薄暗い校舎の中に、ひとつの足音が響き渡っている。
午後六時。11月も半ばを過ぎると日没も早まり、辺りは真っ暗だった。それに少し肌寒い。静まりかえった廊下の窓は、ゆらゆらと、誰かが移動する影を、反射させている。
「ここだ……」
幸村奏太は、『音楽準備室2』と書かれた部屋の前に立ち、意を決してゆっくりと、扉を開ける。不気味な音をたてながら、重い扉を押すと、中には雑然とガラクタのようなものがごろごろ転がっていた。意外と、部屋の中は広かった。埃を被った年代物のドラム缶テレビが、その気味悪さをいっそう際立たせている。
カチ、カチ、カチ……。
どこかから、一定のリズムを刻む音が聞こえる。
「うわっ」
近くにあったダンボールの箱で躓いてしまったようだ。部屋は漆黒の闇に包まれ、時折部屋の一番奥にある窓のカーテンが風でなびき、夜特有の、白い光が辺りに差し込む。電気のスイッチをなんとか探し、部屋が明るくなったところで、奏太は辺りを見回した。
そこには、透明で神秘的な、アップライトピアノがあった。
「本当にあったんだ……」
導かれるように、奏太はその蓋を開け、鍵盤に触れる。何年もピアノを弾いていなかったせいか、鍵盤に添える手が強ばっていた。躊躇いながらも、添えた指で、ひとつの鍵盤を押す。叩くと、ポロンと心地よい音がした。調律はされてあるようだ。
カチ、カチ、カチ。
今度は近くで聞こえた。ピアノの椅子に、メトロノームが置いてあった。まだ残っているということは、つい1時間ぐらい前まで、誰かが使っていたということだ。
ふと横に目をやると、奏太の背丈よりやや低い位置に調整された、譜面台が置いてあった。
「誰のだろう」
目を凝らしてよく見ると、楽譜にはたくさんの書き込みがあった。何の曲かは分からないが、すごく難しそうだ。ピアノの楽譜か。そう思い、楽譜の左上を何気なく見た時、奏太は目を見開いた。
書いてある楽器の名は―――ファゴット。


電車の窓から、銀色に染まった街並みを眺めながら、奏太は大きな欠伸をした。昨日の放課後の出来事が気になり、朝早く起きて詳細を確かめようと思い、いつもより30分以上早い電車に乗ったのだ。
あの譜面台は一体誰のものなのだろう。
(見た感じ、始めの旋律はこんな感じかな)
そう思い、頭の中で、その音を奏でてみる。ファゴットの特徴が生かせる、素敵なメロディーな気がした。そもそも、ファゴットという楽器について、奏太はよく知らない。聞いたことはあるが、どのような楽器なのかいまいちよくわからないし、どんな音がするのか純粋に知りたかった。
誰も近寄らない旧校舎の教室に、楽器の練習をしに来る生徒とはどんな人物なのか。そして、ファゴットという楽器を選んだ理由とは。
考えているうちに、学校の最寄りの駅に着いたアナウンスが流れ、奏太は立ち上がる。
この世界は、いつでも音楽に溢れている。電車が来たことを知らせるアナウンスや、学校のチャイム。音楽があるからこそ、明るい世界は成り立っている。

昨晩の雰囲気とは違い、旧校舎の廊下には、鳥のさえずりと共に、暖かな日差しが床を照らしている。昨日とは打って変わって、奏太が感じた不気味さというものは、欠片もなかった。軽い足取りで歩を進める奏太は、少し歩いたところで足を止めた。
ポー……、ポー……。
目当ての部屋から、なにやら柔らかい音色が聞こえた。奏太が今まで聞いた事のない、優しい音だった。それは、ずっと細かい音を刻んでいた。
(この音は…?)
