あの日、あの場所で。

第1章『真夏の砂浜で』

「作文 僕の夢
 僕の夢は『クラスのみんなと一緒に学校へ行って勉強すること』です。
 僕は、もう二年間もみんなと会うことができていません。
 みんなに会いたいです。
 みんなと一緒に勉強して、一緒にサッカーして遊びたいです。
 お母さんもお父さんも先生もみんな僕のために頑張ってくれています。
 だから、僕も一生懸命頑張っています。
 今はまだ、みんなと離ればなれだけど、きっといつかまたみんなと笑ってゲームの話ができる日が来ることを信じています。
 この病気を治して、将来は僕と同じように苦しんでいる子達を助けられる格好いいお医者さんになりたいです。
 みんなも頑張ってください。     5年2組 和泉啓太」


 静岡県浜松市の小学校。
 5年2組の教室では、授業参観で作文の発表会が行われているところだった。しかし、和泉啓太という児童の作文だけは担任の先生が読んでいて、本人らしき人の姿も見当たらない。
 その頃、時を同じくして、同静岡市の総合病院。角部屋の奥のベッドにアイパッドの画面をのぞき込む小学生が入院していた。

「へえー、今の時代は入院していてもこうやって授業が受けられるんだな」
「ちょっと、お父さん。マイク入っているんだから、静かにしててよ」

 それでも手遅れな様子で、アイパッドのスピーカーからはたくさんの笑い声が聞こえくる。
 隣でガヤガヤしている夫婦を横目に、ベッドの上の少年は画面に向かって無邪気に手を振っている。

 そう、この少年こそが5年2組2番、和泉啓太なのだ。

 ちなみに隣でICT技術の発展に感心している夫婦が彼の両親であることは言うまでもない。
 
 啓太は2年前、小学3年生の時に小児がんと診断された。
 彼のがんは特に悪性の腫瘍であり、医者からは「長く持たないかもしれない」とまで言われる程であった。
 しかし、奇跡が奇跡を呼び、二年も生きることができたことに加え、治療の結果、今ではがんも小さくなり、回復してきていると言う。
 最初の頃は浜松市内の病院で見てもらっていたが、本格的に治療を始めるということで静岡市へ移って以来、ずっと入院している状態なのだ。

「先生達もクラスメイトのみんなも啓太さんの帰りを待っていますからね。」
「がんばれー!」

 画面の中から応援してもらった啓太はとても嬉しそうに笑っている。

「こんなにもニコニコした笑顔を見るのはいつぶりだろう。」

 啓太の母はそっと小さな声で呟いた。
 ずっと寝たきりで、やりたいことも十分にできない体で、辛い思いをしてきた。
 それがだんだんと良い方向に向かっていると思えると、自然と心のつっかえが取り除かれたかのように軽く感じたのだった。

「また、一緒にサッカーしたいね。いつになったらできるのかな?」

 一人の子が啓太に向かって言った途端、彼の笑顔は徐々に暗く、笑顔が無くなっていった。
 うつむきながら小さな口を小さく開き始める。

「―えっとね、実はね、もうサッカーできないんだ……」
「……えっ」

 病室に、そして教室に、気味の悪い沈黙が広がった。

『どう声をかけたらいいんだろう』

 まるでそんな声が静かな時間の中に聞こえるかのように思われた。
 啓太は病気が発見されるまで、少年サッカーの選手として県内では有名だった。
 「並外れた運動神経と巧妙なテクニック」を持ち合わせた神の子として注目を浴び、全国大会での活躍ぶりはサッカー王国・静岡の優勝に大きく貢献した一人として、全国各地に知れ渡った。
 しかしその矢先、啓太の体には少しずつ症状が現れ始めたのだった。

 将来有望と言われ、これからというところで、病気の影響によって思うように足を動かすことができなくなった。それは本人にとっても、周りの関係者にとっても、癒やしきれないショックなのだろう。
 ベッドの隣の棚には、今もずっと萎んだままのサッカーボールと傷ついた金メダルが丁寧に置かれている。

「えー、それではそろそろ時間になりますから、挨拶しましょうか」

 先生が何かを察したのか、それとも逃げるのか、私には分からないけれど、空気感を何とか戻そうと頑張っていたように感じる。

「学級委員さん、お願い」
「起立。気をつけぇ……」
「ちょっ、ちょっと待って!」

 号令を遮るようにして啓太は大声を上げた。いや、遮ったのだ。

「僕、今はもうサッカーできなくなったこと、気にしてないから。だから、みんなも気にしないで」
「でも……」
「『でも……』じゃない。僕の代わりにも頑張ってね」
「うん」

 良い方向に動いたようでとりあえず一安心した。あの空気感は全く関係の無い私まで恐ろしい思いをした。

「これで授業を終わります。ありがとうございました」
「「ありがとうございました」」

 無事に授業参観は終わったようだ。そして、病室にはいつものように静けさが戻ってくる。ここからはいつものように退屈な時間だ。漫画も小説もあるものはすべて読んじゃったし、ゲームは大体全クリしちゃったし……
 啓太がゲームのコントローラーを片手に、隣にいる私を見て楽しそうに声をかけてきた。

「なっちゃん、今日こそは絶対に勝つからね!」
「私だって、けいちゃんには負けないよ!」

 そう、私達の長くて短い物語は、ここから始まったのです。


              *


 それから1年後。僕は小学校の最終学年、6年生になった。
 足が少し不自由になったという点を除けば、普通の子と同じように生活することはある程度できるし、病気自体もほとんど回復したといっても良いと先生は言っていた。

「随分良くなってきていますね。これなら一時的に外へ出てても大丈夫でしょう。来週からのお盆休み、出かけても良いですよ」
「本当ですか、先生!」
「ええ」

 僕の回復状況は思っていたよりも良く、先生は外出許可をくれた。
 3年生の時に入院して以来、ずっと病院の中にいた僕にとって、3年ぶりに出られる外の世界だ。

「啓太、どっか行きたいところ、ある?」

 先生の言葉を聞き、早速父さんが僕に尋ねた。

「うーん、海かな」
「海か。よし、分かった。伊豆へ行こう!」
「やったあ」

 こうして、啓太の小学校最後の夏が始まった。

 お盆初日。

 ただでさえ人がいない病室から僕が出ると、病室の中は空っぽになる。
 3年前、初めてこの病棟へやって来たときのルートを今度は反対側から進んでいく。
 でも、また一週間後にはここへ戻ってこなければならない。
 病院を離れたい気持ちと住み慣れた家のような感覚、どっちも複雑に混ざり合い、変な感覚に包み込まれていく。

「ではお気を付けて。何かあったらすぐに連絡して下さいね。」
「はい。先生、ありがとうございます」
「あっ、ちゃんと帰ってきて下さいね。一時外出ですから」
「もちろん、分かっていますよ。行って来ます」

 蝉がミンミン鳴いていて、目の前に広がる青い空。
 ずっとエアコンが効いた部屋の中で過ごしていたせいか、それとも三年の間にまた気温があがったのか、真夏日の気温は病人の体に堪える。
 高温の車内に乗り込み、今にも壊れそうなエンジン音をブンブンならす。
 この車は僕が生まれる前から乗っているようだから、何歳になるのだろう。

「まず一旦家に帰って、それから明日出かけよう。宿はもうしっかり取ってあるから」

 高速道路をガンガン飛ばし、浜松には一時間ちょっとで着いた。

「ただいまー」
「お兄ちゃん、お帰りー」

 玄関から出てきたのは弟の優太。
 小学4年生、僕とは2つ違い。
 病院内では感染症を拡大させないため、小学生以下のお見舞いが禁止されていた。だから、丸々3年ぶりの兄弟の再会だ。

