第1章『真夏の砂浜で』

「作文 僕の夢
 僕の夢は『クラスのみんなと一緒に学校へ行って勉強すること』です。
 僕は、もう二年間もみんなと会うことができていません。
 みんなに会いたいです。
 みんなと一緒に勉強して、一緒にサッカーして遊びたいです。
 お母さんもお父さんも先生もみんな僕のために頑張ってくれています。
 だから、僕も一生懸命頑張っています。
 今はまだ、みんなと離ればなれだけど、きっといつかまたみんなと笑ってゲームの話ができる日が来ることを信じています。
 この病気を治して、将来は僕と同じように苦しんでいる子達を助けられる格好いいお医者さんになりたいです。
 みんなも頑張ってください。     5年2組 和泉啓太」


 静岡県浜松市の小学校。
 5年2組の教室では、授業参観で作文の発表会が行われているところだった。しかし、和泉啓太という児童の作文だけは担任の先生が読んでいて、本人らしき人の姿も見当たらない。
 その頃、時を同じくして、同静岡市の総合病院。角部屋の奥のベッドにアイパッドの画面をのぞき込む小学生が入院していた。

「へえー、今の時代は入院していてもこうやって授業が受けられるんだな」
「ちょっと、お父さん。マイク入っているんだから、静かにしててよ」

 それでも手遅れな様子で、アイパッドのスピーカーからはたくさんの笑い声が聞こえくる。
 隣でガヤガヤしている夫婦を横目に、ベッドの上の少年は画面に向かって無邪気に手を振っている。

 そう、この少年こそが5年2組2番、和泉啓太なのだ。

 ちなみに隣でICT技術の発展に感心している夫婦が彼の両親であることは言うまでもない。
 
 啓太は2年前、小学3年生の時に小児がんと診断された。
 彼のがんは特に悪性の腫瘍であり、医者からは「長く持たないかもしれない」とまで言われる程であった。
 しかし、奇跡が奇跡を呼び、二年も生きることができたことに加え、治療の結果、今ではがんも小さくなり、回復してきていると言う。
 最初の頃は浜松市内の病院で見てもらっていたが、本格的に治療を始めるということで静岡市へ移って以来、ずっと入院している状態なのだ。

「先生達もクラスメイトのみんなも啓太さんの帰りを待っていますからね。」
「がんばれー!」

 画面の中から応援してもらった啓太はとても嬉しそうに笑っている。

「こんなにもニコニコした笑顔を見るのはいつぶりだろう。」

 啓太の母はそっと小さな声で呟いた。
 ずっと寝たきりで、やりたいことも十分にできない体で、辛い思いをしてきた。
 それがだんだんと良い方向に向かっていると思えると、自然と心のつっかえが取り除かれたかのように軽く感じたのだった。

「また、一緒にサッカーしたいね。いつになったらできるのかな?」

 一人の子が啓太に向かって言った途端、彼の笑顔は徐々に暗く、笑顔が無くなっていった。
 うつむきながら小さな口を小さく開き始める。

「―えっとね、実はね、もうサッカーできないんだ……」
「……えっ」

 病室に、そして教室に、気味の悪い沈黙が広がった。

『どう声をかけたらいいんだろう』

 まるでそんな声が静かな時間の中に聞こえるかのように思われた。
 啓太は病気が発見されるまで、少年サッカーの選手として県内では有名だった。
 「並外れた運動神経と巧妙なテクニック」を持ち合わせた神の子として注目を浴び、全国大会での活躍ぶりはサッカー王国・静岡の優勝に大きく貢献した一人として、全国各地に知れ渡った。
 しかしその矢先、啓太の体には少しずつ症状が現れ始めたのだった。

 将来有望と言われ、これからというところで、病気の影響によって思うように足を動かすことができなくなった。それは本人にとっても、周りの関係者にとっても、癒やしきれないショックなのだろう。
 ベッドの隣の棚には、今もずっと萎んだままのサッカーボールと傷ついた金メダルが丁寧に置かれている。

「えー、それではそろそろ時間になりますから、挨拶しましょうか」

 先生が何かを察したのか、それとも逃げるのか、私には分からないけれど、空気感を何とか戻そうと頑張っていたように感じる。

「学級委員さん、お願い」
「起立。気をつけぇ……」
「ちょっ、ちょっと待って!」

 号令を遮るようにして啓太は大声を上げた。いや、遮ったのだ。

「僕、今はもうサッカーできなくなったこと、気にしてないから。だから、みんなも気にしないで」
「でも……」
「『でも……』じゃない。僕の代わりにも頑張ってね」
「うん」

 良い方向に動いたようでとりあえず一安心した。あの空気感は全く関係の無い私まで恐ろしい思いをした。

「これで授業を終わります。ありがとうございました」
「「ありがとうございました」」

 無事に授業参観は終わったようだ。そして、病室にはいつものように静けさが戻ってくる。ここからはいつものように退屈な時間だ。漫画も小説もあるものはすべて読んじゃったし、ゲームは大体全クリしちゃったし……
 啓太がゲームのコントローラーを片手に、隣にいる私を見て楽しそうに声をかけてきた。

