『spine』 城ケ崎碧

微睡(まどろ)みの楽園で、君に林檎を差し出した。
もとより君とはひとつになれない僕。
青と赤、鍵と錠前、あるいは背骨で繋がったひと(つが)い。
美しい運命の筋書きに、僕の台詞はないらしい。
尖った瞳孔は、君を怯えさせるのに充分だった。
楽園に祝福されなかった僕は、大いなる意思に背いて即興で紡ぐ。
「君に、真実を知る勇気があるのなら」
(くら)い目を醒ませば、己の愚かさに気づくだろう。
僕が罪なのではなく、無知こそが罪なのだと――
それを知るとき、僕はここに居ないかもしれないけれど。

きっと、僕の背骨を差し出しても、報われることはない。

***

「確認したいことが二つあります」

 レオの口調は自然とれおなのものになっていた。喜多川初瀬は最初からレオではなく、磐井れおなとの対話を目的としていたためだった。

「一つ目は、この鍵を持っているなら喜多川先輩が容疑者になると思うんですけど」
「そうだね。だから黙っていたというのもあるし。嫌疑をかけられた場合、根拠を示して誤解をとくのは難しいと思ったから。だけどこれはまだ行方不明になる前の碧先輩から直接渡されたものだった。二人だけの秘密の証だよ、ってね。そういうことを言う人って、どう思う?」
「他の人にも同じことを言って気を持たせると思います」
「僕もそう思う。だから、他にも地下室のハッチを開けるための鍵を持っている人が居るんじゃないかな、って考えているよ。それで、二つ目の確認事項は?」

 れおなは少し間を置いてから口を開く。

「あの詩に共感したってことは、喜多川先輩もその……女の子が好きなんですか?」

 初瀬はすぐには答えず、言葉を選びながら返事を捻り出した。

「……今はそうだと思っているけど、最終的に自分が『どう』だったかは、死ぬ直前にならないと分からないんじゃないかな。今までの人生を振り返るとき、僕は『やっぱりレズだったんだな』って思っているかもしれないし、『バイだったって結論になるな』って思っているかもしれないし。『傍から見たら、あの頃の自分は女子校病ってやつだったんだな』って思っているのかもね」
「……あんまり好きな言葉じゃないですね。女子校病って。例えそれが環境による一過性の感情だったとしても、この瞬間に誰かを愛しているという気持ちは本物なのに」

 男装喫茶を訪れる客人の殆どは、女子校病の患者なのかもしれない。けれどそれを若気のなんとやら、と一言で片付けるのは乱暴なことのように思えた。

「そうだね、僕もそう思う。友達――じゃなくて、クラスの知り合いが言ってたんだけどね。『私は真性のレズなんだ、女子校病とは違う』って見下している人が居たりしてね。そういうのって……嫌だよね」
「そんなにわかを毛嫌いする古参みたいな……」
「ふふふ、言い得て妙かも。とにかく今日はもう遅いから、地下を調べるにしても明日以降かな」
「ええと、明日の天気は――」

 れおながポケットからスマホを取り出して調べるので、初瀬も同じように調べる。

「そっか、雨だったね。ここに来るには舗装されていない道を通らないといけないから、足跡が残るのを気にしてるんだね?」
「そうです。廃教会の床にも泥がつくので」
「じゃあ最短で明後日か。鍵は渡しておくけど、呼んでくれたら僕も同行する」
「はい」
「今日はありがとう。またね」
「あ……すみません、もう一つだけ」

 立ち上がってその場を去ろうとする初瀬を、れおなは呼び止めた。

「なに?」
「喜多川先輩は、城ケ崎先輩のことが好きだったんですか……?」

 その問いかけに、初瀬は苦笑する。

「やめてよ、あんなのと付き合うなんて嫌だね。僕は『今まで付き合ってきた数多の女のうちの一人』なんて有象無象にはなりたくない。『城ケ崎先輩の友達の人ですか?』って聞かれたら、違いますって答えたいくらい」
「じゃあ、なんで……」
「――しょうもない人だったけどね。碧先輩との出会いは、僕の人生に必要なものだったんだ。あの人のおかげで、価値観を変えられたから。……だから、真相を知りたいんだ」
「……」