「啓太、お帰り」
「ただいま。おじいちゃん、おばあちゃん」

 僕の治療にかかる多大な費用を稼ぐために、両親は共働きで昼夜関係なく働いている。
 だから、家に帰って来られないことも多く、優太の面倒はほとんど祖父母が見てくれている。
 生まれ育った家、母の手料理、家族みんな揃っての食卓……全てが久しぶりにようやく叶った目標だった。
 昔は、当たり前にずっとずっとこんな風景が続くとみんなが思っていた。
 でも、病気の辛さを経験した和泉家にとって、健康でいられることや家族揃った食卓は奇跡であるということが当たり前だった。

 そして、「がん」を患った時から「明日死ぬかもしれない」という恐怖の中に怯えながら一日一日を過ごしてきた。
 それは徐々に症状が良くなってきた今も変わりはない。
 だって、人は簡単に死んでしまう生き物だから。

 翌朝、浜松を出発。
 半日もあれば静岡県の端から端まで渡ることはできる。
 病室の窓からずっと眺めていた海。
 ようやく自由になったんだなと実感する。

 

              * 



『オレンジビーチ』

 観光地、伊東の海は今年も想像以上のお客様にお越しいただいていた。
 うちの旅館も海の家も客足は上々、バイト代は小学生のお小遣いとしては十分過ぎる程で、私は家の手伝いの合間、隙を見計らっては友達とビーチバレーをして遊んでいるところだった。

「あっ!」

 綺麗に決まったアタックは私の頭上をビュンと通り過ぎ、コートの外に落下し、ボールはコロコロと転がっていく。
 私は急いでボールを追いかけていき、ボールは砂の城にぶつかって止まった。
 近くにいた男の子がボールを拾いながら顔を上げると、そこには見知った顔があった。

「えっ、けいちゃん?」
「あー! もしかして、なっちゃん?」

 驚いたことに入院中に同室だった啓太に地元の海で再会した。
 一瞬にして私の脳裏の思い出は存在感を強くアピールしてくる。

「お母さん、お母さん。なっちゃんがそこにいるよ」
「なっちゃんって、入院中に一緒に遊んでたあのなっちゃん?」
「そうそう」

 これが私「吉田菜月」と和泉啓太の一年越しの再会だった。


 私は小さい頃から体が弱く、何度も入退院を繰り返してここまで大きくなった。
 10数回にわたる入院生活のなかで「楽しい」と思ったのは、1年前の時が最初で最後だった。
 話す友達もいない、やることもない、ただただベッドに寝転がって白い天井を見つめるだけ。

 しかし、ある日から私の運命は大きく変わった気がする。

 最初は「だいぶ大人びてるな~」と思った啓太の印象。
 でもそれは良い意味で裏切られる結果となった。

 1日中ゲームする子供っぽさ、無邪気な笑顔、やさしさ……。
 10歳という幼さながらもドキッとする瞬間。
 今思えば、私はもうあの時から恋をしていたんだと思う。

 私はもうすっかり元気になった。
 小さかった頃のように頻繁に病院にかかることは少なくなった。
 退院した後もずっと通院を続けていたが、啓太に会うことはなかった。
 それがまさかこんなところで偶然再会することになるとは思いもしなかったから、この驚きは計り知れない。

「かき氷食べる?」
「えっ、良いの?」
「うん。実はお母さん、海の家もやってるんだ」

 私のお母さんは旅館も経営しながら夏の時期だけは海の家も経営している。
 決して忙しくないわけでも、お客さんが入らないわけでもないけれど、お母さんは今一人で私を育ててくれている。
 だから、私も暇なときは手伝いをすることにしている。

「ちょっと待ってて。今作ってくるから」

 ガガガガ……と塊の氷がどんどん小さくなっていく。
 それと引き換えに、お皿の上にこんもりと乗っかったかき氷。
 最後に苺シロップをかけると、まるで地下水のように氷の中に浸透していく。

「お待たせ。苺のシロップかけてきちゃったけど、よかった?」
「うん、全然良いよ。ありがとう」

 私たちはかき氷を食べながら、この1年の間の話をした。
 だけど、どんな話をしたか覚えてない。
 それが、冷たい氷が頭を麻痺させていたせいなのか、啓太に会えたことがうれしすぎたせいなのかも分からない。
 ただ、もう会えないと思っていた人に会える喜びを初めて知った。

――だって、あの人はもうずっと会えていないから……。


 私はこのとき、啓太の状態が徐々に良くなりつつあることを知った。
 そして、話をしているうちにやっぱり、啓太に対する感情は特別なものだと理解した。
 でも、勇気が出せないことも、今度また会える可能性が低いことも、全部分かりきっていた。

「「ねえ」」

 私が腹をくくって声をかけた時、偶然にも二人の声は合わさった。

「あっ、やっぱ私はなんでもない。どうした?」

 啓太に発言を促す。
 ここで引き下がった私も、もしかしたら啓太も同じ事考えていたかもなんて期待をしていた私も、あとから思えばバカ以外の何者でも無かった。

「そろそろ行かないといけないから、じゃあね。会えて嬉しかったし、楽しかったよ」

 啓太は手を振り、私を置いてバイパスの方へ向かっていった。
 去る場面も、啓太は私よりもずっと大人びて見えた。
 いや実際、啓太はだいぶ大人なのかも知れないとも思った。
 逆に私は、一人で恋にうつつを抜かし、一人で空回りし、一人でぼーっと海を見て、好きだと思っているのに切り出す勇気も追いかける勇気も足もない。

 もう会えないかもしれないと分かっているのに、どうして私の体は心に素直じゃ無いんだろう。
 もっと従順でも良いんじゃ無いか。

 啓太はきっと自分の心にも人にも素直な人間なんだろうなって思う。
 数ヶ月、一緒の部屋で生活をしていたからどんな性格なのか大体分かる。
 こうやって、ずっと啓太のことを考えてしまう。
 頭から離れない。
 私、だいぶ重傷なのかもしれない。

 年頃の男女、もっと何かあっても良いと思うのに。

 階段に腰掛けていた私は、空になってひゅいひゅいと彷徨う心を捕まえて、正気を取り戻した。
 しかし、取り戻したその心が空っぽなのには変わりない。一度、正面の海を眺めてから立ち上がる。

 それにしても、さっきの別れ方はないだろう。
 たぶん、あいつは何も思っていないのだと思う。
 急に怒りがこみ上げてくる。
 まるで私がフラれたみたいじゃないか。
 もし、あれが失恋にカウントされるのなら、私は啓太に二度失恋したことになるのかなぁ。
 どっちもまだなにも言っていないのに。

 私は砂浜を歩いて、自宅である旅館に帰ろうとする。
 靴の中には容赦なく細かい砂が入り込んできて、感触を悪くさせる。
 小さい時から海と山で育ってきた田舎っ子のくせに、歩き方が下手なんだよな。
 しかし、今日はいつもよりも入る砂の量が多い。

 足下は砂浜のくせにじゃりじゃりと音を立てている。

――自然に私はがつがつと大股で歩いていた。
第2章『雨降る夜の山で、不思議なネコと』

「ただいまー」

 私は家に帰るなり、庭で足を洗った。
 靴についた砂を水で洗い落としながら、何故海に靴で行ったのだろうかと疑問に思った。
 特に深い意味はなく、ただ玄関に出ていたからだろうと結論づけたが、次からはサンダルの方が楽だなと思った。

 午後四時を回り、旅館にはお客様が次々と入ってくる。
 一度荷物を置いて出かける人や部屋でゆっくりと休む人、温泉に入ろうとする人など様々いる。

 今日は一年の中でも特に観光客の多い伊東。もちろん、私たちの旅館も半月前から予約が殺到し、おかげさまで満室の状態だった。

 私は素早くお着物に着替えて接客の手伝いをする。
 お客様をお部屋に案内し、説明云々をして、お茶をお出しして、お料理を配膳する。
 この課程で磨き上げられた言葉遣いや振る舞いは同い年には負けない自信がある。
 それだけ、母や周りの人に教え込まれてきたし、お客様相手に実践もたくさん重ねてきた。

 私の夢はお母さんのような立派な女将になることだった。
 そして、家でも弱いところを見せないお母さんが格好良くて、私は母に憧れた。

 顔見知りの人には「お手伝い偉いね」とか「だんだんお母さんに似て美人になってきたね」なんて言ってくれるおばあちゃんもいる。でも、自分じゃまだまだダメな事を理解している。

 特にあいつの前だと。

 ソファにもたれ掛かり、再び心が浮遊しかけた時、私を元に戻してくれるのか、逆に悪化させるのか分からない声が聞こえた。

「あれっ、なっちゃんここで何してるの?」

 顔を見ずとも声だけで主が分かった。私が悩む羽目になった元凶が目の前に立っていることに。

「家の手伝い。なんか文句ある?」

 私は顔も見ず、冷たくやや好戦的に問いに回答する。
 すると、私の機嫌が悪いと察したのか、啓太はしゃがんで私の顔をのぞき込んでくる。

 あぁ、もううっとうしい!

