サヨナラをいいにきたんだ。

「で、何であんた達は当たり前のようにエビチリ定食を食べてるわけ?」
 場所は雑居ビル近くにあった中華料理屋。狭い厨房をL字に囲むカウンターとテーブル席が四つしかない店内でテレビの野球中継の音と野菜を炒める音が混ざり合っている。
 客はまばらだけど、みんなカウンターで、テーブル席に座っているのは私たちだけ。もっと言えば女子は私と葵だけ。
 屋上での一悶着。あれから数十分――――。
 不思議な事に私とこの目の前で昼食をガツガツ食べている二人はあの屋上から移動してここに来ていた。
 もっと不思議なのは私の前に酢豚定食がある事だった。
 ……まぁ今日の計画は中止だし、奢ってくれるって言うし、お腹空いたし。うん、仕方がない。仕方がないんだ。仕方なく私はこいつらに命令されてここまで来て好きなものを頼むように命令されて酢豚定食を頼み、こうして半分程平らげていたのだ。
「だから言っただろ? 僕たちの存在は複雑なんだって。生きては居ないけどその実、ほとんど人間と変わらないんだ。お腹も空くし、生理現象もある。足もあれば何にでも触れられる。もちろん給料制だからお金も持っている」
「……それってホントに何なのよ」
「だから複雑なんだって」
 ほら、冷めちゃうよ。と千雨はレンゲを伸ばし私の酢豚を一口かすめ取ろうとするので、皿ごと持ち上げて抱えるようにして頬張ってやった。
「まったく。はしたないのう。うら若き乙女ともあろうものが。大和撫子は何処へ行った」
 葵のチクチク刺さるような言葉も無視。無視して私は酢豚と白米の奏でる緊張と緩和を口中に広げて、そのハーモニーに酔いしれた。一口目で気付いていたけれど多分、ここ穴場だ。
 食べ終わるまでその後は無言。まさかの発見に私たちが酔いしれ、店主が麺を湯に放り込んだ頃、ようやく沈黙を破ったのは千雨、ではなく葵だった。
「ふう。満腹じゃ。どうじゃ? 死ななくて良かったであろう? わしらが貴様の死にたくても死にきれず結局、死ななかったかも知れない状況を慈悲深き心で止めてくれたおかげでこの食事にありつけたのじゃぞ? どうせあのまま死ななくとも貴様がここに辿り着く事は生涯なかったじゃろうから。ここへこれたのは真にわしらのおかげと言えよう。小娘よ。貴様には嗅覚が足りないのじゃ嗅覚が」
 クンクンと嗅ぐ振りをしながら得意気にこちらを見ているが、さっきから口元にご飯粒が二つもついている。言うべきだろうか。いや、言わずに恥をかかせてやろうか。そのまま外に出れば良い。そしてすれ違う人全てにバカにされれば良い。でもこの容姿なら微笑ましく思えてしまうかも知れないな。何せ喋らなければホント笑顔が愛らしい女子中学生と言ったところだ。セーラー服に裸足でスニーカーと言うのが何とも夏らしく爽やかで全てが相まって健康的に見える。健全の見本で紹介されていそうなくらいに。
「葵。ご飯粒がついてるぞ」
 あ、言われちゃった。
 私がこれをどうやって活かそうかと悩んでいる隙に千雨が指摘してしまう。葵も葵で何の恥じらいも無く「おう? そうか」と口元のご飯粒を取ってパクッと食べてしまった。
 千雨はそれを見た後、葵の汚れた口元(私の切り札だった)をティッシュで拭ってあげていた。何と、面倒見が良い男なのだろうか。それら一部始終がごく自然に行われているおかげでこれが日常茶飯事なのだと私に悟らせた。
 何だか妙な気持ちだ。言葉では表せないが、あまり良い気分ではなかった。
「で、結局何なのよ? これで終わりでいいの?」
 私は二人に持て余していたレンゲを向けた。
「終わりな訳ないじゃろ」
「終わりじゃないよ」
 同時に返答される。まだ終わっていないらしい。
「じゃあ何よ? 後、何すんのよ」
「ほんとに貴様は口が悪いのぉ」
 お前に言われたくない。とは返さず、無言でレンゲは置いた。頬杖はついたまま。
「春乃さ。もし良かったら僕たちの仕事を手伝ってみないか?」
 千雨はもう私を呼び捨てだ。あ、そうだ。
「あのさ。あんた初めから私の名前知ってたよね?」
「もちろん。知ってるよ」
「当たり前のように言われると何だか聞きづらいんだけど……何で知ってるの?」
「おかしな事を言いよるの。わしらが助ける者を知らないとでも思ったか?」
「はぁ?」
 千雨に聞いたはずなのに葵が答える。しかもまた微妙に的を外した回答で。
 要は下調べはもう一通り終わっているって事なんだろう。この二人が調べたのか、それともその会社? なのかわからないけど、斡旋? なのかもわからないけどこの二人に仕事をさせている何かが調べたのか。どっちでも良いけど、私は結局何も教えられていないんじゃない事に今更気付いた。
「お断りします」
 手を腿に下ろして丁寧に頭を下げる。一応、奢ってもらったお礼も兼ねて。
「えー? まいったなぁ。どうしても?」
「どうしても。です」
 断る時は敬語で他人行儀な雰囲気を出す。いつの間にか染み付いていた癖だ。目の前で悲しそうな困ったような顔を浮かべる千雨は見ない。いまだに憎たらしい顔をしている葵を見て決心を揺らがせないようにした。
「なんじゃ。貴様、恐いのか?」
「は? 恐いって何でよ」
「出来る自信がないのじゃろう?」
「自信も何も。なんにも分からないんじゃ怖がりようもないじゃない。私は結局あんた太刀が何なのか全く知れていないわよ?」
「だからそれを恐れておると言っているのじゃ。よいか? 知らないから恐い。これは当たり前じゃ。じゃが、その一歩を踏み出せればそれは恐怖の対象ではなくなる。貴様は知らないものに飛び込んだ事があるか? 何かに挑戦した事があるか? 何でもやってみろとは言わん。でも、知らないものを知る事が出来る機会は逃すな。知るだけで良いんじゃ。知っているだけで何もかも違う。零と一の大きな違いじゃ。無と有の違いと言った方がわかりやすいか。ちなみにそこに何か期待するのも間違いじゃぞ。貴様にとってそれが何になるのかは誰にもわからんもんじゃからな」
「……要は、つべこべ言わずに手伝えって事でしょ?」
「お? ようやく栄養が脳に回ったか? 全く持ってその通りじゃ」
 カッカッカと高笑いする葵に最早、ムカつく気にもならない。昨日まではあんなにスムーズだったのに何でだろう。今日は本当に全てが上手くいかない。
 死にきれなかった自分に対しての勝手な劣等感が幕が下りてきたように襲ってきて、私は何だか全てが虚しくなってしまった。
 結局、私は何にもなれないのだ。生きる理由も見つからず、自分で死ぬ事も出来ず。生きていく理由がないのだから死んじゃえば良いんだ。なんて簡単な結論を導きだして、その挙げ句それを理由に生き生きとしてしまうといった矛盾からも目を背け……結果がこれ。
 私はそれをこの二人のせいにするほど愚かではない。現にあの時、そのまま直ぐに飛び降りていれば死ねた。私はここにいなかったのだ。葵の言う通りだ。どうせ私は死ねなかったのだ。
 でも、もう決めたのだ。私は死ぬ。と。
 そうやって今日まで準備してきたのだ。現状を無視して言わせてもらえば、私の気持ちは何一つ変わっていない。私は死ぬ。
「ごめん。美味しいご飯を奢ってもらって悪いんだけど。やっぱり無理。私は死にたいし。今日はもう諦めるけど結局明日は飛び降りていると思うから。今日は助けてくれてありがと。最後に食べたご飯がこれで良かった」
 自分なりの本音を丁寧な言葉で並べた。気持ちは少しだけ嬉しかったような気もするから。
「よし! わかった!」
 千雨は急に机を叩いて立ち上がった。その笑顔は優しさに満ちていた。
「春乃。一回だけ。一回だけ付き合ってくれ。そしたら自分で答えを出せば良い。出さなくても良い。とにかく一回だけ。死ぬ前に。最後に一人だけ人を救うのも悪くはないだろ?」
 と言っても君は最初から自由だから、これは単なるお願いになるんだけど。と付け足して千雨は静かに座り直す。それでも視線はずっと私に向けたまま外そうともしない。
「まぁ。それも良い選択かも知れんぞ? 死ぬ前に誰かの役に立てたらそれこそ心置きなく死ねるかも知れんしな」
 葵の言葉に何となく納得してしまう。私が役に立てるのならそれもアリかも知れない。スッキリしたら気持ち良く死ねるような気もするし。別に心残りなんか何もなかったけど、折角、知り合いもいなかった私の人生に土壇場で関わってしまったこの不思議な二人は、それがたった数時間であったとしてもやっぱり大きい。実際、こんな風に誰かと外食をするなんて初めてだったから。友人でも知り合いでもないのに、何故だか不思議な縁を感じてしまって、それこそが心残りになってしまいそうだ。なかったはずの心残りに……
「……うん。わかった一回だけ」
 私は、決めた。それを承諾した。諦めたように、溜め息をつきながら頷いた。
「やったー! しばらくよろしくね春乃!」
「小娘。貴様には社会の厳しさをたっぷり教えてやるからの」
 まるでアメとムチのような二人は言葉は違えど、顔は喜びに満ちていた。
「言っておくけどほんとに一回だけよ。それ終わったらもうお終い。私たちはもう無関係。いいわね?」
 二人はうんうんと頷く。釘を刺しても表情は変わらなかった。変えたかったのに。
 そんな顔はしないで欲しい。誰かに喜ばれるのは慣れていない。
 私はそのまま店を出る。ちゃんと店主にごちそうさまを伝えて。店主も無愛想ながら頷き、またおいで。なんて言って来る。話を聞かれていたのかな。
 私は引き戸を開けた時に、カウンターの客が食べている物を見てようやくさっきから店主が作っていた物がタンメンだったと知った。
 会計を済ませて後ろから走って追いかけてきた千雨は私を近くの公園へと連れて行く。
 団地に囲まれたその公園は、それなりのスペースを色んな遊具で埋めている。
 等間隔で端に並べられた木製のベンチには読書をしている人や、遊ぶ子供を時々見ながら会話している親同士なんかが座っていて、散歩をしている夫婦なんかがいたりと、賑やかさはそれほどないが、寂しさは全く存在していなかった。
「で。私は何をすれば良いの?」
 私は公園の隅にある、使用方法の分からないすり鉢状をした遊具の縁に腰掛けてベンチに座る千雨達と向かい合う。
「うん。それは協力してもらいながら、その都度、説明していくよ」
「なにそのサプライズ感。別に楽しもうなんてちっとも思ってないから早くネタバレしてよ」
 まいったな。と千雨は苦笑いして頬を掻いた。でも、どうやら話す気もなさそうだ。
 この男は何とも分かりやすい。出会った中で一番だ。声のトーンや表情、目元や目線の動きなんかでどういう気持ちなのか何となくわかる。きっとお人好しで嘘がつけないタイプなんだろう。
「千雨。そろそろじゃぞ」
 葵の表情が変わる。笑顔が消えると急にどこか大人びて見えた。千雨も一気に雰囲気が変わって何だかキリッとしてしまう。あのほんわかした昼行灯達は一言で私の目の前から去ってしまったみたいだ。
「春乃。ここから君に協力してもらう」
 千雨は座ったまま私の目を見据えて、立てた親指を向かって右側に向けた。
「もうすぐ……あそこで散歩をしている夫婦」
 私は一瞬だけなるべく顔を動かさないようにして目線を右に向けてまた千雨に戻した。
 親指が向かっていた先には、幸せそうに微笑みを浮かべて歩いている新婚オーラ全開な夫婦が居た。
「あの夫の方が倒れる」
「は?」
 と、私が間の抜けた声を出すのと同時に悲鳴が公園中に響き渡った。ビクッと体が反応して、思わず私は振り向いてしまった。
 千雨との会話は途中だったけど、「は?」の後に「何言ってんの?」と言うつもりだったけど、もうその必要はなかった。
 振り向いた先には、さっきの夫婦が居た。
 ただ、妻の方は悲痛な声を上げながら膝をつき、夫はその手に揺すられながら地面に転がっていた。
「春乃! 救急車を呼んでくれ!」
 千雨は私にそう言って、その夫婦の元へと走りだす。
「ちょっと! 私携帯持ってないって!」
「うそ! じゃ、じゃあとにかく一緒に来てくれ!」
 一瞬立ち止まって振り返った千雨は私を手招くと、また走り出した。
「行くぞ小娘!」
「わわ!」
 葵に腕を引かれて私はよろけながら、スタートを切る。小柄な体のくせにすごい力だった。
 公園中の視線がいまだ悲痛な叫びを上げている妻の元へと集中しているが、誰もそばには寄って来ない。むしろ突然の出来事に体が固まっているようにも見えた。みんな時が止まったように動きを止めてただ視線だけを集めている中、私と葵が夫婦の元へと辿り着く。
「春乃! 奥さんを頼む!」
 千雨は振り向きもせず、私にそう言うが「頼む」と言われてもどうしたら良いか分からない。
「葵! 誰かに救急車を呼んでもらってくれ!」
「承知した!」
 葵は風のように去ってしまう。私はただその場に立ち尽くしながら目や手のやり場に困ってオロオロとしている事しか出来ない。
「奥さん! 動かしちゃダメだ!」
 千雨は夫から妻を引きはがす。妻の方はすっかり気が動転していて、引きはがしても倒れたまま何の反応もない夫に縋り付こうとしていた。
「春乃!」
「は、はい!」
 私は千雨の声と一瞬だけ向けられた視線で動き出す。今の光景を見てようやく理解出来た。
 もう一度引きはがされた妻を私は膝をついて抱きしめる。物凄い力でまた縋り付こうとするが、私も全力でそれを押さえ込んだ。
「動かしちゃダメです! 落ち着いて下さい! 旦那さんが死んでも良いんですか!」
 ありきたりな言葉が口から出て行く。別に上手い事を言おうとも思わない、と言うか考えられる状況じゃないのだけど。
 それでも私の言葉で妻の力は方向を変えた。力は依然、強力なまま。夫の方へは向かずに私の腕を掴む手に集中していた。
「大丈夫です。すぐに救急車が来ますから。大丈夫です」
 私はグッと抱きしめる力を強めた。根拠のない「大丈夫」が果たして嘘なのか本当なのかわからないまま無責任に何度も何度も呟いて、何かを確かめている千雨を見つめていた。
 救急車のサイレンが聞こえ始めたのはそれから数分後の事。思ったより早く来てくれた。
 そして担架で夫が運び込まれる頃には周りにいた人達もみんな集まっていて、少しだけ騒がしくなっていた。
 千雨が救急隊員と何かを話している中、私はゆっくりと妻を立ち上がらせて救急車の中へと乗り込ませる。力なく座った妻が私に頭を下げて、何とも言えない気持ちになった。
 それに会釈を返して救急車を後にすると、すれ違いで救急隊員が乗り込み、サイレンはあっという間に遠ざかって行った。それを見送って自然に散って行く人達の中、私たちだけがそこに止まる。千雨と葵はまっすぐ私を見ていた。そして私も見つめ返す。
 救急車が来るまでの間、ずっとかけ続けた「大丈夫」はサイレンが聞こえて来る頃には立派な嘘に変わっていた。結局は他人である私は自分でも嫌になるくらいの速度で冷静さを取り戻し、頭の中が勝手に整理された。そして答えが出てしまった。
「あの人。死ぬんでしょ?」
 千雨は小さく頷いた。視線は外さないまま。
 私はずっとあの人に嘘を言い続けていた。
 私は安請け合いしてしまった事を少し、後悔した――――。



「――――しかし。高校生にもなって携帯電話も持っていないとはなぁ」
 私たちは誰とも無くさっきの場所へ戻り、ベンチに座った途端に葵が私を見て溜め息をついた。
「別にいいでしょ。必要ないんだから」
 遊具の縁に腰掛けて私は葵を睨みつけた。
 そう。私には携帯電話なんて必要ない。かける相手もいないのに持つ必要があるのだろうか。もし、仮に持ってしまったら私はそれを作る為に悩みかねない。電話を持ってしまったが為にかける相手を作らなきゃならないなんてもう訳が分からないじゃないか。
「友達……おらんのか」
 葵は哀れんだ目を向けてきた。それも的をズレている感情だ。
 私は決して哀れではない。友達がいるほうが楽しいなんて感情は最初から持ち合わせていないのだ。もちろん、幼い頃は友達と呼べそうな者も居たけれど今はそんなもの必要ない。むしろ私は人に関わられるのが嫌だった。だから拒み続けた。
「春乃は、もしかして一人が好きだったりする?」
「まぁね」
 千雨は良く分からない表情で頷いた。嬉しそうに、悲しそうに。
「では、貴様は今までどうやって過ごしてきたのじゃ? 学校には行事が沢山あろう? 例えば修学旅行とかじゃ」
「そんなの別に。一応、行ったけど余り物を集めた班だったからほとんど単独行動よ。全体行動以外は全部一人で回ったわ」
「なんとなく想像つくよ。それで宿舎では誰もいないロビーで座っていたりしたんじゃないかな。部屋にも戻らずに」
「ま、まぁそうだけど」
 ズバリ正解だった。私は修学旅行先である京都に着いた瞬間、ホームシックにかかっていた。それもあんまりな話だが、なんだか着いた瞬間に全てが嫌になってしまったのだ。初めて来た場所なのに京都に対して何も期待出来なかった。本当に一人で帰ってやろうかと悩みながら流されるように行動して宿舎へと戻る頃にはその感情もピークに達していて、私はお風呂から上がると一人、部屋に戻らず薄暗い誰も来ないようなロビーで椅子に座りながらぼーっと暗闇を見つめていた。
「いたよねー。そういう子。そんな子に限って春乃みたいに可愛かったりするんだよな。だからついつい男子はチャンスとばかりに声かけちゃうんだ」
 私は何も答えない。確かに何人かの男子に話しかけられたけど、それを認めてしまったら自分が可愛いと認めるみたいで嫌だった。
「可愛い子って何でか知らないけど気付いたら一人でいるし、しかもそれが様になっちゃうからズルいよな。どうしても目が離せなくなる。僕も話しかけに行ったなぁ」
「……あんた。修学旅行行ったの?」
「当たり前じゃないか。言っただろ元人間だって」
「そうじゃ。ちなみにワシは行った事ないがの」
「何だか妙な感じね。つまりは一度死んでいるのね?」
「うん。そうだね。それに近い感じ」
「近いって……じゃあ生前の知り合いに会ったりしたらどうするのよ? それこそパニックにならない?」
 千雨は私の質問に寂しそうに笑うと一呼吸分の間を置いて口を開いた。
「弁離士になるとね。関わった人達の記憶から消えてしまうんだよ」
「つまりは存在していなかった事になるんじゃ。故に死んでいない。生まれていないのじゃからな、死ねる訳がない。だからワシらは幽霊でもないのじゃ。ちなみにワシは弁離人になってもう百年近くになるから生前の知り合いなんぞ会う事もないがの」
 また、ややこしい話が出てきてしまった。千雨の言う通り、少し複雑な存在だと言うのがだんだん掴めて来たけど、逆に難しくも感じた。生きていないから死んでいない。死んでいないから幽霊じゃない。でも、元々人間であって確かに生きていたのは事実。しかしその事実は事象として起こらなかった事になっている。
 ……良く分からない。
「まぁまぁ。そんなに大した話じゃないから深く考えないでよ。要は弁離士になった瞬間に初めてこの世に存在した事になるんだ。生まれたっていったほうが分かりやすいか。まぁ書きかえられたんだよ。生まれ変わったんじゃなくて書き変えられた。そんな感じ」
 千雨はフォローするように噛み砕いて説明してくれるけど、やはり雲を掴むような感覚で漠然としか理解出来ない。彼はそれで良いと言っているんだろうけど、私の性格上、それではあまり納得出来なかった。
「まぁよい。それよりもここからじゃぞ。弁離士の仕事はの」
「わかってるわよ……」
 私は、と言うより私たちはまだ何もしていない。弁を以て離を成す。と言う弁離士の仕事はこの世と死者を切り離すのだから、恐らく死んでからかもしくは死ぬ直前に行動するのだろう。
 と思っていたら概ね当たっていた。
 このままいけばあの男性は一週間後に息を引き取るらしい。私たちが助けに行かなければ、あの場で死んでいたそうなんだけれど。まぁ確かにあんな幸せの絶頂に居ますといった雰囲気のままいきなり死んでしまったら未練も残ってしまうんだろうけど、だからと言ってたった一週間生きながらえた所で何が変わると言うのだ。結局、その死ぬ運命が変えられないのなら結果として同じじゃないか。
 と言う私に葵はまたバカにしたような目を向けて回りくどく説明した。
 これは要約すると、あの男性はもうすぐ意識が回復するらしい。ただ、もう手遅れというのは検査で分かっていて余命も僅か。それでも容態が急変して死期は予想以上に早まった形で死ぬらしいんだけど、男性はちゃんと自分の死期を悟っていて最後の手紙を残すみたい。
 でも、どうやらそれだけじゃダメらしい。
 聞いた感じではちゃんと死ぬ準備も出来ているから余計な未練を引きずらずに済んでいると思うんだけど。
「時が来ればわかる」
 葵はそう言うだけで、千雨もそれ以上は何も教えてくれない。とにかく、後は時が来るまでに予定が狂わないかチェックをしていれば良いそうだ。本当に謎が多い仕事だこと。
「この世の都合に合わせて死期をずらすだなんてまるで神様。と言うよりむしろ死神みたいね」
「うん。確かに近いかも知れない」
 千雨は笑っていた。
「でも、弁離士がその場を離れて一定の時間が経てば関わった人の記憶から存在が消えてしまうんだよ」
「何それ。じゃあ今ここで私が全力で逃げればあなた達の事忘れるってわけ?」
「うん。そうなるね」
「まぁワシらが追わなければ。じゃがの」
 と言う事は……この一件が終われば私は結局、弁離士の仕事を手伝った事を忘れてしまうのではないか。これって意味あるのかな。なんて考えながら私はそれ以上の追求は止めておいた。
 忘れられるなら、その方が自分にとって好都合だからだ。
 公園はいつの間にか、夕陽が包み始めていて私たちの話す内容は今日の夜を明かす場所という一転してえらく現実じみた内容へと変わった。
 私は死のうとしていたのでもちろん、借りていた部屋も全て引き払っていた。まさか生きながらえるなんて夢にも思わなかったから。
 よって私はこの二人が今回の根城にしているという廃ビルで夜を明かす事になる。それはどうやら私がこうして話を切り出す前、もっと言えばこの町に来た時から想定していたらしく、既に準備は万端との事だった。結局、私もこの世の都合に合わせて死期を変えられているだけなのかも知れないな。と思ったけど、それも口にするのは止めておいた。
私たちが公園を後にする頃にはもう太陽もほとんど沈みかけていて、視界の果てには夜の群青と夕方のオレンジによる境目が見えていた。それはハッキリと分かるのに境界線は曖昧で、それを見て私は不意にこの目の前を歩いている二人の存在のようだと思った。曖昧だけど確かに存在している不確かなもの。弁を以て離を成す者、弁離士とは常に何かの間に居てそれを隔てなくてはいけない。だからきっと色々曖昧なんだと感じた。
 単純ではない。複雑なんだ。ハッキリとした答えなんかあるのかも分からない。深く考える必要はないと言った千雨の言葉に従う事にした。きっと生きてるうちに辿り着けそうもない。
 そんな時間もないし。
「春乃。そんなに離れて歩いてないで隣へおいでよ」
「いーよ。ここで」
 振り返る千雨から目を逸らす。千雨は少し呆れたように笑うと前へ向き直った。
 二人の二歩後ろ。私はその距離を保つように歩調を合わせて少しだけ活気を帯びた街並を眺めながら歩いた。
 途中で寄ったコンビニで晩ご飯を買う事にした。小腹が減っている程度なので、おにぎりを二個とお茶を買う。の前に、お金を下ろす。こういう作業がいちいち生きながらえてしまった事を思い出させてくれた。
「ほう。それなりの額が入っておるではないか」
「葵……あんた。人がお金を下ろしている所を覗くなんて常識がないにも程があるわよ」
「ん? パスワードを打っているときは視線を外したぞ?」
「だからって……いや、もういいわ」
 取り敢えず一週間は生きなくてはいけないのでその分くらいは下ろしておいた。手数料が気になるのではなく、何度も再確認したくないからである。生きてる実感をお金を下ろす事で味わえるとは思わなかった。
 根城である廃ビルにはそれから十分程で着いて、私は案内されるまま階段を三階まで上がって元々何かの事務所だったであろう雰囲気を醸し出した部屋に通される。廃ビルと言ってもボロボロな訳ではなく、それなりに物も残っていて電気まで着くから驚きだった。
「えっと、ここは何かの事務所だったのかな?」
 とりあえず入り口前に置いてあるテーブルに買い物袋を置いて中を見回す。テーブルを挟むように置いてある大きめのソファー。高級そうな革張りで少し年期が入っていた。奥にある窓に背を向けるように置いてある事務机と椅子。壁に向かって四つ程、同じようなものが置いてあった。
「事務所だったんじゃがの。もう使われておらん」
 葵はソファーに飛び込んで無邪気な笑顔を向けた。私も真向かいに腰を下ろすと、千雨もやっぱり葵をどかしてソファーに座る。少し広めの部屋の一カ所に固まると余計に広く感じた。
「物とか置いてあるけど。これは?」
「夜逃げ同然だったみたいだね。必要なものだけ持って逃げ出したというか」
「……あんた達が」
「違う違う! 僕たちは人を追い込んだりしないよ! こことは何も関係ない。たまたま都合が良かったから間借りしているだけさ」
「ふーん」
「貴様。信じておらんな?」
「単純な話じゃなさそうだからね」
 私の嫌味に千雨は苦笑いで頬を掻いていた。葵の吐き捨てた「全く可愛げが無い小娘じゃ」は無視してお茶を飲む。あんまり落ち着かない。寒くもなければ暑くもないし、うるさくもなければ静かでもない。全くバランスの取れた殺風景がひどく不自然だった。
 夜が更けると、千雨は別のフロアに移って私は葵と二人きり、ソファーにタオルケットというえらくハードボイルドな形で寝る形となる。まるで映画に出て来る探偵みたいで少し、可笑しかったがここで笑うと葵に突つかれそうなのでそれを押し殺した。
 それから私の弁離士手伝いとしての日々が始まった。
 と言ってもやる事はほとんどないと言っても過言ではない。毎日、病院まで様子を伺いに行くだけだ。千雨と二人で。
 葵は何やら準備をするとかで、あの夜以後は根城にも姿を現さなくなった。となると私はあの広い部屋で一人、夜を明かすのかと少し不満を持ったのも束の間、当たり前のように目の前のソファーで横になる千雨を見てそれ以上の不満を持った。
「千雨もしかして。そこで寝る気?」
「ん? そうだけど。あ、こっちが良かった?」
 こっちに向き直る千雨には私の言いたい事が伝わっていないようだ。大体、同じソファーなのだからどっちが良いもないだろう。
 どうやらハッキリ言わなきゃいけないらしい。
「そうじゃなくて。あんたは年頃の娘と同じ部屋で寝るって事がどれだけ重大な事かわかってるの?」
「え? あぁそういう意味か。でも、そんな事言われても……一人にするのはちょっと心配だしなぁ。あ、葵とは良く同じ所で寝るけど全然平気だよ」
「あいつは年頃じゃない」
「そ、そうだね」
 葵は見た目中学生の中身がご老人なので『年頃』から若干外れる。私調べだから例外もあるけど。でも、なんかそれはそれで嫌だな。
「とにかく。変な事したらただじゃ済まないから。わかった?」
「しないよ。する訳がない。僕はそんな奴じゃないから安心してよ。でも、やけに警戒するね? もしかして……そ、そういうなんか経験があったり……」
「ねーよ! 気持ち悪い事言うな! 変態親父!」
 もー気持ち悪い! 変な想像をさせないでくれ! あるわけないだろそんな経験!
 それどころか手だって繋いだ事ないわ! 性別問わずね!
「もー喋らないで。黙って寝て。近づかないで。良い? 絶対よ! 絶対!」
「ははは! わかったよ。じゃあおやすみ」
 千雨は嬉しそうに笑うと寝返りをうって私に背中を向けた。私は電気を消してソファーに腰を下ろし、千雨が寝ている方向の暗闇を見つめた。。
 本当に良く分からない性格をしている男だ。今日ずっと一緒に居たけど、何だかどうでも良い事を聞いてくるし、無視しても全然応えない。私より子供っぽい雰囲気あるのに私の方が子供に感じてしまう。この差は何なんだろう。こいつの人生経験が豊富すぎるのだろうか。
「春乃。寝た?」
「話しかけんな! 寝た!」
 くっくっく。と暗闇に笑い声が漏れる。私が言いたいのはこういう事。
 姿は見えないけど楽しそうなのは漏れる声でわかった。私は溜め息をついてソファーの背に顔を向ける。行った事がある修学旅行よりも修学旅行みたいだなって思ったら私も少し笑けてしまった。
 翌朝、私はまた千雨と共に病院へと向かう。
 状況視察をしているうちに男性の名前は「木下純平(きのしたじゅんぺい)」妻は「木下葉子(きのしたようこ)」と言う名前だと言う事がわかった。千雨は最初から知っていたようだったけど教えてくれなかった。まだまだ色々知っている雰囲気なのに彼らの情報は何一つ教えてくれない。それで手伝えと言うのはムシが良過ぎる。なんて思う気持ちはもうなかった。
 これが「諦め」というやつなんだろう。元々、期待なんてこれぽっちもしていなかったからそのタイミングは自ずと早く訪れた。
「良し。今日も大丈夫そうだな」
 病院の廊下に備え付けてある椅子に座って木下葉子が通り過ぎるのを見届けると千雨は大きく伸びをして立ち上がった。この状況視察は全く複雑さが無く、木下葉子の行き帰りを見届けるのと、二時間置きくらいに病室の様子を伺いに行くのみ。後は何もしない。と言うより、何もしてはいけないらしい。
「春乃。何飲む?」
「……ミルクティー」
 千雨は「了解」と笑って少し離れた場所にある自販機へと向かった。
 別にお金がない訳じゃないんだけど、千雨は私に余計なお金を払わせようとはしなかった。私が勝手に何かを買う分には干渉しないのに、こうした弁離士の仕事に付き合っているときだったり、ファミレスなんかに食事しに行くと絶対に払わせない。いい加減、私も何も言わなくなったけどやっぱりそれを当たり前のようには振る舞えず、遠慮がちに物を頼んでいる。頼まなくても余計な物を買ってきてしまうのだからこれが精一杯の行動だ。それに千雨はいつだって楽しそうだから良しとする。さながらデート気分なのかも知れない。
 これが、デートなら私はやっぱり彼氏なんていらないけど。
「お待たせ。はいミルクティー」
「うん……ありがと」
 受け取ったミルクティーの甘みが口いっぱいに広がると、私は少し心の角が削られた気分になる。昔から紅茶味というのが好物で、昔は紅茶味の新商品を見かけたらしょっちゅう買い食いしていた。
「春乃は紅茶好きだよね」
「そうだね」
「僕も結構好きだよ」
「その割にはあんたいつもブラックコーヒーじゃない」
「これはね。一息入れるための道具みたいなもんなんだ。ここぞって時にはいつだって紅茶味だよ」
 全くおかしな事を言うな。と思いながら缶に口をつける。
 ここぞって言う時とは一体どんな時だろうか。
「例えばほら。何かの記念日とか誕生日とかさ」
「あー。そういう事。クリスマスとか?」
「そうそう! 良い事があった時や、良い日にしたい時はいっつもそうだったね」
「へー」
 つまり、今はただの休憩と言う訳だな。まぁ確かに目の前を通り過ぎる様々な人間を流し見ながらボーッとしているだけなんだから、特別でもなんでもないんだろうけど。
 口に広がる甘ったるさに慣れてきた頃、缶が空になった。
「はい。捨ててくるよ」
「……ん。ありがと」
 千雨は嬉しそうに缶を受け取って自販機横のゴミ箱へと向かった。その背中を眺めながら私は溜め息をついた。
 やっぱり、彼氏はいらないな。