 れおながうまく言葉にできずにいると、初瀬はその場を後にした。
 穏やかなレコードが流れる小さな喫茶室の中、れおなは暫し黙して考え込んだ。すっかり冷めた紅茶をひと口啜り、まずはテーブルの上の鍵をポケットにしまう。
 片付けに着手しながら、れおなは考えをまとめていた。

(喜多川先輩は冷静な人だ。嫌な奴だって思ったら、その人のやること成すこと全部否定したがる人も居るのに。しょうもない人だって分かった上で、出会えてよかったと思っているんだ……)

 恐らく彼女の言っていた「価値観を変えられた」というのは、「多様な生き方の人間が居るという事実を教えられた」ことを指しているのだろう。両性具有も、同性愛者も、異性愛者さえも、多様な在り方のひとつに過ぎないということ。

(私は、城ケ崎先輩に対してそこまで思い入れがあるわけじゃない。喜多川先輩と同じ重さでは、真相と向き合えないんじゃ……)

 それは失礼なことなのではないだろうか。れおなは思案する。

(私はどうして地下室を調べたいんだっけ。そうだ、盗聴器の件。喜多川先輩にも聞いてみればよかった。もしかして、地下室の謎と盗聴器は無関係なのかも? だとしたら誰が犯人? もしも地下室に遺体が埋められているとしたら、その犯人が盗聴器をしかけた犯人と同一人物ってこと? ううん、それを結びつける材料はない……。一旦別件として考えよう。盗聴器を仕掛けたのはたぶん男装喫茶部の部員の誰か。地下室のことは……遺体が実在するのか、それが誰なのか分かってから考えよう。今はまだ、憶測の域を出ない)

 片付けと着替えを終え、れおなは帰路に着く。いよいよ明日は、学内演劇の主演を決める投票の結果発表日だった。

***

 そして来たる10月31日の昼休み。昼食を急いで済ませてきた少女たちは、白いセーラー襟の肩を並べて掲示板の前に集っていた。そこには既に、水景と樹里亜と淑乃の姿があった。

「樹里亜ちゃん……俺、投票数一位になれたかな?」
「大丈夫ですよ波止場先輩! 部活でも指名率ナンバー1じゃないですか!」

 自信なさげな水景を樹里亜が励ます。その横で、淑乃はそわそわと周囲を見回していた。

「磐井さんと夜半月先輩は来ないのでしょうか……」
「さあ……?」

 淑乃のその疑問に対しては、樹里亜は冷めた反応だった。

「会長、今年の集計は大変でしたね!」
「投票の総数が凄かったからね。一人で数えてたらどうなっていたことか……」

 不意に誰かの声が聞こえて、少女たちは一斉に声のした方へ振り返った。会話の主である二人の少女のうち片方は生徒会副会長で、丸めた白い用紙を持っている方が生徒会長だった。

「ありゃ、すごい人だかり」

 生徒会長はあまりの賑わいに少し驚きつつ、結果を印刷した用紙を手に輪の中心へ進み出た。彼女が結果発表を担当しているらしい。

「皆さん、画鋲で貼るので一歩下がっていてくださいねー」

 注意喚起を行いながら、生徒会長は用紙の下を画鋲で留め、丸まった紙を上へ向かって伸ばしてゆく。その様子を、周囲の生徒たちは固唾を吞んで見守っていた。自分が一票を投じた相手が、得票数一位の座を獲得していることを願いながら。
 水景は自分が一位であることを。また、七夏が二位で、二人が共演できることを願った。
 樹里亜は水景が一位であることを。また、自分が二位で、水景と共演できることを願った。
 淑乃は自分が一位であることを願った。栄光の一位の座でなければ、彼女は許婚との結婚から逃れることはできない。
 背後からの強烈な視線の中、生徒会長はケースから画鋲を取り出すことに手間取っている。その動作にやきもきさせられながら、一同は結果発表を見守った。
 用紙の下の方、下位から名前が見え始めた。