 啓太は何も悪くないのに何故か彼に当たってしまう。
 いや、彼にも悪い部分はたくさんある。
 啓太は自分の顔面に人を魅了させる力があることを知らない。
 気づいていない。

 そこらのアイドルには匹敵する美少年が自分の顔をのぞき込んでくるなんて、心臓がいくらあっても足りない。

「ねぇ、さっき隣にいた人が話してたんだけど、今日花火大会あるの?」
「えっ、うん。そこの海岸であるけど……」

 目を逸らそうと思っても、自然と顔をあげてしまう。
 すると、啓太とバッチリ目が合ってしまった。
 私の言葉を聞いて、啓太の表情がぱあぁと明るくなる。

「僕、ずっと花火見たかったんだよね」
「そうなの?」

 直近の約三年間にわたる入院生活で触れたのは、小さな手持ち花火だけ。
 病院があの中庭で夏祭りのイベントみたいなものを企画してくれた、と言っても、打ち上げ花火と手持ち花火は似ているようで全然別物だ。

「なっちゃんも一緒に行こうよ」

 啓太が誘ってくる。

 もちろん、行きたいという思いもあるし、その時間は暇だし、どうせ友達とかとは約束してないし、もしかしたら……とか相変わらず期待しているけど。
 だけど、さっきの訳の分からない感情がみるみる戻ってくる。
 奇跡的な再会を果たして、あんなデタラメな別れ方して。
 またまた、家の旅館で奇跡的な再会を果たして良い展開を期待して。
 虫が良すぎやしないか。

 けれど……

「うん。もちろん、一緒に行こう」

 私の体は、口は、ぐいぐい前へ先走っていった。


               *


 私はよく周りの人に「大人みたいだね」と言われる。
 自分では全然そんなことないし、むしろ、もっと大人になりたいと思っている。
 何を持って大人になるのか。
 人類はまだ明確な答えを出せていない。

 私はまだ子どもなの?


 旅館のお着物から花火用の浴衣に着替えて玄関に向かう。
 夜になってもやたらと外は暑いし、人もたくさんいるから、今日は旅館の二階からでも花火を見ようかと思っていたけど、事情が事情だから仕方ないと自分に言い聞かせる。

 ふんふっふんと鼻歌交じりにぎこちないスキップのリズムを取ると、後ろに何者かの気配を感じた。
 大体誰か頭の中で見当を付けながら後ろを振り返る。

「……えっ?」

 想像していた光景と似ても似つかない光景が目の前に広がり、私は驚きで呆けた声を上げた。

 誰も……いない。なんで?

 私の感じる気配はこれまで全て当たってきた。
 後ろにいる気配、どこかに隠れている気配、目をつぶっていても感じる。
 だから、かくれんぼと気配切りで私に敵うものはいないと思っていた。
 そして、実際にいなかった。

 しかし、今の気配の正体は全然分からない。

 感じた気配は嘘だったというのか。
 加えて、その気配の主が私の想像していたあいつではなかったことが明確になってしまった。

「にゃあー」

 すぐ近くから猫の鳴き声が聞こえてきた。
 だいぶ近くにいる。
 振り返った顔で私の足下を見ると、そこに真っ白な毛並みの整った猫がいた。
 うちの旅館に勝手に懐いてしまった「小雪」だ。

 伊東の街中にしてはだいぶ珍しく雪が舞った寒い冬。
 こんこんと玄関が叩かれたような音がしたので、開けてみるとそこに真っ白な小雪が立っていた。
 本当に人間のように二本の足で立っていたのだ。
 私はその姿を面白がり、お母さんを呼んだが、次に目をやった時にはもう猫のように四本の足で立っていた。

 母から他の仲居さんやお客さんにもこの話が伝わったが、その後小雪が二本足で立つことは二度と無く、私の見間違いということで丸く収められた。
 それから、小雪はうちに居座るようになり、今では看板猫として家族同然の存在だった。

 そんな思い出に浸っていると、小雪がにゃあにゃあと鳴きながら、まるで私を導くかのように歩いて行く。
 気になった私は小雪について行くことにするも、さっき感じたおかしな気配に嫌な予感を感じた。

 玄関を出たところで私を待っていたであろう啓太に出くわした。

「遅いぞ」
「ごめんね。ちょっと色々準備していたら遅くなっちゃって」

 少しやり取りしながらも、私はがつがつ歩く小雪を追いかけ、啓太は小雪を追いかける私を追いかけている。

 二人でゆっくりと歩いて花火を見に行きたいと思っていたが、小雪から感じる謎めいたなにかをそのまま放置しておくわけにも行かない気がした。

 私の直感がなにか大事なことを探しているような気がした。

 啓太は足早に歩く私とそれを導く謎の猫に驚いていたようだが、彼もまた何かを感じたようで何も聞かずに素直に後をついてきた。

 しかし、そろそろ彼もしびれを切らしたようで、
「そんなに早足でどこに向かってるの?」
「分からない」

 当然、二人で花火を見に行く予定だったので、海の方向へ行くと思っていたのだろう。
 私もそう思っていた。
 しかし、小雪が導くのは海とは反対方向の山だった。
 どこに行くのかなんて、聞けるものなら私が聞いてみたい。

 花火の打ち上げの時間が刻一刻と迫るなか、我々一匹二人は線路を越えて山道を登っていた。
 しかし、鹿島神社に向かって歩いていたと思われる小雪はどんどん上へ上へと歩いて行った。
 すれ違う人はみな海の方へ向かって降りていき、逆に登っていく我々はまるで変人のような扱いで横目で見られる。

 まるでというか、端から見れば猫一匹と人間二人が足早に歩いている光景は、二度見でも三度見でもされてもおかしくないと思う。

 猫はなかなか歩き疲れないらしい。
 人間二人が少し山道を登っただけでハーハーゼーゼーしているのに対して、小雪は疲れを少しも見せず、変わらぬ早足でずんずん進んで行く。
 退院したと言えども、私も啓太もまだれっきとした病人だ。
 配慮の気持ちというものを欠片も感じない。

 そろそろ限界に達し私が足を止めようとしたとき、偶然にもずっと一定速度で動き続けていた小雪の足が止まった。
 後ろを歩く私と啓太は突っ返そうになるもすんでのところでなんとか耐えた。

「ひゅーー、どーーん!」

 私たちは後ろから聞こえる大きな音に驚き、急いで海の方を向いた。

 振り返った夜空の先には無数の光の花が咲いていた。

 次々と打ち上がる花火に二人で夢中になって見入った。
 啓太は久しぶりに見る花火に興奮して身を震わせ、私はその隣で好きな人を横目で見る。

 この時間がすごく幸せに感じられた。

 そして、何故か小雪までぷるぷると体を震わせているのが少し気になった。

「綺麗だね。花火」
「そうだね」

 どちらかが会話を切り出しても、必ず一言二言で終わってしまう。

 話が続けられない自分に焦れったさを感じながら、二人でただ無言のまま花火を眺める時間を愛おしくも感じた。
 そして、案外離れたところから見る花火も捨てたものではないなとも思った。