 その後も状況視察は滞り無く終わり、ようやく葵が帰ってくる。
「待たせたの」
 葵は何処で何をしていたのか、体全体から「漲っています!」というオーラがほとばしっていた。
「葵。それじゃ予定通り明日決行しよう」
「うむ」
 明日。それは木下純平が死ぬ日。
 二人の顔つきを見る限り、いよいよ本番らしい事が嫌でも分かってしまう。
 この殺風景な事務所の中に何か重苦しい物が蔓延している気がした。二人の笑顔も消えていて、どこか覚悟めいたものを感じる。
「春乃。ここからが弁離士の本領発揮だ。明日、春乃には」

 ――――木下純平に死を告げてもらう。



 ――――……。


 
 翌朝。
 気まずい程の晴天に私は目を細めて今日と言う日が来てしまった事を恨む。
 千雨の指示に猛反発したけど、全く受け入れてもらえず葵にまで諭されてしまった。
 私は結局、一睡も出来ないままこうして朝を迎えている。横でスヤスヤと可愛い寝顔を無防備に晒している葵の神経が今だけはとても羨ましかった。
 昨晩、何故、私にそんな重要な任務をさせるのかとさんざん問いつめたが、答えはまるでな納得のいかないものだった。
 どうやら弁離士にもランクがあるらしく、このツーマンセルも上司と部下って関係らしい。驚くべき事に上司は葵の方だったけど。それで、本来なら死を告げるのは部下の仕事なんだけど、これが千雨の大、大、大の苦手な分野らしく葵曰く素人である私が行った方がまだマシなんだそう。それでも、職務怠慢だ。とか、そんなんだから昇進出来ないんだ。とか、自分で選んだ仕事なんだから責任もってやれ。とかさんざん喚き散らしたけど役割分担は変わらず、私がそれを行い、千雨はサポートに回るといった形に収まってしまった。
 私が折れたのは、葵の豹変した上司っぷりに逆らえなかったってのもあったけど、終始気まずそうな顔を浮かべる千雨があまりに不憫だと感じてしまったのが大きかった。
「おはよう。眠れたかい?」
「寝れる訳ないでしょ」
 部屋へ入ってきた千雨からプイッと顔を背ける。別に納得した訳じゃないのだからこれくらいの仕打ちは当然だ。
「そうか……そうだよね」
 千雨はそれ以上、何も言わず葵に呼びかけて目を覚まさせると、目をゴシゴシさせて気怠そうに起きる少女の頭にポンと手を置き、高らかに叫んだ。
「良し! 朝食だ!」
 朝食と言っても時間はもう十時を回っていた。これをブランチと言う事くらいは知っている。そして私たちのそれは、あの日に行った中華料理屋で行われる事になった。
「ねぇ千雨。ここぞって時には紅茶味なんじゃないの?」
「ん? そうだけど?」
 千雨の目の前には回鍋肉定食が鎮座していらっしゃる。それを豪快に頬張ると恍惚の表情を浮かべて、また頬張るを繰り返した。そして二口目を飲み込み、口を開く。
「今日の終わりに食べようよ。紅茶のシフォンケーキ。美味しい店はもうリサーチ済みだからさ」
「あー……そうね。それはいいね」
 無事に終わればそれも良いのだろうが、私の心はそれくらいじゃもう踊らない。自暴自棄になって頼んだ餃子定食を眺めながら溜め息をつく事しかできなかった。
 これからとんでもない事を『告げる』仕事をするのに……何で、これ頼んじゃったんだろう。
「あ、食べないならちょーだ……」
「ダメに決まってんでしょ!」
 あっ。食べちゃった。
 と思ったのと同時に口中に広がった肉汁と野菜、ニンニクのハーモニー。
 途端に体中から何かが漲ってくる。
 これを知ってしまったらもう遅い。
 私はいまだに宝(ぎょうざ)を狙う千雨を警戒しながら、とにかく餃子と白米を口に放り込んだ。物凄く険しい表情で食事をしていたらしく、葵に笑われていたが私の心はそんなの気にならないくらい餃子に奪われていた。
 なんだかんだしっかり食べ終えてご満悦。私はお腹を擦りながらお店を後にした。
 お会計はもちろん千雨持ち。店を出る時に店主が「行ってらっしゃい」なんて言うもんだから、体中を走る餃子パワーと相まって少しだけやる気が出てしまう。
 こうなったらとにかくやって見るしかない。失敗しても別に関係ない。そう思う事にした。
 無責任かも知れないけど、他人の死に関わるのがどれだけの重みになるのかがわかった今、こうでも思わないと直ぐにでも逃げ出して先に死んでしまいたい気分なんだ。
「小娘よ。あまり深く考えるなよ。貴様の悪い癖じゃ。よいか? こういう時はな」
「深呼吸。して、頭を空っぽに。でしょ? あんた昨日から何回同じ事言うのよ」
「……わかっておるのならよい」
 最早、そんな気休めが通じるような局面じゃない。もう直ぐそこまで迫っているのだ。死神じみた行為に及ばなくてはならない現実が。弁離士の手伝いとしての本番が。
 病院に向かって歩いたのだから、時間はそれなりに経ったのだから当たり前なんだけど、私たちは着いてしまった。人の命が終わる瞬間が刻一刻と近づいている。
 どうせ何をしても、何をしなくても死ぬんだ。死んでしまうんだ。
 そう心の中で言い聞かせながら私は病院の中に足を踏み入れる。
 中は視察の時と雰囲気が全く変わらない。働いている人もここで治療を受けている人もいつもと変わらぬ病院の風景になっていた。
 こういった状況に巻き込まれた私は改めて考えていた。歩みを止めずに、それでもいつも以上にすれ違う人や座って何かを待っている人、それらを見回しながら私は当たり前の事を再確認する。
 ここは人が治る場所でもありながら、人が死ぬ場所でもあるのだ。
 ここに来る人の何人がそれを意識しているのだろう。まさか自分が死ぬわけないだろうと高をくくるどころか、考えもしていないんじゃないか。
 そりゃ日常の一部みたいなものかも知れないけど、診察に来ると言う事はそれだけで死の確率が上がっているんだ。少しだけ非日常に近づく場所でもあるのだ。
 もうすぐ私はここで一人の男性にそれを伝える。あなたはもうすぐ死ぬのだと、医者でも言えないような事をつい先日死のうとした女子高生が言うのだ。
 それこそ非日常だと思う。
「……ここね」
 私は部屋の前で足を止める。そっと顔を半分覗かせて中を伺うと、一番奥のベッドに木下純平の姿が見えた。半身を起こしてずっと窓の外を眺めている。一体何を見ているのだろうか。
「春乃。大丈夫。僕たちがついているから安心して。君の言葉で伝えるんだ」
 千雨は私の両肩を強めに握った。ジトッと感じた体温が何だか不思議で仕方がない。この人達は生きている訳でもないのに、温度がある、影も形もある。本当に不思議な存在だ。なんてこんな時にすら考えてしまう自分が冷静なのかもわからない。
「小娘。そんな期待もしとらんから、好きにやれば良い。どうなろうとワシが何とかする。それにどうなろうと、どうにでもなるものじゃから。この千雨ですらそうしてきたのだからな」
「わぁ!」
 パシンと背中を叩かれて、指先まで軽い電気が走ったような感覚とともに私は病室の中へよろけながら足を踏み入れた。
 二、三歩進んだ所で顔を上げると、中の病人全員が私を見ているのが分かった。木下純平も振り返って私の方に顔を向けている。
「あ、その……どうも」
 目が合ってしまい、私が彼に会釈をすると同じように会釈が返ってくる。他の病人はそのやり取りを見て、私が木下純平のお見舞いに来たのだと思ったのか興味を無くしたように視線を外して、また自分の世界へと戻って行った。
 私は背筋を伸ばし、必死に口角を上げて少しずつ木下純平に歩み寄る。彼はまだ私が誰なのか分からないようで(当たり前なのだが)少し首を傾げながら私の目をジッと見つめていた。
 数十秒かけてベッドの横に立つと、私は努めて明るく自己紹介をする。
「あ、あの……木下純平さんですよね? あの、私、あの、あなたが公園で倒れた時、側に居て、あの奥さんとあなたを救急車に乗せて……あ、いや恩着せがましい言い方になっちゃいましたけど、違くて、あ、申し遅れました。私、朝倉春乃と申します。それで、その……あの」
 随分と「あの」が多いなと自分で思った。それでも「あの」は止まらずにポンポンと飛び出してしまう。手の平にジワリとかいた汗を擦りながら私は散々シュミレーションした内容がすっかり飛んでしまったので浮かんだ言葉をただ吐き出すだけの機械になっていた。
「あ……妻から聞いています。その節は……どうも。おかげで助かりました」
「あ、いえいえ。ご無事で何よりです」
 どうやら私が何者か合点が言ったらしく、しどろもどろな自己紹介を遮って木下純平は頭を下げて来た。私も慌てて頭を下げ返す。
 どうやら奥さんから事の経緯を細かく聞いていたらしく、木下純平は私が招き入れて簡単に説明しただけで千雨の事も葵の事も理解してくれた。
 私たちの関係は兄弟と言う事にしておいた。それが見た目で一番無理がない設定だった。
 気になって、お見舞いに来たと言う理由だけで、細かい事は追求せず、突然の来訪にも快く受け入れてくれた木下純平は人が良いのだろう。
「あ、あの。何を見てらしたんですか?」
 千雨と葵も交えて少し雑談を交わした後、私は何となく聞いてみた。窓の外は広めの庭があるだけで、遠くの景色もそこまで見晴らしが良い訳ではない。
「あぁ、これはですね。大した理由でもないんですけど、何となくこの風景を目に焼き付けておきたくて。何があるって訳でもないんですけどね」
 微笑みながら木下純平は窓の外に視線を投げる。私は胸の奥が何かで突つかれたような気がした。
 そうだ。この人は自分の死期を何となく分かっているんだ。まさか、今日とは思っていないかも知れないが、最後の手紙を残しているくらいなんだから。きっと最後に見る景色となるからちゃんと焼き付けておこうとしているんだ。希望を捨てた訳じゃないんだろうけど、準備はちゃんとしているんだ。この人は。
「外……少しだけ、歩きませんか?」
 私の提案に木下純平は笑顔で頷いてくれたが、一応大事を取って車椅子を私が押して外を散歩する事にした。
 看護士が快く貸してくれた車椅子に木下純平を乗せると私はハンドルを握ってゆっくりと進みだす。車輪はスムーズに回るのにずっしりと来る重みがスピードを抑えてくれた。
 正面入り口から外へ出て、病室から見えた庭の方へ向かう。大きな病院特有の緑豊かで穏やかな雰囲気がそこにはあった。ゆっくりゆっくりと流れる時間を色んな患者が思い思いに過ごしている。数はそれこそ少ないけど、そこに居る人達は全員穏やかな顔をしていた。誰かと話す者や本を読む者、音楽を聴いて空を見上げる者。過ごし方はそれぞれでも、その表情は全て病人には見えない明るさがあった。
「今日は過ごしやすい気温ですね。朝倉さんはどの季節が好きですか?」
「季節ですか? そうですね……春。とか?」
「って事は花粉症じゃないんですかね?」
「そうですねぇ。花粉症ではないですね」
「羨ましいなぁ。俺なんか春が来る度、憂鬱ですよ。もう鼻も目も取り外したくなる」
「カートリッジ式だったら確かに自分の好きな顔になれそうですよね」
「そりゃいい! 朝倉さん面白い事言いますね!」
 木下純平の頭が少しだけ揺れた。今のは単なる相槌であって、決してギャグのつもりで言ったんじゃない。でも、彼が楽しそうだからそのままにしておいた。
 過ごしやすい気温にそよ風が心地よく、ちょっとだけ会話を弾ませながら私たちはゆっくりと庭を半周して、小さな池の前にある綺麗な白いベンチに腰掛けた。
「朝倉さんって人気者でしょ?」
「え? 何でですか?」
「そりゃだって、これだけ面白くて可愛い子が居れば男子は絶対に放っとかない。断言出来るよ」
「ははは……どーでしょうねぇ」
 私は首を傾げながら愛想笑いでごまかした。
 木下純平はいつの間にか口調が砕けていた。これは私の会話によって少しずつ彼の素を引き出せたと言う事だろう。こうして距離を近づけるのが果たして良い事なのか悪い事なのかはわからないけど、葵の言う通り自分の思う方法でやってみる。
「木下さんこそモテたんじゃないですか?」
「いやー俺は全然」
「じゃあ学生時代の部活は何やってました?」
「俺はずっとサッカー部だったね」
「あー、はいはい。何かわかります」
「何か言い方が引っかかるなぁ!」
「でも、だとしたら尚更モテたでしょ? サッカー部の人って割と活発で人気がある人が多いイメージです」
「朝倉さんの学校はそうなの?」
「うん、まぁ。はい」
「まぁそりゃそうだよね。実際俺も沢山バカやって目立ちたがってたしなぁ」
「何かイメージしやすいですね」
「朝倉さん。言うね!」
 木下純平は屈託なく笑う。この人は年上なのに笑うと本当に少年のように見えた。嫌味のない明るさは何だかこちらの暗い気持ちを光の方へ引っ張ってくれる引力を持っている。だから、私もいつの間にか力を抜いて自然と笑みがこぼれてしまっていた。
 こういう人が居たら私の人生は変わったのかな? なんて考えてみる。下らない「もしも」だけど、多分変わらないんだろうと思った。きっとこんな人が居ても私はこういう状況じゃなければ話そうともしない。近づかせないだろうから。
「でもさ」
 木下純平は背もたれに体を預けて真上を見上げる。
「バカやって目立ちたがるのって結局、一人の女の子に見てもらいたいってだけなんだよな。高校生の男子なんてそんなもんだ。ってかそれしか考えてなかったな」
「俗に言う『チャラい』ってやつですね」
「そうそう! チャラいって言うよりか単なるバカなんだけどな。もう不器用でさ、それでも何とかしたくてさ、毎日何かしらのキッカケを探してチラチラと視線を送ったりしてね。メールも何度も迷いながら結局、送って。その後はもう一分毎にチェックしてさ。メール来てなくて勝手にヘコんで、今何やってるのかな。気付いていないのかな。風呂かな。飯かな。誰かと会ってるのかな。電話してるのかなって」
 木下純平が見上げた先はきっと空ではなく、過去なんだろう。と思った。私はその視線の先に広がる青よりもっと青々とした彼の目元が何かを懐かしんでいるように感じた。彼は今、まさに少年に戻っているんだ。
「全ての時間がその女の子の為に動いてたな。笑っちゃう話だけどさ、席替えで好きな子が移動するだろ? 例えば後ろの奴と話している時にそれで向きが変わるんだよ。好きなこの席が右なら体を右に向けて後ろの奴と喋る。左にいたら左に向けて喋る。自分だけが知ってる謎の法則」
「何だかそこまでいくと愛くるしさも感じますね。すごく純粋というか」
「動機は不純だけどね。行動は純粋だったかもしれないね。まぁおかげでその努力も実を結んだんだけどさ」
「あ、すごい。その人心を動かしたんですね」
「うん。正に生きていて一番幸せな瞬間だったかも知れない。後半は向こうも俺に気があるんじゃないかって探り探りだったから変にドキドキしている期間も長かったし、ようやく報われた。なんて思わなかったか。ただただ単純に『やったーーー!』って感じだった」
 空に向かって大きくガッツポーズをする木下純平に私は仕事とは関係ない興味本位の質問をぶつけた。
「そのー……水を差すようで悪いんですけど。そうやって沢山努力して付き合えた人と別れる理由って何だったんですか?」
 これは私が前から思っている疑問だ。何だかこういうのって美談みたいに語られるけど、その結末はガッカリするような内容である事が多い。ってか全武そうだ。誰ちゃんが誰君とようやく恋を実らせたって思ったら簡単に別れて違う男の話をしているとか、私には何とも理解が出来ない。その理由が「冷めたから」とかでそれを笑いながら女子同士で話しているのがどうしても納得がいかなかった。
「ははは。別れてないよ。今の奥さんがその人」
「え?」
「朝倉さんの言いたい事は分かるけどね。高校生の恋愛なんてそんなもんだよ。もしかしたら俺は運が良かっただけなのかも知れない。関係が危なくなった時も勿論あったし。それでもちゃんと持ち直してここまでこれたのはきっと色々な事が関係しているんだろうけど、やっぱり運が良かったっていうのはあると思う」
「運……ですか」
 その言葉は私の疑問を解消も納得もさせないまま、全てをまとめてしまった。
 でも、何だかそれで良い気がした。それ以上何もない気がして私は心の吹きだまりから少量のヘドロが浄化するのを感じた。
 木下純平は得意気に親指を立てて笑う。
「そう。出会いからここまでラッキー多めだったって事」
「ふふふ! 何か喋りがどんどんチャラくなってますよ」
「あれ? まいったな。久しぶりに可愛い子と話したから舞い上がっちゃったのかな」
「あー、すごい。チャラさ増しましたねぇ。こんな人と話したのは初めてです」
「そうか? いっぱいいるだろうこんな感じの奴」
「はい。いっぱいいます。だから喋らないんですよ」
「ガードが固いんだねー。こりゃ君を好きな子は苦労しそうだ。どこからチャラいって思うタイプ?」
「知りません。でも、木下さんは平気です」
「お! ラッキー! 何で?」
「本気で思ってないから」
「えっと……?」
「私の事を褒めるのも下心を感じないし、ちゃんと奥さんの事を一番に愛していると感じるからです。声の底に誠実さがありますから」
「あ、愛してるって……」
「そんな照れないで下さいよ。でも、その奥さんとの話をしている時の顔がすごく良い顔でしたよ?」
「そ、そうか?」
 木下純平は耳まで真っ赤にしながら両頬を手の平で数回叩いた。
「まさかバカな思い出が単なる惚気だとは思いませんでしたけど」
「あ、朝倉さん。やっぱりトゲあるね」
「そうですか?」
「うん。変わってるって言われない?」
「わかりません」
 私の返答に木下純平が苦笑いで返すと、私は彼越しに離れた所に座る千雨と目を合わせた。
 そろそろ切り出そう。
 こうして話してみてこの木下純平という人となりが少しだけ掴めた。この人には変に隠さず正直に話した方が良い。きっと大丈夫、受け止めてくれる。そう思えた。
 我ながら良いキャラクターが作れたと思う。ちょっと素も混じっているけれど、いや結構混じっているか。割と本音を言っているのだから。この人は何か喋りやすい。
 このちょっとした打ち解けが、どこまで効果をだすのか。
「木下さん……」
 私は一変して真剣な表情になってしまう。ならなくても作るつもりだったが、その必要はなかった。体がこわばる。膝の上で握った手に力が入った。
「ん? どうした?」
「落ち着いて……聞いて下さい」
 木下純平の目を見れない。私は自分の膝元に目を落としながら歯を食いしばる。
「その……実は……私がここへ来たのはもう一つの理由がありまして」
「もう一つの?」
「はい……その……非常に申し上げにくいんですが。実はあの時……私が木下さんの倒れる瞬間の時に助ける事が出来たのは……偶然じゃありません」
「ん? 何言ってるの?」
 顔は見れない。でも、声が何となく怪訝な感じになったのできっと動揺しているんだと思った。
 それでも、私は話し続ける。全てを伝えなければいけない。
「木下さんが病気に倒れる事。もっと言えば、あの日、あの時間あの場所で倒れる事を私……じゃなくて厳密に言えば向こうに座っている二人なんですけど……知っていたんです」
「あ、あのさ。急に何か方向性変わってるけど。どうしたの?」
「ごめんなさい。信じられないかも知れないけれど。ちゃんと全てお話ししますから聞いて下さい。お願いします」
 私は力が入り過ぎたのか、体が震えだした。押さえ込むようにグッと力を込めるんだけど、全然効果がない。
「……わかった。わかったよ。全部聞くから。どうぞ」
 木下純平の言葉で少しだけ緊張が和らぐ。私は俯いたまま小さく頷いた。
「実は私は木下さんが倒れた日、別の場所で自殺しようとしてました。でも、その……あの二人に邪魔されてしまってこうして失敗に終わったんですけど……まぁ端から見れば助けられたような感じです。私は邪魔されたとしか思ってませんけど。でも、不思議な事があって。私、あの日、あの場所で死ぬ事を誰にも言っていないんですよ。なのにあの二人はそれを知っていて、私の名前まで知っていて。ちょっと普通じゃないんですあの二人。そして私は今、流れで彼らの仕事を手伝っていて……それで来たんです。ここへ」
「俺に……会いに?」
「はい。私にはあなたに会って伝えなければならない事があります。木下さん」
 私は顔を上げて隣に座る木下純平に振り向く。彼は真剣な表情で話を聞いてくれていた。


