男装喫茶ベラドンナの親密な関係

 11月1日。それは、学内演劇主演投票の結果発表の翌日のことだった。カトリックの教えをカリキュラムに取り入れた私立山手清花女子学院では、昨日まで校内を彩っていたハロウィンの装飾を片付ける日になっていた。
 放課後、クラスで出た廃棄物を詰めたゴミ袋を手に樹里亜がゴミ捨て場へやってくると、そこには水景の姿があった。橙色の南瓜の残骸がゴミ袋越しに透けて見える様子を、彼女はぼんやりと眺めていた。

「……波止場先輩、こんにちは」

 樹里亜に声をかけられて、水景はようやく顔を上げた。

「ああ、樹里亜ちゃん。こんにちは」

 樹里亜は手に持っていたゴミ袋をゴミ山の上に積むと、近くの水道で手を洗う。水景もそれに倣って手を洗った。

「主役……なれなかったな」

 水景の独り言に、樹里亜は一瞬動きを止めた。すぐに蛇口を閉め、ハンカチで手を拭く。

「わたしも主役にはなれなかったですよ」
「でも、樹里亜ちゃんは最初から主役狙いじゃなかったじゃん」

 樹里亜が必死に捻り出した慰めは一蹴される。

「わたしの望みは、主役の波止場先輩と共演することでした。それも叶わなかったので……願いが叶わなかった者同士という点では、一緒ですね」
「そう……俺はどうしてれおなちゃんに負けたのかな」
「さあ……わたしは絶対、波止場先輩の方が舞台上で輝けるって思いますけど」
「……」

 頑なに水景を肯定し続ける樹里亜に、弱った水景はぐらついた。

「……樹里亜ちゃん。明日、空いてる?」
「え? 明日は土曜日だから、部活の日じゃ……」
「明日は死者の日のミサだから、部活はないよ。ミサも自由参加だし、参加しない人にとっては休みの日」
「そうだったんですね。じゃあ空いてます」
「明日、打ち上げでもしよっか」

 それは遠回しなデートのお誘いだった。樹里亜は想い人の波止場先輩がようやく自分を見てくれたのだ、と喜びで顔を赤くしながら微笑み返す。

「はい、ぜひ!」

***

 時は遡ること数時間前。いつものように学食にやってきた水景と七夏は、食券の列に並んだ際の妙な空気に気がついた。

「七夏、俺の顔に何かついてる?」
「綺麗なお顔がついてるかな〜」
「冗談でも嬉しいけど違う。そうじゃなくて……」
「察しなよ。昨日の今日でしょ?」

 七夏が突き放すと、鈍感な水景はようやく察することができた。つまり華やかでよく目立つ「絵になる二人」が揃って主演ならず、という結果を受けて噂話されているのだ。

「……どうする? やっぱり学食やめて購買に……」
「今更めんどくさいからいい」

 怯む水景をよそに、七夏はいつも通り注文を済ませる。
 今までずっと――城ケ崎碧の居なくなった山手清花の中では――最も人気があり、ちやほやされてきた水景は、落胆や憐れみの感情を向けられることに慣れていなかった。その点、芸能界を去る際に散々陰口を投げかけられてきた七夏の方が強かだった。
 周りが勝手に距離をとってくれるので、七夏が進む道は開く。さながら十戒を唱えたモーゼのような光景だった。遠慮なく開かれた道を進み、七夏はいつもの席(ベストポジション)へ着いた。

「水景は食べないの?」
「あ、食べる……」
 七夏に急かされて水景は本日の定食Aを注文し、慌てて七夏の前に座った。
「激辛担々麺おいしー」

 平常運転を貫く七夏を見て、周囲の噂好きの少女たちも各々の雑談に話題を戻したようだった。水景は少しの安寧を得て、食事に取りかかる。
 しばらく無言が続いた。食べるのが早い水景が先に箸を置き、正面に座す銀髪の幼馴染の顔色を伺いながら切り出す。

「……あのさ、七夏。明日って休みじゃん?」
「んー? そうだねぇ」
「あの、結果も出てひと段落って感じだし……どこか出掛けに行かない?」

 七夏はマイペースにれんげで激辛スープを啜り、さらりと返した。

「めんどくさいからやだ」

***

 通学鞄を手に淑乃が下駄箱へやってくると、ちょうどれおなと出くわした。出方を間違うとぎくしゃくするのが目に見えていたれおなは、少し食い気味に挨拶を投げかけた。

「川嶋さんごきげんよう!」
「あっ……ええ、ごきげんよう、磐井さん」
「今から帰るところ?」
「ええ……あの、磐井さんも? よかったら一緒に帰りませんこと?」
「およ? 川嶋さんって車送迎じゃなかったっけ?」
「……ええ、まあ、そうですわね……」

 淑乃は上手な言葉が見つからずに濁す。

(私とお話ししたかったのかな? でも今日は予定があるからなー)

 れおなはなんとなく淑乃の心情を読み取るが、だからといって彼女の求める返しはできなかった。

「あの……磐井さん。明日なんですけれど……磐井さんは、なにかご予定がありますの?」
「明日? 磐井は死者の日のミサは不参加だから、お休みかな〜」
「えっと……一時間だけ! ……一時間だけ磐井さんのお時間、わたくしにいただけませんか……?」
「うん? 何時とか時間指定ある?」
「午前11時から12時まで。いかがかしら……」
「いいよ。どこで待ち合わせする?」
「磐井さんのお店の前でもよろしくて?」
「わかった」

 無事に約束を取り付けると、淑乃は安堵のため息をつき、軽くお辞儀をしてその場を去った。



 れおなは淑乃の後ろ姿が見えなくなるのを確認し、校門とは反対方向へ急いだ。手入れされなくなって久しい木々の生い茂る小道を抜け、廃教会へ辿りつく。
 教会の扉をノックすると、中からジュリが現れた。

「ごめん、待った?」
「俺も今来たとこ」
「それって気遣い屋の台詞じゃん」
「着替えがあるんだからそんなに早いわけないだろ! いいから中に入りなよ、れおな先輩」

 ジュリに腕を引っ張られて、れおなは教会の中へ入る。後ろ手に扉を閉め、ジュリに連れられて喫茶室に入った。明るい照明に彩られた喫茶室の中は少し肌寒い季節になってきた。今日からカーディガンを着て登校してきたれおなは袖を少し引っ張って暖をとる。その様子を見て、ジュリはひざ掛けを差し出した。

「今日のれおな先輩の席はそっちね」

 ジュリは部員側の席に座り、れおなはその隣に座る。穏やかなレコードの音が心地よい。

「あ、一応やっておこうかな」

 取ってつけたようにジュリは言い、れおなに向き合った。

「ようこそ、喫茶ベラドンナへ」

 今日のシフトはジュリで、客人はれおなだった。

「お客様の気分はどう? れおな先輩」
「……なんか秘密の逢引みたいだね」
「逢引て! 表現古めかしいよ」

 ジュリはバシバシと膝を叩いて笑う。

「うるさいなぁ」
「ごめんって。ほら、メニュー表ですよ~」
「いらない。マスカット&金木犀ね」
「了解。お菓子を出すのだ」
「その言い方、私以外の人にやっちゃダメだよ?」
「れおな先輩にはいいんだ? やった」
「あ~通じない……ほんと調子狂うんだから。はいお菓子はこれね」

 れおなはテーブルの上に包みを出す。

「これなに?」
「抹茶カステラ」
「初めて食べるやつだ!」
「老舗の和菓子屋で有名なんだけどね。……その、ジュリくんが食べたことなさそうなものにしてあげようと思って……感謝したら?」

 れおなが熱くなる顔を逸らして言うと、ジュリは心底嬉しそうな笑顔を見せる。

「嬉しい! ありがとうれおな先輩!」
「さっさと支度してきなさい」
「はーい!」

 ジュリが抹茶カステラを手に退室すると、れおなはスマホを取り出す。

(忘れないうちに川嶋さんとの予定書いておかないとね。11月2日土曜日の11時から12時……っと)

 スケジュールアプリに淑乃との予定を入力すると、ちょうど初瀬からも返信があった。

『連絡ありがとう。その時間に現地集合だね。じゃあ後で』

 れおなは『よろしくお願いします』のスタンプを送信し、スマホをポケットに戻す。

「お待たせれおな先輩!」

 ティーセットを手に戻ってきたジュリはテーブルにポットとカップを並べ、カステラの皿を置く。

「お手並み拝見」

 れおなは湯気の立ちのぼるティーカップを手に取り、香りを楽しむ。それから少し息を吹きかけて冷まし、ひと口飲んだ。

「合格」
「やった! 俺も飲ーもうっと!」

 上機嫌でジュリも紅茶を口に含む。

「我ながら美味しい! 実はこれ初めて飲む茶葉なんだよね」
「それはよかった。カステラもお食べ」

 れおなに促されてジュリは抹茶カステラにフォークを刺した。

「これ好きな味かも! マスカット&金木犀が和風のお菓子に合うとはね~」
「それは紅茶のパッケージの裏面に書いてあるから……」
「親切だなぁ。こしあんの和菓子にも合うって書いてあるよ?」
「それはまた今度ね」
「楽しみにしてま~す」

 ジュリは不意にれおなの皿からカステラをひと口分に切り取り、フォークを差し出した。

「れおな先輩、あーん」

 動揺を隠しきれず、れおなは無意味に左右をきょろきょろを見るような仕草をした。

「誰も見てないに決まってんじゃん」
「っ……ジュリくんってそういうことするよね」

 観念してれおなは差し出されたひと口をぱくりと食べる。

「美味しい?」
「まあね……」

 紅茶で口の中の油分を流してから、れおなは言う。

「ジュリくんてさ、私と付き合ってる気分になってない?」
「いやいや。片想いのフワフワした気分を楽しんでるところだよ。そう言うれおな先輩はどうなの? 俺のこと、好きになってくれた?」

 ジュリはれおなの目を覗き込む。女性の背丈でも座高が高くなるように、部員側の椅子は少し脚が長いので自然と上から屈まれる格好になる。

「完全に信用したわけじゃないし……」
「えーっ! なんでなんで? 俺ってそんなにチャラそうに見える?」
「見た目だけならかなりそう見える」
「ガーン……」

 ジュリは落ち込んで項垂れる。

「いきなりキスしてとか迫ってきたのが未だに響いているというか……」
「それ、そんなに減点だった……?」
「そりゃそうでしょ」

 あまりに落胆した声色のジュリを見ると、れおなとしてもやや罪悪感があった。

(嫌いとかじゃないんだけど、グイグイ迫られて流されるとかちょっと自分が許せなくなりそうだし……)

 れおなが必要以上に頑なになるのは、意地を張っているせいだった。

「……ジュリくんのこと嫌いってわけじゃなくて……嫌いだったらわざわざ予約したりしないし……」

 れおながフォローを始めると、ジュリはスンと立ち直った。

「確かに。じゃあなんで来てくれたの?」
「ちゃんと交流しないと、ジュリくんがどんな人か分からないから。一回デートしただけじゃ、相手のこと深く知るのは難しいでしょ?」
「そっか……前向きに検討はしてくれてるんだ」
「だから今日結論を出せって言われても無理だよ〜」

 れおなはポットから二杯目の紅茶を注ぐ。

「あっ、言ってくれたら俺が入れてあげたのに」
「このくらいできます〜」
「お客様に手酌させるのは……」
「お酒じゃないんだから! ふふ……」
「ねぇ、れおな先輩。明日もデートしようよ」
「また? 先週も行ったのに」
「俺のこともっと知ってほしいし、好きになってほしいし、れおな先輩と一緒に居たいんだよ。ダメ?」
「まあ……いいけど。午後からでもいい?」
「12時くらい?」
「12時半くらいかな。どう?」
「やった!」

 ジュリはれおなに午前中の予定があることも気づかず、ただ無邪気にはしゃいでいる。

「じゃあメモしとこ。12:30に予定あり、と……」

 ジュリはテーブルと壁の隙間に隠していたらしいノートに明日のデートの予定を書く。

「それなに?」
「樹里亜との交換ノート。大事な予定があるときはここに書いておく決まりなんだ」
「ああ、記憶を共有できないから?」
「そゆこと。れおな先輩とのデートって書くと不審がられるから、ぼかした書き方にはなるけど」
「賢明な判断だ。ジュリくんもおかわりいる?」
「お願いします」