「けいちゃん、また遊びに来てね。いつでも待ってるから」
「急にどうしたの? 深刻そうな顔してるけど。明日までいるからまた会えるでしょ」

 ふと気づくと、私は何か変な事を言っていた。
 口が勝手に動いたというか、心の声が漏れたような感じというか。
 この時間がもっと続いてほしいという思いが声にも口にも出てしまっていたようだ。

 再び、二人の間に沈黙が淀む。

 さっきまでは何ともなかったこの静寂が、何故か今は気まずく感じる。絶対、あの発言やらかした。


「「あのさ」」


 私が腹をくくって声をかけた時、偶然にも二人の声は合わさった。

「いや、啓太、先言っていいよ」

 まさしく、これは海での別れ際の会話と同じ展開だ。
 流石にもう期待はできないし、しない。
 分かっているけど、「やさしさ」という盾を構えて、要は現実から逃げようとしているんだよな、私は。

 私は期待なんかせずに待っていると、一向に啓太はしゃべり出さない。
 横を見ると、啓太は何やら一度大きく息を吸って、心でも落ち着かせているようだった。

「……なっちゃん。あの、伝えたいことがあるんだけど」

 いきなり改まった口調で切り出す啓太。
 それに対してもしやと期待してしまう私。
 期待なんて裏切られるって分かっているのに、やたらと期待してしまうのが人間というものなのだろうか。

「うん」

 私は平仮名二文字の短い言葉で覚悟を示す。
 それがもし私の期待外れでも空回りでも良い。

 そうしたら、わたしから気持ちを伝えるだけだ。

「なっちゃん、僕、君のことが……」
「――っ、ちょっと、待って」

 いやぁぁー、やらかした、やらかした。
 ごめん、ごめん、ごめん。

 今の言葉と流れと雰囲気って絶対あれだったよね。
 思わず、この望んでた展開を自ら一旦止めちゃったよー。
 啓太もきょとんとした顔でこちらをジッと眺めている。

 絶対に止めてはいけない流れだったのは分かっていたが、こんな事をしている場合ではないような気配を感じた。
 恋心以外に、何か大事なものがめらめらと燃えるような……、そんなものを感じ取った。

 そして、下に目をやると、小雪がさらにぶるぶる震えているのが余計に妙に感じさせた。

「……ゥゥー、ウウー、カンカンカン。ウー、カンカンカン」

 遠くからサイレンの音が聞こえてきたのは私が啓太の声を遮ったのと同じ頃からだった。
 それが徐々に近くなり、次第に音が大きくなっていった。

 音量が最高潮に達したところで、音は動かなくなった。
 一台や二台では収まらないにぎやかさ。
 海周辺がパニックに陥っているのが遠くからでも感じ取れる。

 そして、私たちが高台から見たのは、星空に散る花火たちとぎらぎらと炎を上げる見覚えのある旅館。
 母の叫び声が聞こえる。

 そして、私の心臓は、ばくばくと消防車のサイレンにも負けない程の音を体内に響かせ、燃えるように痛かった。


               *


 私のお母さんは女手一つで私を育ててくれた。
 お父さんはいない。
 ずっと帰って来ない。

 だから、どれほどどん底の人生に陥っても私には母しかいなかったのだ。


 お母さんは伊東の市街地で「なぎさ」という小さな旅館を営んでいる。
 もともとは温泉好きだったおじいちゃんが母の名前の渚から取って旅館を建て、他の旅館で女将をしていたおばあちゃんが切り盛りしていたみたいだ。
 私はそんな母も祖父母も旅館も大好きだった。

 そして現在、旅館なぎさの前には数多くの消防車が止まっている。
 
 後から聞いた話だが、厨房から出火したらしい。
 我が旅館が燃えているのを見た私は、いてもたってもいられなくなり、急いで母やみんなのもとへ行こうとした。
 しかし、小雪が目の前に立ち塞がり、鋭い目つきで首を左右に振った。
 猫らしからぬその動きと気迫に気圧され、私はその場で空回りし続ける足を落ち着かせた。

 小雪は海の方に向き直って、私たちには小さな背を向けた。
 その小さな背には「俺に任せろ」と言うかのような力強さを感じる。

 すると、小雪はぶるぶる震える体をさらに身震いして、徐々に重心を後ろ足に加えていく。

 街灯がちょうど小雪だけに当たり、まるで月明かりに照らされているかのような幻想的かつ妄想的な雰囲気が漂った。
 重心を後ろに移しきったあと、小雪はゆっくりと膝を伸ばし、頭の位置を上昇させていく。

 私が初めて小雪と出会ったときに見た光景が今また目の前に広がっていく。

 小雪という名の猫は花火と街灯に照らされる人気のない夜道で人間のように二本の足で直立不動の構えを取った。

 私と啓太はこの謎の猫の動きと雰囲気に何かが起こる予感を感じた。
 そして、その予感は見事に的中した。

 頭の上にぴしゃんと冷たいものを感じた。
 頭に落ちてくるそれはだんだんと量と勢いを増してきた。
 気づいた時にはザアッーと大粒の雨が降ってきた。

「ゴロゴロゴロ……ドッシャーン」

 近くで雷が花火よりも大きく恐ろしい音を上げる。
 雨はどんどん強くなり、局地的なゲリラ豪雨となった。
 さらに恐ろしいのは私たちの周りにしか雨雲がなく、雨雲レーダーにもこの大雨をもたらした雲は映っていなかったことだ。
 街の灯りがついたり消えたり、あっち行ったりこっち行ったりしているのが見え、人々が突然の雨に右往左往しているのが分かる。

 数分、降り続いた強い雨と二足で直立し続けた小雪はとうとう疲れたのか、ゆっくりと勢いを弱めていった。

 小雪が前の足をぱたんと大地に着くと、それに伴って雨がぴたりとやんだ。
 私と啓太は互いに目を合わせ、二人して肩をすくめた。

 豪雨をもたらした雨雲は颯爽と去って行った。
 目の前にはてんてんと星が輝く夜空と色が濃くなったアスファルトとまるで猫のように四本足で立つ真っ白な猫だけが残り、つい数分前の目にしたものが幻だったのかと思ってしまう。

 私たちは小雪を脇に抱えて、一目散に斜面を下っていく。

 我が家が燃えたと見えてのこのこしている訳にはいかない。
 というか、そういうヤツがいたら、私はそいつのことを勇者だと思う。

 私たちは坂道を転がるようにころころと走り、人並みをかき分けてかき分けて泳ぐように走った。
 そして、目の前に現れたのは、キッチンが丸焦げになった旅館「なぎさ」だった。

 母も祖父母も他の従業員たちも素早く逃げ出して、けが人は誰もいないという。
 母たちは大地にひざまずき、愕然としている。
 これまでこんなことは起きたことがなかったのに、何故火災など起きてしまったのか。

 しかし、全焼までに至らなくて良かったとみんなが口を揃えて言う。

 消防士の人によると、ぎりぎりのところでさらなる延焼を防げたという。
 そして、消防士の人もみんな口を揃えて言うことがあった。

「あの雨は奇跡的なタイミングだったな。あれがなかったら、全焼していたかも知れない。神様のおかげだ」

 その話を聞いていた私の隣で聞き耳を立てる小雪は、何故かドヤ顔をするかのように口角を上げて、笑った。

 まったく、うちの猫はまるで猫らしくない猫だ。
第3章『あの日、あの場所で。』

 私にお父さんはいない。

 いや、正確には「今の私」にお父さんはいないと言うべきか。
 かれこれもう四年も帰ってきていない。
 目の前に広がる大海原から。


            *


 旅館で火事が起きた次の日。

 私は昨夜の出来事が脳裏から離れず、眠りにつくことができなかった。
 大事な旅館での火災、二本の足で立つ謎の猫小雪、突然降り出し突然やむ大雨、ドヤ顔を決め込む謎の猫小雪。

