第2章『雨降る夜の山で、不思議なネコと』

「ただいまー」

 私は家に帰るなり、庭で足を洗った。
 靴についた砂を水で洗い落としながら、何故海に靴で行ったのだろうかと疑問に思った。
 特に深い意味はなく、ただ玄関に出ていたからだろうと結論づけたが、次からはサンダルの方が楽だなと思った。

 午後四時を回り、旅館にはお客様が次々と入ってくる。
 一度荷物を置いて出かける人や部屋でゆっくりと休む人、温泉に入ろうとする人など様々いる。

 今日は一年の中でも特に観光客の多い伊東。もちろん、私たちの旅館も半月前から予約が殺到し、おかげさまで満室の状態だった。

 私は素早くお着物に着替えて接客の手伝いをする。
 お客様をお部屋に案内し、説明云々をして、お茶をお出しして、お料理を配膳する。
 この課程で磨き上げられた言葉遣いや振る舞いは同い年には負けない自信がある。
 それだけ、母や周りの人に教え込まれてきたし、お客様相手に実践もたくさん重ねてきた。

 私の夢はお母さんのような立派な女将になることだった。
 そして、家でも弱いところを見せないお母さんが格好良くて、私は母に憧れた。

 顔見知りの人には「お手伝い偉いね」とか「だんだんお母さんに似て美人になってきたね」なんて言ってくれるおばあちゃんもいる。でも、自分じゃまだまだダメな事を理解している。

 特にあいつの前だと。

 ソファにもたれ掛かり、再び心が浮遊しかけた時、私を元に戻してくれるのか、逆に悪化させるのか分からない声が聞こえた。

「あれっ、なっちゃんここで何してるの?」

 顔を見ずとも声だけで主が分かった。私が悩む羽目になった元凶が目の前に立っていることに。

「家の手伝い。なんか文句ある?」

 私は顔も見ず、冷たくやや好戦的に問いに回答する。
 すると、私の機嫌が悪いと察したのか、啓太はしゃがんで私の顔をのぞき込んでくる。

 あぁ、もううっとうしい!

 啓太は何も悪くないのに何故か彼に当たってしまう。
 いや、彼にも悪い部分はたくさんある。
 啓太は自分の顔面に人を魅了させる力があることを知らない。
 気づいていない。

 そこらのアイドルには匹敵する美少年が自分の顔をのぞき込んでくるなんて、心臓がいくらあっても足りない。

「ねぇ、さっき隣にいた人が話してたんだけど、今日花火大会あるの?」
「えっ、うん。そこの海岸であるけど……」

 目を逸らそうと思っても、自然と顔をあげてしまう。
 すると、啓太とバッチリ目が合ってしまった。
 私の言葉を聞いて、啓太の表情がぱあぁと明るくなる。

「僕、ずっと花火見たかったんだよね」
「そうなの?」

 直近の約三年間にわたる入院生活で触れたのは、小さな手持ち花火だけ。
 病院があの中庭で夏祭りのイベントみたいなものを企画してくれた、と言っても、打ち上げ花火と手持ち花火は似ているようで全然別物だ。

「なっちゃんも一緒に行こうよ」

 啓太が誘ってくる。

 もちろん、行きたいという思いもあるし、その時間は暇だし、どうせ友達とかとは約束してないし、もしかしたら……とか相変わらず期待しているけど。
 だけど、さっきの訳の分からない感情がみるみる戻ってくる。
 奇跡的な再会を果たして、あんなデタラメな別れ方して。
 またまた、家の旅館で奇跡的な再会を果たして良い展開を期待して。
 虫が良すぎやしないか。

 けれど……

「うん。もちろん、一緒に行こう」

 私の体は、口は、ぐいぐい前へ先走っていった。


               *


 私はよく周りの人に「大人みたいだね」と言われる。
 自分では全然そんなことないし、むしろ、もっと大人になりたいと思っている。
 何を持って大人になるのか。
 人類はまだ明確な答えを出せていない。

 私はまだ子どもなの?


