●五月四日(土曜)


(つごもり)さん、昨日蒼樹来てた?」
「何言ってるんですか。お昼に来てたでしょう」


 まだお酒が抜けてないんですね、と柊が呆れている。日曜の営業時間前、柊が忍に背を向けせっせとテーブルを拭いていた。


「いや昼じゃなくて飲み屋に行った帰り……寝てたら、事務所にあいつが来てたような記憶があるんだよな」

「飲み屋の帰り? 深夜に? 事務所に? 何しに?」

「ごめん。夢だったわ」


 映像が一時停止するかの如く柊のテーブルを拭く手がピタッと止まり、早口で捲し立てられると顔が見えないだけに忍の心臓がギュッと縮む。これ以上語るのは危険だと察知して口をつぐんだ。

「そう言えば所長。昨日ははぐらかされてしまいましたが『直伝』と『ハニートラップ』についての説明をしてなかったですよね……」

 ようやく柊が振り返るが、その瞳に光はない。


「再度言うけど蒼樹は元カノでもセフレでもないのは本当だから。信じてください」

「嘘つくなんて悲しいです」

「真実を述べたまでだろ‼ もっと伴侶を信じろよ‼」

「はあ。その割には伴侶の前でよくもまあイチャイチャイチャイチャと見せつけちゃって所長もえらく楽しそうじゃないですかぁ…………?」

 柊が震えながら握りしめているテーブル拭きに忍は自分の首を幻視してしまう。
「だって晦さんが蒼樹に嫉妬してる姿見るのって面……」

「おも?」

「……思っていた以上に可愛くてやめられなかった。意地悪しちゃってごめんね」


 本人は努めて平常心を保とうとしているつもりらしいが、忍には感情に出すまいと口角が上がるのを必死にプルプルと堪えているようにしか見えなかった。

「で、結論から言うと『直伝』って言うのは口からデマカセ。口伝が正しい。その手の知識頼んでもないのにペラペラ教えてくるの」

 柊は渋い顔をしてあまり信じていないようだったが、「じゃあハニトラの方は?」ともう一つの質問をする。

「依頼人の恋人や家族相手にそんなことしたら大問題だろ。依頼人との信用関係に関わるようなことするわけがない。
 それに赫碧症(かくへきしょう)かどうか調べるために関係持つなんて言語道断にもほどがある」

「ほっ……ですよね」

「だからハニトラは『赫碧症の調査とか依頼人の恋人や家族相手にゃ』したことないから安心しなよ」

「『赫碧症の調査とか依頼人の恋人や家族じゃなけりゃ』やってるんじゃないですか‼︎」

「結婚前の話くらい大目に見てよ」

「開き直るその態度が気に入らないんですよ‼︎」




 柊を一旦クールダウンさせるために適当に近所まで簡単なおつかいを頼ませた。二人で昼休みを兼ねて二階で昼食を済ませたあと、二件目の依頼人が依頼料を渡しに来たのでいつものように忍が応対し、柊がお茶の準備をする。

 例の社員について、表向きは「営業成績の不振」「コミュニケーション能力の問題」として会社都合で退職させた、と報告された。



「まあ、向こうだって赫碧症であることを隠していたわけですし、退職金も支払ったんだから文句は言わせませんよ……」
「あの、使ってください」
「え?」

 忍からテーブルのティッシュを近づけられ、その意図が分からないでいる依頼人はキョトンとしている。

「涙が……」

 依頼人は忍に言われて咄嗟に指で頬を触り、その頬が濡れていることに気づいた。本当に自覚がなかったらしい。

「……ああ、すっかり涙もろくなってしまって。私も歳ですね。お恥ずかしいところをお見せしました」

 一企業の社長が人目を憚らずティッシュでごしごしと涙を拭っている。柊も後ろでハラハラしていた。
 依頼人が「独り言を言ってもいいですか」と尋ねるので、忍も黙ってコクリと頷く。



「うちの娘がね、大学四年の頃偶然心神喪失していた赫眼の男に出くわして。
 娘を含むその場に居合わせた全員が暴行されて、うちのは全治二ヶ月でした。恐ろしい事件でした。

 これでも被害者の中では軽い方だったんですが、事件のショックで当時採用が決まっていた大手企業への就職もできなくなって、一年間家で塞ぎ込んでたんです」


 目の前にいた忍も、二人から離れたところにいた柊も大石社長の告白を聞いて身体に何か重たいものがズドンとのしかかる感覚があった。


「でも最近、本人も少しずつ社会復帰できる余裕ができたみたいで、リハビリとして家業の手伝いをさせてるんです。
 二年前守ってやれなかったから、その罪滅ぼしとして…………安心して暮らせるようにしたいんです。