「あなたは……今日、亡くなります」


 とうとう言ってしまった。随分と回り道しながらだったけど、私は木下純平にハッキリと死を告げた。
「あ、えー……と」
 木下純平は私から視線を外して小首を傾げた。悩みと言うよりも葛藤しているようだった。
「すいません。突然告げられても困ると思いますが……どうやら本当みたいなんです」
「ど、どうやらって……えっと……どうすりゃいいんだ? あ、あの一つ質問良い?」
「はい。どうぞ」
「なんかこう霊感商法と言うか、高い壺とかお札を売りつけようとかじゃないんだよね?」
「違います」
「そう……だよね。だよなぁ」
 木下純平は深い溜め息を吐いて背もたれに寄り掛かって見上げた。そしてもう一度、そうだよなぁ。と呟いた。
「朝倉さんは詐欺師とか、そんな感じしないもんなぁ……」
「はい……本当です」
「そうか……俺、今日死ぬのか……まぁ何となく準備はしといたんだけどさ。もう少しは生きれるのかと思ってたよ……俺、本当に死ぬんだよね?」
「はい。今日、死にます」
「ははは。まさかこんな可愛い子に死の宣告をされるとは思わなかったな……」
「……すいません」
「謝らないでよ。別に覚悟がなかった訳じゃない。ただ、まさか今日だとは思ってなかっただけだから。大丈夫だよ。気にしないでくれ。むしろ教えてくれてありがとう。まぁ、うん。そうだね。幸い、準備もしておいたし。少しは心置きなく死ねるかな。本当にありがとう。じゃあ最後は妻との時間を楽しむかな」
「……木下さ……」
 私はそこで言葉が詰まってしまった。木下純平は空を見上げて泣いていた。
「あー、ははは。ごめんね。情けない所見せちゃって。いやぁ大の大人が恥ずかしい。全然ダメだね。本当に。ごめんね」
「……そんな」
「いいんだ。でも、少しの間一人にしてもらっても良いかな」
 私は頷いて、席を立とうとするが、肩を押し戻されてしまいストンとまたベンチに落とされてしまった。
「申し訳ないんですが、そんな時間も無いんですよ」
「千雨?」
 振り向くと、千雨はにこやかに私の肩を掴んで木下純平と視線を交わらせていた。
「ど、どういう事ですか?」
「お気持ちはお察しします。この春乃から多少の説明はあったと思いますが、私達は弁離士という少々変わった仕事をしてまして。その内容というのが死ぬ者、死んだ者の未練を断ち切る仕事をしています。まぁ諸々限定されていますが。私達弁離人は言えなかった別れの言葉を言わせてそれを成す仕事です。つまり、木下純平さんのお別れを言わせてあげる為に来ました」
「い、いや。いきなり言われても。それにこうして教えてくれたんですからちゃんと周りには別れを告げますよ。そりゃ少しは未練もありますけど。ちゃんと言えるだけ幸せです」
 千雨は首を振った。
「それがですね。どうしても今日は会えない人が居るんです。そしてまた厄介な事に死者は死後二ヶ月は霊体としてこの世に止まってしまうんですよ」
「ちょっと千雨。一体何が言いたいのよ」
 私はこの回りくどい言い方にイライラして手を払いのける。千雨は払いのけられた手をどうしようともせず、ダランと下げたまま木下純平をジッと見つめていた。また、木下純平も千雨を見つめていた。
「木下葉子さんは妊娠しています」
「は? ちょっと千雨どういうこっ! むぐ!」
 後ろから口を塞がれる。辛うじて見えた背後には葵がいた。その手で私の口を塞ぎながらも視線は千雨の顔を見上げていた。
「木下純平さんは死後二週間経った頃にそれを知ります。もちろん葉子さんも同時にそれを知ります。そしてあなたはどうしてもそれが気になってしまい、この世に止まってしまう。心配で仕方がなく地縛霊となる」
 木下純平は黙ったまま千雨を見つめていた。私は葵の手を振りほどいて立ち上がり千雨を指差す。
「べ、別にいいじゃない! 心配ならその生涯を見届けるくらいしたって。そうしたらそのまま成仏するんじゃないの!」
「春乃……そんな単純な話なら僕たちもこんな事していないよ」
 千雨はとても悲しそうな目で私に視線を移した。私はその目を見て何も言えなくなってしまう。
「小娘。バカな貴様には直接的に伝えるしかないのかの。あまり邪魔されても困るからの。いいか。地縛霊は成仏出来ん。自分の力ではな。そして地縛霊はその存在だけで近しい人に不幸を呼び込んでしまう。それは関係が近しい者も物理的に近い距離に来た者両方に言える。つまりじゃ……」
「木下さんは、このままだと妻の葉子さん、そしてお子さんもろとも死に追いやってしまいます……」
「そして、その苦しみがそなたを更にこの世へと縛り付けてしまうのじゃ。これが地縛霊の因果じゃよ。まぁ一例に過ぎんがな」
「そ、そんな……」
 私はまさかの真実に何も言えないまま、指差した手をそのままどうする事も出来ず、ただ千雨を見つめていた。千雨は少しだけ私に微笑むと視線を木下純平へと戻した。
「木下さん。私たちはそうさせない為にここへ来ました」
「そ、そうさせないって……?」
「ふん。別れを言わせるのが仕事じゃと言ったであろう。なら答えは簡単じゃろうが」
 木下純平は千雨と葵へ交互に視線を移す。千雨は木下純平の手を取り、そしてもう片方の手で私の人差し指を握った。
「葵。頼んだ」
「良し。では行くかの」
 葵はベンチをまるで風に乗るように軽やかに飛び越えて私と木下純平の腕を掴んだ。そうして私たちはイビツな円上になって繋がると、葵が何かを呟きだす。小声で聞き取れないけど、念仏でもないけど良く分からない言葉の羅列だった。
「ね、ねぇ。千雨! 行くって何処へ?」
 私は徐々に体中が光を帯びていく葵と千雨に何度も視線を移す。
 千雨は木下純平に顔を向けて微笑むと、その表情のまま真っ直ぐ私に向き直った。
「未来だよ」
 瞬間、私は目も開けていられない強い光に包まれて、フッと地面が抜けて落ちて行くような感覚に捕われる。どうしてかわからないが、目も開けられなければ声も出なかった。ただ、葵には腕を千雨には指を掴まれたままなのはわかった。
「きゃっ!」
 着地。と言うより尻餅をついて私は目を開ける。ほんの一瞬の出来事だった。時間にしてホントに数秒。なのに視界に入って来た風景はまるで変わっていた。
「ここ……どこ?」
 私はお尻を擦りながら辺りを見回す。木下純平も同じように尻餅をついていてキョロキョロと視線を移していた。
「未来の公園。って言い方が分かりにくいか。木下純平さんが倒れたあの公園だよ。ただ、五年後の。だけどね」
「ちょっと何言って……」
 私は視界に入った木下純平の顔に目を留めて言いかけた言葉を飲み込んだ。
「よ、よう……こ?」
 目の前で尻餅をついたままの木下純平が私の後方に視線を投げたまま固まっていた。
 私もつられて後ろへと振り返る。
「え?」
 そこには確かに木下葉子の姿があった。そしてその手は小さな女の子と繋がれていて、二人は笑顔をこぼしながらゆっくりと歩いていた。
「これってまさか……本当に?」
 向き直ると千雨は静かに頷き、そして私に手を差し伸べた。
 葵は木下純平の肩に手を置いて、真っ直ぐ木下葉子の方を見据える。
「木下純平よ。時間は十五分。それがタイムリミットじゃ。時間が経てば自動的にわしらは元の場所へと戻ってしまう。早う行け。娘に会える最後のチャンスじゃ」
 私が千雨の手を取って立ち上がるのと同時に木下純平は走り出した。
 それはもう驚く程の早さで、バタバタと不格好で寝間着姿のまま飛び出した。そして少し離れた所で歩いていた木下葉子が彼の姿に気付いたのも束の間に、木下純平は会えるはずの無かった、その手に抱けるはずの無かった自身の娘を跪いて抱きしめた。そして木下葉子と木下純平も言葉にならない声を上げた。
「春乃。僕たちは向こうに行っていよう」
 千雨が指差した場所はあの訳の分からない遊具とベンチがある場所だった。
 私はもう一度、木下親子の方を振り返って頷いた。
 彼が最後のお別れをしている間に私はもう少し詳しい話を聞かせてもらった。
 どうやら、葵にはと言うより葵のランクに居る者は時空を超えられる能力が備わっているらしい。それでも、力を貯めて尚かつ増幅しないと行けないらしいのだが。葵はそれをする為に戻っていたのだと知った。他にも色んな能力があるらしいのだけど、そこについては教えてくれなかった。ただ、千雨にはその能力が無く、ランクは下の方だと言う事はわかった。
 チラチラと親子の方に視線を移しながらも私の質問は続いた。
「でもさ。これって未来を変えちゃう事にならない? いいの? そんな事して」
「案ずるな小娘。この十五分間はワシらが元の時代に戻れば関わった者、今回で言えば木下葉子とその娘の記憶から綺麗サッパリ消えるようになっておる。つまりは無かった事になるのじゃ」
「でも、それじゃ……」
「いいんだよ春乃。これは残される者を救うんじゃない。残して消える者を救う仕事なんだ。だから木下純平さえ救えればそれで良い。だからこの事は内緒だよ」
「それって何か……」
「良いのじゃ。それで。全く貴様は何でも知りたがり納得したがるのう。悪いとは言わんが良くもないぞ。大体、その年で全てを理解しようとするのがおこがましい。貴様はまだ子供なんじゃ。ゆっくり考えれば良いじゃろうて。ホントにガキじゃの」
「うっさいわねぇ……見た目は私よりガキのくせに。納得出来ないんだからしょうがないでしょ!」
「まぁまぁ春乃。見てごらん。木下親子をさ。あの姿を見てもこれが間違っていると思うかい?」
 千雨に言われて私はもう一度振り返る。そこには涙を流しながら抱き合う夫婦と笑顔で頭を撫でられている娘の姿があった。
「間違ってるとは……思わないけど」
「だろう? いいもんだよねぇ。父親の不器用な愛情ってのはさ。きっと記憶に残らなくても何らかの感触は残るんじゃないかな」
「そうなの?」
「そうであって欲しいと思うよ。実際はわからないけどね」
「ふーん」
「なんじゃ。えらく無関心じゃの」
「だって知らないもん」
「知らないって何を?」
「父親の愛情」
「そっか……ごめんね」
 千雨はその後、何も言わなかった。きっと知っていたんだろう。そりゃそうだ、調べはついていたに決まっている。口を滑らせてしまったと気にしているのがわかった。今まで沢山見て来た。私の身の上を知る者はみんなそんな顔をした。その何とも残念そうで悲しそうな表情はとっくに見飽きているのだ。哀れむような顔も見たくはない。そうやって気遣われるのはもう十分だ。だから私は他人と関わりたくないのだ。
 私の絶対に触れられたくない場所。
 心の奥にある絶対に誰にも触らせたくない大切で痛々しい思い出。
 私の母はシングルマザーだった。
 そして、私が小学校に入学する寸前に他界していた。



 ――――元の時代、元の場所に戻る時も私は尻餅をついた。
 木下純平は泣きじゃくりながら何度も私たちに頭を下げた。私はそのお礼の言葉を素直には受け取れなかった。だって結局は会えてなかった事になっているのだから。私たちが未来に行った事を覚えている者はいない。それを木下純平は知らない。五年後に妻と娘は自分と会えるのだと思っている。
 でも、その事は口が裂けても言えなかった。
 木下純平の姿を見ていたら、とてもじゃないが言えない。
 私が車椅子を押して行こうとしたら、やんわりと断られた。自分の足で戻るからと言って車椅子を近くに居た看護士に預けて戻ってしまった。
 彼は残りの時間をどうやって過ごすのだろうか。もしかしたら残した手紙を書き換えるのかも知れない。五年後に会えると書いてしまっているのかもしれない。
 弁離士と関わった者の記憶は消えてしまう。私の事も忘れてしまうとの事だった。関連した記憶は全て書き換えられてしまう。
 だから口で伝えた所で意味は無いのだけど、木下純平は口では伝えず、手紙に残す。そんな気がした。不器用に始まった恋はきっと不器用に締めくくるんだと思う。
 木下純平を見てるとそう思えた。
「それはそうと。あんた達ってさ。別れの言葉言わせるだけ言わせて自分達は最後にさよならの一言も言わないってどうなのよ?」
 私はさきほどの出来事を掘り返す。何度も頭を下げながら「さようなら」と言った木下純平に対して二人とも頭を下げるだけだった。結局、忘れられると言っても冷たすぎる気がした。
「そうだ。言ってなかったね。僕たちはその、別れの言葉を言えないんだよ」
「はぁ? どういう事よ」
「言ったであろう。弁を以て離を成すのじゃと。つまり、ワシらがそれを言ったら消えてしまうのじゃ。弁離士の別れの言葉には強い力が込められている。故に言えばたちまちその存在を消してしまうが、代わりにそれを言われた者にのみ記憶を残せるのじゃ。特権のようで呪いのようでもある。まぁしきたりじゃよ」
「何だか色々ルールが多過ぎるわね。じゃあなに? さよならは言わせるもので言えないって訳?」
「そうだね。意味の同じ言葉も使えないんだけどね」
「じゃあね。も?」
「うん」
「またね。も?」
「そうだね」
「グッバイ。は?」
「貴様。ホントにバカなのか?」
「……最後はふざけただけよ」
 私はベンチに座って背もたれに寄り掛かりながら空を見上げる。さっきまで木下純平が見ていた景色。
 青々とした視界には雲が一つ。ゆっくりと流れていた。
 深く息を吐き出し、体を脱力させた。
 これで私の仕事は終わった。役目を果たしたのだ。
「で? 貴様はこの後どうするのじゃ?」
 隣に座る葵に私は振り向きもせず口だけ開いた。
「さぁね。今は肩の荷がようやく下りて頭が真っ白だわ」
「春乃。どうだった? 人の死を近くで感じてみて」
「だから何も考えられないって」
 千雨は私の顔に影を落としてクスッと笑った。
「どいてよ。空が見えないじゃない」
「そうやってすぐ黄昏れるのも十代ならではなんじゃろうな」
「うっさい」
「春乃。じゃあとりあえずさ」
「何よ?」
「紅茶のシフォンケーキ食べに行こうか」
 私は体を起こす。そして浅くフッと息を吐いて後ろに振り返った。
「二個。奢りね」
 千雨は微笑みながら頷いた。
「……暑い。暑い」
 私の目の前を、たった今まで乗っていたボロボロのバスが走り去る。右も左も一本道。しかも舗装されていない畦道。前も後ろも田園地帯。そして私の隣には今にも折れそうなバス停。こんな場所にバス停を立てた理由がさっぱりわからない。一体何処へ向かう人が下りるのだろうか。
 薄汚れた時刻表を見ると、どうやら一日に二本だけ走っているらしい。とりあえずその内の一本は私たち以外に客は居なかった。最早、二本もいらないのではないか。それどころかそもそもバスなんて必要ないんじゃないか。なんてやさぐれた考えが浮かんでしまうのはこの真夏日と耳をつんざく蝉の大合唱のせいだろう。
「貴様。だからあれほど帽子を買ったほうが良いと言ったではないか」
「うっさいわねぇ……」
 大きめの麦わら帽子を被った葵が勝ち誇った顔を向けてくる。最早ぶっ飛ばす気力も無く、イライラするのもめんどくさかった。
「春乃。はいこれ飲んで。それとこれを被っておくと良い」
 千雨は私に水を差し出して自分が被っている茶色いハットを私に被せた。
「あ、ありがと」
「いいよ。とりあえず少し歩くから、つらくなったら直ぐに言ってね。一応休みながら行くけど」
 私は手を挙げて答える。水はどんどん喉を通って胃に溜まっていくのがわかった。
 そもそも、なんで私はここに居るのか。そして何故まだこの二人と行動を共にしているのか。
 事情はそれほど単純ではない。簡単には語れない心情があった。
 でも、敢えて簡単に言うなら『答え』を知る為。だ。
 私には一つの疑問があった。彼らは私を助けに来たはずなのに、何故か木下純平にしたような事はせず、むしろ私に仕事を手伝わせた。それだけならまだしもその後は自由と言うのだから訳が分からない。だって私は彼らと離れれば関係した事全て。つまり、木下純平との出来事も忘れてしまうのだ。
 だったら私は結局、自殺するんじゃないのか。と思った。これで何か変わったとは思えないし。そう考えると謎はどんどん深まっていって結局、私はもう少し二人について行く事にしてしまったのだ。それこそ、彼らの狙いでこうなる事は最初から想定済みなのかも知れないが、もしかしたら私を弁離士にしようと思っているのかも、なんて考えたりもしている。
 絶対に断るけど。
 むしろ、今すでに全力で後悔しているくらいなんだから。
 電車を何本も乗り継いで本数の少ないバスに揺られてこんなど田舎に来るなんて思いもしなかった。全く持って想定外の出来事。
 けど、一度決めた事は曲げる気にならなかった。ホントにめんどくさい性格だ。誰に言われなくても自分でそう思う。
「ほれ。置いて行くぞ小娘」
「うるさい田舎中学生」
「なにをー!」
「もうめんどくさい! 暑い! 暑い! 暑苦しいっつーの!」
 ポカポカと手を出して来る葵を捌いて行くうちに溜まったイライラを一気に噴火させて私は大空へ叫んだ。蝉がより一層鳴き声を強めた気がした……ホントに暑苦しい。
 曲がり角が無く、視界が開けた道はそれだけでやる気を削いで来る。一本道って時に残酷だ。視界の果てにゴールが見えないということはそれ以上、歩かなければならないと言う事。曲がり角や、ビル群のせいで見えないとかだったら見えなくても近づいている気はするのに、これではいつまで経っても辿り着かないんじゃ。なんて気さえして来る。
 それでも、合間に休憩を挟んで何とか目指していた学校まで辿り着いたのだから自分を褒めてやりたい。恐らく五時間以上かかったと思う。その間にバス停はなかった。
 あのバスは一体、何処へ向かったのだろうか。
「さて、この風情のある校舎で一仕事じゃの」
「そうだねぇ。ここまで年季が入っている校舎は見た事が無いなぁ」
「ワシとしては懐かしさを感じるがの。これでこそ学校じゃ」
「……いいから早く中入って休みましょ」
 千雨と葵は清々しく汗を拭いながらそびえ立つ校舎を眺めていた。私はそれを追い越してフラフラの足取りで木造二階建てオンボロゴーストスクールに向かって一人、歩いた。
 外観通りの内観だったけど、床も抜けてないし造りはしっかりしているんだろうと思う。
 歩く度にギシギシ言うけれど、きっと木造特有のものなんだろう。
 私たちは中央にある階段を上って二階に上がると、そのまま目の前にあった教室の中に入って色々と準備をした。ここは普通の教室なんだろうけど、廃校になっているからか、はたまた元々なのか、机と椅子が全然なかった。
 それらを適当に端へ寄せて、ビニールシートを敷いたらその上に腰を下ろす。日陰というだけで随分と温度が違った。これも木造特有のものなのかはわからない。
 葵と千雨はまだ日が高いうちに校舎内を散策すると言って教室を出て行ってしまった。
 散策する程、広くもない気がするが別にどうでも良かったので特に何も言わずにそれを見送ると私はその場に寝転がる。
 学校の中でこうして寝転がると中々気持ちが良かった。妙な背徳感が心をくすぐる。
 天井の蛍光灯は取り外されていた。夜は真っ暗かもしれないな。なんて思いながら私はそっと目を閉じた。
 窓の隙間から風が通り抜ける。蝉の鳴き声は随分と遠い。少しずつ引いて行く汗。
 私は体の力を抜いて重力に身を任せた。そしたらすぐに夢の引力が私を攫って行ってしまった。
「あのー……」
 誰かの呼ぶ声が聞こえる。女の子? でも葵じゃない。
「あのー! あのー!」
 私は体を揺すられる。こういう起こされ方はあまり好きじゃない。
「なによ? 誰?」
 瞼も開けずにボソッと突き放すような言い方で問う。こんな廃校じゃ、誰? なんてお互い様かも知れないが。
「誰って……私はここの生徒なんですけど」
「え?」
 ガバッと体を起こす。薄く開いた視界には赤く染まる世界に膝をつきながらこちらを伺う女子高生がいた。って言うかもう夕方か。
「ここの生徒?」
 私は半眼を向ける。まだ目が光に慣れていないのもあるけど。とにかく、ここはもう廃校になっているのにそれはおかしい。生徒が居るわけない。
 でも、目の前の女子高生は頷いた。
「まぁ、元。ですけどね!」
「なんだ。そういう事」
 元、ここの生徒なのね。驚かすなよ。
「あなたこそ。何してるんですか? ここで」
「何って。お昼寝?」
「そりゃまぁ、そうでしょうけど。ここの卒業生でもないですよね? それ違う制服だし」
 私は自分のスカートと彼女のスカートを見比べる。同じ色のプリーツスカートだ。丈も大差ない。でも、私の方には微妙にチェックが入っていた。それだけの違いがどれだけ大きいか。きっと千雨や葵にはわからないんだろうな。なんて関係ない事を考えて吹き出してしまった。
「何で笑ってるんですか?」
「いや、ごめんなさい。別の事考えてた」
「あなたって……結構失礼な人ですね」
 彼女は少しむくれてしまった。私はこの頃にはすっかり目も慣れているので目の前の女の子がハッキリと見えていた。
「ちょっと聞いて良い? あんたはここの元生徒って言ってたわよね? じゃあ何で制服来てこんなとこにいるのよ」
「え? そんなの。お別れを言いに来たんですよ」
「誰に?」
「学校に」
「何で?」
「引っ越すから」
「あ、そう」
「そうなんです」
 単語の言い合いは果たして会話なのか。私たちはお互い牽制し合いながらしばし、沈黙した。
 そう言えば、あの二人はどこに行っているんだろうか? もう数時間は経っているはずなのにまだ帰って来ない。探しに行くべきか。待つべきか。
「ねぇあんたさ」
「みゆきです」
「……そう。じゃあさ、みゆき」
「あなたの名前は?」
「春乃。でさ、みゆきはここの元生徒なんだよね?」
「そうですけど?」
「ならちょっと校内を案内してよ。連れが二人居るんだけどまだ戻って来ないんだ」
「別に良いですけど……春乃達ホントに何しに来たんですか?」
「別に大した事じゃないわよ。さ、お願い」
 私が立ち上がると、みゆきも首を傾げながら立ち上がる。校内はそんなに広くもないし、直ぐに見つかるだろう。
「はいはい。みゆき。前歩いてくれなきゃわかんないから」
「わかった。わかったから引っ張らないでください。あなたって結構自分勝手ですね。友達いないんじゃないですか?」
「うるさい」
「図星ですか。まぁいいですけど。じゃあまず一階の端から順々に行きましょう」
 みゆきは呆れたと顔で語りながら階段を下りて行く。少しだけ突き飛ばしてやりたい衝動をぐっと押し殺した。何だか自分が少し暴力的になっているような気がする。さすがに気のせいであって欲しい。
 校舎内は夕陽が窓から差し込んでいて、体力が戻った私にもようやく二人の言っていた風情を感じられた。風も相変わらず心地よく、キシキシとなる廊下も小気味良い音に聞こえた。
 私たちは歩きながら少しだけ会話を弾ませた。お互いの身の上話とかではなく、主にここらへんの文句で盛り上がった。どうやらこの町の住人もこの圧倒的な不便さには不満を抱いているらしい。
 思った以上に会話は止まらずに進んだ為、学校内はあっとう間に探し終わってしまった。
 けど、二人は見つからなかった。
「なら、裏庭も見に行きましょうか?」
「うーん。そうね。でも、これでいなかったら」
 この日暮れの中で私は廃校に一人と言う事になる。リアル肝試しだ。幽霊関係はそこまで関心ないけど、流石に心細い。
「春乃。ほら見てみて! 見て下さい」
「んー?」
 もし居なかったらどうしようかと思案していたら、昇降口を出たみゆきに手を握られた。
「ほら! この夕陽の感じ! この風景は自慢なんです! 私の!」
「倒置法を使うくらい好きなのね」
「ほんとに変な所つついてきますよね。でもいいでしょ?」
「それなりにね」
 確かに夕陽に照らされた校庭と言うのは郷愁感を誘う。でも、今の私にとってそれはまるで客観的な意見で、結局、郷愁感なんて欲していない私はそんなものより二人が今、どこにいるかのほうが大事だった。
「んじゃ早いとこ裏庭に行こう」
「あ、もう。春乃は無感情なんですか?」
 サッと私の前に回って後ろ歩きで質問して来る。手慣れた場所だから出来る芸当だろう。全く前を見ずとも、その足はちゃんと校舎に沿って裏側に回ろうとしていた。
「無感情じゃないわよ。興味ないものは興味ないだけ」
「……誰でもそうだと思いますけど」
 私に呆れたのか、そのまま前に向き直ってしまった。私はもう一度校庭を流し見る。
 誰でもそうなわけがない。こんな風景を見て感動しない人間なんて居ない訳が無い。
 私はその感情が邪魔なだけだ。感動なんてしたくない。そんなもの必要ない。
 私はこの世に何かを感じるのも、何かが残るのも嫌なのだ。
 思い出なんてあればある程、邪魔になる。重たくなってしまう。
 私は出来るだけ身軽にならなくてはならない。
 死ぬ為に――――。



