「どうしたらいいの?」

 今はまだいいとして、その後だ。そう、冴子様が無くなられた後のこと。
 四十五歳になられた冴子様に、病気の兆しはない。けれど突然、事故に遭うことだってある。

 車が普及し始めてからというものの、各地区で事故が多発していると耳にした。死者も出ているという。危険な乗り物だけど、ハイカラ好きな冴子様はいち早く取り入れた。

 だから私もその利便性は理解できるけど……。

 乗っている側も、事故を起こせば怪我をする。当たり所が悪かったら……!
 考えただけでも恐ろしかった。とはいえ、外出を控えてほしいなどと進言することはできない。

 地方の鉱山や工場を回っている大旦那様に代わって、この筒鳥家を仕切っているのが冴子様なのだから。

 もしかしたら、肇さんもそちらに……? いやいや、仮にそうだとしたら、大旦那様の帰りと共に、姿を見せてもいいところ。
 けれど私は、その時すら姿を見たことがない。

 それじゃ、やっぱり……。

 このどうしようもない気持ちを抱えたまま、椅子に座り、目の前にある机の引き出しを開けた。
 整頓された引き出しの中から、綺麗に四つ折りにされた紙と、梅の絵柄がついた万年筆を取り出す。

 私はそれらを机の上に置き、紙を丁寧に広げた。手のひらサイズにまで折られた紙は、広げてもメモにできないほど大きすぎて、ノートとしては枚数が足りない。

 日記にすらできない紙だったけれど、私は躊躇(ちゅうちょ)せずに、思いの丈をその紙に書き殴った。


 ◇◆◇


 拝啓、名も知らぬ梅の君へ

 もう何度目になるか分かりませんが、お義母様に夫のことについて、進言しました。けれど結果は変わらず仕舞い……。
 いえ、蔑ろにされているわけではありません。嫁の立場なのに、愚痴を聞いてくださるお義母様なんて、どこを探してもいらっしゃいません。ましてや、夫のことで。
 本当にできた方だと思っています。けれど、その方をもってしても、夫に会うことすら叶わないなんて……私は一体なんのために嫁いできたのでしょうか。
 ただ実家に仕送りしてもいい家だった。融通の利く家だった。これは川本家の都合です。
 では、筒鳥家にとっては? お義母様の秘書であれば、嫁でなくても務まります。

 私はただ、恩返しがしたいのです。嫁として。私にしかできない、恩返しが……。
 いえ、違いますね。他の使用人たちの目が気になるのでしょう。無下にはされていなくても、同情されているのを感じるので。

 だから今日は思い切って、離婚していただきたい旨を伝えました。
 これで何が変わるのかは分かりませんが、何も言わなければ、現状を変えることはできません。声を上げなければ、誰にも気づいてもらえないのです。

 弓維


 ◇◆◇


 私は書き終えると、万年筆を紙の上に置いた。そして梅の絵柄をなぞる。すると、万年筆に描かれていた梅の絵柄が光を放ち、大きく浮き上がった。
 光はそのまま下にある紙へとゆっくり、まるで水に溶けるかのように滲んで消えた。紙に書かれた文字と共に……。

 どういう理屈なのかは知らないが、この手法で手紙の内容は相手側に伝わる。同じ紙を持った相手。
 そう、梅の君と勝手に名付けている、顔や名前も知らない、私の秘密の文通相手に。

 何故、この紙と万年筆を持っているのか。誰から貰った物なのか。はたまた、いつ私の手元にあったのかすら覚えていない。だけど、やり方だけは知っている。

 不思議な紙と万年筆。そして、謎多き文通相手。

 けれど私は、それを不気味だと思ったことはない。恐らくもうすぐ来る返事が理由だった。

 机の上の紙が再び光り出す。先ほどと違い、梅の模様ではなく、桜草の模様が浮かび上がった。と同時に消えていく。今度は水の波紋のように。

 その美しさに見惚れていてはいけない。何故なら紙の上に、消えたはずの文字が浮かび上がって来たからだ。


 ◆◇◆


 拝啓、可憐な桜草の姫君へ

 離婚とは、穏やかではありませんね。筒鳥家での生活にご不満はないのでしょう? 他に好いた方も……。

 それならば、早まるべきではありません。恩返しがしたいのであれば、尚更です。筒鳥家にいるべきだと思います。

 けれど、離婚をお望みなら今一度、大奥様に尋ねてみるのは如何でしょうか。進展があるかもしれませんよ。

 名もない者より


 ◆◇◆


 どうしたんだろう。いつものように私を励ます文章が一つもない。怒ってしまわれたのだろうか。

 私は万年筆の梅の絵柄をなぞった。紙を再び白紙にするために。


 ◇◆◇


 怒っていらっしゃるのですか? 私が逃げようとしたから。
 いつも懸命に働く私を褒めて、慰めてくれたのに。その全てを投げ捨てるような考えをしたからですか?

 そんなつもりはなかったんです。私はただ、言い様のない不安を解消したかっただけで……。
 いつも貴方には情けない姿を見せてばかりいたので、甘え過ぎました。

 もしまだ私に失望していなかったら、返事をいただけないでしょうか。

 弓維


 ◇◆◇


 書き終えた後にハッとなった。これでもし、返事が来なかったらどうしよう。それでも望みを託して、梅の絵柄をなぞった。


 ◆◇◆


 怒っても失望してもいませんよ。ただ、そこまで追い詰められているとは知らず、ずっと理解できていなかった自分に腹を立てているのです。

 貴女はずっと川本家を出たがっていた。女だからと、家業を継げない身が。意見すら受け入れてもらえない身が悔しいと。
 けれど筒鳥家は違う。大旦那様は大奥様のできない部分を補い、支えている。お陰で誰も、大奥様が筒鳥家を仕切っていても、文句を言うものはいないのです。

 この形が貴女にとって、理想的な形なのではありませんか? それなのに、離婚して出て行かれると、本気で言うのですか?

 僕の見解が見誤っていたのなら、謝ります。だから今一度、貴女の夫にチャンスをくれませんか? 僕の方でも説得して見せますので。

 名もない者より


 ◆◇◆


 あれ? 確かにそう思っていたけれど、梅の君に言ったことがあったかな。もしかしたら、色々と愚痴を聞いてもらっている内に、ポロっと書いてしまったのかも。

 ずっと、幼い頃から胸に秘めていたことだったから。

 『女の癖に意見するなど、小賢しい真似はするな』と。私からしてみたら、小賢しいことを言われているそっちが悪いのだ。
 言われたくなければ、言われないように動けばいいだけのこと。何故それが分からないの?

 そこに男も女も関係ない。けれど世の中は違う。生意気な女など、邪魔なだけなのだ。
 だから私は追い出された、実家に。

 梅の君の言う通り、筒鳥家は私にとって最高の場所だった。私を小賢しいと言わない冴子様。大旦那様も温かく迎い入れてくださった。
 こんな光栄なことはない。肇さんのことがなければ……。

 私は再び万年筆を取り、冴子様に尋ねてみる旨を書いた。離婚の意思はともかく、肇さんにチャンスを与えることで何か好転するなら、それに望みをかけたくなったのだ。