 そのためならどんなに世間から非難されようが構いません」


 忍は今まで無意識に彼のことを赫碧症者を差別する大衆の一人だと思っていた。しかし、いい歳した男が見せる涙を前に、どう非難できようか。

 またもや、あの植木鉢の少年の両親のことを思い出す。


 彼らは自分の息子や娘がもし赫碧症でも、今と同じように自分の子ども達と接し、愛してやれるのだろうか――――と。





  ◇◇◇



 嫌に息苦しく、身体中汗を掻いていた。


 あなたが安心して暮らしていくために必要なんだからね。…………もあなたがこの先安心して暮らせるようになって欲しいから。

 切実そうに語る…………の顔を見て、もっと安心して欲しくて、本当は「おかしい」と感じていても、…………の為なら、真剣に想われていることが嬉しかったから、言うがままに続けた。



 しかしその努力の甲斐もなく、到底予想できなかった出来事が起きてしまった。
 あとからそれは本心ではなく違う理由で行わせていたと打ち明けられても、離れて暮らしても、まだ心のどこかで…………を信じている自分がいた。

 そして高校生になって、あれが自分のことなど少しも考えていなかった…………自身のエゴだったのだとようやく認めることができた。



 認めてしまったから、耳当たりが良いだけな口先だけの言葉を無条件で信じられる愚かで、滑稽で、哀れなガキを心の中から永遠に追い出してやった。





 その時、耳元でカチャンと音が聞こえた。





「あ……ごめんなさい、起こしてしまいましたね」

 どうやらデスクの上で顔を伏せていたらそのまま仮眠してしまったらしい。うつ伏せのまま顔半分を右に向けると、柊がまだ中身の入ったコーヒーカップを片付けようとしていたのが目に入った。

「所長、ちょっとお元気ありませんね」
「んあぁ?」

 うつ伏せの姿勢を続けていた忍がようやくそこで顔を上げる。

「なんだか、やるせない依頼が多くて」


 この二件以外にも「誰々が赫碧症(かくへきしょう)じゃないか調べて欲しい」という依頼が忍の元へ舞い込んでいた。
 そして大抵その対象は婚約破棄されるか、職場で良くて窓際社員にされるか、最悪解雇されるか、ある日突然近所の人が引っ越ししてしまうか、さまざまである。

「所長、もしかして辛いんじゃないかって――――」

「何を言うと思えば……。
 (つごもり)さんは社会に出たことがないから、俺が酷いことをしてるって思ってもしょうがないけどさ。こんなのよくある依頼の一つだよ。
 
こっちだって君のための生活費を稼がなくちゃいけないのに仕事選んでいる場合じゃないし。俺らの生活は、晦さんが作ってる食事だってこうして他人の情報を売って成り立っているようなもんなんだから。
 赫碧症の人を食いもんにしてメシ食ってる――――」

「あ! もう五時ですね、お先に失礼します!」

 忍の言葉の途中で柊が自宅へ逃げるように去ってしまった。確かに彼女の言う通り事務所の時計の針は五時を指し示している。

 高校生相手に正論で捲し立てて、情けないことを言いすぎてしまった。忍はなぜ自分が急にムキになってしまったのかが分からなかったが、後悔していることだけは確かだった。
 




 夕食の時間、二人で食べる時間ができたのでお互い向かい合ってもぐもぐと柊の手料理を食べている。

「所長、今日のお夕飯は昨日リクエストしてもらった牡蠣の炊き込みご飯ですよ。午前中おつかいのついでにスーパーで買ってきて、昼間仕込みをしてたんです。
 牡蠣には滋養強壮の効果があるんですって。もしかして所長、狙ってましたか……♡
 それに前菜は私が好きに作ってますけど今日のアボカドなんかも」

 一人で今日の献立について語りっぱなしの柊に忍は「晦さん」と話の途中で口出ししてしまう。

「いいよ、無理して盛り上げようとしなくても。
 段々俺のこと、思ってたような男じゃないって気づいてるだろ。初めて会った時みたいにカッコ良く人助けしたいのは山々なんだけど、大半は今日みたいに他人のキャリアや人間関係をぶっ壊す手助けするのが俺の仕事だから。

