「――――そんじゃ今は夏乃って訳だな朝倉さんよ」
「別にそういう事じゃないんだけど……」
「しっかし、下らねー話だな。聞かなきゃ良かったぜ」
「そんな事言われても、高校の話って指定したのは哲さんでしょ」
 ちげぇねぇ! と顔の皺を深めて豪快に笑う哲さん。私はその隣で溜め息をついた。
 わざわざ掘り起こしたくもない記憶をしっかり掘り起こさせておいて、聞かなきゃ良かったなんて豪快過ぎるだろ。
 蝉の声が遠くで聞こえる中、縁側で団扇を扇ぎながら目の前に広がる青々とした山脈を眺めて私は最後の仕事先であるこの白川邸でお世話になっていた。
 こんなトップオブ田舎で平屋に住むこの白川哲(しらかわてつ)さんは、こんな豪快な癖してもはや自殺志願者にも似た感情を持っている七十五歳のおじいさん。短く切りそろえられた白髪は爽やかだけど、じんべえ姿が粋すぎてナイスミドルは程遠い。そして落ち着きが無く、まるで少年みたいなおじいさんだった。
 何故、私はこんな所でお世話になっているかと言うと、それは遡る事四日前。
 千雨、葵と共にこの白川邸に訪れた際に哲さんは門前払いを食らわそうとしてきたんだけれど、玄関先で千雨が述べた自殺志願の理由等の内容が全て図星だったせいで弁離士に興味を持ち、且つ、私を同じ自殺志願者だと紹介してどうか性根を叩き直して欲しいとまるで品物のように差し出され、あろう事か自分を棚に上げて哲さんはそれを了承したのだ。
 故に訳も分からぬまま私はこのへんてこで小気味良い性格のおじいさんとこの田舎の平屋で二人暮らしを強いられる事となった次第。
 ちなみに当たり前のように私はこの人がどのように死んでどのように助けるのかを聞かされていないので、とりあえず葵に言われた通り沢山会話をする事しかできなかった。
「ほら、若ぇんだからもう一つスイカ食え!」
「えー? もう三つ目だし……」
「つべこべ言うな! 食え! 平らげろ! こういう真夏日は体の中から冷やすのが一番良いんだ!」
「お腹冷えたらダメでしょ……」
「そん時はそん時だよ。余計な事は考えなくて良し!」
 私は高らかに笑う哲さんを恨みながらいらないスイカに手を伸ばした。
 ここにきてからずっとこの調子だ。元気が有り余っている。私を孫のように思っているのか、はたまた子宝に恵まれなかったから娘のように思っているのか。
 ちなみに奥さんは三年前に他界したらしい。哲さんが教えてくれた。
 遺影に写っている老婆は満面の笑みを浮かべていた。私は毎朝、手を合わせているんだけれど、その笑顔を見る度に何となく思う。ひまわりのような笑顔ってこんな笑顔の事を言うんだろうなと。実際、哲さんより元気な人だったらしいから生きていたら私はきっと振り回されて居たんだろうな。
 ちなみに哲さんは自殺志願者に似ている感情を持っていると述べたが、それを自殺志願と呼ばないのは哲さんの行動によるものだった。
 哲さんは何時に死ぬとか別に考えておらず、また何も用意していない。むしろ何も考えていなかった。ただ、それは本当に「何も」で、健康面も考えていない。煙草はプカプカ吸うし、食事もえらい偏っていて茶色い物ばかり。好きな物を好きなだけ、好きな時に。寝るのも食べるのも自由だった。私が来てからはそれなりに普通にしてくれているけど、来る前は食べない日もあったらしい。
 もしかしたら私を残した理由ってそれなのかなって思ったけど、答えはわからない。
 あれから千雨も葵もやって来なかった。あの学校に居るとは言っていたけど、ここからじゃ歩いて三時間以上かかる。
 まぁとにかく哲さんは生きる事やこの世に対して執着がないのだ。セミ自殺志願者なのだ。
 今となっては私もだけど。
 だから私たちは中途半端同士、何となく波長が合った。終始こんな感じだけど、私はそこまで嫌いになれないし、哲さんは言ってしまえば楽しそうだった。
「おい。今晩は何作るんだ?」
「ん? 野菜炒め」
「またかよ! 肉食おうぜ肉!」
「じゃあ買い物に行かないと」
「よっしゃ! んじゃ買い物行くか!」
 哲さんは煙草を消して立ち上がる。私は食べおいたスイカの皮を皿に乗せて台所へ持って行った。
 私は家事全般を任されており、まるで哲さんの後妻のような立場に居た。別にそれに対して何かを言うつもりはないが、私は哲さんみたいな人とは絶対に結婚したくない。誰ともする気無いけど、哲さんは絶対に無理。
 台所で皿を洗っていると、キュルキュルと情けないエンジン音が聞こえてきた。愛車の軽トラに乗り込んだらしい。哲さんは本当に決めてから行動が早い人だった。
 私を助手席に乗せるとボロボロの軽トラは微妙な速度で走り出す。舗装されていない道は車内をガタガタ揺らして全然乗り心地が良くない。これさえなければ絶妙なスピードと感じたかも知れないが。全開にした窓から入り込む風は気持ちいいのに、勿体ない。
「夏だなぁおい!」
「うん。夏だね」
 哲さんは上機嫌で煙草に火を点ける。私はいつから敬語を使わなくなったかを思い出そうとしていた。確か序盤でもう使ってなかった気がするけど。