 これじゃ立場逆転だな〜、と茶化しながられおなはジュリのカップに紅茶を注いだ。

「れおな先輩的には、どこまでOKなわけ?」
「なにが?」
「手を繋ぐのは……いいんでしょ?」

 ジュリはれおなの手をそっと握る。それは先日のデートでも受け入れた行為だった。

「どこまでならいいのかって許可とるの、なんか不純だよねー」
「えぇ!? どういうことだよ……」
「『どこまでが浮気じゃないですか』って聞くのって、浮気しますけどいいですかって宣言みたいじゃん」
「俺はそんな浮気野郎じゃないよ!」

 ジュリの目は真剣だった。

(そんなことは分かってるんだよ、ジュリくん。決心がついてないのは私だけなのかもね)

 二人の間には、しばし沈黙の時が流れる。一時間が過ぎるのは早い。無言のままで居れば、制限時間は訪れてしまうだろう。

「……れおな先輩。リボンの誓いって、知ってる?」

 それは学園の中で過ごしていれば、一度や二度は耳にしたことのある台詞だった。当然れおなも、その言葉の意味は知っている。
 ジュリはポケットの中から、制服のリボンタイを取り出した。

「俺と、交換してくれませんか?」

 僅かに震えるジュリの手の上、深紅のリボンタイをれおなは見つめる。

「……」

 無言のままそのリボンタイを手に取り、れおなは――リボンの輪の裏側を見た。
 私立山手清花女子学院の制服のリボンタイは、首にかけたまっすぐなネクタイをホック式のリボンで束ねる形になっている。つまりリボン部分は[[rb:解 > ほど]]けない構造になっているので、輪の内側は意図的に覗き込まなければよく見えない。そしてれおなは言った。

「これ、夜半月先輩のリボンじゃない?」

 ジュリの脳は追いつかなかった。数拍の思考ののち、戸惑いの反応を返す。

「……え?」

 自分の――樹里亜の制服から持ってきたリボンが、夜半月七夏のもの? 一体どういうことだろう。樹里亜は七夏とリボンの交換を行うだろうか? ありえない。ジュリから見ても、それは絶対にありえないことだと確信できた。ジュリの預かり知らぬところで樹里亜が誰かとリボンの交換をすることがあったとしても、その相手が七夏である筈がなかった。樹里亜は波止場水景に想いを寄せているのだから。

「あの……れおな先輩。それってどういう……いや、そもそもどうしてこれがナナ先輩のリボンだって言えるんだよ? 名前でも書いてあんのか?」
「書いてあるんだよ。名前が」

 思いがけず自分の問い掛けを肯定されてしまい、ジュリは更に混乱した。

「あれ、もしかしてジュリくんは知らない? 制服のリボンタイの裏にはね、名前の刺繍が入ってるんだよ。……他の生徒でもあんまり知らないのかな? 入学案内の資料の中に書いてあるんだけどなー。子供は読まないか。親御さんは目を通したかもしれないけど……」

 れおなは証拠を見せてあげる、と言わんばかりにリボンタイの輪の内側を見せてくる。そこには筆記体で『Nanaka Yowazuki』の金色の刺繍が入っていた。

「こんな特徴的な同姓同名の別人は、白砂さんの周りには居ないよね?」
「そりゃそうだろうけど……どうしてナナ先輩のリボンがここに……?」
「うーん。まず、白砂さんが夜半月先輩とリボンの交換をするってことは」
「ないだろ、さすがに」
「だよね。だとすると……ねぇ、ジュリくんは、白砂さんが『他人のリボンを勝手に自分のものと交換するタイプの人』だと思う?」

 些か失礼な質問ではあったが、ジュリは迷いなく答えることができた。

「するだろ、あいつは」
「ふむ。だとすると、こういうことは考えられないかな? 『白砂さんは、勝手に他の人のリボンと、自分のリボンを交換した』……」
「それは、ミカ先輩と? ……ってことは……まさか……」

 ジュリはある仮説に辿りつく。

「樹里亜はミカ先輩のリボンを、本人が知らないうちに勝手に交換した。けれど、ミカ先輩が着けていたのはミカ先輩のリボンじゃなかった……ナナ先輩のリボンだったんだ!」
「それが、白砂さんの手に夜半月先輩のリボンが渡る流れとしては一番自然だと思う」

 あまりのすれ違いぶりを理解し、ジュリは頭を振る。

「なんてことになってるんだよ……みんな一方的すぎるだろ。じゃあ、夜半月先輩のところには樹里亜のリボンが渡ってるってことか?」
「一番マシな状況ならね」
「れおな先輩の中にはまだ悪い想定があるの?」
「夜半月先輩がどこまで身勝手な人かによるかなぁ。これ言っていいか分からないんだけど……とか配慮してる場合でもないよね。夜半月先輩って、川嶋さんが好きみたいなんだよね」
「えっ!? シノ先輩のことを? ちょっと待てよ、そしたら男装喫茶部って……」

 ジュリはれおなが先に到達していた相関図に気づいてしまった。

「うん……ちょっと泥沼だよね。全員片想いとか……」
「仮にも女子の花園で夢の時間を提供する男装喫茶部が? 内部で人間関係完結してんの?」
「それを言ったらおしまいなんだよ、ジュリくん」

 れおなは苦笑いでリボンタイをジュリに返す。

「俺、このリボンタイどうすればいいんだろ」
「しばらくの間は黙っておくしかないんじゃない? 返してくださいって言ったところで揉めるだけでしょ」
「そうだよな……」

 そして定刻がやってくる。ジュリは名残惜しげにしていたが、時間は時間だった。それにれおなにはこの後の用事もある。

「今日はありがと、れおな先輩。来てくれて嬉しかった」
「うん。明日も会えるんだから、そんな寂しそうな顔はよしなさい」
「分かった。またね、れおな先輩」

 ジュリに見送られ、れおなは廃教会を出る。ちらりと振り返ると彼はまだ自分の後ろ姿を見ているようだったので、木々の生い茂る小道を抜けて校舎側へやってきた。どこかで時間を潰さねば、とれおなが考えていると、ちょうど合流を予定していた初瀬と鉢合わせた。

「あ、磐井さん。こんにちは」
「喜多川先輩! お疲れ様です。もうそんな時間でしたっけ?」
「ちょっと早かったかな」
「まだ今日のシフトの部員が片付けしてます。彼に見つかると説明が大変かも」
「分かった。じゃあ近くで……そうだな、自習室で待ってようか」

 初瀬の提案で二人は教室棟一階の自習室へ入る。この部屋の窓からなら、廃教会側から出る唯一のルートである木々の裏道を通る人が居れば確認できる。

「見張るにはベストポジションですね」
「そうでしょ。待っている間にこの後の流れを確認しておこうか。鍵は持ってるね?」
「はい。私、地下室のハッチの場所を知らないんですよね」
「じゃあそれは僕が教える。鍵でハッチを開けた後のことは、僕も分からない。実際に開けたことはないから。そうだ、光源……」

 初瀬は自習室の隅から非常用の懐中電灯を拝借してきた。

「これを持っていこうか」

 懐中時計を入れた初瀬の通学鞄はやけに膨らんでいる。

「喜多川先輩、あれ」

 れおなは窓の向こうのジュリを指した。

「今日シフトの部員?」
「そうです。この後は部室で着替えと後片付けなので、廃教会には戻らないですよ」
「なら行こうか」

 二人は自習室を出て、周囲に意識を配りながら木々の小道を抜ける。

「よし。誰も居ないね」

 扉の隙間から中を覗き込みながら、廃教会の中へ入る。しんと静まり返った教会の中、板張りの床が軋む音が響かぬようにゆっくりと進む。

「こっちだよ」

 初瀬に先導され、祭壇の裏側へ回り込む。ステンドグラスの真下、そこには鉄製のハッチがあった。

「本当にあった……気づかなかったです」
「もう僕たちの代だとここじゃなくて新しい教会でミサを行うからね。こんなの気づかないよ」
「そうですね。……開けますよ」

 無言で頷く初瀬を確認し、れおなは鍵を挿し込んで回す。錆びた金属同士が鈍く噛み合う音が鳴り、ハッチの鍵は開いた。取っ手に指をかけて天板を上げようとしたが、想像以上の重さでうまく上がらない。

「重たい? 手伝おうか」
「お願いします、喜多川先輩」

 二人がかりで力を込めるとようやく天板は上がった。

「これ、うっかり閉まっちゃうと下から開けるの大変そうですね。私が先に降りるので、喜多川先輩はハッチが閉まらないようにここで支えていてもらえませんか?」
「わかった。気を付けてね」

 れおなは通学鞄のポケットに懐中電灯を差し込んで光源を確保し、ハッチの中を覗き込む。地下室の入り口は硬く冷たい壁面に梯子状の足場が連なっているので、つま先と指先に神経を集中させながら慎重に降りる。一番下の足場からゆっくりと足を下ろし、床に到達した。

「結構深いですね」

 れおなは中の状況を説明しながら懐中電灯で照らす。ざっと見たところ、ここは戦時中防空壕だったらしい。老朽化は進んでいるが、頑丈な造りであることはすぐに分かった。

「もう少し奥まで見てみま……」

 れおなが言いかけたその時、悲鳴が上がった。初瀬の声だ。

「何するの、やめてっ!」

 これまで冷静な態度を崩さなかった初瀬の動揺した尖った声に、れおなは慌てて足場の真下まで戻る。

「どうしたんですか、喜多川先ぱ……」

 一階分の上空、そのハッチの周辺で人影がグラグラと動く。

(誰かと揉み合いになってる!? どうしよう、あそこから落ちてきたらただじゃ済まない!)

 先ほど照らしたときに部屋の隅に見えた古いぼろ布の山を手繰り寄せ、ハッチの下へ駆け寄る。

「ひゃっ!」

 れおなが到着すると同時に、誰かに突き飛ばされた初瀬が落下してきた。すんでのところで下に潜り込み、彼女を受け止める。

「う……」

 落下の衝撃は軽減されたものの、初瀬は呻き声を小さく上げてうずくまる。

「喜多川先輩! 大丈夫ですか!?」
「た、たぶん……」

 初瀬はそれだけ答えて気絶した。無理もない。れおなは反射的にハッチの方を見上げた。

「……!」

 その人物は、こちらを覗き込んでいた。れおなと目が合う。元より薄暗い廃教会、そこで覗き込む体勢になれば顔は陰になる。仄暗い逆光の彼女の顔は、恐ろしい化け物のように見えた。それでもなお――よく目立つ銀髪のロングヘアは、ふわふわと宙に浮いたようにはっきり見えた。

「ここで永遠に眠っていてくれる?」

 冷たい声色に、背筋が凍った。
 銀髪の彼女――夜半月七夏は、勢いよくハッチの天板を閉ざした。
 れおなは気絶した初瀬をぼろ布の上に寝かせた。冷たい石の床に直に寝かせるよりはマシだろう。

「さて……」

 動揺から落ち着いたれおなは、改めて壁の足場をのぼった。一番上まで到達し、下からハッチの天板を上げようと試みる。ただでさえ重たく、上から一人で上げるのも困難であるのに、不安定な体勢で下から開けようなどというのは無理な話だった。かなり鍛えた成人男性でも難しそうだ、とれおなは感じた。

「これは前途多難かな……」

 足場を降りて地下に戻る。まだ目を覚まさない初瀬を横目に、スマホを取り出した。物理的に開かない天板と格闘するよりは、他の手立てを考える方がいくらか現実的に思えた。

「圏外って久しぶりに見る字だな〜。ガラケーの頃はよく見たのに」

 どうでもいい独り言で気分を紛らわす。非常時こそ、平常心が大事だと思った。
 外部へ助けを呼ぶ手段を諦め、れおなは次に懐中電灯で地下室の探索を始めた。先ほどはぐるりと一周ざっと見ただけだったので、今度はくまなく調べる。

(皮肉なことに、時間はたっぷりありそうだからね)