 旅館のお着物から花火用の浴衣に着替えて玄関に向かう。
 夜になってもやたらと外は暑いし、人もたくさんいるから、今日は旅館の二階からでも花火を見ようかと思っていたけど、事情が事情だから仕方ないと自分に言い聞かせる。

 ふんふっふんと鼻歌交じりにぎこちないスキップのリズムを取ると、後ろに何者かの気配を感じた。
 大体誰か頭の中で見当を付けながら後ろを振り返る。

「……えっ?」

 想像していた光景と似ても似つかない光景が目の前に広がり、私は驚きで呆けた声を上げた。

 誰も……いない。なんで?

 私の感じる気配はこれまで全て当たってきた。
 後ろにいる気配、どこかに隠れている気配、目をつぶっていても感じる。
 だから、かくれんぼと気配切りで私に敵うものはいないと思っていた。
 そして、実際にいなかった。

 しかし、今の気配の正体は全然分からない。

 感じた気配は嘘だったというのか。
 加えて、その気配の主が私の想像していたあいつではなかったことが明確になってしまった。

「にゃあー」

 すぐ近くから猫の鳴き声が聞こえてきた。
 だいぶ近くにいる。
 振り返った顔で私の足下を見ると、そこに真っ白な毛並みの整った猫がいた。
 うちの旅館に勝手に懐いてしまった「小雪」だ。

 伊東の街中にしてはだいぶ珍しく雪が舞った寒い冬。
 こんこんと玄関が叩かれたような音がしたので、開けてみるとそこに真っ白な小雪が立っていた。
 本当に人間のように二本の足で立っていたのだ。
 私はその姿を面白がり、お母さんを呼んだが、次に目をやった時にはもう猫のように四本の足で立っていた。

 母から他の仲居さんやお客さんにもこの話が伝わったが、その後小雪が二本足で立つことは二度と無く、私の見間違いということで丸く収められた。
 それから、小雪はうちに居座るようになり、今では看板猫として家族同然の存在だった。

 そんな思い出に浸っていると、小雪がにゃあにゃあと鳴きながら、まるで私を導くかのように歩いて行く。
 気になった私は小雪について行くことにするも、さっき感じたおかしな気配に嫌な予感を感じた。

 玄関を出たところで私を待っていたであろう啓太に出くわした。

「遅いぞ」
「ごめんね。ちょっと色々準備していたら遅くなっちゃって」

 少しやり取りしながらも、私はがつがつ歩く小雪を追いかけ、啓太は小雪を追いかける私を追いかけている。

 二人でゆっくりと歩いて花火を見に行きたいと思っていたが、小雪から感じる謎めいたなにかをそのまま放置しておくわけにも行かない気がした。

 私の直感がなにか大事なことを探しているような気がした。

 啓太は足早に歩く私とそれを導く謎の猫に驚いていたようだが、彼もまた何かを感じたようで何も聞かずに素直に後をついてきた。

 しかし、そろそろ彼もしびれを切らしたようで、
「そんなに早足でどこに向かってるの?」
「分からない」

 当然、二人で花火を見に行く予定だったので、海の方向へ行くと思っていたのだろう。
 私もそう思っていた。
 しかし、小雪が導くのは海とは反対方向の山だった。
 どこに行くのかなんて、聞けるものなら私が聞いてみたい。

 花火の打ち上げの時間が刻一刻と迫るなか、我々一匹二人は線路を越えて山道を登っていた。
 しかし、鹿島神社に向かって歩いていたと思われる小雪はどんどん上へ上へと歩いて行った。
 すれ違う人はみな海の方へ向かって降りていき、逆に登っていく我々はまるで変人のような扱いで横目で見られる。

 まるでというか、端から見れば猫一匹と人間二人が足早に歩いている光景は、二度見でも三度見でもされてもおかしくないと思う。

 猫はなかなか歩き疲れないらしい。
 人間二人が少し山道を登っただけでハーハーゼーゼーしているのに対して、小雪は疲れを少しも見せず、変わらぬ早足でずんずん進んで行く。
 退院したと言えども、私も啓太もまだれっきとした病人だ。
 配慮の気持ちというものを欠片も感じない。

 そろそろ限界に達し私が足を止めようとしたとき、偶然にもずっと一定速度で動き続けていた小雪の足が止まった。
 後ろを歩く私と啓太は突っ返そうになるもすんでのところでなんとか耐えた。