「春乃よ。どうだ? 夏は好きか?」
「好きでも嫌いでもない」
「なんだそりゃ? はっきりしねーなぁ! 俺は好きだぜ!」
「そう。じゃあ冬はもう少し大人しいんだね」
「言いやがる! んなわけねーだろ!」
「ふーん。そうなんだ」
「なんなら冬も俺んちにいるか? ここらの冬もなかなかいいもんだぞ?」
「絶対やだ」
「連れねーな! 冬乃は来ないか!」
 ケタケタ笑う哲さんに溜め息で返事をした。窓に肘をかけてゆっくりと動いていく遠くの景色を見ながら、高校の話をするんじゃなかったなと今更後悔した。
 軽トラは情けない音を出しながらショッピングモールを目指す。
 かなり郊外にある白川邸からは車で二時間はかかる距離だ。舗装されている道まではまだまだ遠い。
 私は先の事を考えると気が遠くなるので、頭は空っぽで景色に集中する。代わり映えしない風景だけど、二時間ずっと止まらない哲さんの下らない話にイチイチ真面目に応対していたらそれこそ家に帰る前に死んでしまう。
 ようやく着いたショッピングモールの駐車場に似つかわしくない汚れた軽トラを停めて私達は中へと入る。
 ここら一体の人が一挙に集まっているのか、ここはいつ来ても人が沢山居た。
「おう春乃よ。肉コーナー行くぞ」
 カゴをカートに乗せて私はハシャぐ哲さんの後を追った。食品売り場はもちろん広く、様々な物が売っていたが、必要な物はあらかた買っておいたので脇目も振らずに言う通り肉コーナーへ向かった。
「哲さん。何食べたいの?」
「あー? そりゃ肉だよ」
「だから何肉のどんな料理が食べたいのよ」
「あー……とにかくガツンとくる奴だな!」
「ガツンって……」
 肉コーナーをゆっくりと進みながら私は今晩の献立を思案する。漠然とし過ぎている注文に応えるには何を作れば良いのだろう。
 焼肉だとちょっとなぁ。暑いし何か違う。となればもう焼肉のタレを使って炒めるだけでいいか。それなら物凄く楽だし、ガツンという注文にも応えられる。体の事を考えるとちょっとって感じだけど、今日は特別にしてあげよう。よし決まり。ならば牛肉か豚肉だな。
「おう。見ろよ。暑い日は冷しゃぶってのが良いらしいぞ? 今日にピッタリじゃねーか。春乃よぉ、これ作れるか?」
 豚肉コーナーに特設された冷しゃぶスペースにある看板を指差して哲さんは私を手招いた。
「冷しゃぶ。全然良いけど、これサッパリしてるよ?」
「いいじゃねーか! 夏はサッパリいかねーとな!」
 冷しゃぶ用の豚バラ肉を二パック取ると、そのままカゴに放り込んで哲さんはどこかへ行ってしまった。
「んじゃ後は頼んだぜ!」
「ちょっと何処行くの!」
 哲さんは振り返りもせず、そこら辺回ってくらぁ。と手を振って去ってしまった。
「ガツンって言ったじゃん……」
 恨み節を吐きながら私は念のため豚肉をもう一パックカゴに入れて、そのまま冷しゃぶ用のゴマだれも取り、付け合わせに使うオニオンスライス用の玉ねぎを見つけると、レジに向かった。
 哲さんに渡された財布は昔ながらのガマぐちで、中には折り畳まれたお札と小銭が一緒くたになっている。正直、非常に使いづらいが奥さんが使っていた物だと言われたら買い替えようとも言えなかった。
 買い物袋を下げながら売り場に戻る。広い店内だが、大体居る場所は分かっていた。
「哲さん。買い物終わったよ」
「おう。んじゃこれも買ってくれ」
 手渡されたのはスナック菓子。哲さんは大体お菓子コーナーでおやつを真剣に吟味していた。この年になっても間食が大好きらしく、特に新商品のスナック菓子を好んでいた。
「はいはい。じゃあ行くよ」
「おうよ!」
 帰りはいつも私が先導する。ホントに哲さんはお父さんも息子も持った気分にさせてくれるので疲れる毎日だった。
 帰りも同じ、二時間の最悪なドライブ。冷しゃぶと新商品に心を浮かせる哲さんは行きよりさらに饒舌だった。
「おう春乃」
「何でしょう?」
「まだ日も高いからよ。寄り道してこうじゃねーか」
「えー?」
「ははは! そう嫌がるな! 折角だからよ! 俺の思い出の場所に案内してやるよ!」
「別にいいよ。暑いし興味ないし暑いし」
「ふん! 運転しているのは俺だからな! そう言ってももう向かってるんだよ!」
「なら聞かないでよ……」
「おー? 何だって?」
「なんでも、ない!」
 この距離では小さく呟いても聞こえてしまう。情けない悲鳴にも似た車の音で何て言ったかまでは聞こえなかったみたいだけど。
 哲さんは話を聞きたがるし、話をしたがるお喋り大好き男だった。こんな年になってもこれなんだから若い頃はとんでもなかったんだと思う。こんなうるさい男の元に嫁いだ女性が更にうるさい人だと言うのだから凄い。まぁ賑やかなのは悪い事じゃないんだけど。
「ちょっと揺れるからよ。酔うなよ」
 軽トラは山道に入ってより一層車内は揺れた。悪路のデコボコをしっかりと拾うこのオンボロは悲鳴を上げながらもどんどん進んでいく。
「酔うなって言われて酔わなきゃ苦労しないよ……」
「あー? 何か言ったか?」
「言って、ない!」