「――――いませんでしたね」
「ねぇ。どうしようかな」
 私とみゆきは朝礼台に座って沈みゆく夕陽を眺めながら、この後をどうするのかと話し合った。
 目の前にある真っ赤な球体がいなくなってしまえば、私のリアル肝試しが始まってしまう。
「ねぇ。みゆきはいつ出発するの?」
「明日ですけど?」
「ふーん」
「何ですか。聞いておいて、ふーんって」
「いや、そっかぁ。って思って」
「春乃はどうするんですか? お連れさんを待つんですか?」
「そうするしか無いでしょうね」
 当然のように何も聞かされていない私はどうすればいいかも分からないし、ここで待つ他の選択肢は見当たらなかった。
「わかりました。それならお連れさん来るまで私も一緒に居ますよ」
「え? 何でよ」
「嫌ですか?」
「いや、嫌じゃないけど」
「じゃあそうしましょう」
「ホントにいいの?」
「はい。いいですよ。私も楽しいですし」
「ふーん。あんたも変わってるのね。お人好し?」
「どっちも言われませんけどね!」
「そう」
 私たちは夕陽がほとんど沈むのを見届けて、暗黒の校舎へと戻って行った。
 薄暮れの校舎は雰囲気が一変していて、廊下の軋む音一つとっても表情を変える。
 正直、みゆきが居てくれて助かったかもしれないな。と思いながら、理科室に寄りアルコールランプに火を点けてランプ代わりにする。これで廊下を歩くといよいよ肝試しだななんて話すとみゆきはケラケラ笑った。
「あんまり幻想的にはなりませんね」
「どちらかと言うとお化け屋敷よね」
 何往復かして全てのアルコールランプを集めて来たけれど、燃料節約のため数個しか使用してないせいか、その頼りない火力は教室の全てを照らしてはくれない。
 中心で揺らめく炎達は恐ろしさを助長しているようにも感じた。暗闇のままの隅にはあまり視線を向ける気にはならない。
「燃料もありますし、まぁ朝までは持ちますよね」
「廃校にしては結構残ってて助かったわ」
「朝までに来るといいですね」
「ねぇ。でも来ないかもねぇ」
「何言ってるんですか! そしたら来るまでずっと一緒に待っててあげますよ!」
「明日引っ越すくせに?」
「へへへ。バレました?」
 バレるも何も自分で言ったんだろう。なんて言い返しはしない。とにかく明日には戻って来るだろう。というより夜が更ける前に帰って来るだろうけど。
 それまで、この実はお調子者のみゆきとくだらない会話をしながら時間を潰す事にしよう。不毛な会話は対して面白くもないけど、記憶にも残らないので丁度良い。
 みゆきは心を開いてくれたのか、どんどん明るくなっているように感じた。もちろん口数が増えている。私は相槌を打ちながら時折、質問を交えて会話を繋げた。あまり人と関わりたがらなかった性格のおかげだろう。会話をこちらの自由に続けたり終わらせたり出来る術は誰に教わらずとも昔から自然に出来ていた。
「いやー。春乃と話していると楽しいですね」
「そう? あんまり言われないけど」
「じゃあ相性がいいんですね私たち」
「そうね。そうだといいね」
「もー。すぐそういう事言う」
 みゆきは言葉とは裏腹に笑っていた。多分、本当に楽しいんだろう。もしかしたらこの子も友達いないのかも、なんて思ったけれどこれだけ社交性があるんだからそれは無いだろう。
 引っ越し前、最後の夜にこうして学校に居残って夜を明かすなんて状況に少し気分が高揚しているのかも知れないな。私も何だか変な気分だから。
「もう結構時間経ちましたよね?」
「そう……だねぇ」
「来ないですね」
「そうねぇ」
「春乃は何でそんなに無関心なんですか?」
「いや、無関心じゃないよ」
「じゃあ無関心のフリ?」
「フリ……フリかぁ。うん、まぁそうかもしんない」
 何だか自然と本音が溢れてしまった。無関係な人間は喋りやすいのだろうか。
「ほんとに変わってますね。別に関心持てばいいじゃないですか」
「色々とあんのよ。ほっといて」
 本音を漏らしておきながらそれ以上は踏み込ませない。もちろんみゆきも弁えているのか、それ以上は質問を重ねようとはしなかった。
 火はゆらゆらと揺らめいて、私たちはそれを挟んで座りながら時間を潰す。
 深夜三時。
 もしかしたらもう戻って来ないんじゃないかって思い始めた頃にみゆきは急に立ち上がった。
「良し! 気分転換に肝試ししましょう!」
「それ……気分転換になってる?」
「なります! そしてラストには素晴らしいプレゼントもあります」
「何それ。全然気にならない」
「フリはもういいですから! さ! 行きましょう!」
 みゆきは私の腕を引いて強引に立たせるとそのまま教室を後にした。
 本当に興味ないんだけどな……

 
 ――――……。


 夏真っ盛りとは言え、午前三時はまだ真っ暗だ。なんなら一番真っ暗だ。
 みゆきは勝手知ったる校舎内を順々に案内してくれる。してくれるのだけど、さっき明るい内に辿った順路と全く変わらないから別に肝試しにはならなかった。
 そりゃ最初のうちはドキドキもしたが、三教室目あたりから見慣れてしまって適当に相槌を打ちながらみゆきの楽しそうな雰囲気を壊さないようにしているだけだった。
「ここは私の居たクラスです」
「へー。何か人数少ないのね」
 二階の一番端にあった教室。中には五、六組の机と椅子が散らばっていて、何とも寂し気だ。「流石にこんなに少なくありません。倍はありました」
「ふーん」
 と言っても十人。やはり少ない。
 ドアを開けると教室の中を風が通り抜ける。すきま風は少し肌寒かった。
「これです。この机」
 みゆきは倒れていた机の一つを起こすと埃をはたいて変な表情をした。
「何……これ?」
 私が覗き込んだその机の表面には無数の落書きが所狭しと書かれていた。薄く擦れてはいるものの、その内容は何ともひどいものばかりで、明らかに悪意を持って書かれたとしか思えない。
「へへ……実は私、あんまりクラスメイトと仲良くなくて」
「いや、あんた。仲良くないってレベルじゃないでしょ。これってイジ……」
 ほとんど言いかけて口を噤む。それ以上言っていいものかわからなかった。
「遠慮しないでいいです。そです。私、イジメられていたんですよ」
 みゆきはとても寂しそうな顔で笑った。今にも泣きそうな顔で私の目をジッと見つめた。
「何でよ。あんたみたいのがいじめられるって……何か理解出来ないんだけど」
 私は視線を外して机の角をつまんだ。何処を見たらいいか分からない。こんな風にイジメとしっかり向き合うのは初めてだ。
「簡単ですよ。私は転校生。余所者なんです。だからあんまり受け入れられなかったみたいで。先生も見て見ぬ振りでした。嫌ですよね何かそう言うの。陰湿で、排他的で。まるでこんな綺麗な町に住んでいるとは思えない程、みんな心が汚れている。表では仲良さげなのがすごく気持ち悪かった」
「そんな町なの……かな? あんたしか出会ってないからわかんないけど。田舎だからって事でもないでしょう?」
「そうですね。言うならこの学校が変だっただけかもしれません。他の方々は別に普通でしたから。むしろ親切だったかも」
「じゃあなんで……」
「私も最初は頑張ったんです。ちゃんと私を知ってもらえれば仲良くなれるって。今はまだお互いに探り合っているだけなんだって。でも……」
 みゆきの目からポロリと水滴が落ちた。その水滴は乾いた机に綺麗な波紋を浮かべて落書きの黒を浮きだたせた。
「でも、ダメでした……いつしか探りが拒絶に変わってしまって私はイジメられてしまいました。先生も私の事を拒絶していたから相談もできなくて。ようやく憧れの田舎暮らしにたどり着いた両親にも言えなくて……」
 みゆきの目からはどんどん涙が零れ落ちる。私は机の角から手を離した。
「でも、一人だけ味方が居てくれたんです。香奈ちゃんって言うんですけど」
「……じゃあその香奈ちゃんが助けてくれたの?」
 みゆきは笑って首を振った。
「いえ。そんな事したら今度は香奈ちゃんがやられてしまいますから。私の代わりにじゃなくて私と一緒に……だから香奈ちゃんとは学校外で会っていました。見つからないように山や川で色んな話をして。なんか春乃にちょっと似てるかもしれませんね」
「そう……そっか」
 唯一の救いがそれだけでも、あるだけマシなのだろう。現にこうしてみゆきはお別れに校舎へ訪れるくらいの気持ちを持てているのだ。それはきっと香奈ちゃんの助けがあったからに違いない。
「でも、話はそこで終わりません」
 みゆきは急に感情がない暗い顔になって机を撫でた。
「香奈ちゃんは……香奈ちゃんは」
「ど、どうしたの?」
「そろそろですね。行きましょう。春乃にプレゼントしなきゃ」
「ちょ! ちょっとみゆき!」
 みゆきは凄い力で私を引っ張って教室を飛び出した。その足はそのまま中央の階段へ向かってそれを駆け上がって行く。
 扉を開けるとそこには少しずつ白み始めている空が広がっていた。
「お、屋上?」
 私の腕からみゆきが手を離すとクルッと振り返る。その表情はさっきの笑顔に戻っていた。
「そうです! 屋上です! さぁあそこに座りましょう!」
 みゆきが指差したのは中央の端。つまり時を止めた大きな時計の上だった。私たちはそこから足を投げるようにして座ると、白い時計にもう少しで足が届きそうだった。
 横には赤い屋根が広がっていて、どうやらこの五、六メートル程の幅しかない中央部分だけこうして外に出られる使用になっているらしい。屋上なのか、それとも時計の修理に使う為なのかはわからないが、私たちはそこから真っ直ぐ、どんどん明るくなる風景の果てに視線を投げた。
 朝日と言う名の太陽がゆっくりと姿を現し始めると、広がる大地が色づき始める。広がる視界いっぱいに光が届いて「朝」が始まろうとしていた。
「ねぇ? これ私のお気に入りの風景なんです! この町で一番印象に残ってるのがこれなんですよ!」
「確かに……これはなんか、うん。いいわね」
「でしょ? でしょ?」
 みゆきは足をばたつかせて目の前に広がる光景を楽しんでいる。私も何となくみゆきからまた視線を前方に戻して深呼吸した。
 朝の空気は新鮮な気がした。何も変わっていないはずなのに、早朝の空気は何故か一新された気がするのは、やはり新しい一日の始まりだと思っているからなのだろうか。
「確かに良いプレゼントだったわ。ありがと」
 私がみゆきに視線を移すと、みゆきもこちらに振り向く。そして満面の笑顔で私の肩を掴んだ。

「プレゼントはこれじゃないよ」

「え?」
 みゆきは私の肩を支えに思い切り良く立ち上がると、その手を私のうなじに変えてグッと押して来た。
「ちょっと! 危ない! 危ない!」
 体は前傾姿勢になり、バランスが崩れる。校庭に投げ出されてしまいそうな体を何とか縁を掴んだ両手と壁に押し付けた踵で支えた。
「何すんのよ! こういう悪ふざけはいらないから!」
「ふざけてないよ?」
「はぁ? もういいから! 離して!」
 私は目の前に広がる視界を見つめながら後ろでどんどん力を込めて来るみゆきに叫ぶ。
「本当に! 良いプレゼントだったから! おかげで目が覚めた!」
 返答はなかった。代わりに力がまた強くなっていく。
「みゆき! 本当にやめて! お願いだから! 落ちちゃうから!」
「春乃。ジッとして。この高さだとちゃんと頭から落ちないと。死ねないよ?」
「み、みゆき?」
 その声は暗く、そして重たかった。でも確かにみゆきから発せられたとわかる妙な声だった。
「春乃。一緒に死のう? ね? 私はもうさよならするの。遠い世界に引っ越すのよ」
「死ぬ? あんたも、もしかして引っ越すって……!」
「うん。天国に行くの。一人で行くのもお互いに寂しいでしょ? だから一緒に行くの。ね? 春乃。出会えて良かった。ずっとずーっと一緒だよ?」
「ちょっと待ってよ! あんた何言ってんのよ!」
「わかってるんだから。春乃は死にたがってるんだよね? 目を見たらわかるんだ私。いや、匂いかな? うーん雰囲気かも。ま、何でも良いよね? だからさ私が手伝ってあげるよ。ね? そのかわりわたしとずっと一緒。ね? 裏切らないよね? ね?」
「わけ分かんない事言わないでよ!」
「そう? 図星なくせにぃ」
 みゆきの声は暗いまま、でもすごく楽しそうに弾んでいる。そうか、そう言う事だったんだ。
 みゆきは今日、ここで死のうとしていたんだ。怨念を込めてこの学校で、呪いでもかけるように飛び降り自殺をしてやろうとしていた。そこで偶然私と出会った。
 最初からこのつもりだったんだ。
「春乃? ね? 大人しくしてて。ちゃんと死なせてあげるから」
「余計なお世話よ! 死ぬタイミングなんて自分で決めるんだから! あんた死にたいなら一人で勝手に死になさいよ!」
「一緒だよ……一緒だよ」
 ぐっとまた体が前に押される。まずい、もう支えきれる自身がない。朝日はほとんど顔を出していて、脳裏に私の死体が浮かび上がって来た。真っ赤な血がみゆきの落とした涙のような波紋を描いていて、私はそこで目を見開いたまま横たわっている。
 こんな、こんな死に方を望んでいた訳ではない。こんな所で死ぬのならあの時、すんなり死ねていたはずなんだ。
 私はまだ何かを残しているんだ。きっと。その答えを知る為にここへ来たと言うのに、連れて来たあのバカ二人はどこをほっつき歩いているんだ。
 こいつだろう。今回助けるのはこのみゆきなんだろう。
 早く来ないと死んじゃう。みゆきも私も。

 早く。早く早く早く!

 早く来い! 来て! 来てよ! 何やってんのよ! 死んじゃうよ私!

 助けるんじゃないの! ねぇ! 答えてよ! ねぇ! 助けてよ!

 ――――千雨!

「そこまでだよ!」
 私の声にならない叫びに答えたように、聞き慣れた声が後方から届いて来る。最早ギリギリでとどまっていた私の体を押している力がピタッと止まった。
「あなた……誰?」
 みゆきの声が投げられる。私は後ろを確認出来ないが、コツコツと足音が近づいていた。
「動くな! 動くと一気に落ちるぞ!」
 みゆきの手に力が込められて、また少しだけ体が傾いた。もう時間の問題だ。握力もほとんど残っていない。
「わかった。これ以上近づかない。だからその手を離してくれないかな?」
「離すわけないじゃない。春乃は一緒に死ぬのよ」
「一緒に死ぬって……ただ単に春乃を殺すだけじゃないか」
「ふん。何の事かしら?」
「春乃を殺してどうするんだ?」
「一緒に居るのよ。この学校でずっと二人で遊んでるの。ずっとずっと楽しく過ごすのよ」
「……みゆきちゃん。時間がない。今から僕の言う事を聞いてくれ。いいかい? 幽霊同士は姿が見えない」
「は? 何言ってるのよ!」
「君は見た事あるか? 幽霊を」
 みゆきの手が震えた。少しだけ力が抜けて、私はグッと体を戻す。でも、直ぐにそれは押しとどめられてしまう。
「幽霊を見た事あるのかと聞いている」
「……ないわよ」
「だろう? 君が死んでもう七十年近く経つというのに。見た事がない。それはね、幽霊になったからといって幽霊が見えるようにはならないからなんだ。生前に能力を持っていなければ結局死んでも幽霊を確認出来るようにはならない。だから春乃を殺しても一緒には居られないんだ」
「そんなの……そんなの! やってみなきゃわからないじゃない!」
 私の体は依然として危険に晒されていたが、さっきよりは余裕ができていたため千雨の言葉をしっかりと聞き取れていた。
 みゆきは死んでいる。
 七十年前に。
 と言う事は、このみゆきは幽霊。地縛霊と言う事。私はずっと幽霊と過ごしていたのか。
 確かに、廃校になって随分と経っていた雰囲気だった。おかしいのだ。制服を着てこの学校にお別れに来ると言う事が。元生徒と言っても廃校になって随分と時間が経っているのに、いまだに高校生の風貌をしているみゆきが『ありえない』のだ。
 いざ、考えてみると簡単な話なのだが、私にはそこまで考えている余裕がなかった。そんな事よりも二人の姿が見えない事に焦りを感じていた。何かあったんじゃないかと不安でいっぱいだったのだ。無関心なフリをして見て見ぬフリをしていても、それは事実で、こうして見え透いた事実さえも見落としていたのだ。
 でも、それより、それよりも私の心に残ったのは千雨の一言だった。
(幽霊になったからと言って幽霊を見えるようにはならない)
 そう。死んでも幽霊には会えないのだ。生きているうちに視認出来ていた者同志なら違うのかも知れないが、そんな事はどうでも良い。私は幽霊が見えない。
「みゆきちゃん。その手を離してくれたら君の会いたかった人に会わせてあげよう」
 千雨の言葉にみゆきの手はどんどん震えを増して来る。ひどく動揺しているようだ。
「あ、会いたい人……会いたい人?」
「わかってるよ。君の未練は一つだろう。香奈ちゃんは何で来てくれなかったんだって。それが聞きたいだけなんだろう?」
「か……なちゃん……」
「長い事この場所に縛られている理由も忘れてしまったのかい? 君は人を殺す為にここにとどまっているんじゃない。復讐なんかどうでもいいんだ。君はただ一人の友達。香奈ちゃんに聞きたい事があったからここにいるんだ。思い出せ! 今、君のしている事は君の意志じゃない! ここに溜まった霊気が干渉しているだけだ!」
 私の首から手が離れる。途端に私は後ろへ思いっきり体を倒して青みがかった空を見上げながら高鳴る心臓と乱れた呼吸を落ち着かせた。
「春乃!」
 千雨は私の体を起こして抱いた肩を揺する。
「あんた……どこで……何してたのよ」
「ごめん! ちょっと手間取っていて。みゆきちゃんを具現化する術式が思った以上に時間がかかったんだ」
「具現化?」
「そう。ここは霊的磁場が強いからそれだけで目に見えない霊力が自然と干渉していたんだ。だからそこに対して葵の力を流し込んで、この中にいる霊をこの世にしっかりと干渉出来るようにしたって事。みゆきちゃんは春乃と波長が合って干渉出来るようになったと勘違いしたみたいだけどね」
 私は抱きかかえられながら何か色々と納得する。見えないはずのみゆきが見えた事も、そしてみゆきが私を自殺志願者と知っていて殺そうとした事も。何より、確かにここに来てから私は自分でも分かるくらい変だった。やけに暴力的な感情が出て来たり、本音を漏らしてしまったりと自分らしからぬ行動をとっていた。
 これが俗に言う霊気に当てられたと言う事か。みゆきも霊体だから私よりももっと受けやすい状態だったのかも知れない。きっとここに溜まっている霊気はあまり良いものではないのだろう。
「ちなみにその霊脈を見つけるのにも時間がかかっちゃってね。まいったよ本当に」
 少しずつ脈が落ち着いて来て、呼吸も安定した私は千雨に抱きかかえられたまま隣に立っているみゆきを見上げる。
 その顔は真っ直ぐ前を見つめていて、そして歪んだ顔からは大粒の涙が溢れていた。
「香奈ちゃん……」
 私はみゆきが真っ直ぐ見つめる方角に顔を向ける。逆さまになった屋上への入り口には葵と手を繋いで立つ一人の老婆が居た。
「香奈ちゃん!」
 みゆきは走り出した。真っ直ぐに、同じく震えながら涙を流す老婆に向かって。
「みゆきちゃん……みゆきちゃん」
「香奈ちゃん!」
 みゆきは老婆に抱きついた。抱きついたと言うよりは縋り付いたような形で、地面に跪きながらその老婆の着物を両手で掴んで泣き叫んだ。
「どうして! どうして来てくれなかったのよ! どうしてよ! 何でよ! 香奈ちゃん! 私、死んじゃったよ! 香奈ちゃんが来てくれなかったから! 止めてくれなかったから死んじゃったよー!」
「ごめんなさい……ごめんなさい……みゆきちゃん……本当にごめんなさい」
 老婆も泣き崩れて、二人はようやく抱きしめ合った。葵も一緒になって跪きながら何かを囁いていた。
「千雨。全部知ってるんでしょ?」
「うん。知りたいかい?」
 私は肩に回された手を払いのけて上体を起こす。日はすっかり昇っていて、空気にも新鮮さはもうなかった。
「話しなさいよ。話す義務があるんじゃないの? こんな目に遭わせておいて」
 落ち着いた心とスッキリした頭は少し冴えていた。そんな頭が一つの答えを導きだしたのはついさっきの事。
 みゆきが具現化したのは夕方。まだ赤みが差した頃だった。
 霊脈を見つけるのにも、術式にも時間はかかったのかも知れないが、それでも夕方には実際にみゆきと私は出会っているのだからそれ自体は終わっていたはずだ。
 葵はもしかしたら、その後あの老婆を見つける為にどこかへ行ったのかも知れないが、千雨は絶対に手が空いていた。むしろ霊脈を探すのも術式も葵がやったんではないか?
 そう考えると一つの答えが浮かんで来る。
 千雨はわざと身を隠し、私をこんな状況になるまで放っておいた。
 理由は大方、私がまだ死にたがっているのか確かめる為かもしくは、私に死ぬ事に対しての考え方を改めさせる為のショック療法か。恐らくそんな所だろう。どっちかわからないけど、聞く気にもなれないほど下らない作戦だ。どうせ、落ちた所で葵の力かなんか使って助けられたのだろう。
 これは作られた舞台だ。主演はみゆき。私は助演。制作脚本、千雨と葵。友情出演であの老婆って感じ。見事に嵌められた。ドラマチックに演出してこの再会を彩ったのだ。
「さ。早く話してよ」
 私は振り向く。千雨は苦笑いを浮かべていた。その先にはいまだ抱き合って泣き続けるみゆきと老婆。わだかまりは解けたのだろうか。
「春乃は約束を破った事ある?」
「ない」
 約束なんてしない。する人も居ない。
「……そう。まぁあの二人はある約束をしたんだ」
「だからそれをちゃんと言ってよ」
「ははは……そうだね。じゃあしっかりと最初から――――」