「なっちゃん、今日こそは絶対に勝つからね!」
「私だって、けいちゃんには負けないよ!」

 そう、私達の長くて短い物語は、ここから始まったのです。


              *


 それから1年後。僕は小学校の最終学年、6年生になった。
 足が少し不自由になったという点を除けば、普通の子と同じように生活することはある程度できるし、病気自体もほとんど回復したといっても良いと先生は言っていた。

「随分良くなってきていますね。これなら一時的に外へ出てても大丈夫でしょう。来週からのお盆休み、出かけても良いですよ」
「本当ですか、先生!」
「ええ」

 僕の回復状況は思っていたよりも良く、先生は外出許可をくれた。
 3年生の時に入院して以来、ずっと病院の中にいた僕にとって、3年ぶりに出られる外の世界だ。

「啓太、どっか行きたいところ、ある?」

 先生の言葉を聞き、早速父さんが僕に尋ねた。

「うーん、海かな」
「海か。よし、分かった。伊豆へ行こう!」
「やったあ」

 こうして、啓太の小学校最後の夏が始まった。

 お盆初日。

 ただでさえ人がいない病室から僕が出ると、病室の中は空っぽになる。
 3年前、初めてこの病棟へやって来たときのルートを今度は反対側から進んでいく。
 でも、また一週間後にはここへ戻ってこなければならない。
 病院を離れたい気持ちと住み慣れた家のような感覚、どっちも複雑に混ざり合い、変な感覚に包み込まれていく。

「ではお気を付けて。何かあったらすぐに連絡して下さいね。」
「はい。先生、ありがとうございます」
「あっ、ちゃんと帰ってきて下さいね。一時外出ですから」
「もちろん、分かっていますよ。行って来ます」

 蝉がミンミン鳴いていて、目の前に広がる青い空。
 ずっとエアコンが効いた部屋の中で過ごしていたせいか、それとも三年の間にまた気温があがったのか、真夏日の気温は病人の体に堪える。
 高温の車内に乗り込み、今にも壊れそうなエンジン音をブンブンならす。
 この車は僕が生まれる前から乗っているようだから、何歳になるのだろう。

「まず一旦家に帰って、それから明日出かけよう。宿はもうしっかり取ってあるから」

 高速道路をガンガン飛ばし、浜松には一時間ちょっとで着いた。

「ただいまー」
「お兄ちゃん、お帰りー」

 玄関から出てきたのは弟の優太。
 小学4年生、僕とは2つ違い。
 病院内では感染症を拡大させないため、小学生以下のお見舞いが禁止されていた。だから、丸々3年ぶりの兄弟の再会だ。

「啓太、お帰り」
「ただいま。おじいちゃん、おばあちゃん」

 僕の治療にかかる多大な費用を稼ぐために、両親は共働きで昼夜関係なく働いている。
 だから、家に帰って来られないことも多く、優太の面倒はほとんど祖父母が見てくれている。
 生まれ育った家、母の手料理、家族みんな揃っての食卓……全てが久しぶりにようやく叶った目標だった。
 昔は、当たり前にずっとずっとこんな風景が続くとみんなが思っていた。
 でも、病気の辛さを経験した和泉家にとって、健康でいられることや家族揃った食卓は奇跡であるということが当たり前だった。

 そして、「がん」を患った時から「明日死ぬかもしれない」という恐怖の中に怯えながら一日一日を過ごしてきた。
 それは徐々に症状が良くなってきた今も変わりはない。
 だって、人は簡単に死んでしまう生き物だから。

 翌朝、浜松を出発。
 半日もあれば静岡県の端から端まで渡ることはできる。
 病室の窓からずっと眺めていた海。
 ようやく自由になったんだなと実感する。

 

              * 



『オレンジビーチ』

 観光地、伊東の海は今年も想像以上のお客様にお越しいただいていた。
 うちの旅館も海の家も客足は上々、バイト代は小学生のお小遣いとしては十分過ぎる程で、私は家の手伝いの合間、隙を見計らっては友達とビーチバレーをして遊んでいるところだった。

「あっ!」

 綺麗に決まったアタックは私の頭上をビュンと通り過ぎ、コートの外に落下し、ボールはコロコロと転がっていく。
 私は急いでボールを追いかけていき、ボールは砂の城にぶつかって止まった。
 近くにいた男の子がボールを拾いながら顔を上げると、そこには見知った顔があった。

