それは、旅立ちの日にふさわしい晴れ模様の朝だった。私は今日、六年間通った中高一貫の女子校を卒業する。夏の日差しを暑がったり、冬の寒さに凍えたりしながら登校したこの道を通るのも最後になるかもしれない。けれど私の心に寂しさはなく、むしろ清々しい気持ちだった。
 電車通学の私が登校する際、ちょうど直線上に位置する学校に向かうなら城跡公園の中を突っ切るのが最短ルートだ。堀に架けられた橋の上にはちょうど大きな桜の木が連なっていて、薄紅色のアーチができていた。私が小学生くらいの頃はまだ桜は入学式の花だったが、温暖化の進んだ今となってはすっかり卒業式の花だ。
 はらはらと舞い散る桜の花びらの下を進んでゆくと、学校の塀の前で見慣れた友人と鉢合わせた。

水青(みお)! おはよ」

 手を振って元気に挨拶してきた彼女は桜莉(さくり)という。中等部一年の頃に同じクラスだったことがきっかけで親しくなり、六年間彼女との交流は続いた。

「桜莉、おはよ。遠回りしてきたの?」
「コンビニ寄ってたの! 新作の桜ドリンクが飲みたくなっちゃってさ!」

 ゆるく巻いた明るい色の髪、ローズパールカラーの粒子が瞼に乗った派手なアイシャドウ。我が私立葵清花女子学院のお堅い校風はここ数年でかなり軟化したが、それでも桜莉は校内でもかなり目立つギャルだった。異質なのだ。

「ええと……タピオカ桜ミルクティー? 美味しそうだね」
「美味しいけどあげないよー? あたし、食べ物や飲み物のシェアってキライなんだよねー!」
「知ってる。後で買ってみようかな」

 桜莉はこう見えて潔癖だ。それでよくクラスメイトとも喧嘩していた。私はもう慣れたので特に思うところもない。
 タピオカって定期的にブームがあるけどあたしはずっと好きなんだけどな、と流行遅れ扱いされることに不満を漏らす桜莉に相槌をしながら校門をくぐる。柱には卒業式の看板が立っていて、何人もの同級生たちが記念写真を撮っていた。私と桜莉はそれを素通りしてマリア像の中庭を抜け、昇降口で上履きに履き替える。教室に到着すると、クラスメイトたちはアルバムを広げて思い出語りに没頭していた。

「水青」

 私の名前を呼んで手招きする桜莉。いつもの流れだな、と察して私もついていく。桜莉は屋上が好きなのだ、というより――教室に居るのが面倒なんだろう。
 梯子で入り組んだ屋上のいちばん高い場所は三畳ほどしかなく、私と桜莉はよくここで昼休みを過ごしていた。青い空には、綿菓子みたいな白い雲がゆっくりと流れていた。

「なんか湿っぽくない?」

 桜莉の開口一番はそれだった。

「そうだね。もう泣いてる人も居たし」
「あたしそういうの全然ないなー。こう、漫画読んでて感動することはあるけど」
「分かる、フィクションの方が泣けること多いな。桜莉はこないだも漫画読んで泣いてなかった? あれなんの漫画だったっけ?」
「あれはね! ずっとベンチウォーマーだったあたしの推しキャラが大事な試合でシュート決めたもんでさぁ! 思わず泣けて泣けて……」
「ふふ、ほほえまし」

 腕時計で時間を確認すると、そろそろ式が始まりそうだった。

「水青の青い血管ー」

 手首の上に載った腕時計の文字盤を見ていると、桜莉は私の静脈をちょんちょんとつついた。

「血管は誰でもあるでしょ」
「水青は色白だから血管が映えるなって。フェチいって話」
「桜莉は変わってんね。時間だから行かなきゃ」
「持ち物なんだっけ?」
「聖歌集くらいじゃない?」

 教室で聖歌集を手に取り講堂へ赴く。その後の流れは練習通りだった。けれど今日は卒業式の本番で、周りの同級生たちはみんな泣いている。きっとかけがえのない六年間の青春の日々を思い出しているのだろう。私はぼんやりとそんな想像をしている余裕があるくらいには、冷静だった。涙は出てきそうになかった。

 思えば、私の葵清花での日々は苦難に満ちていた。桜莉とクラスが離れた中等部二年で、私はいじめの被害に遭っていた。夏休みが明けた九月、気が付けばなぜか私は標的になっていたのだ。どういう流れがあったかは知らない。明確な理由なんてないのだろう。加害者には罪の自覚はなく、もう四年前のことなんて覚えていないといった素振りだ。だってそこでさめざめと泣いて友人との青春の思い出に浸っているようだし。私は一生許すつもりはないけど、関わるだけ時間の無駄なのでもう何か仕返しをしてやろうとも思わない。そういうわけで、私はみんなと同じ気持ちで涙を流すなんて無理なのだ。