 全体的に年月の経過で古びている石造りの壁面の途中、その中でも比較的新しそうな継ぎ目を見つける。

「隠し扉?」

 れおなは誰にともなく呟き、指をかけて扉を押した。非力な彼女には少し重い。肩を扉に押し当て、体重をかけてようやく開く。埃と黴が辺りに舞い、それらを吸い込んでしまったれおなは噎せた。

「けほけほ……探索も楽じゃないなぁ」

 鞄の中からハンカチを取り出し、口と鼻を押さえて隠し部屋の中へ足を踏み入れる。

「……」

 懐中電灯は、ある一点を照らし出した。それを目にした瞬間、唐突に臭気を感じ始める。視覚情報によって、腐臭が意識されたのだ。つまり、そこにあったのは――日常生活では到底見ることのないはずだった、人間の遺体だった。腐乱死体と表現するにはあまりにも原型を留めすぎており、死後何年も経過しているわけではなさそうだ、と直感で理解できた。腐り始めたその遺体は、清花の制服を着ていた。髪の色の印象は、確かにれおなが以前一度だけ会った城ケ崎碧のものと一致しているように思えた。
 遺体の凄惨な様子にれおなも怖気づいた。隠し部屋に入って数歩、そこから前に進む勇気はなかった。

(もう少ししっかり見るにしても、腹をくくる時間は欲しいな。喜多川先輩が目を覚ましてから相談しよう……)

 れおなは一旦隠し部屋を出て、扉を閉める。

 冬が近づく11月の日没、真っ暗な地下室は寒々しい。初瀬が眠っている場所まで戻ってきて、暖を取るように身を寄せる。あとどれくらいでこの場所を脱出できるだろうか? それとも、脱出の手立てが見つからずに自分たちもあの遺体のような末路を辿るのだろうか? 押し寄せる不安を抱えて、れおなは天井を見上げた。重たいハッチが開く様子はない。

「川嶋さん……ジュリくん……」

 明日の予定を思い、れおなは途方に暮れた。

「会いに行けないかも……ごめんね」

***

 11月2日、土曜日。その日の私立山手清花女子学院の校内は静かだった。死者の日のミサというのは、今年一年のうちに身内に不幸があった生徒とその家族などがやってきて弔いの時間を過ごす行事だった。まばらな来訪者たちはみな一様にまっすぐ教会――真新しい教会へ入ってゆく。
 死者の日のミサへ訪れた者の中に、白いセーラー襟の少女たちの集団があった。通常、この行事の趣旨として、来訪者は「一人の清花生とその家族」という組み合わせになることが多い。生徒同士の集団での参加者というのはつまり――親しい清花生の友人を亡くした少女たち、ということだった。

「碧……結局死んじゃったのかな」
「行方不明なんでしょ? あの碧のことなんだから、どこかで生きているかも……」
「でも、ひどい家族だよね。誰も碧が帰ってこないことを気にしてないんだから。失踪した当日も、家族からじゃなくてバイト先から問い合わせの電話があったなんて……信じられない」
「ほんと、薄情だよね」

 彼女たちは、昨年の冬に姿を消してしまった友人・城ケ崎碧のことを口々に語っていた。

「碧の手癖の悪いところはどうかと思ってたし正直キショ……とは思ってるけど、うちらにとっては楽しい友達だったのに……居なくなるなんて聞いてないし……」
「ね。いつか刺されるぞって冗談が言えてた頃が懐かしくなるなんてね」
「碧……どこ行っちゃったんだろうね……」

***

 午前11時。磐井洋品店の軒先で、淑乃はれおなを待っていた。想い人と初めて二人きりで出かけられることが、この上なく楽しみであった。それが例え、最後の思い出になるとしても。

(磐井さんはどんなお洋服で来るのでしょうか? 楽しみですわ……)

 悩みに悩んで選んだお気に入りの服。シルクのボウタイブラウスに、ヴァージンウールのミモザ色フレアスカート。ジャカード織りの日傘をさした彼女は、一目で育ちのいいお嬢様であることが見て取れた。街ゆく人々は、ぱっと明るく目立つスカートに目を奪われ、着こなす本人の佇まいに惚れ惚れしていた。
 11時10分。れおなはまだ来ない。

(おかしいですわね……磐井さんって待ち合わせには早めに来るタイプだと思っていました。部活動でも遅刻したことはありませんし……)

 11時20分。れおなはまだ現れない。

(……もしかして、わたくし約束をすっぽかされていますの……?)

***

 午前11時30分。樹里亜は、自室で出かける支度を済ませて最終チェックを行っていた。シフォンのフリルブラウスにハイウエストの黒いスカート、黒いニーハイソックス。ある意味ハードルの高い服装を、樹里亜なら着こなせた。

「お洋服よし、髪型よし! あとはネックレスでもつけようかな?」

 ジュエリーボックスの中から目ぼしいネックレスを掴み取る。

「これ、誰にもらったんだっけ? 何人前の彼氏だろ……? でも、わたしには波止場先輩が居るからもう要らないよね。過去の痕跡は消さなきゃ!」

 今度まとめてフリマアプリに出してしまおう、と樹里亜は不用品を仕分ける箱の中にダイヤのネックレスを入れた。

「じゃあ自分で買ったやつ着けていこうっと!」

 アメジストのプチネックレスを胸元に飾り、樹里亜は鏡の前で満足そうに頷く。

「後は……予定の確認」

 デスクの上のノートを開く。自分の中のもう一人、「ジュリ」との交換日記だ。

「えっと……数学と英語は月曜日までの課題あり。これは大丈夫。昨日の部活も問題なし。それから……今日の12:30に予定あり?」

 樹里亜はうーんと首を傾げた。

「それって、波止場先輩との約束のことだよね? ジュリくんはいつの間に知ってたんだろ? 正確には12時からだけど」

 その予定がまさか、ジュリとれおなのデートの約束を指しているなどとは夢にも思わない。そして男装をしないと表に出てこられないジュリが、樹里亜の致命的な思い違いを指摘することは叶わない。

「まあいいや。波止場先輩とのデート、嬉しいな!」

 家を出発して待ち合わせの場所へ向かう。休日の横浜駅は賑わっていた。駅ビル前へ到着し、柱を背に立って樹里亜はスマホを取り出す。

(ちょっと早かったかな? でも、遅れるよりいいよね)

 駅ビルの中を眺めると、幸せそうにショッピングを楽しむカップルが目に留まる。

(わたしも波止場先輩とあんなふうになれるんだ……)

 羨望する光景と、今からそれが叶う喜びで浮かれていると、不意に誰かから声をかけられた。

「すみません、この近くのおすすめのカフェって知りませんか?」

 それは大学生くらいと思われる見知らぬ男性だった。

「カフェですか? この近くだと、駅ビルの地下に紅茶の美味しいお店が……」
「じゃあ、一緒に行かない?」

 男性の急に馴れ馴れしい誘いに、樹里亜は呆れた気分になった。

(なんだ、やっぱりナンパか)

 樹里亜はにこりと微笑む。

「私、今から恋人とそこに行くので! どっか消えてください」
「あっ……あははー……そう……じゃ、失礼します……」

 力なくフェードアウトしていく彼の声に、樹里亜はほくそ笑む。すごすごと遠くへ去っていく男の哀愁漂う背中を見送り、もう一度スマホを取り出した。

(12時。そろそろ来るかな?)

***

 明かりを消した部屋。ブルーグレーの壁紙は、光のない空間では閉塞的な印象を与える。外はデートにぴったりの快晴だというのに、遮光カーテンは隙間なく閉ざされていた。デスクの前には大きなコルクボードが掲げられており、そこには銀髪の少女の写真が埋め尽くされている。天才子役として脚光を浴びていた頃の幼い彼女の写真。ネット記事の切り抜き。ドラマでの名シーンのスクリーンショットを印刷したもの。果ては、盗撮写真まで。
 夜半月七夏本人よりも夜半月七夏に執着した彼女――波止場水景は、仄暗い笑みを浮かべて七夏を見下ろした。そう、ベッドに手首を括りつけられた七夏を――。
 ここは、水景の部屋だった。水景は思い通りにならない七夏に痺れを切らし、彼女を監禁することにしたのだ。

「おはよう、七夏。気分はどう?」

 水景は達成感に満ちた様子で微笑む。対する七夏は無表情だった。

「最悪ってとこかな〜」
「違うでしょ、最高なんだよね? 怠け者の七夏は他人に面倒を見てもらえる方が楽だもんね」
「面倒を見てくれる人が誰でもいいなんて言ってないんだよね〜」

 昨日。初瀬を廃教会の地下室に突き落とした後、七夏は待ち伏せしていた水景に捕まった。あれよあれよと水景の家へ連れ込まれ、今は軟禁状態にある。

(現役時代のレッスンを続けていたら体力的に逃げ切ることもできたかな〜。まあそれを言っても後の祭りだよね)

 七夏はベッドの足と繋がれた手錠を外そうと試みる。

(撮影の小道具で見たことはあるし、外せないかな〜)

 当然、掌は金属の輪から抜けない。他の方法を考えながら、辛うじて触れることのできる鎖を撫でた。

「逃げようとしても無駄だよ。七夏はずっと俺のもので居てくれなきゃ」
「あたしが水景のものだったことなんて、今まで一度もなかったしこれからもないけどね〜」
「よく喋る口だね」

 水景はここぞとばかりに七夏を覗き込み、唇を寄せる。七夏は顔を背けようとしたが、顎を掴まれてしまった。同意のない口づけ。暫しの無言。

「しちゃった」
「きっしょ……」

 高揚する水景と、嫌悪感を露わにする七夏。二人の間には、埋めようのない隔たりがあった。

「俺、実はキスするのって初めてなんだよね。俺の初めてが七夏で嬉しいな」
「あたしは初めてじゃないけどね~」
「あー聞こえない聞こえない、そんなの七夏じゃないもんね。俺の七夏は、全部俺が初めてじゃなきゃ」
「事実改竄も甚だしい……」
「難しい言葉知ってるね!」
「あたし、水景ほどアホじゃないんだよね~」

 聞かなかったことにしようとしつつも、水景は少し声のトーンを落として訊ねる。

「……誰としたんだよ? 芸能人とか?」
「違う」
「じゃあ、誰と?」
「……あたしの邪魔した人、だよ」

 七夏は、五年前の出来事を思い返していた。

***

 芸能界への未練を絶つため、七夏は新たな生き甲斐を探していた。ちょうど私立山手清花女子学院中等部へ進学した彼女は、学業に励んだり、体育祭に向けて運動を頑張ってみたりした。しかし、進学校である山手清花には賢い生徒が多く、テストで上位を狙うのは難しかった。また、いくら演技のためのレッスンとして体力作りを行っていた七夏でも、小学生の頃から運動が好きでずっとトレーニングしてきた運動部の面々に勝つのも現実的ではなかった。
 七夏は心のどこかで一般人を――芸能人でない周囲の生徒たちを見下していた。しかしそれは思い込みだった。七夏が演技の練習に励む間、彼女たちも彼女たちなりに努力を積み重ねていた。その対象が勉学だったり、運動だったり人それぞれではあったが――平等に流れる時間を、それぞれの大切なことのために使っていた。だから、それを積み重ねてこなかった七夏が彼女らの土俵に挑むのは決して簡単なことではなかったのだ。
 自分の武器で戦える場所はどこか? 思い悩んだ七夏が見つけたのは、演劇部だった。結局彼女が勝てる場所は、嫌っていた演技の道しかないのだと思った。入部の前に部活見学を……と考えた七夏を迎えたのが、城ケ崎碧その人だった。女性にしては低い声の碧は、笑顔で七夏に問う。

「演劇部へようこそ! オレは中等部二年の城ケ崎碧です。入部希望の子かな?」

 黒髪にホワイトのエクステをつけ、黒縁のメガネをかけた城ケ崎碧は、なんと天才子役・夜半月七夏を知らなかった。若干プライドを折られたような気がして不服に思ったが、碧が七夏を知らないことは好都合であった。過去のことをいつまでも懐かしんでくる友人の鬱陶しさに飽き飽きしていたところだった。