『5位 川島淑乃  (2年花組)』



 まずは淑乃だった。自分の名前が見え、淑乃は黙って両手を胸の前で握りしめる。それは無念の表れだった。彼女の自己研鑽は周囲からの印象を変えたが、それが男装喫茶部での活動に結びついていたわけではなかったし、なにより動き始めたのが遅かった。淑乃は、票数を覆せなかった。



『4位 夜半月七夏 (3年月組)』



 次は七夏だった。生徒会に所属し、開票に携わっていた彼女は、己の順位を一足先に知ってしまっていた。結果発表の輪からは敢えて距離を取り、階段の陰から喧騒を聞いていた。結果を知るまで、七夏は自分の一位を諦めていなかった。たとえ水景が指名率ナンバー1であろうとも、元芸能人であり、知名度のある自分には浮動票が見込めるだろうという楽観視があった。

「それがまさか、ねぇ……」

 結果が分かってしまえば、敗因も自然と思い当たる。慢心。詰めの甘い半端な追い上げ。また、熱心に票を投じてくれそうであった「ガチ恋勢」に対してごまかしをせず、完全に望みはないのだと断言してしまった立ち回りも影響していただろう。ただの人間関係ならそれが誠実な行動だとしても――七夏はただ鬱陶しくてそうしただけだが――人気投票での戦略としては、正解ではなかった。



『3位 波止場水景 (3年星組)』



 その順位が見えた瞬間、周囲には一瞬の静寂が降りた。水景は両の青い目を見開き、心臓が凍るような心地で静止していた。思いがけない順位にぎょっとしたのは水景だけではなかった。隣の樹里亜もまた呆然とし、あんなに応援していた自分が水景の順位を上回ってしまったという事実に絶句した。彼女はもはや、隣の愛する人に顔を向けられなかった。身体中が緊張と自責の念でこわばり、震えを抑えるのに精一杯だった。
 水景の敗因は、「厄介なガチ恋勢ばかり抱え込んでしまった」ことだった。自分以外の人間が水景――ミカに惚れることを嫌い、ミカがより多くの人の目に触れ、敵が増えることを恐れた彼女らは、推しであるミカに票を投じることはなかった。そういった独占欲の強いファンを育てたのは、紛れもなくミカの「思わせぶりなやり方」だった。それでも、彼女には三位という順位が受け入れられなかった。
 残るはあと二人、という時点で昼食を終えたれおながやってきた。

「ちょっとれおな~、遅いじゃん! 自分の順位が気にならないの!?」

 輪の中の数人が遅れてきたれおなを呼び寄せる。

「ごはん食べてたんだって! ていうか思った以上に注目されてるんだね!? こんなに速報待ちの人が多いなんて!」
「候補者が五人も出たのは異例の事態なんだから当たり前でしょ!? ほらほらド前で見な!」

 クラスメイトたちにぐいぐいと背中を押され、れおなは最前列に出た。真横には既にお通夜状態の水景、樹里亜、淑乃が居る。若干の気まずさを感じながらも適した言葉を見つけられず、れおなは黙って結果用紙を見た。残るはれおなと樹里亜の一騎打ちだった。

(白砂さんは自分が一位かもしれないのにその表情か。波止場先輩に一位になってほしかったんだもんね、そうなっちゃうか)

 そして遂に二位が発表される。



『2位 白砂樹里亜 (1年月組)』



 樹里亜は水景の方を見るわけにもいかず、反対側のれおなの方に顔を向けた。まさかそんな、この人に負けるなんて――そういう見下した様子が、表情で見て取れた。れおなはちらりと目線を交わしてからすぐに樹里亜から逸らした。
 新進気鋭の人気部員・ジュリがあと一歩のところで首位に届かなかった理由。それを強いて挙げるのであれば、単に知名度の点で及ばなかったことであろう。あと一年も経てば、見目麗しく飄々とした振る舞いのジュリは一位の座を獲得していたかもしれない。



『1位 磐井れおな (2年雪組)』



 その確固たる栄光の座を勝ち取った者の名前が揺るぎない事実だと発表された瞬間、歓声が巻き起こった。後列の生徒たちは、れおなに惜しみない拍手を送る。クラスメイトたちはれおなの両肩に抱きつき、祝福の言葉を高らかに発する。