 千雨は二人に起きた物事を順序立ててゆっくり説明した。
 みゆきがいじめられていた事は知っていた。そして唯一の友達である香奈ちゃんの存在も知っていた。でも、その先は私どころか恐らくみゆきも知らない話だった。
 香奈ちゃんはいじめられていた。みゆきちゃんが転校して来てから、そして隠れて仲良くしてから。いくら隠れていても、この小さな町では隠しきれなかったのだ。周りにはバレていた。ただ、香奈ちゃんは逆に自分がいじめられている事を友達のみゆきちゃんに隠していた。幸い、イジメは表立って行われるものではなく、更に陰湿なものだった事からその隠し事はバレずに済んだが、それが仇となってしまった。
「多分、言った人はそんな気なかったんだと思うけどね。みゆきちゃんにとっては何よりも大切な事だったんだよ。信じたいから疑うんだ。信じているからこそ疑ったんだよ」
 千雨は悲しげな表情で二人を見つめた。

 ――――香奈はみゆきがウザいらしいよ。

 二人の関係をからかって言った言葉なんだろうけど、それは小さな亀裂を生んだ。それを聞かされたみゆきは一人で悩んだ。今、こうして笑っている友達が実は自分の事が嫌いなんじゃないかという疑いはどんどん膨らんでいく。楽しそうにしていればいるほど全てが嘘に思えてしまった。誰にも相談出来ず、誰も信用出来ない中で唯一の友達が信じられない。
 その苦痛に耐えきれず、みゆきはある行動に出た。
 放課後、香奈の鞄に手紙を入れた。
 『私、もう耐えきれない。もう無理。ごめん。私、死ぬね。夜明けにこの大嫌いな学校で飛び降りてやろうと思うんだ。誰にも言わないでね。誰かに言ったら直ぐに飛び降りるから。でも、香奈ちゃんが止めに来てくれたら私は死なない。香奈ちゃんが止めるなら死ねるわけない。香奈ちゃんが止めてくれたら。私はもう少し頑張ろうと思うよ……だから、来てね』
 手紙の内容は香奈に縋るようなものだった。死ぬと言う予告ではなく、止めてくれという願いの手紙だ。
 友達を信じて。信じたくて起こした行動。一方的な約束。もちろん、その約束は守られると信じていた。疑っても疑っても疑いきれないのは、やはり信じていたからだろう。唯一の友達。
 親友とも言える存在を。あの楽しい時間が嘘じゃなかったと。
 願うんじゃなくて信じたんだろう。
 ……でも、その約束が守られる事はなかった。
 朝方までこの屋上で待ったみゆきは誰もいないこの学校で初めて見たこの朝日に彩られた綺麗で大嫌いな町の風景をその目に焼き付けて、頭から地面に叩き付けられた。
 香奈は……来なかった。いや、来れなかった。
「交通事故に遭っていたんだよ」
 千雨は顔を歪める。私の目からは何故だか涙が溢れてしまった。
 香奈は学校に向かっていたのだ。家で開けた鞄に入っていた手紙を読んで直ぐに家を飛び出していた。脇目も振らずに全力で走った。そのまま行けば朝方どころか夜が更ける前に辿り着いたであろう。
 ただ、辿り着けなかった。
 正確には三ヶ月後には学校に来れたのだが、香奈が車に轢かれて意識を失っている間にみゆきは自らその命を絶っていた。
 どれだけ悔やんでも時間は戻らなければ、その事実も覆らない。香奈は自分が殺したと自分を戒めながら、そのまま卒業していった。
 そしてその出来事のおかげですっかりとイジメは止んでいたのも香奈を追いつめた。
 もし、代わりに自分が死んでいればみゆきへのイジメが無くなっていたんじゃないかと考えれば考える程、みゆきが死ぬ必要なかったと感じた。
 みゆきの居ない学校で穏やかな時間は瞬く間に過ぎて行き、やがて香奈はこの町を去る。
 この学校に親友が止まっている事も知らずに。そしてみゆきもまた、幽霊としてしっかりと自我が戻った頃にはもう学校は生徒数の減少から廃校になっていた。
 約束はすれ違ったまま。二人は破った、破られたと勘違いしたまま七十年も時が経ってしまった。二人ともその事をずっと胸に抱いたまま、みゆきはそれでも香奈を嫌いになれず、香奈もまたずっと心の底でみゆきに謝り続けていた。
「小娘!」
 千雨から真実を聞き、涙を流しながら二人を眺めていると、老婆を握ったままの葵が私を手招いた。
「春乃。行きなさい。もうすぐみゆきちゃんに会えなくなる」
 千雨は私の背中を優しく叩くと、こちらを向いている二人の方を見た。
 どうやら長年つっかえていたものが全て解けたらしい。二人は目を真っ赤にしながら微笑みを浮かべていた。
 私は立ち上がり、老婆とみゆきの前へと立つ。跪いたままの二人を見下ろす形が何となく嫌で私もそこで膝をついた。
「春乃。ごめんなさい……ごめんなさい」
 みゆきはまた涙を流しながら私に頭を下げる。老婆はその背中を抱いていた。
「いいよ。話は全部聞いたから。あんたのせいじゃない。何か変な霊気が溜まってるんでしょここ。私もちょっとあてられたみたいだし。まぁそう言う事だから気にしてないよ。それより、まぁ何て言うか……一緒に居てくれてありがとう。おかげで楽しかった。こんな暗い学校で寂しい思いをせずに済んだのはみゆきのおかげだよ。後、見せてくれた景色、すごく良かった。ごめんね。私、そういうの素直じゃないからさ。だからもう顔上げてよ。もう時間ないんでしょ? 折角親友に会えたんだから。七十年も思い続けた人なんでしょ? ほら早く顔上げて!」
 私が頭を撫でるとみゆきはゆっくりと顔を上げて、涙を流しながら笑った。少しずつその姿が薄く透き通りかけている。
「ありがとう。私も楽しかった。素直じゃない春乃はとっても可愛かったよ? ありがとね。葵さんも。向こうに居る千雨さんには春乃からお礼を言っておいてね。香奈ちゃん。会えて嬉しかった。私の方こそごめんね。何も気付いてあげられなくて。ごめんね……ごめんね」
「みゆきちゃん……いいの。いいのよそんなの。私の方こそごめんなさい。本当にごめんなさい」
 二人は手を繋いでお互いに頭を下げる。やがてみゆきの姿がほとんど透き通るとスッと繋いだ手が通り抜ける。二人は見つめ合うと互いに笑った。
「香奈ちゃん……大好き」
「みゆきちゃん……私もよ。私も大好き」
 みゆきは私に振り向く。その透き通る顔は優しく微笑んでいた。
「もし、生きてる間に春乃と会えてたらきっと友達になっていた気がする」
「……そう? かしら」
 みゆきはクスクス笑ってその姿を輝かせながら煙のように消えていった。

 ――――ホント、素直じゃないんだから。

 最後に言った言葉はハッキリと私の耳に残った。
「うっさい……バカみゆき」
 声はきっと届かない。もう居ないみゆきに呟く言葉も結局、本心じゃないのがなんだか自分らしくて笑えた。
「みなさん。本当にありがとうございました」
 老婆は深々と頭を下げた。
「礼など良い。仕事じゃからな」
 葵は強く頷く。私は言葉が出なかった。
 目の前で頭を下げている老婆の体が、みゆきと同じように透けていた。
「ちょっと……これって」
「彼女は死んでるんだ」
 千雨はいつの間にか私の後ろに立って頭の上に手を置いて来た。私はそのまま振り返りも振り払いもせずにただ、目の前の光景から目が離せなかった。
「香奈ちゃんは数年前に亡くなっている。その後はこの町を彷徨う浮遊霊になっていたんだ。どうしても謝りたくてずっとみゆきちゃんを探してたんだよ。霊同士がお互いを視認出来るものじゃないと知らずにね」
「全く苦労したわい。あんな山の奥にある川にいるんじゃからな」
 葵はほとんど姿が透き通っている老婆の手をまだ握っていた。
「葵はね。霊に触れる事が出来るんだ。そして手の平同士を会わせればその姿を具現化出来る。弁離士のランクが上がる条件の一つだね」
 千雨が言うと葵は胸を張り、フンと鼻を鳴らした。
「春乃ちゃん。私もみゆきちゃんと同じ気持ちです。生きているうちに会ってみたかった」
 本当にありがとう。みゆきちゃんを救ってくれて。私を救ってくれて。と言葉を残してその姿は消えていった。
「小娘。どうじゃ。こんな芸当、貴様には出来まい」
 葵は立ち上がり、膝を払った。そんなもの時空を超えた時から知っているというのに、こいつは何が何でも上に立ちたがるんだな。
「春乃。今回は大変だったね。まぁこれで二人同時に成仏出来たし。ね?」
「なにが『ね?』よ。こっちは散々よもう」
 私も立ち上がってあちこちの汚れを払った。
 あの老婆は浮遊霊と言っていたが、と言う事はみゆきを助けるついでに成仏させたと言う事なのだろうか。地縛霊専門なのだから。それともこの町に縛られた浮遊霊という形でそれも地縛霊に入るのだろうか。
 そんなに簡単な話じゃない。なるほど、確かに知れば知る程わからなくなる。定義付けと言うのは本当に難しい。
 ただ、私はそんな事よりも確かめなくてはならない事があった。
「ねぇ千雨。さっき言ってた事だけど」
「ん? なんだい?」
 私はスカートを払いながら千雨と向き合う。
「その、幽霊になったからと言って幽霊を見れないって」
「うん。そうだよ。今の時点で見えていなければ死んでも見れない」
「じゃあ、私が死んでも幽霊に会えるわけじゃないのね?」
「そうなるね」
「じゃあ成仏した霊は何処へ行くの?」
「どこへも行かん」
 葵がズイッと間に割って入ってきた。そして私を見上げたままその憎たらしい口を開く。
「ただ消えるだけじゃ。存在がなくなる。無に帰すと言う訳じゃな」
「そう……」
 私は顔を上げて横を向き、眼前に広がる景色に溜め息を吐いた。
 まいったな。今度は死ぬ理由も無くなってしまった。
 ほんの小さな願望にも似た希望がいよいよ無くなると、私はどうしたらいいのだろう。
 生きる理由は今もない。でも、バランスを傾けていた『もしかすると』が無くなった以上、死んだ所でどうしようもない。
 なら、私はどうすればいいんだろう。いよいよ、私の行く末も分からなくなってしまった。
「さぁ。この町であともう一件やったら終わりだ。春乃。もうすぐだよ。その悩みもきっと解決する」
 目の前で笑う千雨に力なく頷く。私はどこまでこの男の思い通りになっているのだろうか。
 でも、どうでもいい。今は何もかもがどうでも良かった。
 答えなんかもう……いらない。私はもう空っぽだ。
 ――――母さんは急に私の目の前から消えた。

 まだ小学生になる前の私にとっては死ぬと言うより文字通り『消えた』のだ。
 次の日から居なくなっているなんて思わなかったから、病院で色んな管が繋がれて包帯で巻かれていた一瞬、母親かと疑ってしまいそうな人が言った「さよなら」がまさかいつも友達に言っている「バイバイ」とはまるで違う意味だと思いもしなかった。
 だから、正直言って母さんが言葉を詰まらせながら話した事をほとんど覚えていない。それよりもおぼつかない手で撫でられた頭の感触が今でも私の中に残っていた。
 多分。多分だけど色々と謝っていたような気がする。それと何か私の好きな所をつらつらと述べていたような気もするし、今後気をつけなければいけない事も言われた気もする。
 とにかく、母さんは目を瞑るその瞬間まで私の頭を撫でながらずっと私に話しかけていた。
 あの時の気持ちは何故だか思い出せないでいる。一体、私はどんな気持ちでどんな顔をしてどんな言葉を放ったのだろう。
 ちゃんと返事は出来ただろうか。
 ちゃんと笑っていただろうか。
 ちゃんと泣いていただろうか。
 ちゃんと母さんにありがとうを言えただろうか。
 ……さよならを言えたんだろうか。


 あんまり思い出せないくせに、しっかりとその出来事は私を変えているんだから始末に負えない。
 最後の最後まで優しかった母さんとは似ても似つかない程、無愛想になった私は母の遺産金を頼りに、高校入学と同時に施設を出て一人暮らしをしていた。
 大好きなお母さんを思い出しては胸の詰まる思いをしてきた私はいつしか、その記憶すら封印して、息の詰まる施設暮らしを乗り越え、ようやく解放された。
 高校入学したのは周りの説得があったから。働いても良かったんだけど周りがうるさいから黙らせる為に私は高校を受験した。こういうやり方がいつからか根付いていた。
 色んな事がどうでも良かった私は、めんどくさい事を避ける為には自分の人生だって利用した。そうして思い通りの生き方をするフリをすれば周りはもう何も言わなかった。
 人生なんて投げやりにしてしまえば簡単なもんだ。と思った。思っていた。
 正直、私の預金額はきっと大学を卒業してもしばらくはダラダラと過ごせる程には余裕があったんだろうけど、私はそれを選ばなかった。途中でリタイアした。
 それでも、全てを処分したのに母の遺産だけはどうする事も出来なかったのはやっぱり母の思いを踏みにじる可能性があったからであろう。
 もし、あの最後の時に母さんがしっかり生きろなんて言っていたら私はその約束を破る事になる。母の思いを踏みにじる事になるのだ。果たして年端もいかぬ子供にそんな伝わらなそうな言葉をあの母がかけるかと言えば疑問だったが、可能性はゼロではない。何故ならあの時間は最後の時間だったんだから。何が起きても不思議ではない。
 それでも、母さんは私が死んで会いに来たと言えば、困ったように笑って「そう」と言いながら頭を撫でてくれるだろうという確信はあった。
 そういう母親だったのだ。決して叱らずに、でもしっかりと道を示してくれる。
 誰よりも優しくて愛しい母親だったのだ。
 でも、まさかこうして預金に手を付けずに放っておいたのが、後になって役に立つなんて。
 皮肉なもんだ。
 それでも、私がこうして現世に見切りを付けるまでかなりの時間をかける事が出来たのは一人の時間が思った以上に快適だったからであろう。
 余計な邪魔が入らないのなら炊事も家事も全く苦にならなかった。
 小さなワンルームの部屋はまさに私だけの世界で、誰にも邪魔される事がない私だけの居場所だった。結局、生きる事を諦めるのだけど。
 それも、まぁこうして一人暮らしを続けた結果と言えばそうなんだと思う。一人に嫌気がさした。いや、私は生きていても意味がないんじゃないかと思ったのだ。
 誰からも干渉されないのならイコール私は誰にも干渉していない。何にも干渉していないのなら居なくても同じじゃないか。そうか。私はもう既にここに居ないのだ。
 だったらさっさと死んで母さんに会いに行こう。きっと心配で見ているはずだ。死ねば直ぐに会える距離に居るはずだ。と思ったのは高校にも行かなくなってしばらくしてからだった。
 こんな事を思い出してしまったのはきっとその願望にも似た希望がスッパリ絶たれてしまったからだ。私は死んだ所で、母には会えない。
 じゃあ生きるのか?
 生きる意味をずっと見出せなかったのに、死ぬ理由も無くなったからと理由も無く生きていくのか。
 そんな下らなく、そして重要などうしようもない『命題』がグルグルと頭の中を回っていた。
 生きる。のならば私はこの世界と共存しなければいけない。いつまでも一人と言う訳にもいかないのだ。母の残した蓄えにも限りがある。限りある人生よりもずっと早くそれは尽きてしまう。
 私はまたあの高校に通うのか? みゆきや香奈さんよりもずっとダメダメな私の高校生活。
 私はどんな高校生だったっけ?
 そんなに昔じゃないのに思い出すのが難しいくらい意味のなかった時間。
 でも、思い出さないと。今の私にはそうして過去を遡るくらいしか出来る事がない。
 未来がまるで見えないのだから。
 生きるのか死ぬのかもわからないくらいどうしようもないのだから。