 ――――道無き道と言う名の悪路を進んで、軽トラを山の中で停めると哲さんは車を降りた。
「ほら行くぞ」
「え? 歩くの? 肉大丈夫かな?」
「大丈夫だ。ここは涼しいから」
「えー?」
 私はそう言いながらもシートベルトを外して、車を降りる。確かに涼しかった。肉を心配したのは、ただ歩きたくなかったからだ。
 哲さんは何となく出来た道を進んでいく。そこ気をつけろよとかいちいち伝えてくれる感じは少しだけ男らしかったけど、こんな獣道みたいな所を女の子に歩かせる時点で失格だけど。
 そんな道を歩く事十分。私はそんな文句も忘れてしまう程の感動に打たれてしまった。
「うわー! すごい!」
「だろう? ここは俺の秘密の場所なんだ」
 そこは川の上流部分で、少し広い平地に大きめの石が転がり、木々は途切れてぽっかりと空いた天井からは空の青が顔を出していた。
「ひゃー! 冷たい!」
 私は川岸の石に座り、靴を脱いで川へ足を突っ込んだ。ひんやりとした流れが踝から下を一気に冷やす。その冷気が足下から伝わって脳天から飛んでいった。
「生き返るだろう? この水は飲めるんだぞ?」
 哲さんは川の水をすくって口に含んだ。私の下流で……
「あの、哲さん。私、足突っ込んでるんだけど……」
「ぷはっ! ゲホゲホ! ば、馬鹿野郎! 早く言え!」
「何やってんの! バカじゃないの! 見たら分かるじゃん!」
 私は乱暴に口を拭って睨んで来る哲さんを指差して笑った。
 哲さんは気を取り直して上流でまた水をすくった。それを見て私も手を突っ込んだけど、飲む気にはならなかったので、とりあえず冷やすだけにしておいた。
「ねぇ哲さん」
「あん?」
 私の隣で川を背にして座る哲さんは空を見上げて煙草の煙を吐いた。
「ここって何の思い出があるの?」
「あー、そうか。忘れてた。ここはな俺が日奈子(ひなこ)に交際を申し込んだ場所なんだよ」
 日奈子と言うのは三年前に死んだ奥さんの名前だ。そうか、ここは哲さんが勝負を決める特別な場所なのだ。
「どんな告白したの?」
 今の私はきっと意地悪な顔をしている事だろう。日頃、と言ってもたった数日だがくだらない話に付き合わされた仕返しだ。恥ずかしい話をしっかり話してもらおうじゃないか。
「どんなってなぁ。ただ、ここに連れてきてよ。今みたいに日奈子が川に足突っ込んで俺が隣に座ってよ。まぁなんだ。結婚してくれって言ったんだよ」
 煙草を燻らしながら空を見つめる目を細めた哲さんはその時を思い出しているのだろうか。赤面もせずにすんなり答えてくれたのは良いけど、それって……
「哲さん。プロポーズだよね? それ」
「あん? まぁそうだな」
「いきなり結婚してって言ったの?」
「おう。そうだ。しっかり腹括ってるのを伝えなきゃならと思ってな。まぁ日奈子はちっちゃな頃から一緒だった腐れ縁みたいな所があったからよ。今更交際してくれって言うのも何か小っ恥ずかしくってな」
「恥ずかしいって。いきなりプロポーズする方が恥ずかしいでしょ」
「おう? そうか?」
「わかんないけど」
 何だそりゃと笑って携帯灰皿を取り出し火を消した。
 それからしばらく沈黙が続いた。私は川のせせらぎと蝉の鳴き声に耳を傾けながら時折水をすくっては膝にかけて涼を感じていた。
 哲さんは辺りに視線を伸ばして穏やかな表情を浮かべるとまた煙草に火を点けては消してを繰り返した。
「なぁ春乃」
「んー?」
 沈黙を割いた哲さんの声に私は視線を川の流れに留めたまま相槌を打つ。
「お前は本当に死にてーのか?」
「うーん……うん。かな?」
「どっちだ。ハッキリしろ」
「じゃあ、うん」
「じゃあ。か。なぁ春乃。俺は説教とか垂れるのは好きじゃねーんだけどよ。別に死ななくてもいいじゃねーか。何か嫌な事があったのかも知れねーけどよ。人生何とかなるもんだぞ?」
「そうだねぇ。私もそんな気がするよ」
 哲さんは今まで、何で私が死にたがっているのかと問いただす事はなかった。もしかしたらこうして突っ込んだ話をする為に連れてきたのかも知れない。
 哲さんはクルッと体を川に向けて煙草をくわえながらサンダルを放ると乱暴に足を突っ込んだ。
「お前。いきなり心がいなくなったな」
「どういうこと?」
「この話をした途端に心此処に非ずになっちまったって事だよ」
「そう?」
「そうだよ。なぁ春乃。嫌な事から逃げるのは構わん。でも自分自身とは常に向かい合っていねーといつまで経っても答えなんか出やしないぞ。間違えたかも正解かもわからないままだ」
「ホントに説教だね。何か似合わないよ」
「俺だってこんな事言いたかねーさ。でもな、こうして数日でも一緒に暮らしてりゃ情も湧いちまう。そんな奴が自ら命を絶つなんて寝覚めが悪いじゃねーか」
「でも、哲さんだって生きる事に執着してないじゃん」
「俺は良いんだよ」
「何でよ」
「俺はお前と違って自分の人生を全うしたからな。もう十分だ。どちらにせよ後は死ぬだけなんだよ」
「私も全うしたよ。もう後は何もないもん」
「だから、それもわかんねーだろ。色んなもんから目を背けちゃよう。だから答えも曖昧なんだお前は」
「どうだって良いでしょ。哲さんには関係ない」
「関係ねー事あるか。俺は久しぶりに楽しいんだ。だからお前には生きてもらわなきゃなんねー」
「何それ。自分勝手過ぎ。別にそんなの生きる理由になんないよ私には」
「生きる理由なんか誰だってねーよ。そんなの考えて答えが出るもんでもねーだろ。これはお前に生きていて欲しい理由だよ。俺が楽しいからお前は生きてろ」
「生きていて欲しい理由……ね。楽しいからって……」
「何だったら好きなだけ俺んちに居ても良い。遺産もくれてやる。元々身寄りもねーしな」
「ちょ、ちょっと話が飛躍しすぎ。何で出会って数日の女に遺産あげる約束なんてするのよ」
「俺は人を見る目には自信があんだ。年の功もあるしな。春乃。お前は良い両親に育てられたんだろう。見てれば分かる。お前はちゃんとしてる」
「両親ってねぇ。私の所はシングルマザーだったし、その母さんも小学生に入る前に死んじゃったわよ」
「だったら尚更だ。お前はその短い間に教えられた事をちゃんと守ってる。しっかり根付いてるんだろうよ。良い母さんを持ったな」
「何それ……何言っても褒める気だったんでしょ?」
「んなこたーねーよ。まぁしばらくゆっくりすれば良いさ。お前には時間があるからな。でも、頼むから俺が生きてる間に死ぬのを止めてくれよ」
「また勝手な事言って」
「いーんだよ。でも、俺はもういつ死ぬかわかんねー身だからな。ホントは俺だって早いとこくたばって日奈子に会いてーんだ」
 ったく、手間がかかる娘が出来たぜ。と吐き捨てて哲さんはまた煙草に火を点けた。
 私は体が固まってしまった。
 何も言葉が出ない。
 哲さんは知らない。死んでも日奈子さんには会えない事を。もう二度と会えない事を。
 私と同じだ。
 哲さんはそれを知ったらどんな答えを出すのだろうか。もしかしたら私のこの先を決める一つの指針になるかも知れない。もし、死んだ後の希望を絶たれたらどうすればいいのか。
 一体、何が正解なのか。答えは見つかるのか。
「……哲さん」
「おう?」
「……そ、そろそろ帰らないと肉が悪くなっちゃう」
「お、そうだな」
 点けたばっかの煙草を消して哲さんはサンダルを履いた。私も裸足のまま靴を履く。少しだけ気持ち悪い履き心地がまるで今の心の在り方みたいだった。
 私は言えなかった。
 自分の為に哲さんを利用する気にはなれなかった。
 知らない事が良い情報もある。そのまま死ねた方が幸せかも知れない。哲さんの寂しそうな顔は何となく見たくなかった。
 哲さん同様に私にも情が湧いているみたいだ。