「れおな、一位おめでとう!」
「主演決定だよ! すごいすごい!」

 れおなは心底嬉しそうにうんうんと頷き、彼女たちに応えた。

「ありがとー! ほんとに嬉しい!」

 クラスメイトたちの大げさな喜びのリアクションに振り回され、腕がもげちゃうよと冗談を言いながら最高の結果を噛みしめる。

「あのっ、磐井先輩……!」

 不意に聞き慣れない声で呼ばれ、れおなは振り向く。大人しそうな彼女は誰だっけ、と記憶の糸を手繰り寄せていると、彼女は自ら誰であるか明かした。

「私、去年の学園祭のとき、磐井先輩に相談に乗ってもらって……」

 そう言われてれおなは完全に思い出す。実は自分は女の子が好きなのではないか――と悩みを打ち明けてきた少女だった。

「あっ、あの時の!」

 れおなは小走りで少女の目の前までやってくる。

「私、あの時に磐井先輩に救われてから……ずっと、なにか恩返しがしたいと思っていました。ただの一票ですけど……磐井先輩が主演に選ばれて、本当に嬉しいです……!」

 彼女のまっすぐな言葉に、目に、れおなは胸を打たれる。

「ありがとう! 選ばれたからには役目を全うしないとね!」

 ――「おめでとう」「私も投票してたよ」「仲良しのれおなちゃんが一位で嬉しい」「いつもお世話になっているお礼ができてよかった」。れおなの首位獲得を喜ぶ人たちは、日頃の人徳を理由にれおなに票を投じていた。中学生の頃、人との繋がりを軽視して苦い思いをしたれおなの悲願は、理想的な形で達成された。

(普段からみんなとの交流を深めてきてよかった。やっぱりたくさんの人に好かれることが大事なんだ)

 心の奥底の打算に重りをつけて沈めながら、れおなは満開の笑顔を浮かべる。彼女はやっと、「たくさんの人たちに応援され、祝福される自分」という願いを叶えた。例えその動機が不純なものであったとしても、いまここにある絆は本物だった。

 賑わいは少しずつ収まってゆき、五限の授業を前に生徒たちは掲示板の前を離れる。
 れおなは教室のある方の階段をのぼっていくと、屋上のある階から誰かの話し声が聞こえてきた。階段の近くは上下の階にも声が通りやすい。れおなは取り巻く友人や下級生に手を振ってその場を離れ、声の主の方に近づいていった。上履きの足音を忍ばせて階段をのぼってゆき、陰から彼女の声に耳をそばだてた。

「――ええ、そういうことですので。手続きの方は進めていただいて……はい。そのように」

 その人はどうやら、電話越しに何らかのやり取りをしていたらしい。今しがた来たばかりであることを装いつつ、れおなは陰から顔を出す。

「川嶋さん?」

 れおなに呼ばれて淑乃はびくっと反応し、慌ててスマートフォンをスカートのポケットに滑り込ませる。

「い、磐井さん。ごきげんよう」
「ごきげんよう〜。ごめん、お話し中だった? 声が聞こえたから来ちゃった」
「いえ、なんでもありませんわ。……話の内容、聞こえていませんわよね?」
「よく聞こえなかったよ」
「……そう。よかった。ところで磐井さん、主演決定おめでとうございます」
「あ、うん。ありがとう……」

 主演争いのライバルだった淑乃に言われると、無邪気に喜ぶことは憚られた。

「頑張り屋で皆さんに好かれている磐井さんですもの。当然の結果ですわね」

 淑乃は淋しそうに微笑む。とてもではないが、額面通りに受け取ることはできなかった。

「川嶋さん、なにか……」

 なにかあったの、と踏み込むことが許されるだろうか? れおなはそこまで無遠慮ではなかった。そして躊躇ったからこそ、淑乃は拒絶した。

「磐井さんには、関係のないことですわ」

 またしても去ってゆく淑乃の背中を、れおなは呼び止めることができなかった。