 ――――……。



 ――――高校の入学式は普通。
 浮き沈みも無く、滞りも無くその一日は何でもない毎日の一つで、つまり日常だった。
「ねぇ。朝倉、さん?」
「ん?」
 式も終わり、私は振り分けられたクラスの更に振り分けられた廊下側二番目の席に座った。その座った瞬間に後ろから話しかけられた。
 その子は江上さんと言って、後に様々なイベントで先頭に立ちクラスのムードメーカーみたいな存在になる女子なんだけど、その時の私には知る由もない。
「朝倉さんって朝倉何さん?」
 江上さんは黒板を指差した。そこには席番号の下に書かれた生徒の名字、江上さんはその右上らへんにある私の名字を指差しているようだった。私はその勢いに呆気にとられながら重々しく口を開く。
「朝倉……春乃さん」
「はるの! それはどういう字書くの?」
 私は渋々、ノートを取り出し書き慣れた自分の名前をサッと書いて見慣れない女子に向けた。
「春乃! 朝倉春乃って何かいーね! かわいい! ってか春乃美人だよね? くやしー!」
「あ、あぁ……」
 見慣れない女子、江上さんは勝手に話を進めて勝手に私の顔を褒めて勝手に悔しがった。
 そんな人間と出会った事がない私は何も言えず、溜め息にも似た相槌を打つ他なかった。
 その後も江上さんの独壇場は続き、色々と聞いてもいない事を言ってきたりどうでもいい事を聞いてきた。
 その中で覚えているのはただ一つ。その見慣れない女子は江上沙織と言う名前だと言う事だけだった。
 江上さんはその次の日もそのまた次の日も素っ気ない態度を取る私に話しかけてきた。私がいくら冷たい態度をとっても気にする事無く、休み時間の度に話しかけて来る。
 あんな事を言っておきながら元々美人なのは江上さんの方で、しかもその目立つ明るさは次第に周りに溶け込んでいき、周りを溶け込ませていき、いつしか私の席(正確には江上さんの席)の周りには良く人が集まるようになっていた。
 迷惑ではあったが、私は携帯電話も持っていなかったので繋がりが強まる事も無く、広がる事も無く何となくそこにいる空気のような存在としての地位を確立していた。
 本来、地位と呼べる程のものではないのだけれど。
 それでも江上さんは話しかけて来るし、目の前で話しかけられているのに無視する訳にもいかない私はやはりその場に参加していた。せざるを得なかったと言う方が正しいか。
 最後の最後までしつこく、携帯を持たないのかと聞いてきたのも江上さんだった。
 大抵の人は「ない」と言えば、それ以上聞いて来る事はなかったのだが江上さんはそれに対して「何で?」ではなく「じゃあ買おう!」なんて言って来るからすごく困った。
 私も決して折れないから遂には諦めてくれたけど、江上さんはメールの代わりによく手紙を回して来るようになった。
 主に授業中に渡されるそれは本当に何でもない内容で、私はそれに対して「うん」とか「ううん」で答えるばかり。それでも絶えずやってくるので、いつしか背中を叩かれるだけでサッと手を後ろに回し、手紙を受け取る芸当まで身につけていた。
「ねぇ! 一緒に組もうよ!」
 ホームルームが終わって帰り支度をしていた私を江上さんは引き止めた。
 一緒に組もうと言うのは今さっき先生が話した遠足の班の事だ。
 どうやら親睦を深める為の恒例行事らしく、四人一組の班で近くの山を登り頂上で弁当を食べるというただのピクニックの班を来週までに決めて後ろにある小黒板に書くようにと先生は言って教室を後にした。江上さんはそれを私と一緒に行こうとしているのだ。
「いや、そうだね……」
「なんだよー! つれないなぁ! ね? 行こうよ!」
「うん……そうね。じゃ、よろしく」
「オッケー! じゃあさ、あと二人は誰誘う?」
「えっと……」
 誰でもいいんだけど。なんて言ったらあまりにも感じが悪そうだな、と思い私は教室を見回す。最早ピクニック自体行く気になっていないので何なら休んでやろうと思っていたくらいなのでメンツはホントにどうでも良い。けど、こうなってしまっては休みづらくもある。
 江上さんにこうして面と向かって誘われてしまったら本当に休みづらい。
 きっと仮病を使ったら本気で心配されるだろうし、お見舞いなんかに来られたらもっとめんどくさい。
 だとしたら……行くしかないか。
「そこは江上さんに任せるよ」
「えー? 私が決めていいの?」
 私は頷く。結局、行く事になっても行きたい人も行きたくない人もいなかった。どちらにせよ、だれでも良かったみたいだ。
「じゃあ、また明日」
「えー! 本気で帰っちゃうの! わかった! また明日!」
 江上さんは驚きながら手を振ってくれた。私はそれに力なく振り返して教室を去った。こういう時は割り切るのが早いから楽だった。変に無理矢理引き止めようとはしない。何となくウマが合うと言うか、呼吸が合っているらしい。
 悪い事したかな。なんて考えながらいつもの下校道をブラブラと歩いていく。家までは大体三十分。
 バスか自転車で来てもいい距離なんだろうけど、私は歩いた。節約でもあるし、天気で左右されないのが良かったからだ。私はどんな天気でも同じ時間に起きて同じ時間に家を出る。
 完璧に決められたルーティンの中で生きる事で少しだけ安心していた。
 行き帰りの道筋も一緒。同じ風景を歩いていくといつしか風景は目に入らなくなる。まるで透明な世界にいるような、ワープして家に着くような感覚が良かった。
翌日、学校に行くと既に小黒板には私と江上さん、他二名の名前が書かれていて彼女の迅速な行動に驚かされた。
 他二名の女子もまぁまぁ私に話しかけて来る方の人達だったので、そこら辺も気を使ってくれたのかも知れない。それにしても早過ぎるけど。他にグループが決まっているのはもちろんいなかった。
「おはよう春乃!」
「あ、うん。おはよ」
「めでたくあのメンバーになりました!」
 両手を後ろの小黒板に向けて笑う江上さんは嬉しそうだった。私は一度、黒板に視線を移した後、軽く頭を下げた。
「ごめん。任せちゃって」
「いーの! 楽しみだね!」
 私は頭を上げて頷く。楽しみではなかった、けど楽しもうと努力しようと思った。
 それからお昼は班の四人で食べる事が習慣になって、その内に周りもどんどん班が出来だして私たち同様に班毎に分かれて昼食をとるグループが増えた。もう、この時点で親睦を深めると言う目的は達成出来ているんじゃないかと思ったけど、あっという間に遠足本番は当たり前だけどやって来る。
 当日、やはり私は休む事が出来ず久しぶりに寝間着以外の私服に袖を通して何年ぶりかに髪を縛って家を出た。今まで休日でも外に出る時は制服を着ていた私は今、着てる服がもうちゃんとしているかどうかさえ分からなかった。恐らく大丈夫だとは思うんだけど……
「あ! 春乃ー!」
 これまた久しぶりに電車に乗って、集合場所近くの駅で降りると待ち合わせ場所の改札に江上さん達がもう来ていた。
「朝倉さん今日、雰囲気違うね!」
「うんうん! その髪型かなぁ!」
 集合場所に小走りで来た私に挨拶代わりの褒め言葉を投げて来る二人に相槌を打てず、とりあえず愛想笑いでごまかす。やっぱり褒められるのは苦手だ。
「春乃ってやっぱセンスもいいんだねぇ」
「え?」
 江上さんの言葉には何故か反応してしまう。
「だって制服の着こなしもバランス良いしさ。スカートの丈とか絶妙じゃん? エロ過ぎずダサ過ぎず健康的で可愛い感じ。さすが二組のクールビューティー!」
「く……クールビューティー?」
 江上さん達は「知らないの?」と驚いた顔を向ける。
「春乃ってクールキャラが有名じゃん? それでいて美人だからクラスの男子はみんな言ってるよ?」
「朝倉さん絶対知ってると思ってた!」
「うん! 反応無いのは興味ないだけだと思ってたよ!」
 三人はどうやら私が男子に興味がないからあえて無視していたのだと思っていたらしい。
 それほど男子は分かりやすく騒いでいるみたいなんだけど、私はそのアピールに全く気付いていなかった。
 それを言うと三人はケラケラ笑い出して私はこの瞬間「クール」から「天然」キャラになったらしい。
 集合場所には班が揃ったものからエントリーするスタイルだったのでそこまで人は溜まっていなかったのだけど、それでも私はそんな話をされた以上、ちらほら目が合うクラスの男子達の挙動が少し気になってしまった。
 エントリーはスムーズに終わったので幸い、集合場所に止まっている時間は少なかったのだが所々にあるチェックポイント兼休憩ポイントではやはり男子と目が合ってしまった。
 気にするだけでここまで違うとは。明らかに私が意識しているから目が合っている。男子達はいつもと変わらないはずだ。と思う。
「いやー! 絶景だねー!」
「ちょっと沙織危ないから!」
「もう少し下がろう! ね!」
 斜面になっている場所のギリギリに立つ江上さんを笑いながら引っ張る二人を私は一歩引いた場所で眺めていた。足はもう棒みたいになっていたし、喋る気力もない。動きたくない。
 ついさっきまで私と同じような状態だったのにいきなり回復するこの三人が理解出来なかった。
 見晴らしが良い場所ってだけで一瞬で体力が戻るのを若さと言うのなら私はもう死体みたいなもんだ。老人どころの騒ぎじゃない。今もこうして静かに深呼吸してもあんまり体力が戻って来ないのだから。
「いやー! お腹空いたね! よっしゃ! お弁当食べよう!」
 とりあえず景色に満足したのか、江上さんは踵を返して空いているスペースにビニールシートを敷いた。
「はいはい! みんな座って座って!」
 江上さんは自ら用意してきたビニールシートに靴を脱いで座り、バンバンバンと三カ所手の平で叩いた。必要な持ち物に書いてなかったビニールシートをわざわざ用意して来た班は私たちだけだった。
「沙織。準備良いねぇ」
「お邪魔しまーす」
 二人は言われるままに靴を脱いでビニールシートの上に座る。私ものそのそと体を動かして靴を脱ぐと、ゆっくりそこへ腰を下ろした。
 お弁当の時間もまた朝のような問答が繰り広げられる。私が自作したお弁当を二人が褒めて、江上さんが毎日の弁当を褒めた。ただ、私は朝以上に言葉を放たずとにかく頷いていた。
 おかず交換もしっかりと行われ、食事が終わると私たちはそのまま動かず、体の力を抜きながらダラダラとお喋りを始めた。景色も空気も良い場所で三人は教室の昼休みと同じような会話を楽しそうに話している。私は時折、単語を挟みながらそれを眺めていた。
 登山とピクニックの間みたいなこのイベントはこれでようやく半ばに来た事になる。後は下山、そして帰宅だ。
 明日が休みで助かった。多分、休みじゃなくても私どころか沢山の人が休んでいただろうけど。
 それにしても、ここは眺めがいい。
 あれだけ時間かけて登ったのだから当たり前だけど、広がる緑の平地の先には更に高い山々が並んでいる。平地いっぱいに広がってそれぞれの話題に笑っている同級生の声をBGMにしていたら何だか心地よく眠れそうだった。
「ちょっと春乃! 春乃!」
「……ん?」
 どうやら、眠れそうだどころか本当に寝ていたらしい。気付けば周りに居たはずの同級生達もかなり数が減っていた。
「私、どれくらい寝てた?」
「いやわかんないよ! 気付いたら寝てるんだもん! ビックリしたよ!」
「朝倉さん喋らないのに慣れちゃってたから全然気付かなかった」
 とにかくもうそろそろ行かないと。と三人が立ち上がるので、私も急いで立ち上がりビニールシートからどいた。体力の回復具合からかなりの間、寝ていたと思う。恐らく三十分は寝ていたんじゃないか。
 すっかりリフレッシュした私はその後の下山もしっかりとやり遂げて、今日のイベントを無事に終える事が出来た。
「春乃じゃーねー! また明後日!」
「朝倉さんまた!」
「またねー!」
 家の最寄り駅に着いて私は座席から振り返って手を振る三人に小さく手を振る。電車内はやれ疲れただの足が痛いだのの文句ばっかりだったがその顔はどれも笑顔だった。
 一人、下りた駅のホームで三人を乗せた電車を見送ると私は階段を上る。足が思うように動かないのにちょっとだけ苛立ちながら行きよりも時間をかけて家路についた。
 その後のクラス内は先生方の思惑通りちょっとずつ打ち解けていき、一年の半分を過ぎた頃にはすっかりグループも出来上がっていた。
 私は席替えで念願の窓側に移り、江上さんと席が離れたのだけど、あの遠足以降四人で昼食をとるのが恒例となってしまって今でも昼休みになると私の所へ三人はやって来る。
 私の性格も徐々に掴んでくれていたので三人と過ごす時間がそんな苦痛でもなかったのが幸いだった。
「春乃! ちょっと放課後良い?」
「え? どうしたの?」
「内緒! サプライズ!」
「サプライズって、意味分かんないんだけど……」
「いいからいいから! 時間ちょっとだけ! ね?」
「別に良いけど」
 江上さんは「よし!」と頷いて私の席から去って行った。五時限目の終わり、僅かな十分休みの出来事だった。
 約束通り、六時間目が終わると私は鞄を持って江上さんの席へと向かう。
「んじゃ行こっか!」
 江上さんは机の横にかけた鞄を肩にかけて私の手を引いた。
 教室を出て、生徒の合間を縫っていく。一年のエリアを抜けて階段を一つ上がって三階に行くと渡り廊下を渡る。初めて通った道はまるで自分が通う学校じゃないみたいな違和感を感じた。
「さ! ここから階段を上がります!」
 特別教室が集まっている別棟の階段を上がっていく。一番端にあるこの階段には帰る者も部活に行くものも居なかった。文化部が居たりしても良いと思うのだけど。
「はい! ここです!」
 江上さんは階段を上り切って、屋上に出る扉がある踊り場で私の手を離した。
「ここ? 何ここ」
「見ての通り。屋上に続く扉です!」
「見りゃ分かるけど。それが何?」
「ふふん! お楽しみはここからだよ!」
 江上さんは扉のノブに手をかける。そしてゆっくりと回すと扉を押し開けた。
「え? 何で? 鍵は?」
「ふふふ! かかってないんですよ! ここだけ! 世紀の大発見です!」
 江上さんは屋上に一歩足を踏み入れて人差し指を立てた。
「二人だけの秘密ね!」
 私は頷く。そして手招かれるまま一緒に屋上へ降り立った。
 そこには空が広がっていた。柵に手をかけて見下ろすと、校庭の様子が覗けた。
 ここから見えると言う事は向こうから見えると言う事。なので私たちはそこから離れて結局入り口側の壁に寄りかかりながら腰を下ろして、並んでやっぱり空を見上げた。
「あのさ。何でここに私を連れて来たの?」
 風が通り抜けていく、その方向にゆっくりと流れていく雲を見つめながら私は江上さんにこの行動の真意を聞いてみた。
「何でって。見つけたから」
「そりゃそうだろうけど。何で私に?」
「だってこういう場所好きでしょ? 遠足のときすごく気持ち良さそうに寝てたし」
「うん……うん」
「こうしてボーッとしてるのも好きそうだし。だから私と春乃しか知らない場所にしようと思ったの。聖域よ聖域! サンクチュアリ!」
「サンクチュアリって……」
 溜め息は目にも映らないまま流れていった。
 また、明日も来ようと静かに決めた。

 ――――……。

 私は放課後にここに来る事が多くなった。江上さんが隣に居る事が多かったけど一人で居る時もあったし、だんだんこの場所がお気に入りの場所になりつつあった。
 江上さんは隣でいつだって笑いながら私のつまらない返答も気にせずに色んな話をしてくれた。つまらない話も少し興味を引いた話も全て同じテンションで話す江上さんはみんなから好かれる理由を私にいかんなく教えてくれた。
 時間が過ぎて行くのと比例して江上さんの人気は上がっていった。
 男女分け隔てなく、彼女の周りはいつも賑やかで、離れた席の私はその賑やかな中心を時々眺めながら、たまに目が合って笑う江上さんに眉を上げて答えて、また窓の外へ目を移す。
 私の周りは誰も寄って来ない。
 でも、江上さんはどれだけみんなから離されなくとも、私との秘密の場所に何度も顔を出してはいつもの笑顔で私に話しかけた。それがちょっと嬉しかった。
 江上さんは私とは違う。
 真逆の人間だ。なのにこの親近感はなんなんだろうと心の隅で考えていた。全く違うのに何故ここまで近しいものをかんじるのだろうかと。
 答えは簡単だった。
 わかったのはもう一年も終わる頃だったけど。灯台下暗し。冬に気付いたそれは私の心を温めた。
 江上さんは私の側にいたのだ。
 江上さんは私とは全然似てない。
 私の母親に似ていたのだ。
 どんなに私が冷たくしても笑って許してくれる。そして絶対に離れずいつでも笑っていて、周りには沢山の友達が居て、人気者。ちょっとした有名人。おまけに美人で、冗談が大好きで。
 何より私の事が大好きで。
 あの日、一瞬で消えたお母さんに私はこの場所で会えたのだ。
 気付かないうちに私は江上さんに憧れていた。だからどうするって訳でもないけど。
 実の娘である私よりも母親に似ている彼女に私は知らぬ間に母の姿を重ねて居た事に気付くと、何となく今まで感じていた私の心の隅にある消化しきれない光が肥大化していった。
「おー! 雪だ! 見てみて! 雪だよ雪!」
 空からヒラヒラと降って来た白い雲の欠片を両手で救うようにして受け取り立ち上がると、江上さんは屋上をクルクルと回りながら駆け出した。
「見てるよ。雪降ってきちゃったね」
 私も立ち上がって胸の前に両手を差し出す。欠片は手の平に乗る事も無く、当たった瞬間に溶けてしまった。
「春乃! 春はもうすぐやって来る! 気にする事はない! そのうち君の季節はやって来るのだから、そんな顔をせずに今は冬を楽しもうではないか!」
 江上さんは急に上がったテンションを制御出来ないのか、訳の分からない事を言いだした。そんなに私は悲しい顔をしていたのか。確かに雪、面倒くさいな。って思ってたけど。
「よーし! 今日から温かくなるまで君は冬乃だ!」
「もう意味分かんないよ。じゃあ暑くなったら夏乃なの? 私」
「ははは! いーね! じゃあ肌寒くなったら秋乃ね!」
 江上さんは笑う。私も笑ってしまった。
 雲の欠片が落ちて来る秘密の場所で私たちはいつまでも笑っていた。
 でも、江上さんが私を夏乃と呼ぶ日は来なかった。


 ――――……。


 春が来て、私もみんなも同じように学年が一つ上がる。
 冬乃と呼ばれた日から一週間程したらまたいつもの春乃に戻ったけど、きっと夏になったらあの炎天下にまたテンションが上がって夏乃と呼び出すのだろうなと密かに思っていた。
 クラス替えは私と江上さんを別の場所に分けてしまったけど、私たちにはあの秘密の場所があったから、放課後は良く顔を合わせていた。
 私はと言うと、ほぼ毎日のようにその場所に来ていた。
 二年になっても教室に居るんだか居ないんだかわからないような存在なのは変わらない。でも、一年の時のように私に話しかけて来る明るい子は居なかった。
 私は様変わりした教室の廊下側一番前の席でボーッと頬杖をつく。
 ひどく退屈で、周りの笑い声がBGMどころか雑音に感じた。
 イライラして仕方がない。
 そんなオーラが知らず内に出ていたのか、近寄って来る人もいなかった。これこそクールビューティーだ。あの私を『天然』と認定した班の人達は一人も居ない。だから私はこのクラスでまた『クールビューティー』に戻ってしまった。
 それが嫌だったのか。認めたくないけどあまり良くは思っていなかったのは事実で、私は毎日のようにあの屋上に行って江上さんを待った。
 でも、次第に彼女は顔を出さなくなった。
 いつだかの放課後に私は屋上へ向かう途中で、知らない女子達と笑っている江上さんを見かける。
 渡り廊下から何となく見下ろした中庭のベンチで江上さんは四人グループの一人になっていて楽しそうに手を叩きながら笑っていた。
 江上さんが屋上に来なくなって一ヶ月が経った頃の出来事だった。
 それから数ヶ月。
 私は毎日、屋上に行った。江上さんは一度も現れなかったけど、それでも私が来なかった日に来たらと思うと毎日訪れてしまった。

 ――――いつの間にか夏が来ていた。

 私は予想通りの光景だった夏の屋上に一人体育座りで空を見上げる。
 入り口の壁に背中をくっ付けて狭い日陰に体を収めて、その深い群青をジッと見つめた。
 ジリジリとコンクリートを熱し続ける太陽光線。遠くには入道雲が退屈そうに鎮座していて、蝉の大合唱が遠くから届いて来る。
「……夏乃でーす」
 滴る汗を拭いもせずにそっと呟く。返答はない。
 江上さんなら返答無くても笑顔で話し続ける。でも、私はそれ以上は何も言わずにグッと膝を寄せてその間に顔を埋めると静かに、泣いた。
 汗か涙かわからない液体でスカートは濡れていく。
 また『お母さん』は居なくなってしまった。私の前から、気付かないうちに。
「あーあ……会いたいなぁ」
 ひとしきり泣いて何かがスッキリした。した気になっているだけだけど、気付かないフリをする。
 何だか本物のお母さんに会いたくなった。会えば何か色んな話が出来るんじゃないかなって思うと無性に会いたくなった。流石にもう、会えないのはわかっているんだけど。
 私は膝を叩いて立ち上がる。そして踵を返して屋上を後にした。
 私はその後、屋上へ行く事はなかった。

 いつしか、学校にも行かなくなった。













「――――そんじゃ今は夏乃って訳だな朝倉さんよ」
「別にそういう事じゃないんだけど……」
「しっかし、下らねー話だな。聞かなきゃ良かったぜ」
「そんな事言われても、高校の話って指定したのは哲さんでしょ」
 ちげぇねぇ! と顔の皺を深めて豪快に笑う哲さん。私はその隣で溜め息をついた。
 わざわざ掘り起こしたくもない記憶をしっかり掘り起こさせておいて、聞かなきゃ良かったなんて豪快過ぎるだろ。
 蝉の声が遠くで聞こえる中、縁側で団扇を扇ぎながら目の前に広がる青々とした山脈を眺めて私は最後の仕事先であるこの白川邸でお世話になっていた。
 こんなトップオブ田舎で平屋に住むこの白川哲(しらかわてつ)さんは、こんな豪快な癖してもはや自殺志願者にも似た感情を持っている七十五歳のおじいさん。短く切りそろえられた白髪は爽やかだけど、じんべえ姿が粋すぎてナイスミドルは程遠い。そして落ち着きが無く、まるで少年みたいなおじいさんだった。
 何故、私はこんな所でお世話になっているかと言うと、それは遡る事四日前。
 千雨、葵と共にこの白川邸に訪れた際に哲さんは門前払いを食らわそうとしてきたんだけれど、玄関先で千雨が述べた自殺志願の理由等の内容が全て図星だったせいで弁離士に興味を持ち、且つ、私を同じ自殺志願者だと紹介してどうか性根を叩き直して欲しいとまるで品物のように差し出され、あろう事か自分を棚に上げて哲さんはそれを了承したのだ。
 故に訳も分からぬまま私はこのへんてこで小気味良い性格のおじいさんとこの田舎の平屋で二人暮らしを強いられる事となった次第。
 ちなみに当たり前のように私はこの人がどのように死んでどのように助けるのかを聞かされていないので、とりあえず葵に言われた通り沢山会話をする事しかできなかった。
「ほら、若ぇんだからもう一つスイカ食え!」
「えー? もう三つ目だし……」
「つべこべ言うな! 食え! 平らげろ! こういう真夏日は体の中から冷やすのが一番良いんだ!」
「お腹冷えたらダメでしょ……」
「そん時はそん時だよ。余計な事は考えなくて良し!」
 私は高らかに笑う哲さんを恨みながらいらないスイカに手を伸ばした。
 ここにきてからずっとこの調子だ。元気が有り余っている。私を孫のように思っているのか、はたまた子宝に恵まれなかったから娘のように思っているのか。
 ちなみに奥さんは三年前に他界したらしい。哲さんが教えてくれた。
 遺影に写っている老婆は満面の笑みを浮かべていた。私は毎朝、手を合わせているんだけれど、その笑顔を見る度に何となく思う。ひまわりのような笑顔ってこんな笑顔の事を言うんだろうなと。実際、哲さんより元気な人だったらしいから生きていたら私はきっと振り回されて居たんだろうな。
 ちなみに哲さんは自殺志願者に似ている感情を持っていると述べたが、それを自殺志願と呼ばないのは哲さんの行動によるものだった。
 哲さんは何時に死ぬとか別に考えておらず、また何も用意していない。むしろ何も考えていなかった。ただ、それは本当に「何も」で、健康面も考えていない。煙草はプカプカ吸うし、食事もえらい偏っていて茶色い物ばかり。好きな物を好きなだけ、好きな時に。寝るのも食べるのも自由だった。私が来てからはそれなりに普通にしてくれているけど、来る前は食べない日もあったらしい。
 もしかしたら私を残した理由ってそれなのかなって思ったけど、答えはわからない。
 あれから千雨も葵もやって来なかった。あの学校に居るとは言っていたけど、ここからじゃ歩いて三時間以上かかる。
 まぁとにかく哲さんは生きる事やこの世に対して執着がないのだ。セミ自殺志願者なのだ。
 今となっては私もだけど。
 だから私たちは中途半端同士、何となく波長が合った。終始こんな感じだけど、私はそこまで嫌いになれないし、哲さんは言ってしまえば楽しそうだった。
「おい。今晩は何作るんだ?」
「ん? 野菜炒め」
「またかよ! 肉食おうぜ肉!」
「じゃあ買い物に行かないと」
「よっしゃ! んじゃ買い物行くか!」
 哲さんは煙草を消して立ち上がる。私は食べおいたスイカの皮を皿に乗せて台所へ持って行った。
 私は家事全般を任されており、まるで哲さんの後妻のような立場に居た。別にそれに対して何かを言うつもりはないが、私は哲さんみたいな人とは絶対に結婚したくない。誰ともする気無いけど、哲さんは絶対に無理。
 台所で皿を洗っていると、キュルキュルと情けないエンジン音が聞こえてきた。愛車の軽トラに乗り込んだらしい。哲さんは本当に決めてから行動が早い人だった。
 私を助手席に乗せるとボロボロの軽トラは微妙な速度で走り出す。舗装されていない道は車内をガタガタ揺らして全然乗り心地が良くない。これさえなければ絶妙なスピードと感じたかも知れないが。全開にした窓から入り込む風は気持ちいいのに、勿体ない。
「夏だなぁおい!」
「うん。夏だね」
 哲さんは上機嫌で煙草に火を点ける。私はいつから敬語を使わなくなったかを思い出そうとしていた。確か序盤でもう使ってなかった気がするけど。
「春乃よ。どうだ? 夏は好きか?」
「好きでも嫌いでもない」
「なんだそりゃ? はっきりしねーなぁ! 俺は好きだぜ!」
「そう。じゃあ冬はもう少し大人しいんだね」
「言いやがる! んなわけねーだろ!」
「ふーん。そうなんだ」
「なんなら冬も俺んちにいるか? ここらの冬もなかなかいいもんだぞ?」
「絶対やだ」
「連れねーな! 冬乃は来ないか!」
 ケタケタ笑う哲さんに溜め息で返事をした。窓に肘をかけてゆっくりと動いていく遠くの景色を見ながら、高校の話をするんじゃなかったなと今更後悔した。
 軽トラは情けない音を出しながらショッピングモールを目指す。
 かなり郊外にある白川邸からは車で二時間はかかる距離だ。舗装されている道まではまだまだ遠い。
 私は先の事を考えると気が遠くなるので、頭は空っぽで景色に集中する。代わり映えしない風景だけど、二時間ずっと止まらない哲さんの下らない話にイチイチ真面目に応対していたらそれこそ家に帰る前に死んでしまう。
 ようやく着いたショッピングモールの駐車場に似つかわしくない汚れた軽トラを停めて私達は中へと入る。
 ここら一体の人が一挙に集まっているのか、ここはいつ来ても人が沢山居た。
「おう春乃よ。肉コーナー行くぞ」
 カゴをカートに乗せて私はハシャぐ哲さんの後を追った。食品売り場はもちろん広く、様々な物が売っていたが、必要な物はあらかた買っておいたので脇目も振らずに言う通り肉コーナーへ向かった。
「哲さん。何食べたいの?」
「あー? そりゃ肉だよ」
「だから何肉のどんな料理が食べたいのよ」
「あー……とにかくガツンとくる奴だな!」
「ガツンって……」
 肉コーナーをゆっくりと進みながら私は今晩の献立を思案する。漠然とし過ぎている注文に応えるには何を作れば良いのだろう。
 焼肉だとちょっとなぁ。暑いし何か違う。となればもう焼肉のタレを使って炒めるだけでいいか。それなら物凄く楽だし、ガツンという注文にも応えられる。体の事を考えるとちょっとって感じだけど、今日は特別にしてあげよう。よし決まり。ならば牛肉か豚肉だな。
「おう。見ろよ。暑い日は冷しゃぶってのが良いらしいぞ? 今日にピッタリじゃねーか。春乃よぉ、これ作れるか?」
 豚肉コーナーに特設された冷しゃぶスペースにある看板を指差して哲さんは私を手招いた。
「冷しゃぶ。全然良いけど、これサッパリしてるよ?」
「いいじゃねーか! 夏はサッパリいかねーとな!」
 冷しゃぶ用の豚バラ肉を二パック取ると、そのままカゴに放り込んで哲さんはどこかへ行ってしまった。
「んじゃ後は頼んだぜ!」
「ちょっと何処行くの!」
 哲さんは振り返りもせず、そこら辺回ってくらぁ。と手を振って去ってしまった。
「ガツンって言ったじゃん……」
 恨み節を吐きながら私は念のため豚肉をもう一パックカゴに入れて、そのまま冷しゃぶ用のゴマだれも取り、付け合わせに使うオニオンスライス用の玉ねぎを見つけると、レジに向かった。
 哲さんに渡された財布は昔ながらのガマぐちで、中には折り畳まれたお札と小銭が一緒くたになっている。正直、非常に使いづらいが奥さんが使っていた物だと言われたら買い替えようとも言えなかった。
 買い物袋を下げながら売り場に戻る。広い店内だが、大体居る場所は分かっていた。
「哲さん。買い物終わったよ」
「おう。んじゃこれも買ってくれ」
 手渡されたのはスナック菓子。哲さんは大体お菓子コーナーでおやつを真剣に吟味していた。この年になっても間食が大好きらしく、特に新商品のスナック菓子を好んでいた。
「はいはい。じゃあ行くよ」
「おうよ!」
 帰りはいつも私が先導する。ホントに哲さんはお父さんも息子も持った気分にさせてくれるので疲れる毎日だった。
 帰りも同じ、二時間の最悪なドライブ。冷しゃぶと新商品に心を浮かせる哲さんは行きよりさらに饒舌だった。
「おう春乃」
「何でしょう?」
「まだ日も高いからよ。寄り道してこうじゃねーか」
「えー?」
「ははは! そう嫌がるな! 折角だからよ! 俺の思い出の場所に案内してやるよ!」
「別にいいよ。暑いし興味ないし暑いし」
「ふん! 運転しているのは俺だからな! そう言ってももう向かってるんだよ!」
「なら聞かないでよ……」
「おー? 何だって?」
「なんでも、ない!」
 この距離では小さく呟いても聞こえてしまう。情けない悲鳴にも似た車の音で何て言ったかまでは聞こえなかったみたいだけど。
 哲さんは話を聞きたがるし、話をしたがるお喋り大好き男だった。こんな年になってもこれなんだから若い頃はとんでもなかったんだと思う。こんなうるさい男の元に嫁いだ女性が更にうるさい人だと言うのだから凄い。まぁ賑やかなのは悪い事じゃないんだけど。
「ちょっと揺れるからよ。酔うなよ」
 軽トラは山道に入ってより一層車内は揺れた。悪路のデコボコをしっかりと拾うこのオンボロは悲鳴を上げながらもどんどん進んでいく。
「酔うなって言われて酔わなきゃ苦労しないよ……」
「あー? 何か言ったか?」
「言って、ない!」