「えっ、けいちゃん?」
「あー! もしかして、なっちゃん?」

 驚いたことに入院中に同室だった啓太に地元の海で再会した。
 一瞬にして私の脳裏の思い出は存在感を強くアピールしてくる。

「お母さん、お母さん。なっちゃんがそこにいるよ」
「なっちゃんって、入院中に一緒に遊んでたあのなっちゃん?」
「そうそう」

 これが私「吉田菜月」と和泉啓太の一年越しの再会だった。


 私は小さい頃から体が弱く、何度も入退院を繰り返してここまで大きくなった。
 10数回にわたる入院生活のなかで「楽しい」と思ったのは、1年前の時が最初で最後だった。
 話す友達もいない、やることもない、ただただベッドに寝転がって白い天井を見つめるだけ。

 しかし、ある日から私の運命は大きく変わった気がする。

 最初は「だいぶ大人びてるな~」と思った啓太の印象。
 でもそれは良い意味で裏切られる結果となった。

 1日中ゲームする子供っぽさ、無邪気な笑顔、やさしさ……。
 10歳という幼さながらもドキッとする瞬間。
 今思えば、私はもうあの時から恋をしていたんだと思う。

 私はもうすっかり元気になった。
 小さかった頃のように頻繁に病院にかかることは少なくなった。
 退院した後もずっと通院を続けていたが、啓太に会うことはなかった。
 それがまさかこんなところで偶然再会することになるとは思いもしなかったから、この驚きは計り知れない。

「かき氷食べる?」
「えっ、良いの?」
「うん。実はお母さん、海の家もやってるんだ」

 私のお母さんは旅館も経営しながら夏の時期だけは海の家も経営している。
 決して忙しくないわけでも、お客さんが入らないわけでもないけれど、お母さんは今一人で私を育ててくれている。
 だから、私も暇なときは手伝いをすることにしている。

「ちょっと待ってて。今作ってくるから」

 ガガガガ……と塊の氷がどんどん小さくなっていく。
 それと引き換えに、お皿の上にこんもりと乗っかったかき氷。
 最後に苺シロップをかけると、まるで地下水のように氷の中に浸透していく。

「お待たせ。苺のシロップかけてきちゃったけど、よかった?」
「うん、全然良いよ。ありがとう」

 私たちはかき氷を食べながら、この1年の間の話をした。
 だけど、どんな話をしたか覚えてない。
 それが、冷たい氷が頭を麻痺させていたせいなのか、啓太に会えたことがうれしすぎたせいなのかも分からない。
 ただ、もう会えないと思っていた人に会える喜びを初めて知った。

――だって、あの人はもうずっと会えていないから……。


 私はこのとき、啓太の状態が徐々に良くなりつつあることを知った。
 そして、話をしているうちにやっぱり、啓太に対する感情は特別なものだと理解した。
 でも、勇気が出せないことも、今度また会える可能性が低いことも、全部分かりきっていた。

「「ねえ」」

 私が腹をくくって声をかけた時、偶然にも二人の声は合わさった。

「あっ、やっぱ私はなんでもない。どうした?」

 啓太に発言を促す。
 ここで引き下がった私も、もしかしたら啓太も同じ事考えていたかもなんて期待をしていた私も、あとから思えばバカ以外の何者でも無かった。

「そろそろ行かないといけないから、じゃあね。会えて嬉しかったし、楽しかったよ」

 啓太は手を振り、私を置いてバイパスの方へ向かっていった。
 去る場面も、啓太は私よりもずっと大人びて見えた。
 いや実際、啓太はだいぶ大人なのかも知れないとも思った。
 逆に私は、一人で恋にうつつを抜かし、一人で空回りし、一人でぼーっと海を見て、好きだと思っているのに切り出す勇気も追いかける勇気も足もない。

 もう会えないかもしれないと分かっているのに、どうして私の体は心に素直じゃ無いんだろう。
 もっと従順でも良いんじゃ無いか。

 啓太はきっと自分の心にも人にも素直な人間なんだろうなって思う。
 数ヶ月、一緒の部屋で生活をしていたからどんな性格なのか大体分かる。
 こうやって、ずっと啓太のことを考えてしまう。
 頭から離れない。
 私、だいぶ重傷なのかもしれない。

 年頃の男女、もっと何かあっても良いと思うのに。

 階段に腰掛けていた私は、空になってひゅいひゅいと彷徨う心を捕まえて、正気を取り戻した。
 しかし、取り戻したその心が空っぽなのには変わりない。一度、正面の海を眺めてから立ち上がる。

 それにしても、さっきの別れ方はないだろう。
 たぶん、あいつは何も思っていないのだと思う。
 急に怒りがこみ上げてくる。
 まるで私がフラれたみたいじゃないか。
 もし、あれが失恋にカウントされるのなら、私は啓太に二度失恋したことになるのかなぁ。
 どっちもまだなにも言っていないのに。

 私は砂浜を歩いて、自宅である旅館に帰ろうとする。
 靴の中には容赦なく細かい砂が入り込んできて、感触を悪くさせる。
 小さい時から海と山で育ってきた田舎っ子のくせに、歩き方が下手なんだよな。
 しかし、今日はいつもよりも入る砂の量が多い。

 足下は砂浜のくせにじゃりじゃりと音を立てている。

――自然に私はがつがつと大股で歩いていた。