部屋に近づくにつれ、音は大きくなる。やはり、この音は『音楽準備室2』から鳴っているようだった。
こんなに朝早くから、楽器の練習?一体誰が?勝手に入ってもいいものか迷ったが、覚悟を決めて、重い扉を押し開ける。不気味な音をたてて中に入ると、1人の少女の後ろ姿が見えた。その少女がゆっくり、こちらを振り向く。
珍しい茶髪の髪と、色素の薄くぱっちりとした茶色の瞳。色白の肌に、薄い桃色の唇。どこかの外国とのハーフかと思うような、日本人離れした顔立ちをしていた。長い髪を後ろで高い位置にひとつで束ね、手には、彼女の身長と同じか、それより少し低いぐらいの、木で出来た細長い棒のようなものを持っていた。誰だろう?見た事のない顔だった。
ばっちりと目が合う。そのまま時が止まったかのように、2人はしばらくの間、お互いから目が離せなかった。
「えぇーっと、おはよう、ございます……」
なんと声をかければ良いのか分からず、奏太はとりあえず挨拶をした。すると、彼女も小さく会釈をした。でもそれっきり、彼女はまた前を向いてしまった。奏太は勇気を振り絞り、思い切って彼女の背中に声をかけた。
「それ、ファゴット?」
そう聞くと、彼女はまたゆっくりこちらを振り向き、今度は会釈ではなく、口を開いてこう答えた。
「そうだよ。よく知ってるね」
そして微笑んだ。彼女の笑みが、背後からの、明るい朝の日差しを受けて輝く。朝日を浴びて、茶色の髪が金色に変わり、つやつやと輝く。その笑みに奏太はきゅっと、胸が締め付けられるかのような、なれない感覚に戸惑った。部屋の奥の窓から風が吹き抜け、譜面台の楽譜がパラパラと音を立てる。奏太は気になっていたことを、彼女に聞いた。
「昨日の放課後、この準備室に来たんだ。そしたら、透明なアップライトピアノと、その隣にファゴットの楽譜が乗った譜面台があって。それは、君の楽譜?」
「うん、私の。誰も来ないから、毎日1人でファゴットの練習をしているの」
「へえ、そうなんだ。でもどうして、この部屋で?」
「あなたこそ、どうして旧校舎に?ここには滅多に人が来ないのに」
質問に質問で返され、奏太は少し黙る。事の発端は、一昨日の出来事だった。
旧校舎の『音楽準備室2』という部屋には、世界でも数台しかない、希少なアップライトピアノがあるらしい、という噂を同じクラスの、十亀佑也から聞いたことだった。なぜ、旧校舎の準備室は2という数字で、奏太たちが使っている、新しい校舎の準備室は1という数字なのが謎だが、生徒たちの間では割と有名らしかった。ただ、薄気味悪い旧校舎には誰も近づかないので、本当のところはよく分からない。
「お前、ピアノ好きじゃなかったっけ?」と佑也に言われ、気になる気持ちを抑えきれず、放課後の部活動の時間も終わりに近づいた頃、こっそり1人で確かめに行ったという訳だ。
噂通り、アップライトピアノはあったが、その価値はどの程度ものか、奏太には判断できなかった。ただ、奏太は透明なピアノを初めて見た。内部が透けて見えるので、ピアノの構造がよく観察でき、奏太は感動した。
「それで昨日初めて、旧校舎の『音楽準備室2』に行ったんだよ」
「なるほどね」
「まさか、この旧校舎に、人がいるなんて思ってもみなかった」
そう言い、奏太は苦笑する。
「でも、ファゴットの音色っていいね。僕の好きな優しい音だ」
そう言った時、彼女の目が光って、輝いて見えたような気がした。そして、さっきと同じように微笑んで奏太に歩み寄る。
「そうでしょう?私もそう思う」
彼女は目を細めて、空中を仰いだ。
「私の大好きな楽器」
そう言って、楽器を大事そうに両腕で抱える。音楽に触れている時、人々はみな、幸せそうな顔をする。この子もきっとそうだ。彼女は幸せなのだろう。音楽は、日常を、世界を、鮮やかにする。
突然、彼女が楽器をかまえた。そのまま少し身をかがめ、すぅ、という息を吸う音とともに、かがめた身を持ち上げ、楽器に息を吹き込み、軽快な音楽を奏で始めた。
その音楽に奏太は耳をすませる。この特徴的な音色と、軽快なリズムが絶妙に混ざり合い、癖になる。聞いていて飽きない、心地よい感じだ。しかしこの曲、どこかで聞いたことあるような……?