「ひゅーー、どーーん!」

 私たちは後ろから聞こえる大きな音に驚き、急いで海の方を向いた。

 振り返った夜空の先には無数の光の花が咲いていた。

 次々と打ち上がる花火に二人で夢中になって見入った。
 啓太は久しぶりに見る花火に興奮して身を震わせ、私はその隣で好きな人を横目で見る。

 この時間がすごく幸せに感じられた。

 そして、何故か小雪までぷるぷると体を震わせているのが少し気になった。

「綺麗だね。花火」
「そうだね」

 どちらかが会話を切り出しても、必ず一言二言で終わってしまう。

 話が続けられない自分に焦れったさを感じながら、二人でただ無言のまま花火を眺める時間を愛おしくも感じた。
 そして、案外離れたところから見る花火も捨てたものではないなとも思った。

「けいちゃん、また遊びに来てね。いつでも待ってるから」
「急にどうしたの? 深刻そうな顔してるけど。明日までいるからまた会えるでしょ」

 ふと気づくと、私は何か変な事を言っていた。
 口が勝手に動いたというか、心の声が漏れたような感じというか。
 この時間がもっと続いてほしいという思いが声にも口にも出てしまっていたようだ。

 再び、二人の間に沈黙が淀む。

 さっきまでは何ともなかったこの静寂が、何故か今は気まずく感じる。絶対、あの発言やらかした。


「「あのさ」」


 私が腹をくくって声をかけた時、偶然にも二人の声は合わさった。

「いや、啓太、先言っていいよ」

 まさしく、これは海での別れ際の会話と同じ展開だ。
 流石にもう期待はできないし、しない。
 分かっているけど、「やさしさ」という盾を構えて、要は現実から逃げようとしているんだよな、私は。

 私は期待なんかせずに待っていると、一向に啓太はしゃべり出さない。
 横を見ると、啓太は何やら一度大きく息を吸って、心でも落ち着かせているようだった。

「……なっちゃん。あの、伝えたいことがあるんだけど」

 いきなり改まった口調で切り出す啓太。
 それに対してもしやと期待してしまう私。
 期待なんて裏切られるって分かっているのに、やたらと期待してしまうのが人間というものなのだろうか。

「うん」

 私は平仮名二文字の短い言葉で覚悟を示す。
 それがもし私の期待外れでも空回りでも良い。

 そうしたら、わたしから気持ちを伝えるだけだ。

「なっちゃん、僕、君のことが……」
「――っ、ちょっと、待って」

 いやぁぁー、やらかした、やらかした。
 ごめん、ごめん、ごめん。

 今の言葉と流れと雰囲気って絶対あれだったよね。
 思わず、この望んでた展開を自ら一旦止めちゃったよー。
 啓太もきょとんとした顔でこちらをジッと眺めている。

 絶対に止めてはいけない流れだったのは分かっていたが、こんな事をしている場合ではないような気配を感じた。
 恋心以外に、何か大事なものがめらめらと燃えるような……、そんなものを感じ取った。

 そして、下に目をやると、小雪がさらにぶるぶる震えているのが余計に妙に感じさせた。

「……ゥゥー、ウウー、カンカンカン。ウー、カンカンカン」

 遠くからサイレンの音が聞こえてきたのは私が啓太の声を遮ったのと同じ頃からだった。
 それが徐々に近くなり、次第に音が大きくなっていった。

 音量が最高潮に達したところで、音は動かなくなった。
 一台や二台では収まらないにぎやかさ。
 海周辺がパニックに陥っているのが遠くからでも感じ取れる。

 そして、私たちが高台から見たのは、星空に散る花火たちとぎらぎらと炎を上げる見覚えのある旅館。
 母の叫び声が聞こえる。

 そして、私の心臓は、ばくばくと消防車のサイレンにも負けない程の音を体内に響かせ、燃えるように痛かった。


               *


 私のお母さんは女手一つで私を育ててくれた。
 お父さんはいない。
 ずっと帰って来ない。

 だから、どれほどどん底の人生に陥っても私には母しかいなかったのだ。


 お母さんは伊東の市街地で「なぎさ」という小さな旅館を営んでいる。
 もともとは温泉好きだったおじいちゃんが母の名前の渚から取って旅館を建て、他の旅館で女将をしていたおばあちゃんが切り盛りしていたみたいだ。
 私はそんな母も祖父母も旅館も大好きだった。