「まだ決めてはいないんですけど。とりあえず見学を」

「オーケー、オレについてきて!」

 碧は七夏の手をひいて講堂の中を進み、階段状に連なる座席のもっともステージがよく見える特等席に座らせた。
 壇上では上級生たちが熱心に劇の練習をしている。七夏はそれを白けた目で眺めた。

(素人丸出しの演技。お遊戯会みたい)

 声の出し方、目線の配り方、立ち姿の重心、指先への気配り。プロであった七夏からみて、彼女たちの演技はなんともお粗末なものに映った。されど下級生たちはうっとりとした目で上級生の演技を見ている。

(まあ目の肥えてない人には分かんないか)

 七夏は心の中でため息をついた。それと同時に、ここでなら自分が一番になれそうだと思った。



 下校時刻になり、演劇部の面々はそれぞれ帰路についた。通学鞄を手にした碧は、七夏に声をかけた。

「どうだった?」

 七夏は表情と声色を作って答える。

「すごかったです」
「あ、嘘だね」

 間髪入れずに碧は指摘する。演技を見破られた七夏は少し驚いた。

「分かります?」
「そりゃあね。キミ、演技上手なんだね!」
「まあ……城ケ崎先輩って、テレビ見ない人ですか?」
「うん? そうだね、ネットしか見ないかも」

 なるほどそれであたしのことを知らないのか、と七夏は腑に落ちた。二人は講堂を出て、日の沈みかけた空の下へ出る。

「ねえねえ、オレのお相手してよ」

 碧の言葉の意図を、七夏は捉えかねた。

「お相手とは?」
「演技の練習の相手! オレたち下っ端下級生ってさ、全然名前つきの役もらえないの! だからできる練習にも限りがあってさ」
「なるほど……いいですよ」
「ほんと!? やった、じゃあこっちきて!」

 碧は七夏をとある場所へ案内した。それは古ぼけた教会――後に旧教会、と呼ばれる蔦の絡まるレンガ造りの建物だった。

「ここ、人が来なくて練習に最適なんだよね!」
「はあ……」

 もう時間も遅いのに、と七夏は一瞬思ったが、これが一生懸命打ち込める何かかもしれないと考え直した。
 教会の中は暗く静まり返っていた。碧は祭壇の上のカンテラに火を灯し、七夏に向き直る。

「そういえば名前聞いてなかった。キミ、なんていうの?」
「……夜半月七夏……」
「七夏だね。それじゃあ七夏、お手をどうぞ」

 ゆらめく灯火に照らされた碧は、恭しくかしずく。七夏は先程の演劇部の上級生が練習していた台本の内容を思い出していた。

「わたくしは毒の花、ベラドンナ。あなたは命を捧げる覚悟があるのかしら?」

 七夏の『本物』の振る舞いに、碧は瞳の中に嬉しそうな感情を灯す。

「ええ。すべてはあなたへの愛のために」

 七夏が手を取れば、二人きりのワルツが始まる。板張りの床を軋ませながら、優雅にステップを踏む。

「七夏、上手だね。どこで覚えたの?」
「まあ色々と」
「教えてくれないんだ?」
「知らなくてもいいこともありますよ」

 囁きで意思が交わせる距離。取り留めのない会話をぽつぽつと続けながら踊った。そのようなことが、何日も続いた。放課後の二人だけのエチュードは次第に、碧と七夏の心を近づけた。
 すっかり七夏が心を許した頃、碧は切り出した。

「オレと付き合ってくれない?」

 七夏は迷わず受け入れた。それが、二人が初めてくちづけを交わした日になった。



 季節は巡っていった。その間、水景から何度もアプローチを受けたが、七夏は知らぬ存ぜぬといった態度で受け流してきた。水景は面倒な存在ではあったが、隠れて碧と交流を重ねる七夏にとってはよい隠れ蓑だった。七夏は水景の把握しないうちに演劇部へ入部し、目立たぬ下働きのいち後輩を演じつつ、放課後の碧との逢瀬を繰り返した。親しくなるうち、碧は自分のことを話すようになった。自分は両性具有であること。そのせいで、両親から愛されなかったこと。「普通の女の子」として生まれてきた妹と比べて、軽んじられていること。健康のために必要な女性ホルモンの注射代のために、バイトの掛け持ちや援助交際を行っていること。七夏はすべて、受け止めた。

「七夏、これを受け取ってくれる?」

 放課後、教会にて碧は七夏に一本の鍵を差し出した。それは銀色に輝く太い鍵で、マンションや教室などの統一規格な場所に用いられるものではないだろうことは想像に難くなかった。

「これは、どこの鍵なの?」
「ここの鍵だよ。もうずっと使われていない地下室を開けるための鍵」
「どうしてそんなものを持ってるの?」
「最初にこの場所を練習場所にしようって決めたときに見つけたんだ。地下は防空壕だったみたいで、避難施設があるだけなんだけどね。秘密の共有ってドキドキしない?」
「いいね。もらっとく」

 七夏は受け取った鍵を、大切そうに握りしめた。



「城ケ崎先輩って知ってる?」

 ある日の昼時の食堂、少女たちは噂話に花を咲かせていた。七夏は水景と食事をとりながら、彼女らの話に耳をそばだてた。

「知ってる。短期間で彼女をとっかえひっかえしてるんでしょ?」
「彼女って……女同士じゃん。キモ」
「海外ドラマのイケメン俳優同士のBLなら美しくて好きだけど、レズはキモいよねー」
「自分が恋愛対象として見られるかもって思うとキショすぎてやばいわ」

 品性のない笑い声に、七夏は勝ち誇ったような気持ちになった。

(BLはよくて百合はキモいって基準が意味不明すぎ~。だいたいレズだからって女なら誰でもいいわけじゃないし。自分が性的な目で見られたらキモい~とか考えてるような人間のこと好きになるわけないじゃん! 自分が愛されるに値する人間かどうか考えてから発言しなよね~)

 そのうえ、碧は両性具有で心も中性であるので、女性ではない――つまり碧が女性と付き合ったところで、それはレズビアンの定義から外れる。

(ま、それを説明したところで理解できるわけないか。あたしが分かってればいいんだもんね。今までの他のどんな有象無象が碧の一時的な彼女にしかなれなかったとしても、あたしは特別だもん。なにもない凡人じゃない。あたしには愛される価値があるから!)



 七夏の余裕が崩されたのは、彼女が高等部二年の秋頃のことだった。
 いつものように下校時刻前の教会へ赴くと、そこには碧と見慣れぬ少女の姿があった。七夏は思わず建物の陰に隠れて様子を伺った。黒髪を高い位置で左右に三つ編みに束ねた少女の名前を思い出そうとする。

(誰だったっけ。ええと……そうだ、喜多川さんだ。下の名前は思い出せないけど。同じ学年だけどクラスが一緒になったことがないんだよね~……。でも、どうして喜多川さんがここに?)

 七夏がそのまま静観していると、二人の会話が聞こえてきた。

「初瀬は本当に演技が上手だね。今まで見てきた人の中で一番かも」
「お世辞どうもです」
「ほんとつれないね。本心なのに」
「碧先輩は誰にでもいい顔しますからね。今付き合ってる彼女さん、何人目なんです?」
「えー……忘れちゃった。二十……何人だったかな?」
「ほら、そういうところが気持ち悪いんですよ。最低ですね」
「じゃあもう会わなければいいのに」
「僕はあなたの人間性は本当にゴミだと思ってますけど、頑張り屋なところは嫌いではないです。その調子で更生してください」
「ひど! まるでオレが犯罪者みたいじゃん!」
「僕の中で二股は犯罪判定なので」

 二股、という言葉に七夏の心臓が収縮する。全身から音を立てて血の気が引いていくような心地がした。

(二股……? 碧が? あたしは二股されてるの? 喜多川さんと?)

 七夏は考える。しかし、うまくまとまらない。

「初瀬はオレと付き合ってくれないの?」
「誰とでも一線超えちゃうような貞操観念皆無の人とは無理です。今付き合ってる人たち両方と別れて、五年くらい身綺麗にしていてくれたら考えてあげてもいいですよ」
「五年って! オレの若い時代が終わっちゃうじゃん! 長すぎ! なんで五年なの?」
「五年も経てば全身の細胞が入れ替わるらしいですからね。実質誰とも未経験ってくらいになったら考えてあげます」
「初瀬ってば潔癖すぎ~!」

 そう言って喜多川初瀬を小突く碧の表情は、どこか穏やかで嬉しそうだった。そんな様子を見せられて、七夏は敗北を悟った。

(あたし、負けたんだ。喜多川さんに。碧のあんな表情、見たことないもん。あれは、恋してる人の顔だ)



 そして秋は過ぎ去り、十二月がやってきた。世間はクリスマスムード一色で、どこを歩いてもイルミネーションがきらめき、男女のカップルが行き交っていた。その様子を、七夏は忌々しげに眺めていた。
 あれから七夏は演劇部を退部し、碧との交流も絶った。何もかもが憂鬱だった。
 学内演劇主演の座を手にした碧は、日々練習に励んでいた。その様子を七夏が見に行くことはなかった。

 来たる12月24日、午前の部はクリスマスミサが執り行われた。白いガウンに身を包んだ聖歌隊の歌声が、新しくなった教会に響き渡る。キャンドルサービスの最中、水景は七夏に蠟燭の炎を受け渡す。オレンジ色の暖かい光に照らされた金髪の彼女は、美しかった。

(顔だけは最高なのが残念だな……)

 七夏は、冷めた目で彼女を一瞥した。

 午後の部は講堂にて学内演劇が披露された。男装姿を着こなした碧は、高らかに声を張り、その役を演じきった。実に堂々とした振る舞いだった。観客は皆、碧の虜だった。いや、七夏の隣の水景は不服そうではあったが。普段碧のことを「浮気性」「キモい」などと罵っていた少女らも、いっときの非実在性美青年を演じる碧の世界観に引き込まれ、思わず息を呑んでいた。七夏の苛立ちはますます募っていった。
 完璧に演じ上げた碧に、歓声と拍手が巻き起こった。最前列で見ていたらしい喜多川初瀬は、クリスマスローズとポインセチアの大きな花束を碧に差し出した。それを受け取り、高揚した碧は初瀬の頬にキスをしようとしたが、それはクールに躱された。七夏の中で、何かが壊れた音がした。



 放課後になり、七夏は碧のクラスの下駄箱の前で待ち伏せた。のこのことやってきた碧を呼び止める。碧の手には、大きな花束が抱えられていた。七夏はその花の彩りを眺め、微笑みを作る。

「一緒に来てくれる?」

 碧を案内した場所は旧教会の中だった。そこは七夏にとって逢瀬の思い出の場所であり、裏切りの記憶を刻み込まれた場所でもあった。

「懐かしい、ここで一緒に練習したよね」

 碧の何気ない反応が七夏を傷つける。

(たったひと月前まで一緒だったのに、もう「懐かしい」って扱いなんだ)

 そうだね、と答えて七夏は碧に目を向ける。胸元には花束を抱きかかえたままだった。

(邪魔だなぁ)

 七夏はそう思いつつ、声を高くして続けた。

「その花束、綺麗だね。見せてよ」
「うん? いいよ、ほら」

 碧が無邪気に少し掲げて見せる花束は、この季節にぴったりの真っ赤なポインセチアが実に印象的だった。七夏は碧に一歩、二歩接近する。七夏の身体が花束にぴったりくっつきそうなほどに距離を詰め、色鮮やかな花を覗き込む――ふりをした。

「わあ、本当に綺麗」
「……! ……ッ……!?」

 碧は言葉にならない言葉を発する。七夏は隠し持っていたナイフで、花束ごと碧を刺した。碧の身体がぐらりとバランスを失う。碧の両手からは力が失われ、花束を手放してそのまま倒れる。赤い花びらがはらはらと宙を舞った。

「本当に……赤くて、綺麗」

 七夏は、冷たくなってゆく碧を見下ろしていた。
 七夏は碧から受け取った鍵を使い、地下室のハッチを解錠した。鍵は問題なく回ったが、重い天板を開けるのに苦労した。
 なんとか開いたハッチの中を覗き込む。梯子状の足場を安全に降りるために気を遣いそうだった。碧の遺体を担いで降りるのは無理だろう。早々に諦め、七夏は碧の遺体をハッチの近くまで引きずってきて、そのまま下に突き落とした。

