唇が離れていくのを名残惜しく感じつつも、私を見下ろす紅緋をまっすぐに見上げる。

まだ、ドキドキしてそっと視線をそらせば、そっと頬に紅緋の掌が触れてくる。
「紅緋」
「杏子」
まるでずっと見ていてとでも言いたげなような。何だか……どこかかわいらしい。

「戻ろう、離れに」
「う……うん……?」
紅緋は紅緋だったのに……離れに戻るの……?紅緋にも本邸に戻れない事情があるのだろうか。しかしこれまで通り紅緋と暮らせるのならば。

手首を引く紅緋に付いて行こうとすれば。

「いや、待て!お前まだ本邸に戻らないのか……!」
不意に紅緋の肩を薔薇さまが掴む。

「いい加減、戻れ。みな、紅緋の帰還を待っている」

「それは……」
紅緋がそっと視線をそらす。

「奥方さまもいい加減、本邸で暮らしたいでしょう?」
「……っ」
私っ!?

「その、私は……離れでもいいです」
「杏子もそう言っている」
私の言葉に賛同してくれるように紅緋の腕が私を包み込んで来る。

「いや、その……っ」
薔薇さまが頭を抱えている。やっぱり……次期頭領だから……?

「あの、みなさんにご迷惑をかけるなら、戻った方がいいのでは……?私はこちらでいいので」
そう提案してみれば。

「杏子と離れなくない」
これ……また振り出しに戻った……?

はて、どうしようか。私は紅緋と一緒なら離れで構わないのだが。……でも薔薇さまは困っているようだし。

考えあぐねていれば、そう言えばこの場にもうひとりいたことを、ふと思い出す。

「ちょっと……っ、私がいるのに、何勝手に話を進めているのよ!」
菖蒲だ。どうやら意識を取り戻したらしい。

「ねぇ、紅緋さまぁ……!紅緋さまはあのブスじゃなくて、私と結婚してくださるのでしょう?」
そう菖蒲がすりよったのは……薔薇さまである。

「近付くな!」
しかし薔薇さまは蚊でも払うかのように菖蒲を一蹴する。

「それに私は紅緋ではない!」
「でも、紅緋さまだって!紅緋さまってみんなに呼ばれてたじゃない!」
どこで……だろう……?
私の疑問に答えるように、薔薇さまが口を開く。

「本物の紅緋はこちらだ。そして私は紅緋の仮面を被り代わりを務めていたまで」
確かに顔はそっくりだ。目元の模様を隠せば見分けが付かないほど。とは言え細かい表情や仕草は違うと思うが。

「でもどうして……」
紅緋は薔薇さまに代わりを務めてもらっていたのだろう……?

「紅緋は幼少期のトラウマで、人間の娘が苦手なのだ」
そのトラウマって明らかに菖蒲よね……?

「だから人間の娘が来るような会合には私が代わりを務めている。頭領のご子息として、そう言った場に全く顔を出さない……と言うわけにはいくまい」
確かに……。あれ、でも。

「彼女は……出禁では?」
鬼の家々に縁談を断られ、菖蒲は巫女の家の出身であることをいいことに、勝手に鬼たちにアプローチするため、そう言った鬼との交流の場……取り分け人間の娘も自身を売り込むために凌ぎを削る会合などに無理矢理押し入った。

そこで許嫁のいる鬼や既婚者の鬼にまで、見目麗しいなら構わないとアプローチしまくり、さらにはその婚約者や妻に嫌がらせまでした。だからこそ出禁を言い渡されていたのに。

私はそう言った場に顔を出すことがなかったけど、実家で菖蒲が文句を言いながら私に当たり散らして来たから知っている。

「何よ、何よ何よ何なのよ!」
私の呟きを聞いて菖蒲が私に向かって憤怒の表情を向けるが、紅緋がサッと私の前に腕を添えたことで菖蒲が『ひっ』と短い悲鳴を上げ、尻込みする。

「そうだ。出禁を言い渡したのに、この女はほかの人間の娘を脅して招待状を奪い取り、成り代わって潜入してきた」
何てことを……。
「脅された()は大丈夫なんですか……?」
「まぁ、うちの嫁さんが看てくれたからな。無事に家に返してある」
それなら……。

「何で私じゃなくてほかのブスの話なんてするの!?」
ブス呼ばわりするのは私にだけ……だと思っていたが、ほかにもやっていたのか……。むしろ自分が一番美しいと言われて育った菖蒲にとっては普通のことなのかもしれない。

確かに顔立ちは美しい……が、その表情まで洗練されているとは限らない。彼女はただただ甘やかされてきただけだから。

「私がこんなに悲しんでいるのに……っ」
そう……なのだろうか……?悲しんでいるのは被害にあった()では……?

「知るか……!」
薔薇さまが一蹴する。

「だが何故このようなことに」
紅緋が口を開き、薔薇さまを見る。

「また顔の良い鬼にすり寄り、その婚約者に手を出そうとしたのを止めたら、『醜い顔の癖に』と私の仮面に手を伸ばし……その拍子に外れてしまったのだ」
それで外れた先の薔薇さまの顔を気に入ったから、幼い頃に自分が紅緋に言ったことを気にもせず、アプローチした。

そして、会合と言うのは頭領の屋敷かその周辺で行われていたのだとうか……?