 ――――……。



 翌日、私は午前中から哲さんに軽トラで学校まで送ってもらっていた。
「じゃあ夕方くらいに迎えに来るからよ」
「うん。ありがとう。お昼のソーメンの薬味は冷蔵庫に入ってるから」
「おう。じゃあな」
 ガタガタと車体を揺らしながら走り去る軽トラを手を振って見送った。
「まるで妻じゃの。いや、娘か」
「葵……いたんならちゃんと挨拶しなさいよ」
「ふん。今来たんじゃよ」
 バレバレな嘘をついた葵をそれ以上は追求せず、私は校舎内に入る。今日も日差しが強く、かなり暑い。
「あれ? 千雨は?」
 開けっ放しの引き戸から覗く二階の教室には誰もいなかった。
「千雨はちょっとな。まぁ夕方には戻って来るじゃろう」
「そう。じゃあ葵で良いわ」
「じゃあとはなんじゃー!」
 憤慨する葵を無視して私は教室に入り、椅子に腰掛ける。葵はビニールシートの上に胡座をかいた。
「ねぇ。哲さんってどうやって死ぬの? いつ死ぬの?」
「知らん」
「教える気はないのね……じゃあ相談なんだけど。あの人、死んだら奥さんに会えると思ってるのよ。それってさ、やっぱり出来ないって伝えるべきかな?」
 私は溜め息をついて窓の外に視線を投げた。今日はあまり風が吹いていない。じんわりとかいた汗が少し気持ち悪い。
「伝えるかどうかは自分で決めれば良いじゃろう。自分ならどうして欲しいのじゃ?」
「どうして欲しいって。わかんないわよ」
「わかんない……か。ふん」
 葵は鼻を鳴らし、立ち上がる。
「着いて来い小娘」
 葵は一言そう告げると、返事も待たずに教室を出て行ってしまった。
「ちょっと暑いから戻らない? 何でこんなとこに来たのよ?」
 ついて行った先はあの屋上だった。そこは遮る物がないので太陽光線を全身で受け止めるので室内の数倍も暑かった。
「そんな事は良い。貴様は余計な事ばっか気にするのう」
「良いでしょ別に。で? ここで何するのよ?」
 葵は端にまで行き、縁に腰を下ろすと、隣を叩いて私の方を向いた。渋々、私が隣に座るとゆっくり口を開いた。
「ワシはまぁ見ての通り、この見た目の頃に死んだ」
「何よ急に」
「まぁ聞け。ワシは年端も行かない頃に死んだんじゃ。病気でな」
「そう。そうなの」
「じゃから弁離士になった」
「何が言いたいの?」
「何も知らないまま死ぬのは嫌じゃったからワシは弁離士になったんじゃ。周りの親しい者達の記憶から消え去ろうとも、ワシはもっと世の中を自分自身を知りたかったんじゃ。幸い、その資格があったからそういう選択が出来たんじゃがな」
「大層な好奇心ね」
「まぁそうじゃな。でも、弁離士になった者はみなそれぞれ理由がある。それがどんな小さい事であれ、自分の生きた証を捨ててでも大切な事があったんじゃ」
「千雨も?」
「そうじゃ。そしてワシはそれが答えを探す事じゃった」
「答え?」
「ワシの人生が何だったのか。という問題じゃよ」
「凄い命題を追っているのね? で、それだけ過ごして答えは出たの?」
 葵は遠くを見つめて嘲笑する。
「出る訳なかろう。これだけ生きてもヒントすら出んのじゃ。まだまだ足りんのじゃろうな。じゃから……」
 葵は私の方に顔を向ける。
「貴様がどれだけ悩もうとも、考えようとも生きる理由なんか見つかるはずがない」
「何言ってんの?」
「小娘よ。貴様の心の内などバレバレじゃ。貴様はガキじゃからのう。これでもかってくらいにガキじゃ。わかりやすいガキじゃ」
「ガキガキ言わないでよ」
「ガキが生意気言うな。ガキらしくしておれば良いではないか。もっと無駄な事に目を向けてみよ。周りには下らんものが溢れておる。それに一喜一憂してみよ。貴様のその感覚は今正に削られていっておるのじゃぞ? 悩んでいる時間も惜むべきじゃ。貴様のような年端も行かぬガキごときが何を悩む必要がある。悩むくらいじゃったらやってみよ。貴様は生きておる。何度だってやり直せるではないか。なぜ間違わん? なぜ正解を一回で導きだそうとする。なぜそんなに焦って正解を出そうとするのじゃ。そんな必要ないじゃろう? いつかは、いずれは自然にわかるかも知れん。なぜ待てない? 生き急ぐなんぞ百年早いぞ。もっと周りを見よ。貴様にはたっぷり時間があるではないか」
「ねぇちょっと、本当に何が言いたいのよ? 言っている事が本当にわからないんだけど」
「……もう良い。言っても無駄じゃしのう。そろそろ千雨も戻ってきそうじゃ。教室に戻るぞ」
「本当にどうしたの? ちょっと変よ?」
「ワシとした事が余計な世話を焼いてしまったようじゃ。部外者が口出す事ではなかったな。すまん。忘れてくれ」
 葵は笑いもせずそのまま扉の方へ歩いていった。忘れてくれと言われても話の意図がまるで見えないので覚えようもない。本当に何が言いたかったのだろう。
 何だか一方的に罵られた気分だった。
 教室に戻って窓から校庭を見ていると、葵の言った通り十分程立った頃に千雨が歩いて来るのが見えた。
「あ、本当に来た。どうしてわかったの?」
 窓に肘をかけたまま振り向く。葵は私に背を向けてビニールシートに座っていた。