奏太の思ったことが、相手にも伝わったみたいだった。
「気づいた?」
微笑んで、彼女が問いかける。
「うん。でも何の曲か思い出せないんだ」
「これ、ディズニーのファンタジアなの」
「え、あの有名な!?」
ディズニーのファンタジアと言えば、ミッキーが魔法使いになるやつだ。
「実はこの曲、メインの主旋律はファゴットのソロなんだよね」
知らなかった。素直にそう口にすると、彼女は言った。
「みんなが気づいてないだけで、日常にはファゴットが活躍してる曲がたくさんある。私は、この楽器の柔らかくて温かみのある、やさしい音色が好きなんだ」
奏太もうんうんと頷いた。それを見て、彼女も満足したように笑う。
「ファゴットのこと、興味ある?」
「うん、少し」
聞きたいことが沢山あった。なんで、みんなが知らないようなマイナーな楽器が好きなのかって。そんなのは本人にしか分からないけど、奏太は、この楽器には、人々を引き込む素敵な魅力があるのだと思った。
ちょうどその時、朝のHRの5分前を告げるチャイムが鳴った。
「もうそろそろ、行かなくちゃね」
そう言って、彼女は楽器を片付け始める。
「あの、僕、幸村奏太って言います。この高校の2年8組」
彼女の楽器を片付ける手が、ピタリと止まる。立ち上がって、奏太の目の前まで来る。
「私は、枦山音緒。2年3組」
同い年だった。見たことない顔だったが、1学年400人のこの学校では、見たことがない人がいても、おかしくないのかもしれない。
そんなことを考えているうちに、音緒は楽器を片付け終わり、教室を出ようとしていた。
「じゃあ、またね」
そう言って去っていこうとする、背中を呼び止めた。
「待って!」
無意識のうちに、彼女の手を引き、強引に呼び戻す。
「あの、これから枦山さんのファゴット、聞きに来ていいですか」
音緒は驚いたように、目を見開いた。そして、優しく微笑んだ。
「いいよ。私の音を聞きたいって言ってくれたの、幸村くんが初めて。毎日この『秘密の部屋』でやってるから、いつでも聞きに来て」
そう言って、無邪気に顔を綻ばせた。その純粋にこちらを見つめる眼差しに、奏太の胸は音を立てた。
『秘密の部屋』。僕と枦山さんだけの。他の人は知らない、今日の出来事が、奏太の胸を高鳴らせた。
廊下の窓から、暖かな風が奏太の髪を揺らす。その風は、音緒のファゴットの音色とどこか似たような、包み込む優しい空気を纏っていた。


この日の午後も、奏太は1人で、『秘密の部屋』へと向かった。昨日見つけた、透明なアップライトピアノのことが気になったからだ。もっと近くで、見てみたい。こんなにもピアノに興味をもったのは、いつ以来だろう。
不思議だ、と思う。自分の足は、どうしてピアノのある、あの『音楽準備室2』に向かっているのか。
部屋の前に立ち、冷たい重い扉を押し開ける。奥まで行き、部屋のカーテンを開けた。段々と暗くなる夜の空には、月が明るい光を放っていた。電気をつけ、目当てのアップライトピアノの所へ駆け寄る。蓋の上に置いてあった、メトロノームを端へ置く。蓋をあけ、椅子に座ると、無意識のうちに、鍵盤に両手を置いていた。
「…あっ…」
はっと我に返り、両手を離す。どうしたんだろう。もう二度と、ピアノは弾かないと決めたはずなのに。自分は、今なぜ、一瞬ピアノを弾くかまえをしたのか?考えれば考えるほど、正解は遠ざかっていくような気がした。
このピアノのメーカーは、と思い、ピアノをあちこち見ても、メーカーは一切書かれていなかった。
不思議なピアノだと思い、立ち上がってピアノを眺めた。改めて見ても、神秘的な美しさをもっているピアノだ。見ていると、このピアノの内部が透けているように、自分の心や感じていることもまた、誰かにはお見通しなのだろうと、奏太は思った。特に、枦山音緒には。彼女に、嘘は通用しないだろう。音緒には、奏太が他の誰かに内緒にしていることも、勝手に口からこぼれて話してしまいそうな、不思議な空気感を感じた。