「……もう少し隠蔽できそうかな〜?」

 七夏は足場を降りて地下室に入る。中は防空壕のような作りになっていた。ポケットの中のスマホを取り出して光源にし、辺りを見渡す。いくらか探索すると、隠し扉を見つけた。ここはなんのために作られた場所だろうか? 避難のため? 誰かを隔離するため? 七夏にはそんなことはどうでもよかった。碧の遺体を引きずり、隠し扉の中の小部屋に押し込む。カーディガンの裏地でナイフの取っ手部分を拭いた。これで指紋は消えただろう。

「おやすみ、碧」

 七夏は小部屋の扉を閉じ、足場を登って地下室を出た。重たいハッチを下ろして鍵をかける。これで誰も碧の遺体を発見することはできないだろう。



 しばらくして、旧教会を取り壊す話が持ち上がった。演劇部を辞めた後に暇になった七夏は生徒会に所属していたので、会議中に耳にしたのであった。

(このまま取り壊しになったら地下室の遺体がバレる? まずいなぁ……)

 七夏の憂いを、杞憂に済ませる救世主がすぐに現れた。いや、最初から目の前に居たのだ。

「俺、男装喫茶部を作ろうと思うんだよね」

 水景の発案は、ただの気まぐれによるものだった。いつもの食堂、いつもの席で、水景は左手に茶碗、右手に箸を軽く掲げて上機嫌に続ける。

「男に飢えた女子校で男装喫茶をやる! それでモテ散らかす! どう? 俺にぴったりの部活じゃない?」
「校内にそんな活動に使えるサロンみたいな場所なんて……」

 七夏は言いかけてはたと気づく。今はもう誰にも使われていない荘厳な建物があるではないかと。

「……旧教会の懺悔室とか?」
「お! いいね、冴えてるじゃん!」

 水景は自分の妄想の実現に一歩近づいて心を躍らせるが、七夏は全く別のことを考えていた。

(部活動での使用届を出しておこう。そうすれば取り壊しの話は延期できるはず)

 こうして七夏は、自由人な幼馴染の妄言に乗っかる形で廃教会の取り壊しを先延ばしにすることができた。

***

「……ってことなんだよね」
「…………」

 七夏の昔話が終わり、水景は言葉を失っていた。しばしの沈黙。そして問いかけ。

「あの城ケ崎碧と付き合ってたの?」
「そう」
「男装喫茶部に参加してくれたのは、隠蔽のため?」
「そう」
「……七夏が、城ケ崎碧を殺したの?」
「そう」

 七夏は淡々と肯定を返す。

「……じゃあ、もう城ケ崎碧は居ないんだ」
「? そうだね」
「それならやっぱり、七夏は俺のものだね!」
「それは違う」

 七夏がはっきりと否定しても、水景は聞く耳を持たない。

「もう俺たちを邪魔する存在は居ないんだ! よかった!」
「いや……」
「あれ? じゃあ廃教会の地下に城ケ崎碧の遺体があるんだっけ? このままだと誰かに見つかるかもしれないよね。ハッチを壊せば鍵がなくても開くかもしれないし……」

 もう昨日既にそうなってしまった、という事実を明かすか七夏は考えた。しかし水景の思いつきの方が先だった。

「じゃあ埋めちゃおっか!」
「えっ」
「セメントってどこで買えるんだっけ? ホームセンター?」

 水景はスマホで近場のホームセンターを検索し始める。七夏は彼女の斜め上すぎる行動に驚いた。

「う、埋めるって文字通り埋めるの?」
「そうだよ! やるなら徹底的にやらなきゃね。俺と七夏の幸せな未来のために、不安要素は消しておかないと!」

 俺と七夏の、という言葉に引っ掛かりはしたが、七夏にとってはありがたい提案だった。水景のことは嫌いでも、なんだかんだ彼女はいつも七夏の得になることをしてくれる。碧の心を奪った喜多川初瀬。誰もが望んだ学内演劇主演の座を手に入れた磐井れおな。それに加えて彼女らは地下室の秘密を知ってしまった。廃教会の地下を物理的に埋めてしまえば、その二人をまとめて始末することができる。

(水景のことは、地下を埋めるまでは放っておこっかな。その後のことはその時考えよう)

 水景は埋め立て用品を買える店に見当をつけると、コートを羽織って外出の支度をする。

「じゃあちょっと行ってくるから、七夏はいい子で待っててね」

 上機嫌で家を出発してしまった水景を見送る。彼女の足音が遠ざかって聞こえなくなると、七夏はおもむろに両手の拘束を解こうと試みた。

「手錠なんてどこで調達してきたんだか……」

 ベッドの上で両膝を立て、体勢を変える。じりじりと身体の角度を変えると、ベッド脇に両足を降ろすことができた。

「腰痛めそうだなぁ~」

 独り言を言いながらベッドの頭側へにじり寄り、手錠を括り付けられたベッド脚の様子を観察した。どうやらベッド脚に手錠の鎖を通しただけのようで、ベッドさえ上げることができれば下から鎖をくぐらせて外すことができそうだった。

「うーん……」

 七夏はベッドフレームの下に両膝を潜り込ませて力を込める。少しだけ浮いたベッド脚から手錠の鎖を抜き、取り敢えずの脱出を果たした。

「スマホスマホ……」

 手錠がかかったままの両手で水景のデスクを物色すると、すぐに自分のスマホを見つけた。ネットで『手錠 外し方』で調べると、ヘアピンやクリップを使った脱出方法がいくつかヒットする。

「こんな方法で〜?」

 半信半疑で水景の私物を漁ってクリップを用意し、見よう見まねで手錠の解錠を行う。

「あ、外れた」

 公的機関で使われるものと違い、市販のグッズである手錠は案外簡単に外すことができた。
 昨日の通学用に詰めたままの鞄を拾い、ざっと中身の確認をする。

「物は盗られてなさそうかな」

 ついでに手錠も鞄の中にしまい、身だしなみを整えてから水景の家を出る。

「ばいば〜い」

 案外短かった監禁生活から抜け出し、七夏は走り出した。

(まずはこの辺りから離れないとね〜)

 しかし、どこへ行こうか? 今日は特に用事があったわけでもない。

(淑乃ちゃんに会いたいなぁ。でも、昨日から縛られっぱなしでコンディションが……)

 七夏は一旦自分の家へ帰り、シャワーを浴びることにした。ポニーテールに見せかけたロングヘアのエクステを外してバスルームへ入る。温かいシャワーを浴びながらぼんやりと考え事をしていると、備え付けの鏡が目に入った。湯気で曇った鏡には、ショートヘアの自分が映る。男装姿のときはこの髪型だった。

(男嫌いなのに男装してるのってちょっと矛盾かなぁ? でも、「男」と「男装」は全く別のものだよね。あたしは男装は嫌いじゃないな、だって女の子だもん)

 シャワーを済ませて自室へ上がり、スキンケアとドライヤーに移行する。七夏の部屋にはテレビがない。特に見ようという意思があるわけでもなかったが、パソコンのウェブブラウザを起動してすぐに表示されるネットニュースを流し読みしていた。

「……ん?」

 七夏はとある記事のサムネイルに目を留めた。それは私立山手清花女子学院の近く、元町の商店街を散歩するといった趣旨のバラエティ番組の放送直後の記事だった。生中継だったらしいその配信の映像の中、七夏も知っている芸能人のリポーター……ではなく、彼女の背後に立つ少女に視線を吸い寄せられた。ボウタイブラウスにミモザ色のフレアスカートがよく目立つ彼女は、芸能人と並んでも遜色ないほどのオーラを放っていた。

「淑乃ちゃん……?」

 それは紛れもなく愛しの川嶋淑乃の姿だった。七夏は慌てて番組表を調べる。

(この番組の放送時間は11時から12時……ついさっきのことだったんだ。今から向かえば淑乃ちゃんに会える?)

 七夏は部屋着から外出用のおしゃれ着に着替え、急いでエクステをセットする。

(なんだかすごく淑乃ちゃんに会いたい!)

 衝動のまま、七夏は家を飛び出した。

***

 時は遡り、午前11時30分。
 きっと約束を忘れられたのだ、と落胆した淑乃に声をかける人が居た。

「こんにちは。れおなのお友達ですか?」

 それは、磐井洋品店から顔を出したれおなの母親だった。

「あっ……! ええ、はい、そうなんですの。磐井さん……れおなさんとは、部活でも仲良くしていただいて……」

 淑乃は予想外の出来事に慌てながらも応じる。

「ふふ、こちらこそ。れおなと仲良くしてくれてありがとうね。もっと早く声をかけられればよかったんだけど、接客で忙しかったから……ごめんなさいね?」
「いえ、とんでもないです。……あの、れおなさんは今日は……何か、ご用事で?」
「それがねぇ、昨日から帰ってないのよ。無断で外泊するような子じゃないのよ? 学校にも問い合わせたんだけど、校内には見当たらないって……」

 れおなの母親は心配そうに目を伏せる。本当は娘を探し回りたいところだが、家族経営の店を留守にはできないのだろう。

「えっ……あの、わたくし……探しましょうか?」
「ありがたいご提案なんだけど、どこに行ったか見当もつかないのよね……。警察に連絡した方がいいのかしら?」

***

 同じ頃、駅前では樹里亜が約束の相手を待っていた。

「既読もつかない……」

 いくら待っても、水景は来なかった。

(今日、誘ってくれたのは波止場先輩の方からだったのに……)

 樹里亜の目からは涙がこぼれる。俯いて泣いていると、不意に誰かから声をかけられた。

「樹里亜?」

 顔を上げると、そこにはよく見知った人が立っていた。中学生の頃に付き合っていた元彼だった。彼は相変わらず冴えない顔で樹里亜を覗き込んできた。

「やっぱり樹里亜だ。何してるの? 待ち合わせ?」

 既に名前も思い出せない彼は樹里亜に手を伸ばしてくる。反射的に樹里亜はその手を跳ねのけた。

「触らないで!」
「えっ……」
「あなたなんか好きで付き合ってたわけじゃないのにっ……!」

 待ち望んだ相手が来ないこと、水景以外の人間が現れたことの両方に対して、樹里亜は怒っていた。そして悲しんでいた。

「樹里亜、なんで……」

 名前さえ忘れた彼を振りほどくようにして樹里亜は走り出す。待ちぼうけをさせられた自分が恥ずかしくて、惨めで、もうその場所には居たくなかった。駅を出て人通りの少ない場所まで来ると、樹里亜は建物の陰に身を潜めて泣いた。

「ううっ……こんなの理想の恋じゃないよ……もう嫌だよっ……! 誰か……」

 そこまで口にして、自分の表現が正しくないことを捉える。

(「誰か」じゃ駄目なの。絶対に期待を裏切らない、「理想の恋人」以外の誰からも触れられたくない! わたしの……わたしの理想は、悪戯っぽくて、だけど無邪気で、一途で頼りになる……)

 樹里亜は一度も会えたことのない彼を思い浮かべた。人づてに聞くか、交換ノートでしか様子を伺い知ることのできない「[[rb:理想の > イマジナリー]]彼氏」――。

(ジュリくんこそが、わたしの理想の人なの)

 彼女はずっと、心の奥底で理解していた。何故自分の中にもう一人の人格が生まれたのか? それは、この世のどこにも存在しない「完璧な恋人」に救われたいという強い願望が作り出したものだった。

(生きている人間は誰もわたしにとっての「完璧」にはなれない。みんな自分の人生を生きていて、自分のために生きている。わたしのために生きているんじゃない。だから、わたしにとっての「理想」と1ミリもずれることのない存在は……「生きている」存在じゃだめなんだ。幻の中に作り出すしかないんだ。……だから、ジュリくんはわたしに必要とされて生まれてきたの。わたしのために生まれて、わたしのために生きて、わたしのために死ねる人。それは、ジュリくんだけだ)

 時折樹里亜を窘める言葉をノートに残すこともあったジュリだったが、それはきっと樹里亜が深層心理において負い目に感じていた部分を指摘する役目を果たしていたのだろう。

(それでも、ジュリくんより素敵だって思える人は、どこにも居ないから……)

 信仰心のない樹里亜が、無意識に指を組んで祈る。

(お願い。わたしを助けて、ジュリくん……!)