 失望したんなら俺に気を遣わないで別れてもらっても構わないから」

 柊はニコニコとした顔から途端物憂げになり、忍の言葉を前に口を結ぶしかなかった。


 例の従業員は今回の件で再び社会から繋がりを断たれて孤立感をつのらせてしまうかもしれない。証券会社に勤める仁志と比較するとお世辞にもストレス耐性がありそうとは思えなかった。

 社会、家族からも切り離された孤独とストレスが蓄積することで余計赫眼(かくがん)しやすくなり、結果あの社長の娘が巻き込まれてしまったような事件を起こしてしまう事例も知っていた。爪弾きに遭い、そうして寄る辺もない鬱屈が赫眼となって現れることもある。

 それを理解した上で、彼は依頼を引き受けている。

 やりたくないからイヤです、などと言えたとしても、別の探偵事務所に依頼されるだけで結果が変わることはない。


 前所長の有島がいれば今頃こんなことにはなっていなかっただろうにと、忍自身鬱屈した感情があった。

 彼女はこんな相談を受ければ懇切丁寧に説明し、辛抱強く説得していた。結果依頼を取り下げる人もいれば、それなら他の事務所に行くと去って行く人もいた。どちらにしろ有島はせっかくの依頼をフイにしたことになる。

 所長の座に納まってからは忍は彼女のそんな姿勢を引き継ごうと努力した。
 が、いざ間近で依頼人たちの逼迫した様を見てしまうとなんとか心変わりをさせなければと思う気にもなれず。それでもできる範囲で説得を試みてみるものの、結果忍は依頼人の要求通りに仕事を受けてしまうのだった。

 依頼人を満足させることこそがプロの仕事。であればそつなく仕事をこなす忍がプロで、有島はそうではなかったのか。


 そんな風に忍が一人悶々としていると、柊から「所長」と話しかけられる。

「あの時は分かったようなこと言ってごめんなさい。
 私、探偵のお仕事のこと浮気調査とか、潜入調査とか、なんだかワクワクするような世界だと思ってたみたいです」

 ただ食事を口に運ぶ作業を繰り返している忍に対し、彼女は箸を一旦箸置きに置いて自分のことを見ようともしない真向かいにいる彼をじっと見た。

「あの依頼は難しい事情だったと思います。大人の男性が人前で涙を流すのはよっぽどのことです。
 確かなのは、所長のおかげであの方は少なからず救われたんです。それに、所長のせいで従業員の方が解雇されたわけじゃありません。その決断を下したのは依頼人の方なんですから、所長に責任なんてありません。だから……」


 柊が言葉を一つ一つ選んでいた。彼女なりにどう言葉をかけるかどうか、あれからずっと考えていたに違いなかった。

「だから、あんな風に自分を卑下するようなこと、言わないでください」

 それでも忍は箸を動かす手を止めない。柊は未だ箸に手を伸ばそうとしない。

「所長にとってはよくある依頼かもしれませんけど、事務所では辛くないフリしてもいいから、(ここ)では辛い時は我慢しないでください。
 最近見てられないんです」


 あまりにも柊が深刻そうに言うので、忍はなんてことないように炊き込みご飯を口に運びながら「考えとくわ」などと素気無く返した。それを聞いて、彼女は少ししょんぼりと肩をすくめた。



 少しだけ柊の言葉で不覚にも心が解けていくのを悟られたくなくて、彼は咄嗟に強がってしまった。





 
●五月七日(火曜)


 GWが終わり、孝子が早速事務所を訪れた。会社の昼休み中だったので、制服のままだった。
 連休中は二人で共通の友人カップルと一緒に遠方へデイキャンプを楽しんだとのことだった。キャンプ中、仁志に異変は一切なかったとも。

「素行調査の件でお願いしたいという協力、とは一体どのような……?」

 忍はある計画を提案する。案の定孝子は目を開いて驚く。

「そんなことしたら危険じゃないですか⁉︎」
「はい。ですからあなたはすぐにその場を離れてください」
「でもあなたは」

 これは賭けだと、半信半疑な依頼人に対し忍は自らの意思を示すには強力な武器――飛び道具があった。



「このような依頼を受けて、今まで打ち明けられず心苦しかったのですがお話しします。ただ、ここだけの秘密にしていただけますか」



 忍は一言前置きをすると、孝子もピクッと反応して彼の顔を直視する。





 
「私も赫碧症です。万一の場合は碧眼(へきがん)状態に入り、速やかに対処します」