もう一度、ピアノ椅子に座る。鍵盤に手を添え、試しに1曲弾いてみた。
鍵盤は軽く、指は滑るように移動する。ポロポロと、音の粒が一つ一つ、はっきり部屋に響いて、空気に溶ける。奏太の指は、訛っていなかった。数年のブランクがあるが、それでも彼の指は、素早く、そしてしっかりと鍵盤の音を鳴らした。
練習曲作品25第11番、別名『木枯らし』。ショパンによって作曲された、ピアノ独奏曲。かなり早いスピードで動く右手の和音が印象的で、難易度は結構高い。奏太はショパンの作曲した曲を、好んで練習していた。独特なリズムや美しいハーモニーが、奏太は好きだった。久しぶりに演奏するのは、思いのほか楽しかった。
突然、部屋のドアが開き、奏太は肩をびくつかせる。
「ごめんごめん、ちょっと忘れ物を取りに」
音緒だった。ピアノを聞かれていたかもしれない。奏太は焦った。
しかし、音緒は奏太のピアノには触れず、ピアノの横に置いてあるメトロノームに手を伸ばし、リュックにしまった。てっきり、ピアノのことを触れられると思っていた奏太は拍子抜けし、慌てて椅子から立ち上がった。
「枦山さん」
何の意味もなく、奏太は彼女の名前を呼んだ。それに対し音緒は、「ん?」と奏太の続きの言葉を待っている。
「いや、やっぱりなんでもないです」
本当は、ピアノのことについて、音緒になにか言って欲しかったのかもしれない。上手だね、とか、すごい、とか。かつて自分が、そう褒められて、周りの大人たちに認めてもらいたかったように、今の奏太も、目の前にいる彼女に、自分の実力を認めてもらいたいのかもしれなかった。
「そう」と音緒は言い、部屋を出ていこうとしたその時、奏太の方を振り向いた。
「幸村くん、ピアノ、弾けるんだね」
やっぱり聞かれていた。奏太は「うん、実はね」と言い、下を向いた。何か言われるのだろうか。
「結構上手いんだね」
「いや、そんな」
「でもなんか、ピアノのこと、あんまり好きじゃないみたい」
「え……?」
核心を突かれた気がした。そうだ、僕はピアノなんか好きじゃない。大嫌いだ。あの日、あの時、あの間違いをしていなければ、優勝出来たのに。
『あんなミスしなければ、お前が優勝だったのに』
不意に、この言葉が、脳裏に蘇った。これは確か、小学校の時に出た、ピアノの全国大会の時、兄に言われた言葉だ。自分が期待されていたのにも関わらず、優勝を逃してしまったことで、家族から失望の色を感じた。この時からだろう。ピアノから、距離を置こうと思ったのは。
「でも、ピアノはもう弾かないって、決めてるんです」
「そうなんだね」
音緒はそう返し、小走りでこの部屋を去っていった。理由は聞かれなかった。
椅子に座り、ピアノの鍵盤を見つめる。少なからず、ピアノを弾いている時、楽しいと思っていたことに、奏太は戸惑いを覚えた。それと同時に、奏太の中で、ピアノという存在が、自分の気持ちに正直になるチャンスをくれているような気がした。
音緒に見透かされた、奏太の心。それは、透明なアップライトピアノと同じように、心の奥まで繊細に、音緒には見えているのかもしれない。
奏太はピアノの蓋を閉じた。外を見ると、さっきまで明るかった月は雲に隠れ、その光は輝く威力を失ったように、色褪せて見えた。


翌日、朝早く奏太が『秘密の部屋』に行くと、音緒はもう既に来ていた。扉を開けると、ちょうど音緒が、楽器を組み立てているところだった。組み立てるのに、時間が掛かるらしい。楽器の背丈は、しゃがんでいる音緒の身長を、軽く越していた。他の楽器よりも、組み立てるのに時間がかかると、前に音緒が言っていたから、ファゴットは、結構複雑な作りをしているようだ。
「おはよう」
入ってきた奏太に気づき、挨拶をする。奏太も「おはようございます」と、音緒に挨拶をした。アップライトピアノの椅子に腰掛け、音緒の方を見る。その横顔は、綺麗だった。