***

 そして彼は――彼女の姿で、磐井洋品店の前へ現れた。

「心当たりなら、あるっすよ」

 れおなの行方について話し込んでいた淑乃とれおなの母親は、白砂樹里亜の姿をした彼へと振り返る。

「白砂さん?」

 淑乃は「身体の主」の名前を呼んだ。慣れないスカートの裾を心許なさげに整える彼は少し笑って答える。

「ああ、まあそっちの呼び方でもいいっすよ。説明なら後でするんで」
「ええと……? よく分かりませんが、そういうことでしたら。わたくしたち、れおなさんを探してきますわ」
「ありがとう、気持ちだけでも嬉しいわ。もし見つけたら電話してくれる?」
「もちろん! それでは行ってきますわね」

 淑乃はれおなの母親にお辞儀をしてその場を後にする。合流した彼と淑乃は走り出していた。

「行き先を聞いても?」
「学校の廃教会だよ、川嶋先輩」
「何故そこだと思うんですの?」
「れおな先輩は無断で外泊する性格じゃない。学校にも居ない。街での目撃情報もないしニュースにもなっていない。とすると、先生が見回りに来ない学校敷地内の場所なら廃教会が候補になるだろ?」
「それなら電話でご家族に連絡するのではなくて?」
「連絡できない事情があるのかもしれないな。スマホの充電が切れたか、電波の届かない場所に居るか……」

 信号に行く手を阻まれて二人は足を止める。淑乃は風の抵抗を避けるために日傘をさすことを諦めて閉じた。くるくると傘を回して留め具を嵌める。シークレットブーツがなくてもなお自分より背の高い白砂樹里亜を見上げて、淑乃は問うた。

「それで、あなたはジュリさんなのですか?」

 樹里亜の姿のジュリは首を縦に振って肯定の意を示した。

「どうも、川嶋先輩。俺はジュリですよー」
「磐井さんの話では、確かあなたは男装の姿のときのみ現れる人格だとお聞きしているのですが?」
「今まではな。今日はちょっと事情が違って……」

 ジュリはツーサイドアップの毛先をつまんで眺めながら数分前の出来事を思い返していた。

(樹里亜の強い要望で人格が交代できるなんてな。まあ、俺はあいつに望まれて生まれた存在なんだから当たり前か。今までは樹里亜がどうしても今すぐ俺と交代したいって思わないで来れたってことだけど……それが崩れたってことはあいつも色々とギリギリなのかな)

 そこまで回想を巡らせてからジュリは口を開く。

「まあ、川嶋先輩はそこまで俺と樹里亜のことに興味ないだろ? 話すことはないよ」
「……そうですか」

 青になった信号を見て横断歩道を渡り、二人は再び走り出す。

「磐井さん……どうか無事で居て……!」

***

 瞬きをしても暗闇。そんな絶望的な景色の中で、れおなは目覚めた。脱出の手立てがないことを確認した後、そのまま眠ってしまっていたらしい。あれから何時間が経過したのだろうか?

「あ、起きた?」

 頭上から声が降ってきて、れおなは飛び起きる。声の主は初瀬だった。

「驚かせちゃった? おはよう、磐井さん」
「おはようございます、喜多川先輩……今何時ですか?」

 初瀬は手元のスマホで時刻を確認する。

「11月2日土曜日、お昼の13時過ぎ。磐井さんのスマホも充電しておいたから、よかったらどうぞ。電波は繋がらないけどね」

 受け取ると、れおなのスマホも充電が100%まで回復していた。

「ありがとうございます。モバイルバッテリーでも持ってきてたんですか?」
「念のためね。あとこれ、コンビニのワッフルだけど食べる?」
「喜多川先輩、用意周到すぎ……ありがとうございます」

 それで鞄が膨らんでいたのか、と納得する。

「先輩は私が寝ている間、どこか探索したりしました?」
「扉の向こうの話?」
「そうです」
「……うん。見たよ。あれは碧先輩の遺体だね」
「そうですか……」
「ナイフで刺されて死んだみたいだね。『いつか女に刺されるぞ』って言われるような人だったど、本当にその通りになっちゃうなんてね」
「……」
「ごめん、食事中にする話じゃなかったか」
「いえ、話題を振ったのは私の方なので」

 れおなは動かないメッセージアプリの会話一覧を眺めた。電波が繋がらないので、誰かが連絡をくれていても受信できない。きっと家族も心配しているだろう。

「……誰かと約束だった?」
「えっ」

 初瀬のあまりに的確な指摘に、れおなは驚きの声を上げた。

「そんな感じがしたから。当たり?」
「当たりです。喜多川先輩ってほんと……心理を読むのが上手いですよね」
「磐井さんもね。似たもの同士なのかな?」
「そうかもしれませんね……」

 れおながワッフルを食べ終わると、初瀬はすかさず水筒のカップを差し出した。

「ちょっとぬるいけどね」
「ありがとうございます……いい香り。これ、飲んだことないかも」
「そうなの? 紅茶部の人でも知らないならマイナーなのかも。これはね、玉蘭茶だよ。川嶋紅茶で買ったんだけど輸入品みたい。ハーブティーって表現した方がいいのかな」
「そんな感じですね。玉蘭って何の植物でしたっけ?」
「白木蓮だよ。マグノリアティー」
「えっ、それってすごい偶然」
「そうなの? 僕の知らないところでなにか験担ぎしてた?」
「ふふ、験担ぎっていうか……まあ、説明が難しいので」
「いいよ、無理に言わなくても」

 れおなは自分の鞄の内ポケットの中に忍ばせた包みに触れた。初瀬はその仕草には触れず、不意に切り出す。

「誰と待ち合わせだった?」
「11時から川嶋さんと、12時半からジュリくんとです」
「川嶋さんって、川嶋紅茶のご令嬢だよね。ジュリくんは黒髪の?」
「そうです、二人とも紅茶部の部員で……」
「三人一緒じゃなくてそれぞれだったんだ。ハードスケジュールだね」
「あはは……」
「え? 二股?」
「違いますよ! お付き合いしてる人は居ません」
「そう? なんだか磐井さんの反応、好きな人との待ち合わせみたいだったから」

 この人の前で下手な話題は出せないな、とれおなは思った。考えていることの多くを見透かされてしまう。

「えっと……喜多川先輩に話すことじゃないかもしれないんですけど、聞いてくれます?」
「いいよ。僕ってさ、磐井さんからすると『ちょうどいい他人』だもんね。近すぎる友達には話せないこともあるでしょ?」
「そうなんです。……ええと、私の話したいことっていうのは……二人のことなんです。川嶋さんとジュリくんのこと」

 れおなはひと口、玉蘭茶を飲む。

「私、本当は軽薄そうな人って苦手なんですよ。でも、ジュリくんは別なんです。最初はチャラそうだなって思ってたけど、優しくて素直な人でした。だから、ジュリくんのこと好きだなって思うようになったんです」
「うん」

 初瀬は相槌をして続きを促す。

「そう、なんですけど……あの、川嶋さんは私のことを好いてくれているみたいなんですよね……」
「ラブ的な意味で?」
「ラブ的な意味です。私、川嶋さんのこと嫌いじゃないんです。お友達として好きで。つまり、ライクなんですよね」
「……どっちか片方と付き合いたいって話?」
「ざっくり言ってしまえばそうですね」
「ジュリくんは磐井さんのことどう思ってるの?」
「ありがたいことにラブ的に好いてくれているんです」
「じゃあ、ジュリくんと付き合えばいいんじゃないの?」
「……やっぱりそうなります?」

 れおなは苦笑いして訊ねた。

「話を聞いていた感じだと、『友情と恋とどっちをとるの?』なんて単純な話じゃなさそうだけどね」
「はい」
「川嶋さんは友達だから、お付き合いしたいわけじゃないんでしょ? 磐井さんはジュリくんのことが好きなんでしょ? じゃあ、せっかく好きだって思ってくれているジュリくんを諦めて、川嶋さんとお付き合いするのは歪じゃない?」
「……そうですよね……」

 れおなは淑乃の顔を思い浮かべていた。ジュリとのデートの後に出くわしてショックを受けていたあの顔。れおなの学内演劇主演が決定し、寂しそうに笑っていたあの顔を。

「なにも恋愛だけが人生でいちばん大切なことって訳じゃないんだから。川嶋さんのことは、お友達として大切にしたらいいんじゃない?」
「川嶋さんの気持ちを、見て見ぬふりをしてでもですか?」
「それは……告白されたとき、どうするか考えるしかないんじゃない? 振るのであれば、今後も友達で居るのか、関わるのをやめるのかとかね」
「……」

 関わるのをやめる。それは、想像したくない未来だった。れおなは頭を振り、少し声を高くして別の話題を切り出した。

「そういえば、夜半月先輩はどうして私たちをここに閉じ込めたんでしょうね? 城ケ崎先輩の遺体を見られたから口封じ?」
「それはあるだろうけど。もうひとつの可能性に、磐井さんは気づいてるんじゃない?」
「学内演劇の主演を、私に取られたから……ですかね?」
「それもあると思う」

 そのとき、頭上に誰かの気配が近づいてきた。れおなは呟く。

「誰か来たのかも?」

***

「なぁ、川嶋先輩ってれおな先輩のことが好きなの?」
「そうですわよ」
「肯定した。隠すつもりはないんだ?」
「今更隠したところでどうにもなりませんから。そう言うジュリさんこそ、磐井さんのことが好きなんですのね?」
「そうだよ」
「白砂さんは波止場先輩のことが好きなのにですか?」
「俺と樹里亜は別なの」
「磐井さんのことをれ……れおな先輩とか、名前で呼んでますし……」
「じゃあ川嶋先輩も名前で呼べば?」
「……そうですわね。最後にそのくらいなら許してもらえるかしら……」
「え、最後ってなにが……」

 そのような話をしているうちに二人は私立山手清花女子学院の前へ辿り着いた。私服で校門をくぐるのは珍しいことだった。死者の日のミサで登校していた制服姿の生徒たちに珍しいものを見るような目で見られつつまっすぐと廃教会へ至る。
 重たい扉を開けると、地下室のハッチの真横に誰かが立っていた。

「波止場先輩!」

 淑乃は驚きの声を上げる。水景は反射的に振り向き、へらりと笑顔を作った。

「淑乃ちゃん?」
「よかった、波止場先輩も磐井さんを助けにきたのですわね」

 淑乃は数歩近づき、足を止める。水景の足元には大きな袋と[[rb:鉄梃 > かなてこ]]があった。

「……波止場先輩、その袋は?」
「セメントだよ」
「……?」

 水景は右手を振りかぶった。突然の動作に理解が追いつかない淑乃は反応が遅れた。水景の手に握られているのは――ナイフだ。

「危ない!」

 咄嗟にジュリが淑乃の胴に腕を回して引き寄せる。間一髪、ナイフは淑乃のロングヘアの毛先を掠めた。
 淑乃が声も出せずに恐怖していると、水景は獲物を仕留め損ねたナイフの切っ先を向けて言った。

「俺の邪魔するなら殺すよ?」

 水景は淑乃からジュリへ視線を滑らせる。

「樹里亜ちゃんなら、俺に協力してくれるよね? 淑乃ちゃんが抵抗しないように、そのまま抑えててね」

 樹里亜としての服装を纏ったままなので、ジュリは「樹里亜の人格モード」なのだと判断されたらしい。敢えて何も言わず、ジュリは淑乃の腕を掴むふりをした。その力は簡単に振り解けそうなものだったが、淑乃も様子見のために捕らわれたふりをした。

「波止場先輩は、何をしようとしているのですか?」
「地下室を埋めるんだよ。俺と七夏の未来のためにね」

 水景の返答は要領を得ない。淑乃が首を傾げていると、話は続いた。

「ここに、存在しない方がいいものがあるんだ。板張りの床に見えるけど、その下は頑丈そうだからね。燃やすのは難しいと思って。だから埋めることにしたんだ」
「でも、そこには……」