 ――――道無き道と言う名の悪路を進んで、軽トラを山の中で停めると哲さんは車を降りた。
「ほら行くぞ」
「え? 歩くの? 肉大丈夫かな?」
「大丈夫だ。ここは涼しいから」
「えー?」
 私はそう言いながらもシートベルトを外して、車を降りる。確かに涼しかった。肉を心配したのは、ただ歩きたくなかったからだ。
 哲さんは何となく出来た道を進んでいく。そこ気をつけろよとかいちいち伝えてくれる感じは少しだけ男らしかったけど、こんな獣道みたいな所を女の子に歩かせる時点で失格だけど。
 そんな道を歩く事十分。私はそんな文句も忘れてしまう程の感動に打たれてしまった。
「うわー! すごい!」
「だろう? ここは俺の秘密の場所なんだ」
 そこは川の上流部分で、少し広い平地に大きめの石が転がり、木々は途切れてぽっかりと空いた天井からは空の青が顔を出していた。
「ひゃー! 冷たい!」
 私は川岸の石に座り、靴を脱いで川へ足を突っ込んだ。ひんやりとした流れが踝から下を一気に冷やす。その冷気が足下から伝わって脳天から飛んでいった。
「生き返るだろう? この水は飲めるんだぞ?」
 哲さんは川の水をすくって口に含んだ。私の下流で……
「あの、哲さん。私、足突っ込んでるんだけど……」
「ぷはっ! ゲホゲホ! ば、馬鹿野郎! 早く言え!」
「何やってんの! バカじゃないの! 見たら分かるじゃん!」
 私は乱暴に口を拭って睨んで来る哲さんを指差して笑った。
 哲さんは気を取り直して上流でまた水をすくった。それを見て私も手を突っ込んだけど、飲む気にはならなかったので、とりあえず冷やすだけにしておいた。
「ねぇ哲さん」
「あん?」
 私の隣で川を背にして座る哲さんは空を見上げて煙草の煙を吐いた。
「ここって何の思い出があるの?」
「あー、そうか。忘れてた。ここはな俺が日奈子(ひなこ)に交際を申し込んだ場所なんだよ」
 日奈子と言うのは三年前に死んだ奥さんの名前だ。そうか、ここは哲さんが勝負を決める特別な場所なのだ。
「どんな告白したの?」
 今の私はきっと意地悪な顔をしている事だろう。日頃、と言ってもたった数日だがくだらない話に付き合わされた仕返しだ。恥ずかしい話をしっかり話してもらおうじゃないか。
「どんなってなぁ。ただ、ここに連れてきてよ。今みたいに日奈子が川に足突っ込んで俺が隣に座ってよ。まぁなんだ。結婚してくれって言ったんだよ」
 煙草を燻らしながら空を見つめる目を細めた哲さんはその時を思い出しているのだろうか。赤面もせずにすんなり答えてくれたのは良いけど、それって……
「哲さん。プロポーズだよね? それ」
「あん? まぁそうだな」
「いきなり結婚してって言ったの?」
「おう。そうだ。しっかり腹括ってるのを伝えなきゃならと思ってな。まぁ日奈子はちっちゃな頃から一緒だった腐れ縁みたいな所があったからよ。今更交際してくれって言うのも何か小っ恥ずかしくってな」
「恥ずかしいって。いきなりプロポーズする方が恥ずかしいでしょ」
「おう? そうか?」
「わかんないけど」
 何だそりゃと笑って携帯灰皿を取り出し火を消した。
 それからしばらく沈黙が続いた。私は川のせせらぎと蝉の鳴き声に耳を傾けながら時折水をすくっては膝にかけて涼を感じていた。
 哲さんは辺りに視線を伸ばして穏やかな表情を浮かべるとまた煙草に火を点けては消してを繰り返した。
「なぁ春乃」
「んー?」
 沈黙を割いた哲さんの声に私は視線を川の流れに留めたまま相槌を打つ。
「お前は本当に死にてーのか?」
「うーん……うん。かな?」
「どっちだ。ハッキリしろ」
「じゃあ、うん」
「じゃあ。か。なぁ春乃。俺は説教とか垂れるのは好きじゃねーんだけどよ。別に死ななくてもいいじゃねーか。何か嫌な事があったのかも知れねーけどよ。人生何とかなるもんだぞ?」
「そうだねぇ。私もそんな気がするよ」
 哲さんは今まで、何で私が死にたがっているのかと問いただす事はなかった。もしかしたらこうして突っ込んだ話をする為に連れてきたのかも知れない。
 哲さんはクルッと体を川に向けて煙草をくわえながらサンダルを放ると乱暴に足を突っ込んだ。
「お前。いきなり心がいなくなったな」
「どういうこと?」
「この話をした途端に心此処に非ずになっちまったって事だよ」
「そう?」
「そうだよ。なぁ春乃。嫌な事から逃げるのは構わん。でも自分自身とは常に向かい合っていねーといつまで経っても答えなんか出やしないぞ。間違えたかも正解かもわからないままだ」
「ホントに説教だね。何か似合わないよ」
「俺だってこんな事言いたかねーさ。でもな、こうして数日でも一緒に暮らしてりゃ情も湧いちまう。そんな奴が自ら命を絶つなんて寝覚めが悪いじゃねーか」
「でも、哲さんだって生きる事に執着してないじゃん」
「俺は良いんだよ」
「何でよ」
「俺はお前と違って自分の人生を全うしたからな。もう十分だ。どちらにせよ後は死ぬだけなんだよ」
「私も全うしたよ。もう後は何もないもん」
「だから、それもわかんねーだろ。色んなもんから目を背けちゃよう。だから答えも曖昧なんだお前は」
「どうだって良いでしょ。哲さんには関係ない」
「関係ねー事あるか。俺は久しぶりに楽しいんだ。だからお前には生きてもらわなきゃなんねー」
「何それ。自分勝手過ぎ。別にそんなの生きる理由になんないよ私には」
「生きる理由なんか誰だってねーよ。そんなの考えて答えが出るもんでもねーだろ。これはお前に生きていて欲しい理由だよ。俺が楽しいからお前は生きてろ」
「生きていて欲しい理由……ね。楽しいからって……」
「何だったら好きなだけ俺んちに居ても良い。遺産もくれてやる。元々身寄りもねーしな」
「ちょ、ちょっと話が飛躍しすぎ。何で出会って数日の女に遺産あげる約束なんてするのよ」
「俺は人を見る目には自信があんだ。年の功もあるしな。春乃。お前は良い両親に育てられたんだろう。見てれば分かる。お前はちゃんとしてる」
「両親ってねぇ。私の所はシングルマザーだったし、その母さんも小学生に入る前に死んじゃったわよ」
「だったら尚更だ。お前はその短い間に教えられた事をちゃんと守ってる。しっかり根付いてるんだろうよ。良い母さんを持ったな」
「何それ……何言っても褒める気だったんでしょ?」
「んなこたーねーよ。まぁしばらくゆっくりすれば良いさ。お前には時間があるからな。でも、頼むから俺が生きてる間に死ぬのを止めてくれよ」
「また勝手な事言って」
「いーんだよ。でも、俺はもういつ死ぬかわかんねー身だからな。ホントは俺だって早いとこくたばって日奈子に会いてーんだ」
 ったく、手間がかかる娘が出来たぜ。と吐き捨てて哲さんはまた煙草に火を点けた。
 私は体が固まってしまった。
 何も言葉が出ない。
 哲さんは知らない。死んでも日奈子さんには会えない事を。もう二度と会えない事を。
 私と同じだ。
 哲さんはそれを知ったらどんな答えを出すのだろうか。もしかしたら私のこの先を決める一つの指針になるかも知れない。もし、死んだ後の希望を絶たれたらどうすればいいのか。
 一体、何が正解なのか。答えは見つかるのか。
「……哲さん」
「おう?」
「……そ、そろそろ帰らないと肉が悪くなっちゃう」
「お、そうだな」
 点けたばっかの煙草を消して哲さんはサンダルを履いた。私も裸足のまま靴を履く。少しだけ気持ち悪い履き心地がまるで今の心の在り方みたいだった。
 私は言えなかった。
 自分の為に哲さんを利用する気にはなれなかった。
 知らない事が良い情報もある。そのまま死ねた方が幸せかも知れない。哲さんの寂しそうな顔は何となく見たくなかった。
 哲さん同様に私にも情が湧いているみたいだ。



 ――――……。



 翌日、私は午前中から哲さんに軽トラで学校まで送ってもらっていた。
「じゃあ夕方くらいに迎えに来るからよ」
「うん。ありがとう。お昼のソーメンの薬味は冷蔵庫に入ってるから」
「おう。じゃあな」
 ガタガタと車体を揺らしながら走り去る軽トラを手を振って見送った。
「まるで妻じゃの。いや、娘か」
「葵……いたんならちゃんと挨拶しなさいよ」
「ふん。今来たんじゃよ」
 バレバレな嘘をついた葵をそれ以上は追求せず、私は校舎内に入る。今日も日差しが強く、かなり暑い。
「あれ? 千雨は?」
 開けっ放しの引き戸から覗く二階の教室には誰もいなかった。
「千雨はちょっとな。まぁ夕方には戻って来るじゃろう」
「そう。じゃあ葵で良いわ」
「じゃあとはなんじゃー!」
 憤慨する葵を無視して私は教室に入り、椅子に腰掛ける。葵はビニールシートの上に胡座をかいた。
「ねぇ。哲さんってどうやって死ぬの? いつ死ぬの?」
「知らん」
「教える気はないのね……じゃあ相談なんだけど。あの人、死んだら奥さんに会えると思ってるのよ。それってさ、やっぱり出来ないって伝えるべきかな?」
 私は溜め息をついて窓の外に視線を投げた。今日はあまり風が吹いていない。じんわりとかいた汗が少し気持ち悪い。
「伝えるかどうかは自分で決めれば良いじゃろう。自分ならどうして欲しいのじゃ?」
「どうして欲しいって。わかんないわよ」
「わかんない……か。ふん」
 葵は鼻を鳴らし、立ち上がる。
「着いて来い小娘」
 葵は一言そう告げると、返事も待たずに教室を出て行ってしまった。
「ちょっと暑いから戻らない? 何でこんなとこに来たのよ?」
 ついて行った先はあの屋上だった。そこは遮る物がないので太陽光線を全身で受け止めるので室内の数倍も暑かった。
「そんな事は良い。貴様は余計な事ばっか気にするのう」
「良いでしょ別に。で? ここで何するのよ?」
 葵は端にまで行き、縁に腰を下ろすと、隣を叩いて私の方を向いた。渋々、私が隣に座るとゆっくり口を開いた。
「ワシはまぁ見ての通り、この見た目の頃に死んだ」
「何よ急に」
「まぁ聞け。ワシは年端も行かない頃に死んだんじゃ。病気でな」
「そう。そうなの」
「じゃから弁離士になった」
「何が言いたいの?」
「何も知らないまま死ぬのは嫌じゃったからワシは弁離士になったんじゃ。周りの親しい者達の記憶から消え去ろうとも、ワシはもっと世の中を自分自身を知りたかったんじゃ。幸い、その資格があったからそういう選択が出来たんじゃがな」
「大層な好奇心ね」
「まぁそうじゃな。でも、弁離士になった者はみなそれぞれ理由がある。それがどんな小さい事であれ、自分の生きた証を捨ててでも大切な事があったんじゃ」
「千雨も?」
「そうじゃ。そしてワシはそれが答えを探す事じゃった」
「答え?」
「ワシの人生が何だったのか。という問題じゃよ」
「凄い命題を追っているのね? で、それだけ過ごして答えは出たの?」
 葵は遠くを見つめて嘲笑する。
「出る訳なかろう。これだけ生きてもヒントすら出んのじゃ。まだまだ足りんのじゃろうな。じゃから……」
 葵は私の方に顔を向ける。
「貴様がどれだけ悩もうとも、考えようとも生きる理由なんか見つかるはずがない」
「何言ってんの?」
「小娘よ。貴様の心の内などバレバレじゃ。貴様はガキじゃからのう。これでもかってくらいにガキじゃ。わかりやすいガキじゃ」
「ガキガキ言わないでよ」
「ガキが生意気言うな。ガキらしくしておれば良いではないか。もっと無駄な事に目を向けてみよ。周りには下らんものが溢れておる。それに一喜一憂してみよ。貴様のその感覚は今正に削られていっておるのじゃぞ? 悩んでいる時間も惜むべきじゃ。貴様のような年端も行かぬガキごときが何を悩む必要がある。悩むくらいじゃったらやってみよ。貴様は生きておる。何度だってやり直せるではないか。なぜ間違わん? なぜ正解を一回で導きだそうとする。なぜそんなに焦って正解を出そうとするのじゃ。そんな必要ないじゃろう? いつかは、いずれは自然にわかるかも知れん。なぜ待てない? 生き急ぐなんぞ百年早いぞ。もっと周りを見よ。貴様にはたっぷり時間があるではないか」
「ねぇちょっと、本当に何が言いたいのよ? 言っている事が本当にわからないんだけど」
「……もう良い。言っても無駄じゃしのう。そろそろ千雨も戻ってきそうじゃ。教室に戻るぞ」
「本当にどうしたの? ちょっと変よ?」
「ワシとした事が余計な世話を焼いてしまったようじゃ。部外者が口出す事ではなかったな。すまん。忘れてくれ」
 葵は笑いもせずそのまま扉の方へ歩いていった。忘れてくれと言われても話の意図がまるで見えないので覚えようもない。本当に何が言いたかったのだろう。
 何だか一方的に罵られた気分だった。
 教室に戻って窓から校庭を見ていると、葵の言った通り十分程立った頃に千雨が歩いて来るのが見えた。
「あ、本当に来た。どうしてわかったの?」
 窓に肘をかけたまま振り向く。葵は私に背を向けてビニールシートに座っていた。
「まぁ勘じゃな」
「勘なの?」
「感覚じゃ」
「どっちよ?」
 葵は顔だけ振り向く。その顔はいつもの生意気な表情に戻っていた。
「どちらでも良い。弁理士同士にしかわからないもんじゃからな! 貴様には一生分からんわ!」
 バッと飛び上がって仁王立ちする。もう完全にいつもの葵だった。バカにした表情で大事な事を話さない会話。付かず離れずの距離にいる感じ。
 やはりさっきは距離感が違った。あんなに自分の事を話したり、私にダラダラと説教したりなんかしない。いつもならサラッとバカにして終わりなのに。後は全部うやむやだったのに。
 いや、結局うやむやなのは同じか。
「ただいま。あれ? 春乃来てたんだ?」
「あ、あぁ。おかえり」
 私が視線を葵から移すと千雨は凄く嬉しそうに笑って「ただいま」と言ってきた。
「おい千雨。どうなったのじゃ?」
「うん。予想通り明日になったよ」
「……本当に良いのじゃな?」
「うん。ありがとう。おかげで要求は割とすんなり通った」
「ふん。そんなものワシにかかれば朝飯前じゃて。そしたら明日じゃな。しっかりやらんとな」
「あぁ。もちろん。しっかりやり切るよ」
 千雨と葵は少し寂しそうな微笑みを浮かべて視線を交わらせていた。
 不意にその視線がこちらに向いて来る。
「春乃はどうしたの? 何かあったかい?」
「え? あぁ! 全然いいの! もう葵に聞いたから大丈夫」
「いや、ワシは何も答えておらんじゃろうが。千雨に聞くと良い。ワシはちょいと席を外すぞ」
 葵は教室を出て行ってしまった。去り際に千雨と何か耳打ちし合っていたけれど、最後に私をチラッと見て、でも何も言わずに出て行った。
「ねぇ葵。何を言ってたの? 私の事?」
 葵が出て行った後、私達も結局学校を出て、当ても無く散歩する事になった。暑い日差しを葵の置いて行った麦わら帽子で遮るが、あいつは頭が小さいので少しだけキツいのが悔しかった。
「葵かい? 何か余計な事をしたって謝られただけだよ」
 あっけらかんと笑う千雨は何かスッキリしたような雰囲気を感じた。日差しを手で遮りながら遠い前方を見つめる仕草にも爽やかさがあった。
「余計な事……か。確かに変だったな。どうしたんだろ?」
「まぁ春乃には世話を焼きたくなる何かがあるんだよ。放っとけないって言うかさ。だから葵にしては珍しい行動なんだ。そうやって真剣に説教するなんて。僕にだってした事がないんだから。どんなにミスをしてもね」
「何だ。全部聞いてるんじゃない。って、やっぱり説教だったのかあれ」
「ははは! まぁそう考えないであげてよ! 葵からしたら失態を見せたと思っているだろうから本気で忘れて欲しいんだと思うよ」
「あれだけ好き勝手言っておいて忘れろだなんて勝手過ぎるでしょ」
「うんうん! 勝手だね。葵らしい」
「うん。葵らしいね」
 私達は左右に田んぼが広がる畦道を歩く。遠くに見える家屋がどうやら商店らしく、そこでアイスでも買おうと言う話になっていたから、今はそれだけが頼りで歩いているんだけれど。
 何となく思い出してしまった。
 そうか。別に忘れようとしてなくても忘れちゃうんだ。この仕事が終わったら私の記憶から弁離士二人はすっぱり消え去る。それがいつかはわからないけどそんなに時間はかからないだろう。

 ――――言っても無駄じゃしな。

 その通りだ。葵の失態にも似たらしくない説教は無駄だ。
 例えあそこで私の心にどれだけ響こうとも、その内忘れてしまうのだから。

「春乃。何にする?」
 店の前にあるアイスフリーザーを開けて千雨は中を覗く。どれにする、と言ってもそこまで種類がないので私は王道であるソーダ味の氷菓子を選んだ。
「うん。僕も同じのにしようかな」
 千雨はソーダアイスを二本持って店内に入る。私は入り口を挟んでフリーザーとは反対にあるベンチに腰を下ろして空を見上げる。青と言うより水色に広がる空は巨大なソーダアイスのようだ。
「お待たせ」
 千雨からアイスを受け取り、軽く頭を下げると包装紙を破る。隣に座った千雨はその破れた包装紙を私の手から取ると横に備え付けてあったゴミ箱に入れた。
「ほんと気が利くよね。やっぱりモテたの?」
「そんな事聞くかい? 別にモテないよ」
「そう。不思議なもんね」
 私と千雨はソーダアイスを齧りながら空を眺める。軒下にあるから日陰に座れているので少しだけ温度が下がった場所で口中に広がる涼は夏でしか感じられないものだった。
「そういえばさ……」
「なんだい?」
「明日って。やっぱり仕事の話だよね」
「……うん。明日の昼に実行する」
「そっかぁ……」
 その答えは私の相談の意味をすっかり無くしてしまった。明日、死んでしまうならもう言うタイミングもない。今更言ったってどうしようもないのだから、覚悟を決める時間も無いし下手したらこの世に余計な未練を残させてしまうかも知れない。
 だとしたら私は何も言わずに最期を看取るだけだ。それしか出来ない。私は弁離士ではない。
 ただの高校生なんだから――――。


 シャリ、シャリとアイスを齧る音と蝉の鳴き声しか聞こえない。相変わらず容赦ない太陽光線はジリジリと地表を焼き続けた。
 遠い向こう、視界に広がる青と白と緑のコントラストが何だか胸の奥をチクチクと刺してくる。何でもない景色、光景、状況なのに。
 私は何故かこの平凡な『今』を忘れたくないな。と思った。
「あ、そうだ。そう言えば春乃、聞きたい事あって来たんだよね? 何を聞きに来たの?」
 食べ終えたアイスの棒を加えてボーッとしていたら、また当たり前のように私の口からそれを取ってゴミ箱に入れると千雨は少し体をこちらに向けた。
 もう相談する事は無くなってしまったんだけど、こうなっては別にもう良いとか言っても信じてくれなさそうだし、一からこの私の気持ちを説明する気にもなれない。
「うん。いや、哲さんいつ死ぬのかなぁって思って。あの人すっごく元気だからさ」
 嘘をついた。哲さんが元気だと言うのは本当だったけど、別にそれをわざわざ聞きに来る程不思議に思っては居なかった。
「春乃は哲さんに死んで欲しくない?」
「死んで欲しい。なんて思う訳ないでしょ」
 千雨はうんうんと頷くと、また背もたれに体を預けた。
「そうだね。仲良くやっているようだし。葵から聞いたよ。何だかドタバタ親子みたいだってさ」
「え? 何? あいつずっと見てた訳?」
「ずっとじゃないよ。一応、何かあった時の為にチェックしているだけ。万が一にも起こらないだろうがね」
 それにしても、妬けるなぁ。と千雨は息を吐いて視線を下ろした。
「何よ。別に何でもないわよ。あんあおじいちゃんに恋なんてしてないし、する訳ないし」
「ぷっふふふ! 春乃はやっぱり面白いね! そんなつもりじゃなかったんだけどさ。でも、千雨に良い友人が出来て良かったよ」
「友人? なのかな? 良くはないと思うけど」
「いやいや、あんなに純粋に年を重ねている人はそういないよ? 素敵な人生を送ってきた証拠だ。うん。あの人は大丈夫だ」
「何言ってんだか。確かに少年みたいだけどね。疲れるくらい」
「僕の方が大人に見える?」
「うーん。ま、そうね。千雨の方が大人だな」
「ははは。どれだけ凄いんだ哲さんは」
「いや、もうひどいよ? 例えばさ————」
 私はこrをキッカケに今までの哲さんが行って来たおよそ大人とは思えない行動を恨み節たっぷりで千雨に愚痴り始めた。それはもう思いついたものを片っ端から堰を切ったように口から出て来るので、千雨はほとんど微笑みながら「へぇ!」とか「そりゃ凄いね!」とか時折、手を叩いて笑いながら聞いてくれた。
 哲さんとはやっぱり違う。大人と話している感覚。哲さんと居ると自分が親になった感覚になるけど、千雨と居ると私は子供になってしまう。
 千雨はやっぱり聞き上手だ。絶対にモテたに違いない。
「後はねぇ。あれ? もう全部言ったかな?」
「ふふふ。そう? 面白いからもっと聞きたいけど」
「えー? ないよ。ないない! 全部言った!」
「そっか。残念」
 千雨は立ち上がった。そして私に手を差し出す。
「じゃあ戻ろうか学校に。哲さん迎えに来るんだよね?」
「う……うん。夕方に……ね」
「そっか。じゃあ少しゆっくり歩こう」
 ほら行こう。と言われて私は千雨の手を取り、立ち上がった。
 繋いだ手から伝わる温度に神経が集中してしまう。じんわりと滲んでいる手汗は明らかに私のもので、そしてその汗はこの暑さから来るものではなかった。
 千雨は色々と話をしてくれたけど、私は一変して「あー」とか「うん」等の相槌しか打てず、ただただゆっくりと前に出す足を眺めていた。
 何で手を繋いでるんだろう?
 何で振りほどけないんだろう?
 いくら自分の心に聞いても答えは返って来ない。でも、こうして手を繋いで歩いている訳だから嫌ではないんだろう。自分の事なのにハッキリしないのは認めたくないからなのか。
 繋いだ手はゆらゆらと揺れて、私の足はゆっくりゆっくり土を踏みしめる。
 随分、喋って居たんだろう。いつの間にか空は赤みを差していてあれだけ容赦なかった太陽光線も威力を弱めていた。
 私は上げた視線を空に固定して何となく口を開いた。
「もうすぐ……お別れだね」
 自分でも何でこんな事を言っているのか分からない。ついて出た言葉だった。でも、気持ちと裏腹って訳でもなかった。
「うん。そうだね」
「これ終わったら答え出るんだよね?」
「出るかどうかは春乃次第だよ。でもちゃんと全部分かるから安心してよ」
「安心してって言うけど。結局、全部忘れちゃうんなら意味なくない?」
「あれ? 気付いた?」
「最初から気付いてたって! でも、別にいいかなって思ってたの。どうでも良かったから」
「そっかそっか。今はどうでも良くない?」
「もう……その言い方止めてよ。わかんないんだよ私も」
「そうだね。わからないよね。それで良いんだと思うよ?」
「どういう事?」
「安心してって事。僕を信じなさい」
「得体の知れない人間でもない何かを? 信じろって?」
「ははは! 確かに! その通りだ! やっぱり春乃と話していると楽しいなぁ!」
「はいはい。そーですか」
 少し大きめに揺られる手をされるがまま、私の溜め息は色も無く、その姿も無く果たして本当に吐いたのかわからなくなるくらい目の前の空気に混じった。
 どんどん赤みが増していく空を眺めて、相変わらずうるさいセミの声に耳を傾けながら、もしかしたらもう哲さん来てるかもな。なんて思ったけど、私はその歩く速度を早めたりはしなかった。
 もう少し、こうして居たかった。出来るだけ長く。
 何だろうこの気持ち。
 私は知っているはずなのに、見つからない。
 ただ、心の中に広がる温かさは心地よく、ずっと味わっていたかった。
 終わりがあるからそう思えるのかも知れない。
 ずっと、なんて無理だからそう願ってしまうのだろう。
 土を踏む二つの足音が揃う瞬間がある。その度に横目で盗んだ千雨の顔はとても優しい顔をしていたから、私は何度も見てしまった。