音緒は、メトロノームのリズムに合わせて、軽く音出しを始めた。8泊でロングトーンをする。その伸ばしている音を聞いていると、ファゴットの温かい音色に誘われて、眠ってしまいそうだった。慣れない早起きをしたので、欠伸が止まらない。つい、うとうとしていると、音緒は、もう基礎練習を終えて、曲の練習に入っていた。この前、初めてファゴットの音を聞いた時と、同じ曲だった。
「いつも、その曲を練習してるの?」
と、奏太が聞くと、
「うん」
と、音緒が答えた。理由を聞こうか迷ったが、なんとなく聞かない方がいい気がした。しかし、驚くべきことに、彼女の方から理由を教えてくれた。
「もうすぐ、ソロコンクールがあるの。やる曲は、タンスマン作曲の『ファゴットとピアノのためのソナチネ』。今練習してる曲」
すごい。ソロコンクールに出るんだ。奏太が、思ったことを口にすると、音緒は照れたように、「ありがとう」と言った。
「実はね、私、将来世界で活躍する、プロのファゴット奏者になりたいんだ」
それを聞いたのは初めてだったが、奏太は、音緒ならその夢を叶えられる、と迷いなく思った。だって、こんなにも僕をファゴットの魅力の虜にさせた、すごい力があるから。そう言いかけて、音緒の方を見ると、彼女は俯きがちに目を伏せた。
「プロになるには、絶対に音大に行かなきゃ行けない。少しでも、コンクールでいい結果を残して、他の子にはない私だけの、強みにしたかった。でも今、本当にソロコンに出れるか、まだ分からないの」
「え、どうして?」
「ピアノ伴奏の子がいないから」
そう言って、奏太の方に向き直った。
「同じ部活の何人かには、声をかけたんだけど、全員断られちゃって。無伴奏の曲もあるんだけど、私はずっとこの曲でコンクール出たいから、それは譲れなかったんだよね。この曲、ファゴットももちろんそうなんだけど、ピアノ伴奏も結構難しいから、それに見合ったレベルのピアノが弾ける子じゃないと厳しいんだ。毎日練習してるけど、正直、もうソロコン出なくていいかなって思ってる」
奏太は、かける言葉が見当たらなかった。彼女の演奏は素晴らしい。きっと、コンクールに出れば、金賞だって取れる。
「枦山さんの演奏、すごく素敵だと思います」
今まで、俯いていた音緒が、顔を上げた。
「コンクール、出た方が絶対いいと思います。これは僕が保証します」
「でも、ピアノ伴奏が……」
そう言われて、奏太は言葉に詰まった。その時、奏太の頭の中に、ある考えが浮かんだ。それは、奏太が音緒の曲のピアノ伴奏をするということ。だが、奏太は慌てて、その考えを頭から打ち消した。もう、ピアノは弾かない。誰になんと言われようと。そう思っていたのに、最近、気づけばピアノのことが、頭の片隅にあった。奏太は、思い切って、音緒の顔を見た。
「じゃあ、僕がピアノを弾きます」
「え、でも幸村くん、もうピアノは弾かないって……」
戸惑う音緒を前に、奏太は微笑んで答えた。
「今の僕は、ピアノを弾きたいんだ」
そう答えて、奏太は気づいた。ああ、自分は心の奥底では、ピアノを弾きたいと思っていたんだ。もう一度、あの感覚を、味わいたかったんだ。思えば、音緒と出会ってから、いや、あの透明なアップライトピアノに見つけてから、奏太の心は、変わっていたのかもしれない。やっと今、気づけた。音緒を見ると、彼女は、満面の笑みで、奏太の手を握っていた。その表情に、奏太はもうひとつ、気付かされた。僕は、枦山さんの、笑顔が好きだ。もっと近づきたい。
「よろしくね、幸村くん」
「いやぁ、でも、ピアノ上手く引けるかな……」
「幸村くんなら大丈夫だよ!きのう、めっちゃうまかったから」
そう言って、彼女はまた無邪気に微笑んだ。それにつられて、奏太も笑う。
ありがとう、枦山さん。君のおかげで、もう一度、ピアノと向き合おうと思えた。傍らにある、アップライトピアノが、向き合って笑い合う2人の姿を反射して映しだしていた。