 磐井さんが居るかもしれないのに、と淑乃が言うよりも早く、水景はハッチの隙間に鉄梃をかけた。

「よいしょ」

 まるで緊張感のない掛け声で水景は閉じられたハッチを無理やり開けようと試みる。静かな廃教会の中、金属同士が擦れ合う不快な音が響いた。
 熱心に作業に取り掛かる水景をよそに、ジュリと淑乃は目配せをした。このタイミングで彼女に飛びかかったところで、ジュリと淑乃にハッチを開く術はない。鉄製のハッチが開いた瞬間、それがチャンスだ。
 暫くの間、沈黙が続いた。鉄梃がめいっぱい押し込まれ、鉄扉の枠がひしゃげながら開く。今がその時か、とジュリと淑乃が動こうとした刹那、廃教会の大きな扉から誰かが入ってきた。その場の全員が、入口に視線を向ける。入ってきたのは七夏だった。

「……こんなところに居た」

 七夏は一歩、足を踏み入れる。水景は鉄梃を放り出し、そちらへと向かった。

「七夏、来てくれたんだ! どうやって抜け出し……」

 駆け寄る水景の隣をすり抜け、七夏はまっすぐ淑乃の前までやってきた。警戒する淑乃を、七夏はぎゅっと抱きしめる。

「会いたかったよ、淑乃ちゃん」

 水景は立ち尽くし、その光景を見ていた。
 淑乃が頭に疑問符を浮かべていると、七夏は微笑む。

「磐井さんのお母様に聞いたの。淑乃ちゃんが白砂さんと二人で、磐井さんを探しに行ったって」
「……あの、夜半月先輩……よく分からないのですけれど、まずは磐井さんを助けないと……」
「そんなのどうでもいいじゃん。淑乃ちゃんはあたしと結婚するんだから、他の人のことなんか考えないで?」

 優しい声色で紡がれる言葉はしかし、淑乃には受け入れられないものだった。ジュリの手を振り払い、淑乃は七夏の頬に掌を叩きつけた。
 七夏は呆然とひりつく頬に触れる。

「わたくしは、夜半月先輩のことなんかちっとも好きじゃありませんわ!」

 淑乃は勢いのままに走り出し、鉄梃に力を込めてハッチを全開にした。

「磐井さん、そこにいらっしゃるのでしょう!? 早く上がってきてくださいまし!」

 淑乃を止めようと七夏が踵を返すが間に合わない。水景に行く手を阻まれたのだ。

「どうして七夏は俺のものになってくれないの……?」

 水景は七夏の両肩を掴んで問い詰める。

「今は水景の相手なんかしてる場合じゃ……!」
「答えてよ!」

 二人の揉み合いを横目に、ジュリは淑乃に加勢した。

「れおな先輩!」

 ジュリはハッチが閉じてしまわないようにしっかりと支えながら中を覗き込んだ。れおなは足場を掴んでのぼってきており、もうすぐ地上へ到達できそうだった。

「磐井さん! もう少しですわ!」

 淑乃は懸命にれおなへ手を伸ばす。

「……川嶋さん……!」

 れおなは淑乃の手を掴み、木製の床の上へと[[rb:転 > まろ]]び出た。すぐ後ろについてきていた初瀬も地上へ着き、ジュリとハッチを閉じる。

「磐井さんを助けに来てたの?」
「そうだよ。ええと、お前は……」
「僕のことは後でいいから」

 初瀬はジュリとそれだけの会話を交わし、周囲を見回して現状を把握する。水景はちょうど、七夏に突き飛ばされたところだった。

「水景こそいつもあたしの邪魔して……! いい加減どっか行ってよ!」

 床に落ちた水景のナイフ。掴むのは、七夏の方が早かった。

「お前なんかっ! 生きてる価値もない!」

 七夏のナイフを転がって避け、水景はジュリから鉄梃を奪い取って構える。

「ちょっとミカ先輩、やめろって……!」

 収拾のつかない展開に、ジュリたち四人にも緊張が走る。

「あなたたち人殺しになりたいんですの!?」

 淑乃の言葉は、水景には届かない。反応したのは七夏だった。

「もう……遅いんだよ。あたしにはなにもないのに……罪だけが、消えずに残ってるの」

 誰もが絶句していた。震える声でそう言った七夏の目からは、涙が溢れ出していた。彼女は間合いを詰め、水景はせめてもの抵抗と鉄梃を振る。七夏のナイフが水景の腹を刺したのは、水景の鉄梃が七夏の首を捉えたのとほぼ同時だった。
 その場に倒れる二人を見て、ジュリが飛び出す。

「っ……! おい! しっかりしろ!」

 水景と七夏の肩を揺するジュリに初瀬が追いつき、その手を止めさせる。

「揺すると悪化する。それより救急車を……」

 初瀬がスマホの入った鞄の方を見やると、淑乃に支えられたれおなと目が合った。れおなの手元には既に、スマホがあった。

「もう呼んである。……えっと……警察だけど……」

 いつの間にか、サイレンの音が近づいていた。
 その後の展開は早かった。
 警察は救急車を呼んでくれたため、水景と七夏は一旦搬送される運びとなった。次いで入教会の地下室に捜査が入り、碧の遺体も見つかった。
 暗所に閉じ込められていたれおなと初瀬は病院にて点滴を受けることになったが、即日退院できるだろうということだった。

 ジュリと淑乃は待合室にてれおなを待っていた。今日予定が立て込んでいたはずの淑乃を迎えに来ていた使用人たちは、非常事態ということで各所に連絡を行い、淑乃の傍で控えていた。早めに店じまいをしてきたれおなの両親も駆けつけ、そこへ合流した。

「川嶋さん、白砂さん、本当にありがとう。れおなが無事に戻ってこれたのは二人のおかげです」

 れおなの母親は深々と頭を下げた。

「とんでもないです。れおな先輩、怪我も体調不良もなくて本当によかった」

 ジュリも同じように丁重な調子で返す。
 水景と七夏の処置が行われている間、彼らはれおなと初瀬が点滴を受けている部屋へ通され、警察から事情聴取を受けた。
 れおなと初瀬は廃教会の地下室で城ケ崎碧のものと思われる遺体を発見し、夜半月七夏によって閉じ込められたことを話した。淑乃とジュリからは、廃教会での水景と七夏を交えた攻防について順を追って説明した。

「情報提供ありがとうございます。波止場水景と夜半月七夏からも、意識が回復し次第取り調べを行います。事件に関する正確な情報は後ほどお伝えしますね。磐井さんと喜多川さんに関しましては、医師の指示に従っていただければと」
「分かりました。ありがとうございます」

 れおなが答えると、隣の初瀬も頭を下げる。
 重苦しい事情聴取から解放されると、れおなの両親のスマホに着信が入る。常連客からいつもより早い店じまいに関するお小言が来たらしい。

「れおな、ちょっと電話してくるね」
「はーい」

 両親たちは部屋を出て通話可能エリアへ向かっていった。その様子を見送り、使用人が淑乃に耳打ちをする。

「お嬢様、そろそろお戻りにならないと」
「ええ、そうですわね。……磐井さんと少しお話がしたいのですが。五分だけでいいのです」
「かしこまりました」

 席を外すように促され、淑乃以外の全員が一旦部屋を出る。樹里亜の姿をしたジュリは、少し不安げな顔をしつつも空気を読んだ。初瀬はというと、体力の限界が来ていたのか既に眠ってしまっている。淑乃はれおなのベッドを囲う白いカーテンを引いて椅子に座りなおした。

「本当はもっと情緒を大切にしたかったのですが、時間がありませんので」

 れおなは無言で頷いて続きを促す。淑乃の顔は、夕陽に照らされて赤く見えた。

「磐井さん。わたくし、あなたをお慕いしておりますわ」

 それは、れおなもいつかは告げられるだろうと予期していた愛の言葉だった。れおなは初瀬の助言と、ジュリの顔を思い浮かべる。しかし、返事に躊躇っているうちに、淑乃は話の続きを口に出した。

「でも、今日でお別れなんです」
「えっ」

 予想外の話に、れおなの反応も遅れる。もう時間がない淑乃は口を挟ませず、一気に事情を打ち明けた。

「わたくし、クリスマスミサの学内演劇の主演に選ばれなかったら、許嫁と結婚する決まりになっていたんですの。本当は今日の午後にはお相手の方と会う約束でしたけれど……。でも、そんなことを言っていられる状況ではありませんでしたから。欲を言えば、嫁ぐ前に磐井さんと最初で最後のデートをしてみたかったですわ」
「ごめん……」

 れおなは何に謝ればいいのか分からなくなっていた。クリスマスミサの主演を奪ってしまったこと? デートの約束を果たせなかったこと? そのどちらも、決してれおなのせいではない。それでも、大切な友人の未来を奪うきっかけになってしまったこと、得られたはずの思い出を贈りそこねてしまったことを悔やんだ。

「磐井さんが謝ることではないのです。もう話せる機会もなくなってしまうでしょうから、お伝えしたかっただけなのですわ」
「……お相手との結婚はいつなの?」
「明日にでも、と伝えられております」
「結婚したら、もう会えないの?」
「ええ。清花は退学して、家庭教師から家事や伴侶の仕事について学ぶことになるそうですわ」
「電話とかは……」
「磐井さんへの未練は、無理にでも断たれることになるでしょう。人の妻になるわけですから」

 まるで昔のドラマか漫画のような展開だ、と思った。現代を生きるれおなにとって、およそ現実味のない話のように感じた。

「そんな……許嫁だなんて。上流階級ってそういうものなの? それに川嶋さんはまだ16歳でしょ? 法律上は結婚できるからって、早すぎるよ……」

 れおなの反論を聞いて、淑乃はぎゅっと太腿を覆うスカートを握りしめる。

「……わたくしだってそう思いますわ! けれど……わたくしがそう思っているからといって、周りの人たちを変えられるわけじゃないんですのよ……」

 れおなには返す言葉もない。淑乃は両の目から溢れ出した涙をぬぐい、顔を上げる。

「……ごめんなさい。こんな別れ方をするつもりじゃなかったんですけれど、もう行かなきゃ」

 淑乃は立ち上がって微笑みを作る。

「川嶋さん、待っ……」
「磐井さん。――さようなら」

 引き留めようとするれおなの腕を、点滴の管が阻む。淑乃はミモザ色のフレアスカートを翻し、病室を去った。白いベッドの上、ぽつんと取り残されて呆然とするれおなの耳に、再びドアが開く音が届く。

「かわ――」
「れおな先輩、俺。ジュリだよ」

 カーテンを開けて入ってきたのはジュリだった。ジュリは気恥ずかしそうにツーサイドアップを束ねるリボンの髪留めを解きつつ淑乃が座っていた椅子に着席する。

「あー、こんな格好でれおな先輩と話すつもりじゃなかったのに。趣味じゃねぇんだよな、この服装」

 いつにも増して飄々とした調子のジュリは、きっと気を遣ってくれているのだろうとれおなには察することができた。

「……れおな先輩、元気?」
「あ、うん。今日中には退院できるって……」
「それは聞いた。……身体より、心が元気じゃなさそうだなって思って……」
「……分かっちゃう?」
「さすがにな。なんか、俺にできることない?」
「……分かんないや……」

 れおなは俯いて、それ以上答えない。ジュリはそんなれおなの手を握って、両手で包み込んだ。

「寒かったり、暗かったりすると余計なこと考えて落ち込むんだってさ。こうしていれば、ちょっとはあったかいだろ?」
「……うん」
「眠かったら少し寝るといいよ」
「うん。ありがと、ジュリくん」

 れおなは目を閉じ、仮初の眠りに落ちていった。

***

 夜の帳は下り、慌ただしかった一日が終わろうとしていた。
 淑乃はひとり、屋敷の自室から夜空を見上げていた。

(明日には……わたくしは、望まぬ結婚を受け入れなければならないのですわね……)

 自分では引いたことのない大きなキャリーケースへ視線を向ける。その中には、帰宅後に使用人たちが綺麗に詰めてくれた私物が入っていた。嫁入り道具と称された品物たちの中の大きなものは既に相手方の屋敷に届けるよう手配済みらしい。

(……寂しくなりますわね)

 家族や使用人の前では咎められるだろうと、敢えて手に取らなかったノートを猫足のデスクの引き出しから取り出した。そのノートには、紅茶部での活動に関する日記や、学園祭にて撮影した写真などがまとめられていた。

(磐井さん……)

 淑乃は、笑顔で写っているれおなの頭を指先でそっと撫でる。

(薄いノートですし、こっそり持っていってしまいましょう)

 キャリーケースを開き、内ポケットに思い出のノートを差し込んだ。そしてキャリーケースを元通り閉じようとしたのだが、重さに耐えられるよう頑丈に作られた鍵を閉めるのに手こずってしまった。

(もう! 開くのは難しくなかったのに、どうして閉め方が分からないのかしら! 明日の朝まで鍵が開きっぱなしになっていたらノートを入れたのがバレてしまいますわ……!)