「まぁ勘じゃな」
「勘なの?」
「感覚じゃ」
「どっちよ?」
 葵は顔だけ振り向く。その顔はいつもの生意気な表情に戻っていた。
「どちらでも良い。弁理士同士にしかわからないもんじゃからな! 貴様には一生分からんわ!」
 バッと飛び上がって仁王立ちする。もう完全にいつもの葵だった。バカにした表情で大事な事を話さない会話。付かず離れずの距離にいる感じ。
 やはりさっきは距離感が違った。あんなに自分の事を話したり、私にダラダラと説教したりなんかしない。いつもならサラッとバカにして終わりなのに。後は全部うやむやだったのに。
 いや、結局うやむやなのは同じか。
「ただいま。あれ? 春乃来てたんだ?」
「あ、あぁ。おかえり」
 私が視線を葵から移すと千雨は凄く嬉しそうに笑って「ただいま」と言ってきた。
「おい千雨。どうなったのじゃ?」
「うん。予想通り明日になったよ」
「……本当に良いのじゃな?」
「うん。ありがとう。おかげで要求は割とすんなり通った」
「ふん。そんなものワシにかかれば朝飯前じゃて。そしたら明日じゃな。しっかりやらんとな」
「あぁ。もちろん。しっかりやり切るよ」
 千雨と葵は少し寂しそうな微笑みを浮かべて視線を交わらせていた。
 不意にその視線がこちらに向いて来る。
「春乃はどうしたの? 何かあったかい?」
「え? あぁ! 全然いいの! もう葵に聞いたから大丈夫」
「いや、ワシは何も答えておらんじゃろうが。千雨に聞くと良い。ワシはちょいと席を外すぞ」
 葵は教室を出て行ってしまった。去り際に千雨と何か耳打ちし合っていたけれど、最後に私をチラッと見て、でも何も言わずに出て行った。
「ねぇ葵。何を言ってたの? 私の事?」
 葵が出て行った後、私達も結局学校を出て、当ても無く散歩する事になった。暑い日差しを葵の置いて行った麦わら帽子で遮るが、あいつは頭が小さいので少しだけキツいのが悔しかった。
「葵かい? 何か余計な事をしたって謝られただけだよ」
 あっけらかんと笑う千雨は何かスッキリしたような雰囲気を感じた。日差しを手で遮りながら遠い前方を見つめる仕草にも爽やかさがあった。
「余計な事……か。確かに変だったな。どうしたんだろ?」
「まぁ春乃には世話を焼きたくなる何かがあるんだよ。放っとけないって言うかさ。だから葵にしては珍しい行動なんだ。そうやって真剣に説教するなんて。僕にだってした事がないんだから。どんなにミスをしてもね」
「何だ。全部聞いてるんじゃない。って、やっぱり説教だったのかあれ」
「ははは! まぁそう考えないであげてよ! 葵からしたら失態を見せたと思っているだろうから本気で忘れて欲しいんだと思うよ」
「あれだけ好き勝手言っておいて忘れろだなんて勝手過ぎるでしょ」
「うんうん! 勝手だね。葵らしい」
「うん。葵らしいね」
 私達は左右に田んぼが広がる畦道を歩く。遠くに見える家屋がどうやら商店らしく、そこでアイスでも買おうと言う話になっていたから、今はそれだけが頼りで歩いているんだけれど。
 何となく思い出してしまった。
 そうか。別に忘れようとしてなくても忘れちゃうんだ。この仕事が終わったら私の記憶から弁離士二人はすっぱり消え去る。それがいつかはわからないけどそんなに時間はかからないだろう。

 ――――言っても無駄じゃしな。

 その通りだ。葵の失態にも似たらしくない説教は無駄だ。
 例えあそこで私の心にどれだけ響こうとも、その内忘れてしまうのだから。

「春乃。何にする?」
 店の前にあるアイスフリーザーを開けて千雨は中を覗く。どれにする、と言ってもそこまで種類がないので私は王道であるソーダ味の氷菓子を選んだ。
「うん。僕も同じのにしようかな」
 千雨はソーダアイスを二本持って店内に入る。私は入り口を挟んでフリーザーとは反対にあるベンチに腰を下ろして空を見上げる。青と言うより水色に広がる空は巨大なソーダアイスのようだ。
「お待たせ」
 千雨からアイスを受け取り、軽く頭を下げると包装紙を破る。隣に座った千雨はその破れた包装紙を私の手から取ると横に備え付けてあったゴミ箱に入れた。
「ほんと気が利くよね。やっぱりモテたの?」
「そんな事聞くかい? 別にモテないよ」
「そう。不思議なもんね」
 私と千雨はソーダアイスを齧りながら空を眺める。軒下にあるから日陰に座れているので少しだけ温度が下がった場所で口中に広がる涼は夏でしか感じられないものだった。
「そういえばさ……」
「なんだい?」
「明日って。やっぱり仕事の話だよね」
「……うん。明日の昼に実行する」
「そっかぁ……」
 その答えは私の相談の意味をすっかり無くしてしまった。明日、死んでしまうならもう言うタイミングもない。今更言ったってどうしようもないのだから、覚悟を決める時間も無いし下手したらこの世に余計な未練を残させてしまうかも知れない。
 だとしたら私は何も言わずに最期を看取るだけだ。それしか出来ない。私は弁離士ではない。
 ただの高校生なんだから――――。