 式が終わって教室へ戻ると、クラスメイト達はお別れ会の準備を始めていた。このような生徒の自主的な催し物があることは前もって聞かされていたが、そこに参加したところでなにになるというのだろう。あまり乗り気でなさそうな人も何人か見受けられて、これが同調圧力かぁとしみじみとした感想を持った。すると不意に、隣の桜莉が手を挙げた。

「あたし見たい映画があるから帰るね!」

 なんと歯に衣着せぬ不参加表明だろう。そして桜莉は私の腕を掴む。

「水青と一緒に行くから二名不参加でお願いしまーす!」

 そうはっきりと断言されては止める者は誰も居ない。桜莉が自分のペースを崩さずに学園生活を過ごしてきた実績からか、そういうことならと不参加を許された。

「みんな卒業おめでとー! じゃあね!」
「じゃあね~」

 手を振りながら桜莉と教室を出て、あっという間に校門の目の前まで降りてきた。

「あ、いま空いてるかも」

 誰も居ない卒業式の看板の前で足を止め、桜莉はスマホのインカメラを起動する。

「水青、寄って寄ってー! はいチーズ!」

 桜莉と頬が触れ合うほど近づいてツーショットを撮る。

「これでよし!」

 一連の動作に無駄がなさすぎる。桜莉は自撮りのプロだ。
 駅の方向へ歩き出しながら、私は質問を投げかけた。

「見たい映画ってなに?」
「これなんだけどねー?」

 桜莉はスマホで映画の公式ページを開いて見せる。人気アニメの劇場版らしい。

「この映画超見たかったんだけど、市内だと水青んちの近くの映画館でしか上映しないんだって! ひどくない?」
「ああ……あそこの映画館、結構規模大きいからね」
「もし水青が興味ないんなら付き合ってくれなくてもいいけど……どうする? このアニメ見たことないよね?」
「アニメ見たことないけど、ちょっと興味あるから一緒に行くよ」

 私が答えると、桜莉はぱっと顔を輝かせる。

「ほんと!? よかったー!」
「そもそも桜莉ってこの映画館行ったことある?」
「ない! 地図見て行こうかと思ってた」
「案内してしんぜよう」
「助かる~!」

 道中で桜莉からアニメの内容を軽く説明してもらいつつ、駅まで到着した。

「切符買うの新鮮!」
「いつもは通学定期だもんね」

 桜莉は私と反対方面から通学しているので、一緒に下校しても駅の改札でバイバイというのが恒例だった。今日は隣に桜莉が居て、同じホームに立っている。私も少し新鮮な気分だった。
 桜莉と並んで電車の席に座り、通学鞄を膝の上に抱える。スタミナ溢れちゃったかも、と言いながら桜莉はマイペースにソシャゲを開いた。人気のリズムゲームで、私は三日で飽きた。同じ日に始めた桜莉は続けているらしい。私は桜莉が一生懸命譜面を叩いている様子を、横から覗き込んで過ごした。
 目的の駅に降り立ち、桜莉は珍しいものを見るような目で周辺を見渡していた。

「すごい近代的じゃん!」
「そうでもないよ。向こうに見えてるあれ、ただの通路だからお店とかないし」
「騙された!」

 くだらないやりとりをしながら改札を出る。

「桜莉さんや、こっちに行くと無料のシャトルバスがあるのじゃ」
「水青さんは賢いのぅ」

 シャトルバスは目的地である商業施設まで直通だ。

「ねえ、向こうに海でしょ? すごい海近いね」
「なにを申すか静岡県民」
「あたしが住んでるとこはそんなに海近くないの!」

 商業施設のバス停で降りると、すぐ真横に観覧車がある。

「観覧車あるんだね!?」
「潮風に煽られてめっちゃ揺れると評判だよ」
「わお。てかマジ港じゃん、船いっぱい泊まってる」
「マジ港……ふふ……」
「今あたしすごいアホなこと言った?」
「小学生みたいだった」
「もう!」

 先に映画のチケットを押さえたので、フードコートで昼食をとることにした。海鮮丼やシーサイド風なお店もあるのに、桜莉はどこでも食べられるバーガーチェーン一択だった。セットのポテトを食べていると、急に桜莉が笑い出した。

「どうしたの? なんか面白いことでもあった?」
「いや……水青さぁ、むかしポテトのこと『芋』って呼んでたよね?」
「今でも芋って呼んでるけど。家の中では」
「ポテトはポテトじゃん! 芋はなんか違うじゃん!」
「同じではあると思うけど……?」
「それもそうだけどさぁ……。まあいいや。水青とよく学校帰りにポテト食べたよねー」
「学校の近くの店でね」
「勉強会って名目でねー。そんで勉強せずポテト食べてダラダラ雑談とかしてんの」
「青春ってものがあるとしたら、私にとっては桜莉と食べた放課後のポテトかな」
「マジ? それは嬉しいねー」
「桜莉は違うの?」
「んーん、あたしも! 学校の中には青春はなかったからねー」

