじゃ、今まで私の愚痴を……本人に!?

「すみません! 私ったらそうとも知らずに……」
「いいんですよ。弓維さんの本音を知れる、貴重なやり取りでしたから、とても嬉しいんです。まぁ、一番は僕を“梅の君”と名付けてくれたことですが」
「だって、私にとって梅の君は、秘密の文通相手であると同時に、何でも話せる大切な友人だったから」
「ありがとうございます。だから、知っていたんです。弓維さんが川本呉服店の跡を継ぎたいこと。そのために勉強を頑張っていたこと。けれど認められずに、嫁に出されそうだったこと。そこで母さんの姿に希望を抱けたこと。母さんのようになりたい、と望んだから僕は……」
「私の前に姿を見せてくれなかったんですか?」

 大旦那様のように、家にいない存在になろうと。自分の存在が、私の邪魔にならないようにと。

「そんなのおかしいです。大旦那様あっての冴子様なんですよ。私が表立って働けるようになるには、肇さんの存在が欠かせません。どうして、それが分からないんですか」
「怖かったんだよ。父さんのようにできることも、この容姿のことも、全部」

 肇さんの口調から突然、敬語が取れた。だから、私も。

「それは当たり前のことよ。私だって怖いもの。嫁いで来て、右も左も分からなくて、誰も助けてくれない。それがどんなに怖かったか」
「ごめん」
「今だって、冴子様に啖呵を切ったのはいいものの、洋装店の経営が上手くいくのか、不安なんだから。もしも失敗したら、父さんと兄さんに「ほれ見たことか」って後ろ指を刺されてしまうわ」
「そんなことはさせないよ」
「……あと、肇さんは優しいから、つい自分の容姿を忘れてしまいそうになるの」
「え? 十分、可愛いけど」

 肇さんは本当におかしいくらい、私を肯定してくれる。未だに降ろしてはくれないけれど。

「綺麗な、筒鳥家の嫁に相応しい着物を身につけていなくても?」
「もう仕送りしなくていいんだから、好きな物を好きなだけ誂えたらいいよ。足りなかったら、僕が出すから」
「貧乏性の私が?」
「慣れないのなら、僕がプレゼントしてあげる。万年筆もそうだっただろう?」

『兄さんばっかり。私も万年筆が欲しい!』
『それならこれをあげる』
『だ、ダメだよ。こんな高級そうな物』
『どうして? それにこれは特別な万年筆なんだ』
『特別?』
『うん。僕はもう、ここに来れそうにないから、今度はこれを使って話を聞いてあげる』

 そう言って、ここで紙と万年筆をくれた少年。文通のやり取りを教えてくれたのも、その時だった。

「あっ」
「ようやく思い出してくれた?」
「はい。でも、何で?」
「もっと弓維さんと話したかったから。あと、この縁を繋いでおきたかったんだ。だから、川本家が弓維さんの嫁ぎ先を探しているのを知って、母さんに相談した。誰にも弓維さんを渡したくなかったから」
「どうして、私にそこまで?」

 執着を? 今となっては有り難い話だけど、ちょっと怖くなってきた。