 そして、私が遮ってしまった啓太の告白……と思われる話。

 日の出と大体同じ早朝の時間。
 私は着替えて海まで出てきた。

 私は目の前に広がるこの海と綺麗なビーチが好き。

 伊東の中でも一番好きって言っても良い場所かも知れない。
 悩んだとき、苦しいとき、悲しいとき、嬉しいとき、何かあったらいつもここへ来る。

 だって、ここにはお父さんがいるから。

 私のお父さんは、漁師と旅館の料理人との二足のわらじを履いていた。
 私が小学二年生の時の冬、漁に出た父はその後急に荒れた海に打ち負かされ、二度と帰ってくることはなかった。
 その一ヶ月後ぐらいに私は小雪との運命的な出会いを果たした。

 依然として大海原で行方不明になった父の足跡はつかめていない。
 生きているのか死んでいるのかさえ判然としない。

 警察や知り合いの漁師さんたちも一生懸命探してくれたがその甲斐なく、父は当時着ていた衣服も船の一部分も私たちに渡してくれない。
 それが母や祖父母や私が踏ん切りをつけられない大きな理由だ。

 まだ警察が五十人態勢ほどで全力捜索してくれたとき、母は父の葬式を計画した。

 もちろん、祖父母や父の知人からは「生きているかも知れないのに、葬式をするのはおかしい」と猛反発された。
 しかし母は「これは弔うためのお葬式ではなくて、生きていることを神様仏様にお祈りするお経をお坊さんに唱えてもらう」と涙ながらに説得していたのを私はうっすらと覚えている。

 母だって生きていることを信じたかったに決まっている。

 旅館の大広間で遺体も遺骨も遺品もないお父さんの葬式が執り行われた。
 白い祭壇には大きな魚を手に持って微笑む父の遺影と少々の果物が供えられた。
 まだ小さかった私は状況を理解していなかったが、周りをまねしてただ手を合わせ、無心に「南無妙法蓮華経」とお題目を唱え続けていたのを思い返せる。

 ただ、おばあちゃんが「たくさん食べな」と勧めてくれたお寿司の味だけは全く覚えていない。
 微かに汗のようなしょっぱい味がした気がする。

 お父さんの料理の腕は評判で、それをめがけてわざわざうちの旅館にいらっしゃるお客様も大勢いた。
 そんなお父さんが大事にしていた厨房で火事があったなんて、お父さんに会わせる顔がない。

 それから四年間私たちはずっとお父さんを待ち続けたが、一向に帰ってくる気配を感じない。
 そして私は何かある度にお父さんがどこかにいると思われるこの海へやってくる。

――そんな頭の片隅に微かに残る昔話を呼び戻しながら、私は目の前の海を眺める。

 早朝、人はほとんどいない。
 ましてや、海パン水着姿の輩はもっといない。
 広い砂浜にはただ波が押し寄せるときのざぶんという音だけが響く。

 ぼーっとしていた私の視界に一人の人影が入り込む。
 その人影は早朝から海パンで海に飛び込んだ。

 そのバカは準備体操も何もしないで「寒い寒い」と声を荒げている。

 私は無視するつもりだったが、あまりにもうるさいので仕方なく引き上げを手伝うことにした。
 やがてのこのこと海から上がってきた啓太のそのアホ面を見て、私は笑ってしまった。

 あくまでも彼はこんな性格だが、顔だけは良い。
 しかし、唯一良いその顔も今は見るに堪えないほど寒さでゆがんでいる。

 私は啓太に手を差し出して、体を起こそうとした。

 でも、せっかくだからそれだけじゃつまらないと思い、握ったその手を離し、啓太の体は再度水しぶきを上げながら水の中へ入っていった。
 そして、私は一言可愛く「バーカ」と言い残して戻ろうとした。
 それが不器用な私なりの愛だった。

 すると、後ろから冷たい水が飛んでくる。
 啓太は私の行動に応戦するように、さらに私は啓太に応戦するように互いに水を掛け合った

 小学生二人の弾けんばかりの笑顔が朝日に照らされてきらきら光る水面に映っていた。

 日もどんどんと上昇し、海岸線を歩く人が増えてきたのと同時に、私たちのおなかは空腹を強く主張してきたので、一旦旅館に帰ることにした。

 朝早くから水でびちょびちょに濡れた服を絞りつつ、海から陸へ上がろうとしたとき、私の足がもつれて転んだ。
 少し先を歩く啓太がこっちを振り返り、手を差し伸べてくれた。
 私がその手を離すまいとがっちり掴むと、啓太はさらに私の手を力強くがっちりと握った。

 啓太の細い腕が私の体を引っ張り上げたとき、私はそのまま勢い余って前のめりに突っ込んだ。

 私の上半身は啓太の胸板に飛び込み、顔が目と鼻の先まで近づいた。

 いや、近づいただけではない。微かに唇に湿った柔らかい感触を感じた。

 私は急いで啓太から離れ、身の安全を確保した。
 腕の距離ほど開いた二人の間には沈黙と重たい空気だけが残った。
 二人して赤く染まった顔を見つめ、何がおかしいのか分からないが、自然と笑いがこみ上げてきた。

「も、もしかして……
「そう、もしかしてかもね。……だけど」

 私は喉の先まで出かかった言葉を一度飲み込み、考える。
 今から言おうとしている言葉は私の本当の気持ちだ。
 ここでしかもうチャンスはない。私は覚悟を決めた。

「私は……けいちゃんにだったらあげても良いよ」
「―っ、え? それって……」

 言ってしまった。

 後悔と遂に言えた嬉しさとが混ざり合ったよく分からない気持ちに襲われる。
 脳内も体内も全てが何かぐるぐるしている感覚を感じる。

 一応、確認しておこう。
 今の時刻はまだ、朝ご飯も食べる前の早朝だ。

 数秒考え直して、「何言ってるんだ、私は」と急激に恥ずかしくなってきた。
 今思えば、小学生が言うような台詞ではなかった。
 ドラマの見過ぎかも知れないと。

 そう思うと、私と啓太の目の前を流れる沈黙が気まずくなってきた。

 昨日から私はどれだけ気まずさと沈黙を生み出せば気が済むのだろう。
 焦って、心の中での自分への下手なツッコみが多くなってきた。
 そしてさらに訳が分からなくなっていく。

「……なんでもない。恥ずかしいから、さっきのなかったことにしてくれる? よーし、おなかすいたし、早く戻ろ」

 自分が余計に恥ずかしくならないように口数が多くなるが、その姿が余計にイタかった。
 私はさっさと旅館へ戻ろうとして海を背に足を回転させたが、何故か前に進まなかった。
 反射的に海側に振り向くと、真剣な眼差しで私の右手を掴んだ啓太が見つめてきた。

 私は改めて理解させられる目の前の男子の美貌と溢れんばかりのオーラに気圧されてしまった。

「なかったことになんてできないよ。菜月が良いって言ったんだからね。」

 啓太はそう言うと、その後の行動は早かった。

 整った顔が直視できないほどの距離に迫ってきたと思った瞬間には、もう私だけの唇はなかった。
 あまりにも展開が早すぎて、私の頭では到底、状況把握が追いつかない。
 残るのは、私の思いが肯定されたことと一歩大人に近づいたという事実だけ。
 嬉しいような何というか分からない感情が心の中に渦巻く。

