――――本邸での暮らしは、離れの時よりも賑やかだ。それも当然だろうか……?こちらにはお義姉さんやお義母さんたち、それから住み込みの使用人や警備の武人たちもいるのだ。

廊下を歩けば、紅緋の花嫁だと歓迎してくれているようで……これほど温かく迎えられるのは新鮮で、まるで私じゃないように思えてしまう。

こう言うのは全て菖蒲のものであったが、実家とはどこか違う。実家ではみな、菖蒲に媚を売るようにご機嫌取りをしていたが。ここでは、ご機嫌取りなど必要ないように、どこか友好的である。

さらにはお義姉さんに誘われ、本邸の湯殿に足を踏み入れる。

「どう?広くていい場所でしょ?」
「はい。その……湯船は」
実家のよりも広い……。
しかも湯が乳白色である。

「気になる?温泉のような効能が出るよう、特別な石を沈めているのよ。気持ちいいわよ」
「私も入って……いいんですか?」
離れにもひとりようの湯船があって、お湯が湧いていたけれど、私が浸かっていいものか分からなくて、結局入らなかった。

「もちろんよ。この湯は疲れにいいから、私たちが入った後は、使用人たちにも疲れを癒してもらうために残り湯を使ってもらうの」
そんな上質な湯に、使用人たちも浸かれるのか。
実家では本家の人間と同じ湯は使えなかったから、使用人用の風呂で、しかも狭かった。私が使っていたのはさらに狭く湯船もない離れの浴室。使用人よりも下位の召し使いが使う場所だった。

――――でも、ここでは違う。
紅緋は入って欲しくて……湯を張ってくれていたのだろうか……。少し悪いことをした気分になってしまう。

「離れは離れで、また違った泉質になっているでしょ?」
「確か……赤褐色の」

「そうよ。入ってみた?」
「いえ……入っていいものか、分からなくて。紅緋には悪いことを……」

「そんなことはないわよ。初めての場所だもの。遠慮しちゃっても仕方がないわ。どうせ紅緋は入ってるでしょうし、無駄にはならないわ。今度女3人で行くときは、交代で入りましょ?それで楽しめばチャラよ」
「はい、お義姉さん」
お義姉さんの気遣いがとても嬉しい。ここは、優しいひとたちばかりだ。

「ほら、髪と身体あらって、さくっと、入っちゃいましょ!」
「はい……!」
早速普通の石鹸で髪を洗おうとすれば、お義姉さんから身体用の石鹸ではなく、髪用の石鹸を渡された。実家ではこれが普通だったのだが……。

「女の子なんだから。離れにもあったはずだけど……ひょっとして……見慣れてなかったのかしら?じゃぁ、私に任せて?」
「で……ですけど……」

「私、ずっと妹が欲しかったの!ほら、後ろ向いて?」
「……っ、は、はい」
そんなに断るのも失礼かと思い、お義姉さんにお任せする。
離れにあったものも、使えば良かっただろうか……。

「あの、離れでは、身体用でしたけど、途中から白から橙がかった黄色い石鹸になっていて……」
「んー、ひょっとして兼用のものかしら……?離れの髪用の石鹸が減らないから、きっとあのこなりに気を遣ったのね」
いつの間にか……紅緋が気付いて、私が気兼ねなく使えるようにしてくれていた。どうしてか……嬉しくなってしまう。この火照った顔は、気付かれませんように……。

その後お義姉さんは髪用の石鹸を泡立てて汚れを落としてくれて、さらには髪が更々になると言う美容液を染み込ませてくれる。

「後は洗い流すだけよ」
「は、はい……!」
目をつむって湯を流してもらえば……あっという間に髪は艶々になっていた。
その頃には頬の熱も引いていて、艶々の髪をするすると指に絡めて感心する。
「すごい……」
「これからは毎日やりましょうね」

「でも、毎日だなんて……っ」
「紅緋も喜ぶわ?」

「紅緋も……」
それなら……やってみようか。

「あの、お義姉さん。次は私が……」
「ふふっ、よろしくね」
「……はい!」
お義姉さんと一緒に洗いっこした後は、髪が湯に浸からないように上げる必要があるらしく、お義姉さんに手伝ってもらった。知らないことばかりだ。
そして2人で乳白色の湯に浸かる。

「ん~~っ、やっぱり湯は気持ちいいわね」
「はい、とても気持ちいいです」

「肌もすべすべになるから、紅緋も触りまくるわよ!」
「そ、それはさすがに……」
触りまくる……?


そうして湯殿から上がり、髪と身体を乾かせば、湯上がり用の浴衣を渡される。そう言えば……実家の本家のひとたちも……菖蒲たちもこう言うのを着ていた。
帯の結び方は……普通の置物と違うのだろうか……?

迷っていれば、お義姉さんがお手本を見せてくれて、その通りに結んでみる。

「ほどけやすいように結んでもいいのよ?もちろんほどけるのは紅緋との寝室でにしなさい?」
「は、はいっ!?」
いきなり何を……っ。
それが何を意味するのかくらいは……分かる。

「ありあら、初々しいわねぇ。大人の夫婦になれば……分かるわっ!」
そ……そうなの……?しかし、まだ分からない……細部までは分からないのだから、帯はほどけないようにちゃんと結んでおいた。