 確かに桜莉は学校でも隙あらばスマホをいじったり漫画を読んだりしていた。心を教室には置いていないということだ。

「あたしさー、今日の卒業式全然泣けなかった!」
「分かる、私も」
「みんな泣いてて大変そうだねーみたいに完全に他人事だったわ」
「うんうん」
「だからお別れ会とか気乗りしないし!」
「あれは別れを惜しむ人だけが参加すればいいんだと思うよ」
「別に会いたきゃ卒業したって会えるのにねー? 一生の別れじゃないんだから」
「そうだよねぇ。でもせっかくだし、桜莉との思い出でも振り返ってみる?」
「それはアリだね」

 言ってから、私は桜莉との学園生活を最初から思い返してみる。

「桜莉と最初に話したのって、同じ授業で提出物を忘れたからだったよね」
「課題のノート後ろから回してって言われたんだよね! そんときの水青、ほんとに焦った顔してたなー」
「で、桜莉は『あたしも忘れてたから大丈夫!』って言ってくれたんだよね」
「クズの傷の舐め合いすぎてウケる」
「向上心のない友人ですまない」
「そのくらいの方があたしにとっては居心地いい友達だから、水青はそれでいいんだよー。あたし思うんだけどさ、人って自分と同じくらいの人と接している方が気楽だと思うんだよね」
「そうだね」
「水青は成績もあたしと同じくらいだし、足の速さも同じくらいだし。あと、あたしと同じくらい歌がうまくて、あたしと同じくらいかわいい!」
「お褒めにあずかり光栄ですわ」

 傍から聞いている人が居たら、今の桜莉の発言は性格が悪いとも捉えられそうだけど、これは彼女なりに褒めているつもりなのだ。そして私としても満更でもない。私たち以外の人に理解されようとか、そういうふうに思う必要はない。これが私と桜莉の在り方だから。

 映画の入場時間になり、私と桜莉はチケットを手に映画館に入場した。

「いい席とれたね」
「ね! 水青のアドバイスのおかげだよー」
「まあ、地元民だからね」
「よく来るの?」
「お母さんとね。友達とは初めてかも、映画館」

 映画の内容はヒーローが強敵と戦うといった趣旨のものだった。アニメ本編を見ていない人がいきなり見に来ても内容が理解できるようにという配慮のおかげか、私も楽しく見ることができた。
 上映が終わって映画館を出ると、桜莉は映画の余韻に浸っているようだった。

「はぁ……面白かった。もっかい見に行こうかなー!」
「私もけっこう楽しめたよ」
「二回目も一緒に見る?」
「それはいいや」

 エスカレーターを下っていくと、桜莉はゲームセンターの前で足を止めた。

「水青ってプリ嫌いだっけ? 一緒に撮らない?」
「いいよ。よく分かんないから機種とか桜莉に任せていい?」
「任せろ!」

 桜莉の選んだプリの機械に入り、一緒に撮影する。

「ぎゅっとくっついてだって! 水青、ぎゅー!」
「ぎゅー」

 プリ機の指示で桜莉がぎゅっと抱きついてくるので、私も抱きしめかえす。

「水青、すごい骨!」

 多分桜莉は私の胸のことを言ってる。

「いいでしょ」
「うん、うつ伏せのときに邪魔だからうらやましいー」
「仰向けに寝ればいいと思うよ」

 何枚か撮影して落描きスペースへ移動する。ちょうど空いている時間帯なのか、プリ機が密集するエリアには私たちしか居なかった。

「落描きって時間制限があるから焦るって思ってたけど、タイマーが止まるボーナスタイムがあるんだね」
「そそ、だからのんびり描いてても大丈夫!」
「桜莉としかプリ撮らないから知らなかったんだよ」
「まースマホでも自撮りはできるからねー」

 情緒のない話をしながら備え付けのタッチペンで落描きをする。

「桜莉って大学どこ行くんだっけ?」
「名古屋の方ー」
「そうだ、聞き覚えある。地下アイドルのおっかけしに行くって言ってたね」
「水青は?」
「神奈川だよ」
「逆方面だねー。ただでさえ静岡は横に長いのに……」
「まあ暇なときにでも通話しよ」
「そだね」