 学校に着くと、哲さんはやっぱり来ていて千雨とともに現れた私に散々文句を垂れながら、助手席に私を乗せて、千雨から伝えられた明日の来訪を承諾してさっさとその場を後にした。
「ねぇ哲さん」
「なんだ?」
「久しぶりの一人はどうだった?」
「気楽なもんだったな。一人も悪くねぇ」
 『も』って事は私と居る時も楽しいと言う事なのかな。とは聞かずに胸にしまって全開にした車窓から眺める真っ赤な世界に視線を投げた。
 空はまだ暮れるには時間がありそうだ。やっぱり哲さんは早めに来ていた。


 夜は最後の晩餐になるので、哲さんの好きなものを作る事にした。と言っても何でも良いなんてきっと言いだすので、質問を少し変える。
「哲さん。この世で一番好きな料理って何」
「ん? そりゃあお前……カレーか?」
「カレー? 本当に?」
「何だよおかしいか?」
「おかしくはないけど……ま、いっか」
 私はそのまま台所に戻る。今更、哲さんの子供じみた味覚に驚いても仕方がない。濃い味付けが大好きでラーメン、カレー、焼肉、唐揚げに喜ぶ。ホントに子供だな。
 私は冷蔵庫を開けて材料を確認する。
 余計に買った豚肉が一パック余っていたので良かった。ルーもあるし、玉ねぎも余っている。人参はあったけどジャガイモはない。けど、まぁいいだろう。これでもカレーは作れる。
 最後なのだからよりをかけて作ってあげたかったけど、何とも張り合いがない注文だ。極めようと思えば深い料理なんだろうけど、こんな材料も少ない男一人暮らしの家では凝りようがない。
 私は手際良くカレーを作り始めた。
「お? カレーか?」
 哲さんが台所に顔を出す。好物の匂いを嗅ぐと確認しに来るその習性も最後まで可愛いとは思えなかった。
「そう。カレー。もうすぐ出来るから」
「そうかそうか。だから聞いたんだな? 良かったな! 俺がカレー好きで!」
「いいから早く戻って待っててよ。野球始まる時間でしょ」
「おっとそうだ!」
 哲さんは冷蔵庫から缶ビールを取って戸棚にある専用のグラスと一緒に持って居間に戻る。ビール専用と言っても何の変哲もないガラスのコップなんだけど。ただちょっとだけ小さめだった。
 カレーを作り終えて、ご飯も炊き終わり私は付け合わせのサラダと共に食卓へ持って行く。
「おう! もう腹が減って仕方がねーや! おかわりあるよな?」
「食べる前からそれ聞く? あるわよ。安心して」
 一応、年も考えて量は少なめにしてあるが、こういう好物を出すと必ずおかわりをする。
 私も自分の分を持って座布団に座ると、哲さんは体の向きをちゃぶ台に戻して手を合わせる。
 これが食事の合図だった。
「いただきます」
 こうして食事が始まる。
 野球中継をチラチラ見て一喜一憂しながら美味い美味いとカレーを頬張る姿はそんなに嫌いじゃなかった。
 宣言通りのおかわりをする哲さんから皿を受け取ってさっきよりももう少し少なめのカレーライスをよそって渡す。哲さんはちゃんとそれも平らげた。
「いやー食った食った! ごちそうさまでした!」
「はい。おそまつさまでした」
 私は食器を片付ける。哲さんはまた野球に集中する。試合はもう後半になっていた。
 綺麗に食べられた食器は洗いやすい。哲さんは出されたものを残した事がなかった。そう言う所は好きだ。評価している。
 洗い終わって、麦茶を片手に居間へ戻ると試合は終わっていてテレビはバラエティ番組に変わっていた。哲さんはチビチビとビールを飲みながら変わらずテレビを見ている。私も座ってその番組を見る。知らないお笑い芸人がやたらとハイテンションで何かをしていたけど、テレビの向こう側とこちら側では全く空気が違っていた。
テレビから流れる笑い声よりも蝉の鳴き声が響く中で、私は哲さんと同じように黙って麦茶をチョビチョビと飲んだ。



 ――――……。



「お邪魔します」
 翌日の昼に千雨と葵は白川邸にやって来た。宣言通りだ。予定は滞り無く進んでいるのだろう。
 哲さんのかわりに私が玄関先まで出向き、二人を招き入れる。二人を居間に通すと、哲さんは胡座をかいたまま何も言わずに、ちゃぶ台に置いてある麦茶をグイッと飲み干した。
 千雨と葵はちゃぶ台を挟んで哲さんと向かい合い、私はその横に腰を下ろす。
「白川さん。今日は弁離士としての仕事をする為に来ました」
 千雨が口を開くと哲さんは目を瞑って頷いた。最初にここを訪れた際に弁離士がどういう仕事をしているのかを聞かされていたから何となく分かっていたのだろう。
「では、まずあなたの心の内をお聞かせ下さい。もはやこの世に未練はない。そうですか?」
「そうだ」
「では、もういつ死んでも良いと思っている。何なら今死んでも良いと思っている」
「いや……思っていない」
 哲さんが放った言葉に私は顔を上げる。哲さんの顔は真っ直ぐ私を見ていた。
「哲……さん?」
 哲さんは私を見たままゆっくり頷く。
「未練はない。だが、あんたらのせいで余計な心配事が出来ちまった。俺はこいつがちゃんと人生を全うしようと思うまで死んでも死にきれねぇ。と思っちまってる。全く……あんたらもう少し考えて仕事したほうが良いんじゃないか? 全て分かっているんならこうなる事も予想出来ただろうに」
 千雨は小さく頷くと微笑んだ。
「はい。分かっていました。ですからこれで仕事は成功です」
「あん? いってぇどういう事だ?」
 哲さんの問いに千雨は私に視線を送る。
「この子と過ごして、哲さんが気に入るのを分かっていました。春乃も哲さんもすごく純粋で似ていますからね。それに忘れかけていたものをお互いに取り戻せると思っていました。そして見事に哲さんは考えを改めた。規則正しい生活もしているし、昨日から禁煙してらっしゃいますよね?」
 私はようやく気付く。そう言えば昨日、哲さんが煙草を吸っている姿を見ていない。いつもなら車の中でも、食後でもプカプカと吸っているはずなのに。一度もその姿は見かけなかった。
「これで安心です」
 千雨は微笑んで私と哲さんへ交互に視線を送ると葵の肩を叩いた。
「良し。ようやく出番じゃの。あぁ良い良い。そこにおれ」
 葵は立ち上がりながら何もない方向に口を開く。そしてその何もない哲さんの横に腰を下ろすと、静かに手を伸ばした。

「ひ……なこ? 日奈子なのか?」

 葵が手を伸ばすと、哲さんの横に見慣れた顔の老婆が現れた。
「お久しぶりです。哲さん。本当にもうあなたって人は」
「日奈子……日奈子」
 哲さんは震えながら手を伸ばす。老婆はその手を葵と繋いでいない方の手で優しく取るとゆっくり頷いた。その顔はまるでひまわりのような笑顔で愛情に満ちていた。
「じゃあ、春乃。僕たちは席を外そうか」
「あ、う、うん」
 千雨と一緒に立ち上がって居間を後にする。
去り際に見た哲さんは見た事もないくらいに顔をクシャクシャにして泣いていた。
「全く……ほんとうに意地悪よね毎回」
 庭を抜けて門を出た所で私は目の前で大きく伸びをした千雨の背中に言葉をぶつけた。
「ふふふ。でも、おかげで安心しただろ?」
「まぁね。哲さんは死なないんでしょ? つまり今回の仕事は奥さんの方だったと」
「冴えて来たねー! その通りだよ。地縛霊と言うより残した旦那が心配で仕方なくていつの間にか居着いちゃってたって形だけどね。まぁ地縛霊か。それで旦那も旦那で自暴自棄になっているんだからいつまで経っても成仏出来やしない。だから心変わりさせる必要があったのさ」
 千雨は家を囲っている塀に背中を預けて私の方へ顔を向けた。
「それと、春乃の為にもね」
「私のため?」
「うん。なんとなく気付いてるんじゃないのかい? 自分の心の変化に」
「何よそれ……」
 そんな訳ないじゃない。と言い返せなかった。
 その通りだ。
 何がどう変わったのかもわからないし、この先の答えが出た訳じゃないんだけど、確実に何かが変わった。変わってしまった。
「ねぇ千雨」
「うん?」
「私。弁離士になれないかな?」
 千雨は反動を点けて塀から体を離す。そして私の真向かいに立った。
「なれないよ」
「何で?」
「自殺者はなれないよ」
「じゃあ寿命で死んだら?」
「残念だけどそれでもなれない」
「何でよ」
「弁離士になるには霊が見えないとダメなんだ。最低でもね」
「そっか。私は見えないから……」
 残念。まさに残念だ。何となくそれもいいかなと思った道はあっさりと絶たれてしまった。
「まぁいいじゃないか。なりたいものややりたい事を探す時間も沢山あるし。色々やって見ると良い」
「でも結局見つからなかったらどうするのよ」
「いいじゃないか別に。見つからないまま人生が終わったとしても空っぽだったなんて思わないよ僕は」
「言うのは簡単よね」
「そう。だから見つからないまま終わったとしても良いんだ。最初から難題なんだからね。チャレンジしただけ十分じゃないか。別にチャレンジしなくてもいいしさ。好きに生きれば良いんじゃないかな」
「やっぱり最終的には私を救おうとしてるのね。千雨は」
「当たり前だろ? だってその為に来たんだから」
「ようやく本音が出たわね」
 私が千雨を指差すと、肩をすくめて笑った。本当に憎めないし、掴めない人だ。
「おい。終わったぞい」
「あ、お疲れさま葵」
 私越しに手を振る千雨の視線を辿る。そのまま振り返るとそこには葵と哲さんの姿があった。
「今回の仕事はこれにて全て終了じゃ」
「うん。お疲れさまでした」
 千雨と葵は握手を交わした。私は玄関先に立っている哲さんと視線を合わせる。
「春乃。何かあったらいつでも来いよ。いや、時々顔出しやがれ。お前らにゃいくら尽くしても返しきれねぇ恩が出来ちまったからよ。事情は聞いたから千雨さんと葵さんの分までお前に返してやるからよ。わかったな」
「ほんと何言ってんの。中々来ないからって会いに来たりしないでよね!」
「んなっ! 行く訳ねーだろ! ばかやろう!」
「はいはーい! じゃあ、またね」
「おう。またな」
 私は哲さんと手を振り合って距離を遠ざけた。千雨も葵も何も言わず、振り返りもせずに歩いて行く。私は玄関先で大きく手を振る哲さんが見えなくなるまで何度も振り返り、手を振った。

 ――――またね。

 なんて悲しい言葉なんだろう。






 ――――夏も悪くない。

 そう思えたのも束の間、私はバス停を目指して歩く道中でやっぱり夏って最低だと考えを正した。
「ねぇ。何でこんなにバス停遠いの?」
「全く。小娘は文句しかたれんのう。最後の最後まで世話が焼けるとはまるでお主じゃな」
 二歩前で歩く葵が隣の千雨を見上げると、千雨は頬を掻きながら苦笑いした。
「ほれ。もうすぐじゃ。あそこに見えたぞ。ほれ頑張れ頑張れ」
 葵が指差す真っ直ぐ伸びた道の先に、小さく待ち合い小屋が見える。
「春乃。もうすぐだよ」
「わかってる。わかってるよもう」
 振り返って微笑む千雨に悪態をつくけど千雨はやっぱり怒らない。嫌な顔もしない。
 結局、最後の最後まで千雨は微笑みっぱなしだった。
「到着じゃな!」
「うん! 春乃! お疲れさま!」
 私は手を挙げて答えると、待ち合い小屋のベンチに傾れ込むように座った。
 相変わらずの夏真っ盛りなBGMは鳴り止む気配もない。夏はまだまだ続きそうだった。
「では。ワシは行くとするわい」
 葵は私と千雨に背を向けて顔だけ振り向かせる。行くと言ってもそっちには田んぼしかないんだけど。
「うん。今までありがとう。迷惑ばかりかけて申し訳ない」
「良い。部下の面倒は上司が見る。これは当たり前の事じゃ。まぁでも次の部下はせめてヒヨッ子を卒業してくれる者じゃと助かるがな」
 意地悪く笑う葵に千雨は頬を掻いて首を傾げる。その苦笑いが意味するものは良く分からなけど、葵がもう行っちゃうて事はわかった。
「小娘」
「何よ」
「貴様はこれぞと言っていい程のガキじゃったな」
「うっさい」
「ふん。まぁ良い。それで良いのじゃ。貴様はガキなんじゃからな。そのままで良い。それよりもこの世話を焼きたくなるワシの性格をどうにかせんとな。ついつい余計な事を口走ってしまう。まぁ良い勉強になったわい。顔が見れて、会えて良かったぞ」
 葵の体がまばゆく光を帯びだす。夏の音はいつの間にか止んでいた。
「千雨よ。貴様はヒヨッ子なりに良くやった。立派に弁離士の務めを果たしておったぞ。胸を張れ」
「うん。うん。こちらこそ最高の上司だったよ」
「知れた事を。それとな春乃よ」
「な、何よ」

 ――――願わくば、変わってくれるなよ。

 一瞬の出来事だった。一気に光を放った葵の体は次の瞬間にはもうなかった。
 でも、耳に残ったのは確か葵の言葉だった。
 春乃と呼ばれて、何となく身構えた私に伝えた最後の言葉は「変わるな」だった。
 私はやっぱり最後の最後まで葵の言っている事が上手く掴めないままお別れをしてしまった。あれだけ文句を言い合っていたのに変わるなって……実は結構、私の事気に入っていたのか?
「さーてと。僕ももうそろそろだ」
「え? 千雨も?」
 隣に腰を下ろす千雨の腕を掴む。まさか、こんな所で千雨ともお別れするなんて思いもしなかった。
 せめて、市街地に戻るまで一緒に居てはくれないのだろうか。流石にこんな所で置いてかれてしまったら、私も心細い。と言うより、どうしたらいいかわからない。
 バスがいつやって来るかもわからないのに
「さて、何から話そうかな」
 千雨は私の頭を撫でる。そんな状況じゃないのに。そんな事されている場合じゃないのに。私はその手を振り払えない。
 何だろうこの気持ち。
 悲しくて寂しくて、でもとても愛しいこの気持ちは何て言ったっけ。
「そうだな。じゃあまず哲さんの事なんだけど」
「え? 哲さん?」
 意外な名前が出てきて、つい顔を上げると千雨の優しい顔が飛び込んで来る。
 目が合うと、その顔は小さく頷いた。
「うん。葵が色々と頑張ってくれてね。特例として君の記憶だけは残る事になったから安心してくれ。だからまたいつでも会いに行けるよ。約束通りちゃんとまた顔見せてあげてね。あと何かあったら頼ると良い。別になんなら一緒に暮らしてもいいしね。あの人なら僕も安心だし」
「何言ってるのよ。突拍子もない」
「でも、ちょっと嬉しいだろ?」
「うん、まぁ良かったとは思ってる」
「そんな顔してるよ」
「うっさい」
「ふふふ。じゃあ本題に移ろう。そんなに時間も無いしね」
「そっか全部話すって約束だもんね」
「うん。春乃。実は君を助けたのは仕事じゃないんだ」
「え? どういう事?」
 私は体を起こして、千雨と視線を交わらせる。その顔は笑っていたけど寂しそうだった。
「今回、僕らの仕事は三件。実は初めに会った君は含まれていないんだ。つまり君に関わったのは仕事外の行動。そしてこれは本来、規定違反でね。まぁ簡単に説明すると下手に関係ない事象に干渉すると色々面倒な事になるから禁止されているんだけど。まぁ僕はそれを犯してしまったんだよ。だからその罰として僕は今回の仕事が終わると弁離士の資格を剥奪される。つまり成仏するんだ」
「ちょ、ちょっと待ってよ! 情報が多すぎて理解出来ないんだけど! 規定違反って何なの? 弁離士の資格を剥奪って。大丈夫なの? え、でも。あれ? じゃあ何で私の事、名前も知ってたし色々調べてあったのよ」
「そんなの……調べなくても知ってるよ。春乃。僕は君を守る為に弁離士になったんだから。だからいいんだこれで。何も後悔は無い。葵も最初から知っていて協力してくれたんだ」
「ね、ねぇ、ちょっと待ってよ! 何を言ってるの? どういう事? 私は千雨の事知らないわよ?」
「春乃。僕は君を知っている。君も僕を知っている。僕が弁離士になって記憶が無くなっちゃっているだけだ。僕はね、あの時、この先いつか来るかも知れない君のピンチに駆けつける為だけに弁離士になったんだ。だからさ、春乃。まだ弁離士の力が残っているうちに言うよ。今まで隠していてごめんね。本当は僕は君に」

 ――――さよならを言いに来たんだ。

 あるはずのなかった記憶が一気にパズルのように現れる。
 一瞬で、あたかも元からそこにあったかのように当たり前にそれらはあった。
 無かったのではなく気付かなかっただけ。
 いや、それも違う。もう少し別の感覚。だけど、何かそれを表す言葉が無い。
 でも、確かにそれはあったんだ。私は知っていた。知っていたんだ。ずっと前から今までずっと。

 ――――私はこの目の前の人を知っていた。


「お父……さん?」


「やっとそう呼んでくれた。大きくなったね。春乃」
「お……とう……さん。お父さん!」
 私はあの日、最後に見たままのお父さんに抱きついた。
 そうだ。あの事故は私から『両親』を奪ったのだ。母はギリギリ息を残していたけれど、助手席に座る母を守る為にハンドルを切ってカーブを曲がりきれずに飛び出した対向車に父はその身を差し出した。私は会わせてもらえなかった。死んだ父に。
 恐らく損傷がヒドかったのだろう。私への配慮だったんだと思う。恐らくその時にはまだ父は弁離士になっていなかったはずだ。母は父の事も話していたから。そうだ。そうなんだ。
 いつでも笑って私を許してくれるのはお母さんだけじゃなかった。お父さんもそうだった。
 きっとお父さんはずっと見守っていてくれたのだ。先に消えた母の代わりに。存在を全て引き換えにして、私の為だけに。
「春乃。ごめんね。つらい思いをさせてしまったね。でも、君ももう立派な高校生だ。ちゃんと分別がつく。まだまだ子供だけど、これからは自分の足で歩かなきゃならない。酷な事を言うけれど約束通り全部伝えるよ」
 お父さんは私の肩を掴んで、グッと体を離した。そして溢れる涙をそっと拭うとまたいつもの優しい笑顔を向けてくれた。
「いいかい。もうお母さんは成仏していない。どこにもいない。この世にもいなければ空から君を見守っても居ない。そして僕ももうすぐそうなってしまう。僕らはもう君を守れないんだ。見守る事すら出来ないんだ。だから何かあったら哲さんを頼りなさい。受けた恩はいつか返せば良い。だから遠慮はするな。きっとあの人も喜んで受け入れてくれるはずだから。だからもう一人じゃないんだよ春乃。どこにもいないけど、お父さんもお母さんも思い出として君の中に残っている。もう会えないけどいつだって思い出せるだろう? それでも寂しくなったら哲さんに笑い飛ばしてもらえば良い。あの人はまだまだ春乃に言っていない面白いエピソードが沢山あるんだ」
 私は後から後からあふれる涙を拭いもせずにただ真っ直ぐお父さんの目を見て何度も頷いた。
 もうすぐ、もうすぐお父さんも消えてしまう。
 突然、会えたお父さんがまた突然目の前から消えてしまう。
「春乃。君はお母さんに似て素直じゃないし、考えすぎる所があるけれど。悩む必要なんて無いんだよ。君の出そうとしている答えはまだどこにもないんだから。人生の意味は人それぞれだ。そしてそれを全うした時にようやく見つかる解なんだよ。だから生きる為の理由なんてもともと必要ないんだ。春乃。覚えてる?」
「な……にを?」
「お母さんの最後の言葉」
 私は首を横に振った。親不孝者な私は大事なその言葉を理解どころかそのものを忘れていた。
「お母さんは最後にこう言ったんだ『笑って過ごしてくれるのであればそれで良い』って」
 お父さんは私の頭を撫でて笑う。けど、その目からは涙が溢れていた。
「僕も同じ事を思っているよ。春乃。つまんなかったら……つらかったら……苦しかったら……いくらでも逃げて良い。何も気にする事は無いよ。何も恥じる事はないよ? 気にする事は一つもない。好きに生きていいんだ。笑って生きてくれさえすれば良い。春乃が生きる理由を探す必要なんて無い。そんなもの……探さなくていいんだ。ねぇ春乃。お母さんとお父さんが君を『生んだ理由』があるんだから。生きる理由は無くていい。僕たちが生んだ理由。それが君がここに生まれた理由なんだよ。意味なんだよ。君の笑った顔が見たい。たったそれだけの理由なんだけど、お母さんとお父さんにとっては何よりも大事なものだ。君が生まれた立派な立派な理由だ。ずっと君の笑顔を見ていたいんだよ。だからさ、深く考えなくていいんだよ。何も悩む必要なんて無いんだ。好きに……自由に生きなさい。春乃。大丈夫。君は僕たちの子供だ。自慢の娘だよ。春乃……大きくなったね。良くここまで立派に育ってくれたね。お父さんは嬉しいよ。あぁもっと沢山話したかったなぁ。もっといっぱいご飯食べさせてあげたかった。美味しかったね。あの中華料理屋さん。多分、春乃の事覚えたよね? あとさ、紅茶のシフォンケーキ。結局三つ食べちゃうんだもん。楽しかったなぁ。いっぱい笑った。沢山、沢山幸せをありがとうね。春乃。大好きだよ。春乃……元気でね。春乃……春乃」



 ――――さようなら。



 最後に見たお父さんの顔はとても幸せそうな笑顔だった。いつもの笑顔だった。
 でも、葵の時と違って光ったりもせずにまるで本当にそこに居たのか疑ってしまうくらいあっさり消えてしまったものだから、私は思わずお父さんの痕跡を探してしまう。
 さっきまで座っていたベンチにも温もりはない。
 畦道についた足跡も消えていた。
 周りにはお父さんがここに居たことを証明するものは何一つなかった。

 ――――どこにもいない。けど、思い出として君の中に残ってる。

 今さっき言われた言葉が浮かんで来る。
 私は足を止めて、深く息を吐きながらベンチに腰を下ろした。
 そっと頭を撫でてみる。あの感触。
「……本当だ」
 私は胸の奥に残った温度を確かめるように不思議な弁離士手伝いとしての日々を思い出しながら、空を見上げた。
 底知れぬ夏の青。
 障害物の雲は大小問わずゆっくりと漂っている。
 簡単じゃないこの気持ちに答え何かない。必要ない。
 複雑なんだ。複雑で良いんだ。そんなものよりもっと単純に簡単なものに目を向けよう。
 考え過ぎはお母さん譲り。
 紅茶味好きはお父さん譲り。
 人生の命題なんかより、私にとってはこんな簡単な事実の方がよっぽど意味がある。
 それで、十分じゃないか。

 空を見上げながら私は大きく伸びをして、そっと別れの言葉を呟いた。
「ありがとう」
 言葉は色も形も残さず、吸い込まれて行った。
 どこへも届かずただ、ゆらゆらと漂って行く。
 本当だ。答えは出た。問題は違ったけど、私は変われた。救われてしまったのだ。
 救ってくれたのだ。
 複雑だから簡単には説明出来ないけれど、ガキの私には言葉に出来ないけれど。

 この夏空の見え方がそれを証明していた。


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