頭領の子息……正確には成り代わっていた薔薇さまと結婚したいから、紅緋の妻である私に離縁を迫るためこちらに押し掛けた。
どうやって離れの場所を知ったのか、私がこちらにいることを知ったのか……。
いや、巫女の家だもの。鬼の家々からは嫌われているとはいえ、私が嫁いだのだ。それを利用して人間の家々に圧力を掛けて情報を探ることはできる。


「これは運命だわ!やっぱり紅緋さまは私と結婚すべきなの!元々、紅緋さまが結婚するはずだったのは私なのよ!」
それを紅緋を傷付ける方法で拒んだのは菖蒲だろう。

あの日紅緋は仮面の内側で泣いていた。相当恐かったのだろう。ショックだったのだろう。

――――しかし、あの時紅緋は仮面を付けていた。それも今の顔の上半分を覆うものではなく、顔全体を覆うものを。

「ふざけるな!何度も言うが、私は紅緋ではなく、従兄弟の薔薇だ!それに……紅緋はあの時も仮面を被っていたのに、無理矢理仮面をもぎ取った挙げ句、お前はまた紅緋に酷いことを叫んだ……!」
そうか……それで。紅緋は仮面を被っていたが……菖蒲が自分で無理矢理取ったのに、紅緋に化け物などと勝手なことを叫んだのだ。
美しい鬼が目当てだったから、どうせ無理矢理顔を見たいと迫ったのだろう。
紅緋は優しいから……人間を恐がらせないように仮面を被っていたのではないか……?
――――それなのに。

「でも私との愛のお陰で、呪いは解けたのよ!」
呪い……なの?少なくとも菖蒲との愛はないと思うし。そちらは薔薇さま。それに薔薇さまは確かさっき……。

「呪いだと!?ふざけるな!この女、我ら鬼をバカにしているのか!」
しかし次の瞬間、薔薇さまがこれまで以上に声をあらげる。そして紅緋がボソリ……と呟く。

「これは呪いなんかじゃない……先祖返りだ」
呪いじゃなかったのは良かったけど……先祖返り?

「我ら鬼は、元々人間には恐ろしい様相をしていたが……種の繁栄のためには人間の娘が必要だ。だからこそ、今のように人間を誘惑するような美麗な容姿を持つと言われている」
確かにそう考えれば合理的である。鬼はただで容姿がいいわけじゃない。種の繁栄のためなのだ。

「だが、先祖返りとして強い力と先祖返りの姿を持つ紅緋は我ら鬼の誇り。それをかつてあのように貶しておいて、まだ言うか……!」
あぁ……それで鬼たちは怒り、菖蒲のことを門前払いしたのだ。鬼の根本を否定するならば、彼ら自身の誇りを傷付けるのと同様。

そのような娘を、鬼たちが一族に招き入れるはずがないのだ。
それにほかにも鬼の伴侶になりたい娘はたくさんいるし、巫女の家だってほかにもある。うちは単なる候補でしかなく、そこで菖蒲がやらかした。

そして私が嫁ぐことで鬼は菖蒲の非礼を許したけれど、菖蒲が鬼の一族の中に入ることは拒否した。

薔薇さまの反応を見る限り、完全に許してはいないようだけど。
形式上だけ……と言うことなのだろう。

「わ……私は紅緋さまの花嫁になるべきで……っ!あんな化け物紅緋さまの偽物よ!本物の紅緋さまはあなたさまなの!」
またもや鬼の誇りを傷付けて……。自分の言うことが絶対的に正しいと認識しているから、鬼の誇りを傷付けていることにすらも気が付いていないのだろう。
そしてまた本物の紅緋を化け物扱いし、薔薇さまにすがろうとする菖蒲を、薔薇さまは舌打ちすると、さっと腕を伸ばした。その瞬間……っ。

「う、がぁ……っ」
薔薇さまの手が、菖蒲のか細い首を容赦なく鷲掴みにし、締め付けるようにキリキリと音を立てる。

「あ゛……あ、か、ひ……ざまぁ……っ」
「いい加減にしろ!私は薔薇だ!そして紅緋をこれ以上貶すのならば、この場で殺してやる……!」
あれは……鬼の本気の怒気。どこかその肌には、紅緋の目元のような紋がうっすらと浮かぶ。
鬼が本気でその力をあらわにすれば、先祖の力に近しい姿をとる。それが常に出ている紅緋は、まさに特別な先祖返りなのだ。
――――しかし、あれは本気で殺す気では!?

「だ、ダメです、薔薇さま!」
私の声に、薔薇さまの縦長の瞳孔がギラリと光り、硬直する。これが……人間よりも高位な存在の、威嚇。

「薔薇、やめろ」
その時紅緋が薔薇さまに告げれば、薔薇さまが菖蒲の首から手を放し、菖蒲が地面に崩れ落ちる。

「紅緋……だが……っ」
「お前が手を下すまでもない」
「……分かった」
それはどう見ても長年に渡って築かれたのであろう信頼関係だ。
――――だが菖蒲はそれをどう曲解したのだろう。


「紅緋さまが化け物に操られている!あぁ、おかわいそうな紅緋さま!私との愛で目を覚まさせてあげなくちゃ……!」
「何が貴様との愛か!そもそも私は既婚者だ!」
「は……?だからあのブスと離婚すればいいじゃない!」

「本当に話が通じない」

――――その時だった。

「あら、こんなところまで来ていたの?薔薇ったら。みんな心配していたのよ?」

こちらに駆けてきたのは、珍しい……女鬼だ。