 広い砂浜に一人私だけがぽつねんと置き去りにされる。
 私の心も現実に追いつけずに、一人で右往左往と彷徨っている。
 一方、啓太はすました顔をして、バイパスの方へ向けてずんずん歩いて行く。
 少し進んだところで足を止め、こちらを振り返った。

 そして、一呼吸おいてから、啓太は思いきって口を開いた。 


「好きだよ、菜月」


 私はその言葉を聞いた瞬間にふっと安心した。

 ようやく、私の心の中で渦巻いていた謎の感情が嬉しさに安定してきた。
 私の足は勝手に啓太の方へと走り出し、気づいた時には私たちの間に距離が全くなかった。


「――私も。私も好きだよ、啓太」


 お互いの腕の中で私たちは、自分の心の内に潜めていた気持ちをすり合わせる。
 散々空回りした結果、たどり着いた最高の答え。

 だいぶ遠回りした気がするけど、今となってはそんなことどうだって良い。
 私は啓太と二人でいる時間がとてつもなく愛おしかった。

 1年ぶりの再会。

 病院で共に生活していた頃よりも長い間会っていなかった二人だが、それまでの間お互いの存在がどれだけ大切だったのか少し理解できた気がする。
 後から聞いた話によると、啓太は先に退院した私と外来なら早く再会できると思って治療を頑張ったらしい。
 外来で会うことはなかったが、こうして偶然再会したことに私はただならぬ運命を感じた。

 そして、私はこの幸せがずっと続くと思っていた。

 ずっと啓太が、私の好きな人が隣に居続けてくれると思っていた。

 私の思いが届き続いてほしかった。


            *


 午前10時過ぎ。
 チェックアウトを済ませたお客様が続々と旅館を後にし、旅館はただの建物になりつつあった。
 残る最終のお客様は和泉家だった。
 私と母は外までお見送りにでた。

「また来てね。いつでもここにいるから」
「それ、昨日も聞いたよ」

 啓太は笑みを浮かべた。
 私には我慢して笑っているのがすぐに分かった。
 だって、私もまた離ればなれになるのが寂しかったから。
 せっかく両思いだったっていうのに伊東と浜松だと、会いたくなってもすぐには会いに行けない。

「あっ、そうだ。菜月にこれあげる」

 そう言って近づいてきて啓太がポケットから取り出したのは、小さな貝殻だった。
 それは今までに見たことがないくらい、きらきらと輝いていた。

「昨日、すごい綺麗だなって思って持ってたんだよ。でも菜月が大事に持っててくれた方が嬉しいな」

 私は不意にドキッとした。
 ただ何の変哲もない行動なのに、啓太が動いたり言葉を発したりするその一瞬一瞬がきらきらと輝いて見える。

 全てに目を奪われてしまう。

 これが恋をするっていうことなのかなと、長年の謎が解かれたような納得感を感じた。
 しかし、小学生にはまだ恋と愛の違いが分からない。

 私の手に貝殻を託し、遠く小さくなっていく啓太の背中を私は切なく思い、口が勝手に啓太を呼び止めた。

「啓太! これ、ありがとう。大事に持ってるね」
「うん。そうしてくれた方が嬉しい」

 お互いの距離はそこまで開いてないはずなのに、何故かまた会話が続かない。
 見つめ合う二人の間に刻一刻と時間が流れる。

「じゃあね、バイバイ」
「うん、またね」

 短いようで長く感じた沈黙を経て、私から出た言葉は「バイバイ」だった。
 おそらくこれ以上、啓太と目を合わせ、何か話をしたらきっと本当に別れられなくなると脳が判断したのだろう。

 啓太の背中はだんだんと小さくなり、いよいよ見えなくなってしまった。

「ねぇ、二人、もしかして何かあったの? 呼び方だって急に呼び捨てになっちゃって。昔は『なっちゃん』『けいちゃん』なんて言ってたのに」

 昨日と今朝の事情を全く知らない母は私たちの関係に少し疑念を抱いたらしい。

 ぐいぐいと探ろうとしてくる。
 さすがにこの短時間で唇を交わしたことまでは口が裂けても言えない。

「そう、もしかしてかもね。だけど……」

 どこかで聞き覚えと言い覚えがある台詞を私は口にする。

 一呼吸おいて、私はその後に続く言葉を考える。
 この二日間の私にとって、啓太の存在はとても大きかった。
 その存在がまた離れてしまった私の心はぽっかりと穴が開いたような気がしていた。

 だから、啓太とのおみやげをもう一つつくろうと思った。

「誰にも教えないからね。お母さんにも。……私と啓太の二人だけの秘密なんだから」

 私は母を置いて旅館に戻る。

 ややスキップがちで。

 ただの貝殻と二人だけの秘密という言葉に心躍るとは、まだまだ子どもだなと思いつつも、今の私の感情をコントロールできる人間は私自身ではなかった。


 旅館に戻り、私は小雪と遊ぼうと思い立った。
 
 一人では何をするにも寂しくて仕方がない。
 しかし、旅館の中のあちこちを探しても、部屋を一つ一つ見て回っても、小雪の姿はどこにも見当たらない。
 自由奔放でどこへでも勝手に散歩してしまう小雪だが、私の心を読み取るのか、いつもは私が声をかけながら探すとすぐに見つかる。
 だが、今日は結局ご飯の時間になっても帰って来なかった。

 私には何か嫌な予感がした。

――そして、それは残念ながら見事的中した。
第4章『またね、あの場所で。』

 私は「またね」という言葉が嫌いだ。
 それはお父さんが亡くなる前に残していった言葉だったからだ。
 父はあまり「またね」と言う人ではなかった。
 私がほしいと言ったものはすぐに買ってくれたし、たくさん甘やかしてもらった記憶がある。

 しかし、お父さんが行方不明になる日の朝、私は
「お父さんが釣ってきたマグロが食べたい」
と言った。それに対して父は
「マグロかぁ。それはちょっと難しいかも知れないな。また機会があった時な」
と返した。

 結局、お父さんがもう釣りに行くこともお父さんが釣った魚を食べることもなかった。
 そのときから私は「また」という言葉を信じなくなり、使わなくなった。
 人生はいつ何があるか分からない。

 もしかしたら明日はないかも知れないし、一秒後の未来だって分からない。

 未来に「幸せ」を期待しないって決めていたのに。……どうして。


                *


 私と啓太が奇跡的な再会を果たしてから半年が経った。

 あれから私の頭の中には啓太の事しかなかった。

 両思いだということは確かめあったのに、私たちの関係は曖昧なものだった。

 友達関係は一緒に話したら友達だよ、みたいな暗黙の了解があるが、
 恋人関係は「付き合って下さい」「はい、私で良ければ」
 みたいな一連の流れが大体決まっている。

 今振り返れば、私たちそんな流れしなかった。

 啓太なら
「えっ、もうあれって付き合ってる判定じゃなかったの?」
 みたいな返事が返ってきそうだが、食い違いが起こると怖いので曖昧な関係ということで私は理解しておこう。

 冬休み直前の十二月中旬。

 週末だというのにうちの旅館は閑散としていた。
 最近は三組ほどお客様がいれば良い方かなと思えてくるくらい客入りが少なかった。
 今年は異例の寒さで伊東でもたぐいまれな頻度で雪が降ると予想されている。

 一碧湖はもう早速、フィギュアスケートができるくらいに水面が凍っている。

 こんなに寒い冬になるというのに小雪はあれからずっと帰ってこない。
 もしかしたら、またどこか家に勝手に居座っているのかも知れない。
 うちに来る前も小雪は元々野良猫だったから。

 少しゲームをして、宿題をしてから、お隣に回覧板を回しに行く。

 ピンポーンと呼び鈴を鳴らすと、すぐに顔見知ったおばちゃんが出てきて、「寒いのに偉いねえ」と言って玄関を開けたまま居間に戻っていった。
 少しして、おばちゃんはまた袋いっぱいに詰め込んだお菓子を差し出してきた。