 シャリ、シャリとアイスを齧る音と蝉の鳴き声しか聞こえない。相変わらず容赦ない太陽光線はジリジリと地表を焼き続けた。
 遠い向こう、視界に広がる青と白と緑のコントラストが何だか胸の奥をチクチクと刺してくる。何でもない景色、光景、状況なのに。
 私は何故かこの平凡な『今』を忘れたくないな。と思った。
「あ、そうだ。そう言えば春乃、聞きたい事あって来たんだよね? 何を聞きに来たの?」
 食べ終えたアイスの棒を加えてボーッとしていたら、また当たり前のように私の口からそれを取ってゴミ箱に入れると千雨は少し体をこちらに向けた。
 もう相談する事は無くなってしまったんだけど、こうなっては別にもう良いとか言っても信じてくれなさそうだし、一からこの私の気持ちを説明する気にもなれない。
「うん。いや、哲さんいつ死ぬのかなぁって思って。あの人すっごく元気だからさ」
 嘘をついた。哲さんが元気だと言うのは本当だったけど、別にそれをわざわざ聞きに来る程不思議に思っては居なかった。
「春乃は哲さんに死んで欲しくない?」
「死んで欲しい。なんて思う訳ないでしょ」
 千雨はうんうんと頷くと、また背もたれに体を預けた。
「そうだね。仲良くやっているようだし。葵から聞いたよ。何だかドタバタ親子みたいだってさ」
「え? 何? あいつずっと見てた訳?」
「ずっとじゃないよ。一応、何かあった時の為にチェックしているだけ。万が一にも起こらないだろうがね」
 それにしても、妬けるなぁ。と千雨は息を吐いて視線を下ろした。
「何よ。別に何でもないわよ。あんあおじいちゃんに恋なんてしてないし、する訳ないし」
「ぷっふふふ! 春乃はやっぱり面白いね! そんなつもりじゃなかったんだけどさ。でも、千雨に良い友人が出来て良かったよ」
「友人? なのかな? 良くはないと思うけど」
「いやいや、あんなに純粋に年を重ねている人はそういないよ? 素敵な人生を送ってきた証拠だ。うん。あの人は大丈夫だ」
「何言ってんだか。確かに少年みたいだけどね。疲れるくらい」
「僕の方が大人に見える?」
「うーん。ま、そうね。千雨の方が大人だな」
「ははは。どれだけ凄いんだ哲さんは」
「いや、もうひどいよ? 例えばさ————」
 私はこrをキッカケに今までの哲さんが行って来たおよそ大人とは思えない行動を恨み節たっぷりで千雨に愚痴り始めた。それはもう思いついたものを片っ端から堰を切ったように口から出て来るので、千雨はほとんど微笑みながら「へぇ!」とか「そりゃ凄いね!」とか時折、手を叩いて笑いながら聞いてくれた。
 哲さんとはやっぱり違う。大人と話している感覚。哲さんと居ると自分が親になった感覚になるけど、千雨と居ると私は子供になってしまう。
 千雨はやっぱり聞き上手だ。絶対にモテたに違いない。
「後はねぇ。あれ? もう全部言ったかな?」
「ふふふ。そう? 面白いからもっと聞きたいけど」
「えー? ないよ。ないない! 全部言った!」
「そっか。残念」
 千雨は立ち上がった。そして私に手を差し出す。
「じゃあ戻ろうか学校に。哲さん迎えに来るんだよね?」
「う……うん。夕方に……ね」
「そっか。じゃあ少しゆっくり歩こう」
 ほら行こう。と言われて私は千雨の手を取り、立ち上がった。
 繋いだ手から伝わる温度に神経が集中してしまう。じんわりと滲んでいる手汗は明らかに私のもので、そしてその汗はこの暑さから来るものではなかった。
 千雨は色々と話をしてくれたけど、私は一変して「あー」とか「うん」等の相槌しか打てず、ただただゆっくりと前に出す足を眺めていた。
 何で手を繋いでるんだろう?
 何で振りほどけないんだろう?
 いくら自分の心に聞いても答えは返って来ない。でも、こうして手を繋いで歩いている訳だから嫌ではないんだろう。自分の事なのにハッキリしないのは認めたくないからなのか。
 繋いだ手はゆらゆらと揺れて、私の足はゆっくりゆっくり土を踏みしめる。
 随分、喋って居たんだろう。いつの間にか空は赤みを差していてあれだけ容赦なかった太陽光線も威力を弱めていた。
 私は上げた視線を空に固定して何となく口を開いた。
「もうすぐ……お別れだね」
 自分でも何でこんな事を言っているのか分からない。ついて出た言葉だった。でも、気持ちと裏腹って訳でもなかった。
「うん。そうだね」
「これ終わったら答え出るんだよね?」
「出るかどうかは春乃次第だよ。でもちゃんと全部分かるから安心してよ」
「安心してって言うけど。結局、全部忘れちゃうんなら意味なくない?」
「あれ? 気付いた?」
「最初から気付いてたって! でも、別にいいかなって思ってたの。どうでも良かったから」
「そっかそっか。今はどうでも良くない?」
「もう……その言い方止めてよ。わかんないんだよ私も」
「そうだね。わからないよね。それで良いんだと思うよ?」
「どういう事?」
「安心してって事。僕を信じなさい」
「得体の知れない人間でもない何かを? 信じろって?」
「ははは! 確かに! その通りだ! やっぱり春乃と話していると楽しいなぁ!」
「はいはい。そーですか」
 少し大きめに揺られる手をされるがまま、私の溜め息は色も無く、その姿も無く果たして本当に吐いたのかわからなくなるくらい目の前の空気に混じった。
 どんどん赤みが増していく空を眺めて、相変わらずうるさいセミの声に耳を傾けながら、もしかしたらもう哲さん来てるかもな。なんて思ったけど、私はその歩く速度を早めたりはしなかった。
 もう少し、こうして居たかった。出来るだけ長く。
 何だろうこの気持ち。
 私は知っているはずなのに、見つからない。
 ただ、心の中に広がる温かさは心地よく、ずっと味わっていたかった。
 終わりがあるからそう思えるのかも知れない。
 ずっと、なんて無理だからそう願ってしまうのだろう。
 土を踏む二つの足音が揃う瞬間がある。その度に横目で盗んだ千雨の顔はとても優しい顔をしていたから、私は何度も見てしまった。