 落描きを終えて出来上がったプリを眺める。桜莉が描いた方のペン色で、私の髪の周りにキラキラエフェクトが舞っていた。

「桜莉このキラキラなに?」
「キューティクル! 水青の黒髪、照明でバチバチに輝いてたから描いてみた。どうやったらそんなにうるつや髪になれんの?」
「さぁ……遺伝?」
「どうしようもないじゃん!」
「桜莉はコテ巻き似合ってんだから今のままでいいでしょ」
「えへへー」

 褒められて嬉しかったのか、桜莉は毛先をくるくると指に巻き付けて遊んでみせた。綺麗に整った形の爪は、ストロベリーのグラデーションネイルで彩られていた。
 帰り道、ちょうどいい時間にシャトルバスがなかったので駅まで遊歩道を歩いて帰ることにした。

「結構長居しちゃったねー。もう夕焼け空だよ」
「うん。でも冬に比べると日が伸びたよね」

 夕陽のオレンジ色に包まれながら、高架下の遊歩道を歩いてゆく。まっすぐで人通りのない遊歩道を、私と桜莉の二人だけが歩いていた。

「よっと」

 縁石の上を伝うようにしていた私は、切れ目でぴょんと地面へ飛び降りてみた。

「わっ、びっくりした。さっきの映画の真似?」
「そう」

 しかし運動神経のない私はよろめいた。慣れないことはするもんじゃないな。

「こら、危ないでしょ!」

 桜莉が呆れ顔で私の手を掴んだ。

「ふふ。桜莉の手、思ってたよりふにふに」
「ちょっとー! 太ってるって言いたいのか!」
「親指と人差し指の間がふにゅっと……」
「それは水青だって同じじゃん!」

 昨日までと同じような取り留めのない会話だった。繋いだままになった手は、時折ぎゅっと握ったり、ふにゅふにゅと揉むような仕草でたわむれたりした。
 駅に着く頃には、日は沈んでいた。

「水青、今日は付き合ってくれてありがと!」
「うん。そうだ、忘れてた」

 改札の前で私は大事なことを思い出し、鞄の中から包みを取り出した。

「これあげる」
「開けていい?」

 受け取った桜莉は包みを開ける。中身は、私とお揃いで買ったうさぎのぬいぐるみバッグチャームだった。桜莉は耳の模様がピンクのタイプで、私のは水色だ。

「うそ! これもらっていいの!?」
「もらってくれないとちょっと悲しい。桜莉はピンクが好きだからそれにしたんだけど、気に入ってくれた?」
「気に入るに決まってんじゃーん! ありがと! 大切にするね!」
「よかった」

 桜莉はさっそく通学鞄にぬいぐるみチャームをつける。もう明日からは通学鞄を使うこともないのに、よっぽどはしゃいでるんだろう。

「じゃあね、桜莉」
「うん、また通話しようね!」

 改札を通ってなお手を振る桜莉に手を振り返し、彼女の後ろ姿が見えなくなった頃に私は踵を返した。

「そうだ、桜ドリンク」

 駅前近くのコンビニで桜莉が飲んでいたタピオカ桜ミルクティーを買い、飲みながら帰路につく。人工的な桜の香りが口の中に広がった。
 終わりよければすべてよしというし、私の六年間の学園生活は楽しい思い出で終われてよかったなぁ、なんて考えていた。



 卒業後、結局桜莉と連絡をとることはなかった。彼女は漫画やゲームやアイドル、いろいろなものに興味があって、充実した大学生活を送っているのだろう。便りがないのはいい便りなのかもしれない。かく言う私も、大学で新しくできた友達と楽しく過ごしていたし、わざわざ桜莉に話すようなこともなかった。次第にメッセージアプリの桜莉とのトークタブは下がっていって、意識することもなくなっていった。

 桜莉のことを思い出したのは、新居の片づけを行っていたときのことだった。
 同じ学科の友達を家に招いたとき訊ねられたのだ。「この段ボールはなに?」と。つまり私は実家から持ってきた荷物の、毎日使う生活必需品以外を取り出して整頓することをずっと後回しにしていたのであった。
 段ボールの中からは、もう見なくなってしまったアニメのグッズや、なくしたと思っていた髪留めなどの雑多なものが出てきた。忘れられたものたち、その中のひとつが桜莉とお揃いのうさぎのぬいぐるみバッグチャームだった。

 人と縁が切れるというのは、このくらい些細なことなのだろうと思った。耐えがたい争いや亀裂などの原因がなくたって、途絶えてしまうことはある。でも、そんなに寂しくはない。きっと桜莉は、ずっと一緒に居るほど疲れるタイプの人だし、お互いを知っていくと相手の嫌なところも見えるようになる。そうなる前に、桜莉との友人関係を終わらせることができてよかった。私がいつか地元に戻って、懐かしい場所を一人で歩くとき、美しいノスタルジーだけに身をゆだねることができるだろうから。
 綺麗な思い出になってくれてありがとう、桜莉。