 うちのご近所さんはみんな優しい。
 夏にはたくさんの野菜を持ってきてくれるし、冬には蜜柑が食べきれないほどやってくる。
 余ったらいつもお客さんに食べてもらうようにしている。

 私はおばちゃんにお礼を言って静かに戸を閉め、家に戻った。

 すると、家の玄関の前には小さくて真っ白な背中の来客があった。
 一瞬猫のように見えたその背中だが、二本の足で立っていたので猫ではないのかと思った。
 その見覚えのある真っ白な猫ともなんとも言えない生物は小さな右手を丸めて玄関の戸をこんこんと叩いた。

 私はその姿に驚いて立ち尽くしていると、その白い生き物が後ろを振り返り、ジッと見つめる私に気がついた。
 慌てた様子で前足を地面につき、私を見つめてからふあと大きなあくびをする。

 それから一つ「にゃあー」と鳴いた。
 私は半年ぶりに小雪を見つけた。

 私はこの半年間、小雪の心配ばかりしていた。
 猫らしくないこの猫だが、最近は飼い猫らしく私たちがご飯をあげていたため、野生に戻ってもご飯の取り方を忘れてしまったのではないかと思った。
 どうせなら、私たちのように誰か餌を与えてくれる人のもとに居候していてくれた方が良いなと思っていた。

 そして私は帰ってきた小雪を見て、怒りがふつふつと湧いてきた。
 私の想像以上に面倒を見てくれた人が甘やかしたのだろう。
 ぶくぶくに太ってやがる。

 心配なんてする必要もなかった。
 私は怒りに任せて小雪を追い出してやろうかと思ったが、うちでしっかりと体重管理する必要があると感じた。
 そして、小雪がまた現れたことに何か嫌な予感を感じ取った。

 家の中に入り、ソファに腰を下ろす。
 ずでーんと上半身も倒し、上向きに寝っ転がる。
 小雪も私の隣に来てすとんと腰を下ろした。
 私たちは目をつぶり、夢の中へと旅へ出た。

 私はその旅先の夢の中で悪夢を見た。
 うなされながら目をゆっくりと開く。

 誰か大切な人が私のところからいなくなってしまう夢。
 顔は見えなかったけれど、過去の経験がまた呼び起こされる。

「もう大事な人がいなくなるのは嫌だ!」と夢の中で叫んでいた気がする。

 隣で同じく眠っていたまん丸な小雪は私が起きたときの物音でむくっと目を見開いた。
 再度目をつぶり寝ようとするが、一度起きたらなかなか寝付けない。
 人間も猫も同じようで、とうとう諦めて起き上がった。

「にゃあ、にゃあー」

 小雪は可愛らしく鳴く。
 ご飯をせがむように。

 私は仕方なく少しだけおやつをくれてやる。
 さっき、ぽっちゃりと激変した小雪に向かって文句ぶーぶー言っていたくせに結局甘やかしてしまうのはどこのどいつだ。
 猫らしくない行動をよくする小雪だが、猫らしいときの小雪は一言では言い表せないほど可愛い。

 小雪は一応旅館の看板猫であるため、私たちの自宅ではなく三歩離れた旅館自体に住み着いている。

 だから、小雪のご飯やらなんやらは全て向こうに置いてあることに気づいた。
 私たちは一度家の玄関から外へ出て、旅館なぎさの中へとおやつを求めて移動していく。

 建付けの悪い戸をがたがたと揺らしながら開く。
 中を見渡すも人が誰もいない。
 私と小雪は音を立てて軋む長い廊下を端まで歩いて行く。

 カラーボックスの中をあさりながら小雪にどのおやつをあげようかと考えていると、ジリリリリーと廊下に置いてある電話がなった。
 誰もいないのでここは私が出るしかない。
 走って向かい、踊りながら音をならす黒電話の受話器を取った。

「はい、もしもし。旅館なぎさでございます」
『あの、吉田菜月さんのご家族の方ですか?』
「いえ、私が本人ですが……」
『それは失礼しました。私は和泉啓太の母です。菜月さんにお伝えしなければいけない事がありまして……』

 私はその言葉を聞いてごくんと唾を飲み込んだ。この口調と空気感はただならない。

「ガッシャン」

 私はその後、啓太の母から発せられた言葉を聞いて受話器を手から滑らせた。
 膝から崩れ落ち、ぽっかりと穴の開いた心で愕然とする。
 隣には小雪がやってきて「にゃあにゃあ」と鳴き、
 力なく垂れ下がった黒い受話器は「ぴーっぴーっ」という間延びした通話終了を告げる音を廊下に響き渡らせる。

 この感情をなんと表現したら良いのだろうか。
 ただただ、悔しいと悲しいだけが心と頭の中でぐるぐると回る。
 一番聞きたくなかった言葉を聞いてしまった。


 私の好きな人が、和泉啓太が、……亡くなった、と。


                *


 私はホールの中をぐるっと見回す。

 他の事を考えていないと、どうにも自分がおかしくなってしまいそうな気がしたから思考を巡らすのに、その思案もままならない。
 たくさんの参列者がいる中で、やはり目立ったのは私と同じくらいの子どもの数だった。
 おそらく啓太は、私と違ってたくさんの友達がいたのだろう。
 みんなが涙を目に浮かべ、何もない天を仰いでいる。私もそのうちの一人だった。

 啓太の母から旅館の古びた黒電話に連絡が届いてから数日が経ち、私とお母さんは浜松で執り行われている啓太の葬式に来ていた。

 あまりにも突然の話だった。

 啓太の母から聞いた話だと、あの夏から病気の状態は徐々に悪化していったらしい。
 最初の頃はまだよかったもの、1ヶ月くらい前から病状が深刻化し、余命まで宣告されたが、そこに行き着くまでに疲れ果ててしまったみたいだ。

 啓太の母は元気なうちに私に伝えたかったと言ったが、悪化が早すぎて伝えるとかえってショックを受けるだろうからという心遣いがそこにはあった。
 その優しさに対して有り難いとも思った反面、できることなら啓太も辛かっただろうからそばにいてあげたかった。
――なんていうのはただ私がそばにいる言い訳でしかないのか。

 右隣に座っていた人が立ち上がり、前方へと進んで行く。
 私も流れに沿って焼香のために席を立ち上がる。
 前の人について焼香台までやってくる。

 床を見つめていた私の視線はふと上昇し、啓太の遺影が目にとまった。
 何度も見たあの笑顔。

 しかし、初めてこの遺影と同じ弾けんばかりの笑顔を見せたのは伊東で再会したときだった。
 入院中も笑顔を絶やさなかった啓太だが、私にはその笑顔が無理をしているように見えた。
 どこかぎこちなさが残る苦笑いのような、それでも一緒にゲームをしているときはその笑顔も少しは柔らかくなった気がした。

 病気が発見された当時から、長くは生きられない、と告げられていた啓太。

 それが奇跡的に三年の間なんとか耐え抜いてきた。
 啓太にとっては、いつ死んでもおかしくない状況で一日一日を迎えることがどんなに怖かったことだろうか。

 常に死の恐怖と向き合わなければならない十歳前後の少年の気持ちなんて、私には分からない。

 でも、もっと生きたかっただろうなということは、いくらなんでも私にも分かる。
 というよりか、私がもっと啓太に生きてもらいたかった。

 零れそうになる涙をぐっと堪えて、私は焼香を済ませる。

 ホールの中のどこを見ても、涙を流していない人がいなかった。
 それだけ、啓太が周りに与える力が大きかった事を表している。
 私だって、啓太が治療を頑張っていることを知っていたから頑張れたし、大人びている啓太にもっと近づきたいと一生懸命努力した。