 学校に着くと、哲さんはやっぱり来ていて千雨とともに現れた私に散々文句を垂れながら、助手席に私を乗せて、千雨から伝えられた明日の来訪を承諾してさっさとその場を後にした。
「ねぇ哲さん」
「なんだ?」
「久しぶりの一人はどうだった?」
「気楽なもんだったな。一人も悪くねぇ」
 『も』って事は私と居る時も楽しいと言う事なのかな。とは聞かずに胸にしまって全開にした車窓から眺める真っ赤な世界に視線を投げた。
 空はまだ暮れるには時間がありそうだ。やっぱり哲さんは早めに来ていた。


 夜は最後の晩餐になるので、哲さんの好きなものを作る事にした。と言っても何でも良いなんてきっと言いだすので、質問を少し変える。
「哲さん。この世で一番好きな料理って何」
「ん? そりゃあお前……カレーか?」
「カレー? 本当に?」
「何だよおかしいか?」
「おかしくはないけど……ま、いっか」
 私はそのまま台所に戻る。今更、哲さんの子供じみた味覚に驚いても仕方がない。濃い味付けが大好きでラーメン、カレー、焼肉、唐揚げに喜ぶ。ホントに子供だな。
 私は冷蔵庫を開けて材料を確認する。
 余計に買った豚肉が一パック余っていたので良かった。ルーもあるし、玉ねぎも余っている。人参はあったけどジャガイモはない。けど、まぁいいだろう。これでもカレーは作れる。
 最後なのだからよりをかけて作ってあげたかったけど、何とも張り合いがない注文だ。極めようと思えば深い料理なんだろうけど、こんな材料も少ない男一人暮らしの家では凝りようがない。
 私は手際良くカレーを作り始めた。
「お? カレーか?」
 哲さんが台所に顔を出す。好物の匂いを嗅ぐと確認しに来るその習性も最後まで可愛いとは思えなかった。
「そう。カレー。もうすぐ出来るから」
「そうかそうか。だから聞いたんだな? 良かったな! 俺がカレー好きで!」
「いいから早く戻って待っててよ。野球始まる時間でしょ」
「おっとそうだ!」
 哲さんは冷蔵庫から缶ビールを取って戸棚にある専用のグラスと一緒に持って居間に戻る。ビール専用と言っても何の変哲もないガラスのコップなんだけど。ただちょっとだけ小さめだった。
 カレーを作り終えて、ご飯も炊き終わり私は付け合わせのサラダと共に食卓へ持って行く。
「おう! もう腹が減って仕方がねーや! おかわりあるよな?」
「食べる前からそれ聞く? あるわよ。安心して」
 一応、年も考えて量は少なめにしてあるが、こういう好物を出すと必ずおかわりをする。
 私も自分の分を持って座布団に座ると、哲さんは体の向きをちゃぶ台に戻して手を合わせる。
 これが食事の合図だった。
「いただきます」
 こうして食事が始まる。
 野球中継をチラチラ見て一喜一憂しながら美味い美味いとカレーを頬張る姿はそんなに嫌いじゃなかった。
 宣言通りのおかわりをする哲さんから皿を受け取ってさっきよりももう少し少なめのカレーライスをよそって渡す。哲さんはちゃんとそれも平らげた。
「いやー食った食った! ごちそうさまでした!」
「はい。おそまつさまでした」
 私は食器を片付ける。哲さんはまた野球に集中する。試合はもう後半になっていた。
 綺麗に食べられた食器は洗いやすい。哲さんは出されたものを残した事がなかった。そう言う所は好きだ。評価している。
 洗い終わって、麦茶を片手に居間へ戻ると試合は終わっていてテレビはバラエティ番組に変わっていた。哲さんはチビチビとビールを飲みながら変わらずテレビを見ている。私も座ってその番組を見る。知らないお笑い芸人がやたらとハイテンションで何かをしていたけど、テレビの向こう側とこちら側では全く空気が違っていた。
テレビから流れる笑い声よりも蝉の鳴き声が響く中で、私は哲さんと同じように黙って麦茶をチョビチョビと飲んだ。