 そして現在、旅館なぎさの前には数多くの消防車が止まっている。
 
 後から聞いた話だが、厨房から出火したらしい。
 我が旅館が燃えているのを見た私は、いてもたってもいられなくなり、急いで母やみんなのもとへ行こうとした。
 しかし、小雪が目の前に立ち塞がり、鋭い目つきで首を左右に振った。
 猫らしからぬその動きと気迫に気圧され、私はその場で空回りし続ける足を落ち着かせた。

 小雪は海の方に向き直って、私たちには小さな背を向けた。
 その小さな背には「俺に任せろ」と言うかのような力強さを感じる。

 すると、小雪はぶるぶる震える体をさらに身震いして、徐々に重心を後ろ足に加えていく。

 街灯がちょうど小雪だけに当たり、まるで月明かりに照らされているかのような幻想的かつ妄想的な雰囲気が漂った。
 重心を後ろに移しきったあと、小雪はゆっくりと膝を伸ばし、頭の位置を上昇させていく。

 私が初めて小雪と出会ったときに見た光景が今また目の前に広がっていく。

 小雪という名の猫は花火と街灯に照らされる人気のない夜道で人間のように二本の足で直立不動の構えを取った。

 私と啓太はこの謎の猫の動きと雰囲気に何かが起こる予感を感じた。
 そして、その予感は見事に的中した。

 頭の上にぴしゃんと冷たいものを感じた。
 頭に落ちてくるそれはだんだんと量と勢いを増してきた。
 気づいた時にはザアッーと大粒の雨が降ってきた。

「ゴロゴロゴロ……ドッシャーン」

 近くで雷が花火よりも大きく恐ろしい音を上げる。
 雨はどんどん強くなり、局地的なゲリラ豪雨となった。
 さらに恐ろしいのは私たちの周りにしか雨雲がなく、雨雲レーダーにもこの大雨をもたらした雲は映っていなかったことだ。
 街の灯りがついたり消えたり、あっち行ったりこっち行ったりしているのが見え、人々が突然の雨に右往左往しているのが分かる。

 数分、降り続いた強い雨と二足で直立し続けた小雪はとうとう疲れたのか、ゆっくりと勢いを弱めていった。

 小雪が前の足をぱたんと大地に着くと、それに伴って雨がぴたりとやんだ。
 私と啓太は互いに目を合わせ、二人して肩をすくめた。

 豪雨をもたらした雨雲は颯爽と去って行った。
 目の前にはてんてんと星が輝く夜空と色が濃くなったアスファルトとまるで猫のように四本足で立つ真っ白な猫だけが残り、つい数分前の目にしたものが幻だったのかと思ってしまう。

 私たちは小雪を脇に抱えて、一目散に斜面を下っていく。

 我が家が燃えたと見えてのこのこしている訳にはいかない。
 というか、そういうヤツがいたら、私はそいつのことを勇者だと思う。

 私たちは坂道を転がるようにころころと走り、人並みをかき分けてかき分けて泳ぐように走った。
 そして、目の前に現れたのは、キッチンが丸焦げになった旅館「なぎさ」だった。

 母も祖父母も他の従業員たちも素早く逃げ出して、けが人は誰もいないという。
 母たちは大地にひざまずき、愕然としている。
 これまでこんなことは起きたことがなかったのに、何故火災など起きてしまったのか。

 しかし、全焼までに至らなくて良かったとみんなが口を揃えて言う。

 消防士の人によると、ぎりぎりのところでさらなる延焼を防げたという。
 そして、消防士の人もみんな口を揃えて言うことがあった。

「あの雨は奇跡的なタイミングだったな。あれがなかったら、全焼していたかも知れない。神様のおかげだ」

 その話を聞いていた私の隣で聞き耳を立てる小雪は、何故かドヤ顔をするかのように口角を上げて、笑った。

 まったく、うちの猫はまるで猫らしくない猫だ。