 しかし、その私の努力は報われることはなかったし、これから一生報われないのだと実感した。

 私は啓太との日々を思い返す。

 病院で初めて出会ったあの日、啓太が内緒でこっそりと食べてくれた私の苦手なトマト、ゲームでようやく啓太に勝つことができたあの瞬間、私が退院するときに寂しそうに見せたあの笑顔……。

 そして、伊東の海で再会したときに見せた驚いた顔、私と小雪を追って見た花火、早朝の海でお互いに水浸しになったあの日、私の唇に触れた初めての柔らかい感触……。

 脳裏に焼き付いた、啓太との思い出が、私の初恋の全てがスライドショーのように次から次へと空っぽの心へと流れていく。

 私の心が勝手にひゅいひゅいと彷徨っている間に、口はただ「南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経」と唱え続け、やがて通夜が終了した。
 その後のお坊さんの話は、左の耳から入り、そのまま右の耳へと抜けていった。

 啓太の母がわざわざ話しかけてくれたが何を言っていたか全く覚えておらず、いただいたお寿司の味も記憶がない。
 微かに汗のようなしょっぱい味がした気がする。


                *


 その晩は浜松市内のホテルに泊まって一夜を過ごした。
 私はホテルに着くなり、着の身着のままでベッドにダイブした。
 疲れがたまっているのだろう。
 眠たいようで寝付けない。先ほどの通夜の様子が思い出される。

 私は絶対に泣かないと心の中で決めていた。
 それは父の葬式の時から母が口にしていた言葉だ。

「泣いても何の供養にもならない。
 逆に不安になって安らかに眠れないでしょ。
 だから、泣いてる暇があったら、少しでも思い出を思い出す方が供養になるんだよ」

 その言葉を思い出した私は、急に目がかゆくなって擦った。
 腕には湿った感触があり、私はぎょっとした。

 絶対に泣かないと決めていたのに。
――でも、「心の中で」だから仕方ないのかも。

 しばらくして、途端に涙腺が大崩壊した。
 まるでぎりぎりまで我慢していたダムの水が一気に流れ出すかのようだった。

 私がうつ伏せで寝転がったベッドはみるみるうちに涙を含んで、あの日の私と啓太の服のようにびしょ濡れになった。
 永遠と出てくる涙、廊下にまで聞こえそうな程の鼻をすする音と嗚咽が響き渡る。
 後悔してもしきれない、悔やんでも悔やみきれない。ただその言葉だけが頭に浮かぶ。

 私は初めての失恋を「彼の死」で経験した。

 私の好きな人はもうこの世界にいないし、二度と現れることはない。
 両思いだったというのに私たちはまだ恋人にもなれなかったし、恋人のような何かもまだできなかった。

 啓太がくれたのはたった一つ綺麗な貝殻だけ。
 その貝殻も啓太亡き今、輝きは微塵も感じられなかった。
 中身がなくなってしまえば、人も貝も残るのはそのものを覆う殻だけだ。本質は外見だけでは分からない。

 外には雪が降っている。
 街には電気が灯っている。

 私の心は真っ暗で、涙がしとしとと気だるく降り注いでいる。
 そして、街の至る所にクリスマスのお祝いムードが満ちている。

 世界は私とは真逆に回っているようだ。

 私が前へ進めば、みんなが後ろに下がる。歩道を仲良く歩く恋人同士に目を取られ、私は世の中の不条理さを感じる。
 あっちへ行ったりこっちへ行ったりと目まぐるしく動き回る私の心を捕まえて、正気に戻ろうと試みる。

 右手にふと痛みを感じ、視線を落とす。
 私の意思に反して勝手に堅く握られた右の拳をゆっくりと開いてみると、粉々になった貝殻が身を露わにした。


                *


 翌日、私は怠い体を一生懸命に起こし、ベッドから立ち上がった。
 慣れないホテルで眠りが浅く、首はがちがちに寝違えている。
 目元は滝のように流れ出た涙がかさかさに乾燥していて、見るに堪えない形相をしている。
 素早く身支度を済ませ、朝食を目指して食堂へ移動する。

 私はお皿に薄切りの食パンを一枚と少々のサラダを盛り付け、テーブルを挟み母の前に座る。
 無心に食べ進めると、あっという間に皿の上は綺麗さっぱりになっていた。

 荷物を全て持って、忘れ物を確認して、私たちはホテルを後にする。
 暖かい館内から外に出た体に冷たい風が巻き付くように吹き、より一層寒く感じる。身を縮め、急いでタクシーに乗り込んだ。

 その日も葬儀、告別式……と淡々と時間が過ぎていった。

 出棺の時刻が迫り、棺の中に一人一人花を入れていく。

 これ以上涙を零したくなかった私は静かに逃げようとしたが、その前に啓太の母に花を持たされ、渋々もう動くことのない啓太の体に近づいた。
 啓太の顔を見た瞬間にまたもや涙が溢れ出てくる。

 棺に手をかけないと崩れ落ちてしまうくらい全身の力がふっと抜けた。
 眠るようなやさしい顔。
 私が何度も入院中にドッキリを仕掛けようとして見た顔だ。
 整った顔に自然と私の手が伸び、啓太に触れる。
 冷たい。
 そして、唇にもあのときの柔らかい感触はない。

 もうあの日々は戻らない。私はこみ上げてくる思いを抑えきることができなかった。


「大好きだよ。啓太! ずっとずっと、大好きだからね」


 その後の記憶はない。
 お母さんによると、しばらく声を上げて泣いた後、泣き疲れて寝てしまったという。
「もー大変だったんだからね」と母は恥ずかしげに言った。


                *


 それから四半世紀が経った。
 私は啓太が生きた時間の三倍もの時間を今生きているところだった。

「次の方、どうぞ」

 私はあれから必死に勉強して、医師になった。
 理由は単純明快。

 啓太のようにがんで亡くなる子どもを減らしたいと思ったからだ。
 そして、同じ思いで医師を目指していた啓太の遺志を継ぐためだ。
 だから、私は小児科医になった。

――もうあのときのような悲しい思いをする人を出したくない。
 私のためにも、啓太のためにもそれが一番だと思った。

 二人の子どもにも恵まれ、私は一般的に幸せと呼ばれる人生を送っていた。
 夫とは大学のサークルで出会い、それもまた医師になった。

 他から見れば全てが順風満帆に見えるだろう。
 しかし、啓太への思いが途絶えることはなかった。
 私の本当の愛する人は残念ながら夫ではない。それでも上手くやっている。

「優太、お母さん来たよ」

 夫の母が家にやって来た。
 そして、その人は同時に私の愛すべき啓太の母でもあった。
 今度、家族みんなで旅行をしようということになり、行き先を決めるところだった。

 義母も夫も四歳になる長男に「どこ行きたい?」「何したい?」と頻りに質問攻めする。
 近場でしか遊んだことのない長男は大きく広がる夢に一生懸命思案する。そして、口を開いた。

「僕、また伊東の海に行きたいな。ね、なっちゃん」

 伊東に行ったことのない長男が「また」なんて言葉を言い出した。
 父親譲りのその整った顔はまるであいつを連想させた。
 兄弟、親子揃って似たような美少年揃い。

 しかし、今回は似ているのが顔だけではなかったような。

 自分の息子に好きな人の影を重ねてしまうなんてと思いながら、長男から発せられるあいつと同じオーラを感じ取る。
 私がただ単に疲れているだけなのか、愛情が足りないだけなのか、あらゆる可能性を思い浮かべる。
 
 そして、最も可能性の低いある事象が頭の中に浮かぶ。
 私のあらゆる可能性が全て否定されるのならば、それはもしかして……。

 また好きな人に、啓太に会える方法がすぐ目の前に来ているのかも知れない。


「愛してるよ、菜月」


 口を開いた長男の隣には二本の足で立つ、真っ白な猫のような背中があった。

 小雪は一つ「にゃあ」と鳴いて、右手を高々と上げた。                       <了>

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