 ――――……。



「お邪魔します」
 翌日の昼に千雨と葵は白川邸にやって来た。宣言通りだ。予定は滞り無く進んでいるのだろう。
 哲さんのかわりに私が玄関先まで出向き、二人を招き入れる。二人を居間に通すと、哲さんは胡座をかいたまま何も言わずに、ちゃぶ台に置いてある麦茶をグイッと飲み干した。
 千雨と葵はちゃぶ台を挟んで哲さんと向かい合い、私はその横に腰を下ろす。
「白川さん。今日は弁離士としての仕事をする為に来ました」
 千雨が口を開くと哲さんは目を瞑って頷いた。最初にここを訪れた際に弁離士がどういう仕事をしているのかを聞かされていたから何となく分かっていたのだろう。
「では、まずあなたの心の内をお聞かせ下さい。もはやこの世に未練はない。そうですか?」
「そうだ」
「では、もういつ死んでも良いと思っている。何なら今死んでも良いと思っている」
「いや……思っていない」
 哲さんが放った言葉に私は顔を上げる。哲さんの顔は真っ直ぐ私を見ていた。
「哲……さん?」
 哲さんは私を見たままゆっくり頷く。
「未練はない。だが、あんたらのせいで余計な心配事が出来ちまった。俺はこいつがちゃんと人生を全うしようと思うまで死んでも死にきれねぇ。と思っちまってる。全く……あんたらもう少し考えて仕事したほうが良いんじゃないか? 全て分かっているんならこうなる事も予想出来ただろうに」
 千雨は小さく頷くと微笑んだ。
「はい。分かっていました。ですからこれで仕事は成功です」
「あん? いってぇどういう事だ?」
 哲さんの問いに千雨は私に視線を送る。
「この子と過ごして、哲さんが気に入るのを分かっていました。春乃も哲さんもすごく純粋で似ていますからね。それに忘れかけていたものをお互いに取り戻せると思っていました。そして見事に哲さんは考えを改めた。規則正しい生活もしているし、昨日から禁煙してらっしゃいますよね?」
 私はようやく気付く。そう言えば昨日、哲さんが煙草を吸っている姿を見ていない。いつもなら車の中でも、食後でもプカプカと吸っているはずなのに。一度もその姿は見かけなかった。
「これで安心です」
 千雨は微笑んで私と哲さんへ交互に視線を送ると葵の肩を叩いた。
「良し。ようやく出番じゃの。あぁ良い良い。そこにおれ」
 葵は立ち上がりながら何もない方向に口を開く。そしてその何もない哲さんの横に腰を下ろすと、静かに手を伸ばした。

「ひ……なこ? 日奈子なのか?」

 葵が手を伸ばすと、哲さんの横に見慣れた顔の老婆が現れた。
「お久しぶりです。哲さん。本当にもうあなたって人は」
「日奈子……日奈子」
 哲さんは震えながら手を伸ばす。老婆はその手を葵と繋いでいない方の手で優しく取るとゆっくり頷いた。その顔はまるでひまわりのような笑顔で愛情に満ちていた。
「じゃあ、春乃。僕たちは席を外そうか」
「あ、う、うん」
 千雨と一緒に立ち上がって居間を後にする。
去り際に見た哲さんは見た事もないくらいに顔をクシャクシャにして泣いていた。
「全く……ほんとうに意地悪よね毎回」
 庭を抜けて門を出た所で私は目の前で大きく伸びをした千雨の背中に言葉をぶつけた。
「ふふふ。でも、おかげで安心しただろ?」
「まぁね。哲さんは死なないんでしょ? つまり今回の仕事は奥さんの方だったと」
「冴えて来たねー! その通りだよ。地縛霊と言うより残した旦那が心配で仕方なくていつの間にか居着いちゃってたって形だけどね。まぁ地縛霊か。それで旦那も旦那で自暴自棄になっているんだからいつまで経っても成仏出来やしない。だから心変わりさせる必要があったのさ」
 千雨は家を囲っている塀に背中を預けて私の方へ顔を向けた。
「それと、春乃の為にもね」
「私のため?」
「うん。なんとなく気付いてるんじゃないのかい? 自分の心の変化に」
「何よそれ……」
 そんな訳ないじゃない。と言い返せなかった。
 その通りだ。
 何がどう変わったのかもわからないし、この先の答えが出た訳じゃないんだけど、確実に何かが変わった。変わってしまった。
「ねぇ千雨」
「うん?」
「私。弁離士になれないかな?」
 千雨は反動を点けて塀から体を離す。そして私の真向かいに立った。
「なれないよ」
「何で?」
「自殺者はなれないよ」
「じゃあ寿命で死んだら?」
「残念だけどそれでもなれない」
「何でよ」
「弁離士になるには霊が見えないとダメなんだ。最低でもね」
「そっか。私は見えないから……」
 残念。まさに残念だ。何となくそれもいいかなと思った道はあっさりと絶たれてしまった。
「まぁいいじゃないか。なりたいものややりたい事を探す時間も沢山あるし。色々やって見ると良い」
「でも結局見つからなかったらどうするのよ」
「いいじゃないか別に。見つからないまま人生が終わったとしても空っぽだったなんて思わないよ僕は」
「言うのは簡単よね」
「そう。だから見つからないまま終わったとしても良いんだ。最初から難題なんだからね。チャレンジしただけ十分じゃないか。別にチャレンジしなくてもいいしさ。好きに生きれば良いんじゃないかな」
「やっぱり最終的には私を救おうとしてるのね。千雨は」
「当たり前だろ? だってその為に来たんだから」
「ようやく本音が出たわね」
 私が千雨を指差すと、肩をすくめて笑った。本当に憎めないし、掴めない人だ。
「おい。終わったぞい」
「あ、お疲れさま葵」
 私越しに手を振る千雨の視線を辿る。そのまま振り返るとそこには葵と哲さんの姿があった。
「今回の仕事はこれにて全て終了じゃ」
「うん。お疲れさまでした」
 千雨と葵は握手を交わした。私は玄関先に立っている哲さんと視線を合わせる。
「春乃。何かあったらいつでも来いよ。いや、時々顔出しやがれ。お前らにゃいくら尽くしても返しきれねぇ恩が出来ちまったからよ。事情は聞いたから千雨さんと葵さんの分までお前に返してやるからよ。わかったな」
「ほんと何言ってんの。中々来ないからって会いに来たりしないでよね!」
「んなっ! 行く訳ねーだろ! ばかやろう!」
「はいはーい! じゃあ、またね」
「おう。またな」
 私は哲さんと手を振り合って距離を遠ざけた。千雨も葵も何も言わず、振り返りもせずに歩いて行く。私は玄関先で大きく手を振る哲さんが見えなくなるまで何度も振り返り、手を振った。

 ――――またね。

 なんて悲しい言葉なんだろう。