 しばらく鍵との格闘が続いた。焦る淑乃の背中を照らす月光は、不意に遮られる。

「えっ?」

 やわらかな髪を揺らして窓のほうへと振り返る。そこには、夢かと思うような光景があった。
 ――窓の外には、月の光を背中に受けた磐井れおなが立っていた。
 淑乃と目が合うと、れおなは人懐っこい笑顔で手を振る。淑乃が呆然としていると、れおなは窓の錠をとんとんと指して開けるように伝えてくる。淑乃はすぐさま窓際まで駆け寄り、施錠を外した。身軽なれおなはするりと音もなく部屋の中へ降り立つ。

「こんばんは、川嶋さん」
「こ……こんばんはじゃありませんわよ。どういうことなんですの……?」

 密やかな囁き声で言葉を交わしつつ、れおなはキャリーケースの前まで足を進めた。

「これ、閉じられなくなっちゃったの?」
「え? ええ、そうなんです……」
「そうなんだ。まだ中身は余裕ありそうだね。持ってる下着は全部入れた?」
「なっ⁉ なな、なぜ下着……」
「服より替えがきかないから持っておいたほうがいいよ~。お気に入りの服があるならそれも入れてね」
「お気に入りの服はもう入れましたわ……」
「さすがにそうか。じゃあ、もし現金を持ってたらお財布に全部詰めて。入りきらなかったら別の袋に入れて手持ちのバッグにね」
「……? お金は口座から下ろせばいいのではなくて?」
「タイミングがあればね? あと、パスポートって持ってる?」

 その質問に、淑乃はようやく意図を察した。半分は願望だったかもしれない。けれど、その予想には既に確信めいた感触があった。

「磐井さん、あなたもしかして……」

 れおなは淑乃の両手を握った。二人の目と目が見つめ合う。

「駆け落ちしちゃおっか」

 夢でも見ているのではないか、と淑乃は思った。一瞬の静寂があり、時の流れを忘れさせた。次の瞬間には、淑乃の瞳に熱い涙が滲んでいた。

「……本当に?」
「本当に。嘘つくために、不法侵入する必要ある?」
「それはないでしょうけれど……でも、どうして? わたくし、磐井さんからその……あの、いわゆる脈があるなって感じられたことがなかったのですけれど……」
「気が変わっちゃったの」
「ええ……?」

 れおなの軽い返しに、淑乃は喜べばいいのか困惑するべきなのか分からない。対するれおなはぱっと手を離し、上着のポケットから包みを出した。

「これ。渡してなかったなって思って」
「……開けても?」

 れおなは無言で頷く。包みを開くと、中にはハンカチが入っていた。白いレースで縁取られたハンカチには、清廉な白い花の刺繡とYのイニシャルが入っている。

「これ……以前、お願いしていたものですわよね? きれい……」
「待たせちゃってごめんね? そのお花は白木蓮だよ。花言葉は『高潔な心』、英名は『Yulan magnolia(ユラン マグノリア)』。淑乃ちゃんの名前のイニシャルと同じYから始まるお花がいいかなって思って……」

 れおなの蘊蓄(うんちく)が終わる前に、淑乃は抱きついていた。れおなはそんな彼女の背中に腕を回し、ぽんぽんと宥めてから抱き返した。

「嬉しいですわ……とても……」
「うん。喜んでくれたなら、頑張った甲斐があったよ」
「素敵な仕上がりもそうですけれど……磐井さんが、わたくしのことを考えて作ってくださったことが、なによりの贈り物ですわ」
「……へへ。なんだか照れるね……」

 いつも余裕のあるれおなが照れていることが彼女の赤い耳で分かって、淑乃はより一層愛おしく感じた。

「そうだ、お代を渡さなければ」
「お代は淑乃ちゃんの人生ってことで?」
「まあ、気障なことを言いますのね」
「たまにはね。さあ準備を始めよう、時間がないよ」

 二人は荷物の中身を高飛び用に入れ替え、念入りに忘れ物がないかチェックした。

「これで大丈夫そうだね。淑乃ちゃん、一番歩きやすい靴に履き替えて。通用門をよじ登るのにヒールが高いと難しいよ」
「そんな方法で入ってきたんですの? お転婆さんですこと」

 茶化しながらも淑乃は踵のフラットなオックスフォードシューズに履き替える。

「行こう、淑乃ちゃん」

 先に窓の外へ出たれおなが手を差し伸べる。淑乃はその手を取りながら答えた。

「はい。磐……れおなさん」



***



終幕(エピローグ)



 廃教会の地下をめぐる一連の事件は、その後の報道によって世間に知れ渡った。殺人事件の犯人である夜半月七夏は最初、未成年としてプライバシーに配慮されていたが、元芸能人という経歴のせいで週刊誌に特集を組まれ、あっという間に広まっていった。一般人であり傷害事件に留まった波止場水景の知名度は七夏ほどではなかったものの、私立山手清花女子学院の中では誰もが知ることとなった。行方不明だった城ケ崎碧の遺体が確認され、親しかった生徒たちは少しの悪口と深い哀悼の意を示した。学内の高嶺の花たちの事件は少女らに多大なるショックを与え、憤る者、落胆する者、悲嘆に暮れる者など様々な様相を呈していた。
 それでも季節は移り変わってゆき、11月は瞬く間に通り過ぎた。12月の半ば、デートスポットとして有名な横浜の街はイルミネーションに彩られ、浮かれた人々が行き交う様子が至るところで見られた。それは山手清花のほど近く、元町商店街でも同じだった。昼どきで客足の緩やかになった磐井洋品店の中、れおなの母親は街行く人を眺めていた。

「れおな、どこに行っちゃったのかしらね」

 レジスターの前で備品の準備をする父親が返事をする。

「心配だな」

 それは既に幾度も繰り返された会話だった。愛娘であるれおなは、廃教会の事件の後に姿を消してしまっていた。

「当たり前よ。どこかで事件に巻き込まれていないといいんだけど……」
「困ったら連絡してくるだろう。あの子は助けてって言える子だから」
「……そうだといいんだけど……」

 家族のグループメッセージには、11月3日の朝、れおなから送られてきたメッセージが残っていた。

『突然いなくなる親不幸な娘でごめんなさい。どうしても助けたい人がいるので、私は日本を離れます。また落ち着いたら、或いは困ってどうしようもなくなったら連絡します。冬は冷えるから、あったかくして過ごしてね。大好きなお父さんとお母さんへ。れおなより』



 緞帳(どんちょう)の内側で、彼は佇んでいた。ここは私立山手清花女子学院の講堂で、今日の日付は12月24日だった。客席側からは期待に胸を躍らせる少女たちの話し声が聞こえてくる。

「この主演の白砂さんって知ってる?」
「知らない。高一なんだっけ?」
「高等部からの受験組なんだって。それで主演なんてすごいよね」
「まあ、今年は色々と……ね?」
「本当に色々あったよねぇ……ねえ、やっちゃん?」

 噂話の輪の中、れおなの友人である少女は自分に話を振られたことで流れを察した。

「れおなちゃんのこと?」
「そう。磐井さんって誰かの恨みを買うような人じゃなかったよね? 城ケ崎先輩と違って」
「廃教会はあの事件を期に取り壊されたから、れおなちゃんが城ケ崎先輩みたいな目に遭ってるとは思わないけどなー?」
「まあね? やっちゃんは心配じゃないの?」
「れおなちゃんは……きっと大丈夫でしょ。しっかりしてるからね。今もどこかで元気にしてるんじゃないかな?」

 厚い緞帳を隔てた彼の耳に、彼女らの話す内容までは届かない。

「緊張してる?」

 脇役の演者である生徒が彼に声をかけてきた。そちらへ顔を向け、彼は――主演の衣装を身に纏ったジュリは、微笑みを浮かべた。

「多少はね?」
「でも、みんな白砂さんのこと楽しみにしてるから! 今まで練習一緒にやってきた私から見ても素敵だったし! 自信もってやれば大丈夫!」
「ありがと。頑張るよ」
「……私さ、白砂さんって大人しい人なのかな? って思ってたんだけどね。話してみたら明るいし、楽しいし、この劇が白砂さんと話すきっかけになってよかったって思ってるよ!」
「……」
「一緒に頑張ろうね!」
「うん」

 脇役の彼女は所定の位置まで戻る。客席の照明も落ち、開演のブザーが鳴った。

『ご来場いただき、誠にありがとうございます。これより学内演劇『クリスマスの奇跡』を上演いたします。携帯電話などお持ちの方は、マナーモードにするか、電源をお切りいただくようお願いいたします』

 ジュリはすう、と深呼吸をする。心臓の高鳴りはだんだんと落ち着いてくる。ジュリは今、全身で人生の息吹を感じている。その身体の元の持ち主は――彼の内側で、眠ったままだった。

 廃教会での事件以来、樹里亜は表に出てこなくなってしまった。連絡ノートにどうして出てこないのかと書き込んで数日、ようやく来た返事は「もう外に出たくない」といった簡潔な一文だった。その後ろにはなぜ外に出てきて生活したくないのか、その理由を書こうとした痕跡が見られたが、樹里亜自身が消しゴムで消したらしく、詳しいことは分からなかった。それ以降、樹里亜からノートに伝言を残されることはなかった。ところどころ判読できる箇所を繋ぎ合わせて推測したところ、彼女が人生を放棄した理由は――「理想と現実の乖離、そして失望」といった様子だった。

(お前がまた出てきたくなるまでは、俺が保守しといてあげますかね)

 ジュリは引きこもってしまった樹里亜に対する心配と、自分が表舞台に立っていられる喜びの両方を抱いていた。
 緞帳はゆっくりと上がる。男物の靴を履いたつま先から現れる主役の姿に、観客たちの期待は最高潮に達する。ジュリは朗々と最初の台詞を唱えた。

「どうしたんだいお嬢さん、そんな浮かない顔をして。街はこんなに煌めいているというのに……今宵の君の時間、俺にもらえるかな?」

 着け慣れたウィッグのいたずらっぽく跳ねた黒髪、着こなしたスーツの男装。危うさと純真さを併せ持つ瞳の魔力に、観客はたちまち虜になった。期待は歓喜に変わり、黄色い声援が上がる。講堂の座席は満員御礼、誰もがジュリに心を奪われている。ずっと日陰に隠されていた彼にとって、これ以上の幸福はあるのだろうか? ――それでも、彼は孤独だった。

(れおな先輩が居なくなったから、俺はこの舞台の上に立っている。みんなから歓迎されている。それでも――れおな先輩と、ずっと一緒に居たかったよ)

 彼が愛した人は、ジュリを残して消えてしまった。恐らく、大切な友人を守るために。ジュリには何も告げることなく……。
 ジュリはちらりと最前列の生徒の方を見た。慣例となった赤いポインセチアとクリスマスローズの大きな花束を抱えた生徒が座っている。彼女もまた、ジュリに釘付けだ。

(あの花束を両手いっぱいに抱きしめても、俺の空虚な心が満たされることはないんだろうな)

 彼が最後の台詞まで演じ切っても、拍手喝采はいつまでも続いていた――。











『男装喫茶ベラドンナの親密な関係』

END

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