そうして、事前に紅緋との夫婦の寝室だと教えてもらった部屋の襖を開ければ……先に敷かれた布団の上に、既に紅緋がいた。

「杏子、風呂はどうだった?」
「……っ!とても広くて……それから、お湯にも浸かれて、気持ち……良かった。疲れも……とれそう」

「そうか、それは良かった。自慢の泉質だからな」
「うん」
そしてそれを独り占めしないのは……お義母さんの言っていた原理と似ているような気がする。

そして自然と紅緋のすぐ隣に腰を下ろしたのだが……。ふと、ここで良かったのかと不安になり、腰をあげようとした。

その時だった。

「杏子」
すぐに紅緋に腕を掴まれ、もうひとつの腕で腰に手を当てられると、ふわりと抱き寄せられる。
そしてそのまま後ろから布団に身を預けた紅緋に抱き締められるようにして身体が重なりあう。

「あ、紅緋」
「どうして離れようとするんだ?」
まるで肌ざわりを確かめかのように、紅緋の手が私の手首や腕をなぞる。
その仕草と感触が、妙に妖艶で……。

「それは、その……っ」
言葉にもつまってしまうくらいには……私は動揺しているようだ。

「俺は杏子といたい」
直球のその言葉にドキッときてしまう。

「それは、私も」
ついついそう、私も漏らしてしまうように……。

「じゃぁ……何で……?」
その……っ。何だか……試されている?いや、違う。紅緋は口元にうっすらと笑みを浮かべている。
全てを見透かされているようなその瞳は……お義母さんの瞳とよく似ている。
これには……どうしてか素直に吐きたくなってしまうのだ。
色は違うのによく似た、優しく慈しむような眼差し。

「その……私が、隣にいてもいいのかって……思って」
「当然だ。むしろ……隣にいてくれ」
紅緋はそう言うと、ぱたんと横に寝転び、同時に私と向かい合う形で布団に横たわる。

「紅緋……?」
「杏子……愛している。俺の愛しい花嫁」
愛……愛しい……。花嫁……。

蜜のような響きの連続に、かあぁぁっと顔が赤くなる。そしてさらに身体を抱き寄せてくる紅緋が、柔らかい愛の印を重ねてくる。

「杏子……杏子は……?」
どうしてかそれを確かめねば、どうしても不安なようである。あの全てを見抜いているかのような瞳を持つのに……不思議な。けれど……。

「愛、して……るよ」
その言葉を紡ぐのは、勇気がいるけれど。どうしてかその甘露のような空間では、素直に吐露したくてたまらない。

「嬉しい」
たっぷりと……ありったけの愛を注いでくれる紅緋の身体に、そのまま身を委ねてしまいたくなる。

「それでいい」
「うん……」
優しい紅緋の答えが還ってくれば、そう、頷かないわけはなかった。


※※※

――――そっと目を開ければ、そこは知らない景色だけれど、ずいぶんと前から知っている、落ち着く景色だ。
紅緋から蜜のように甘い囁きや肌ざわりを与えてもらいながら……昨日はいつの間にか寝入ってしまい、紅緋と一緒の布団で寝たのだ。

離れでは……別々だったから、どこか新鮮で。

紅緋の顔を微笑ましく見守っていれば、ふと紅緋の瞼が開く。

「そんなに情熱的に見つめられると、朝からもっと甘やかしたくなる」
「その、まずは起きなきゃ……!」
朝のしたくも、朝食だってあるのだから!

「それもそうだ」
それは冗談だったのか、それとも本気だったのか。起き上がって支度を始める紅緋は、どこか名残惜しそうだった。

そして朝の支度を整え、2人で一歩、夫婦の部屋の外に足を踏み出せば、朝の慌ただしくも賑やかな邸内が広がっている。

夫婦の寝室も、こちらも、いつの間にかかけがえのないものになっていった。


――――そんな、ある日のことだった。いつものように湯殿で疲れを癒し、夫婦の寝室に戻った時だった。

「杏子」
紅緋は今日も先に夫婦の布団の上にいた。そしてさらに……紅緋はあの仮面を手元でいじっている。最近は素顔でずっと過ごしているせいか、その仮面を見ることはほとんどなかったのに。

「何か……あったの……?」
「ん……うん……。今度、宴があるんだ」
宴。会合のある時にも、宴は一緒にくっついてくる。しかし会合のない宴となれば……鬼の特別な行事や儀式であろうか……?

「父さんが知らぬ間に用意していた。俺が結婚して、本邸に帰ってきたからと……その……」
「うん?」
紅緋の頬が赤い。照れている……?

「杏子の……俺の花嫁のお披露目だと」
「……っ、わ、わたし……?」

「うん……杏子には自分で話すようにと……そして、花嫁のお披露目だからこそ……俺本人が出席しなくてはいけない」
今まではお義兄さんが代理を務めていたけれど、そうもいくまい。しかし紅緋も……もうきっと、代理を務めてもらわなくとも前に進めるのだと、お義父さんもお義母さんも悟ったのだろう。

「だから、杏子と一緒なら……俺も行けると思う。もちろん、来る人間の家は最低限、鬼中心だ。妙齢の人間の娘はなるべく招かないようにしてくれた」
それも親心。これからゆっくりと慣れていってほしいと言うことだろうか。

「一緒に、来てくれるか……?」
強制は……しないようだ。あくまでも頼んでくれるところが嬉しいかもしれない。
だからこそ、私は紅緋の力になりたいとも思う。紅緋はカッコよくて、優しいけど……同時にかわいらしいところがあると、最近は思い始めている。

――――本人に言ったら……微妙な顔をされそうだけど。

「でも最初はこの仮面を被りたい」
「うん」

「こんな臆病な俺でも……いいか?」
「紅緋は……いざというときは、とっても頼りになって、カッコいいから。だから……す、好き……だから」
「杏子……っ!ありがとう……。俺も大好きだ」
そう言うと紅緋の腕がそっと伸びてきて、また華麗に抱き寄せられてしまった。