「で、何であんた達は当たり前のようにエビチリ定食を食べてるわけ?」
 場所は雑居ビル近くにあった中華料理屋。狭い厨房をL字に囲むカウンターとテーブル席が四つしかない店内でテレビの野球中継の音と野菜を炒める音が混ざり合っている。
 客はまばらだけど、みんなカウンターで、テーブル席に座っているのは私たちだけ。もっと言えば女子は私と葵だけ。
 屋上での一悶着。あれから数十分――――。
 不思議な事に私とこの目の前で昼食をガツガツ食べている二人はあの屋上から移動してここに来ていた。
 もっと不思議なのは私の前に酢豚定食がある事だった。
 ……まぁ今日の計画は中止だし、奢ってくれるって言うし、お腹空いたし。うん、仕方がない。仕方がないんだ。仕方なく私はこいつらに命令されてここまで来て好きなものを頼むように命令されて酢豚定食を頼み、こうして半分程平らげていたのだ。
「だから言っただろ? 僕たちの存在は複雑なんだって。生きては居ないけどその実、ほとんど人間と変わらないんだ。お腹も空くし、生理現象もある。足もあれば何にでも触れられる。もちろん給料制だからお金も持っている」
「……それってホントに何なのよ」
「だから複雑なんだって」
 ほら、冷めちゃうよ。と千雨はレンゲを伸ばし私の酢豚を一口かすめ取ろうとするので、皿ごと持ち上げて抱えるようにして頬張ってやった。
「まったく。はしたないのう。うら若き乙女ともあろうものが。大和撫子は何処へ行った」
 葵のチクチク刺さるような言葉も無視。無視して私は酢豚と白米の奏でる緊張と緩和を口中に広げて、そのハーモニーに酔いしれた。一口目で気付いていたけれど多分、ここ穴場だ。
 食べ終わるまでその後は無言。まさかの発見に私たちが酔いしれ、店主が麺を湯に放り込んだ頃、ようやく沈黙を破ったのは千雨、ではなく葵だった。
「ふう。満腹じゃ。どうじゃ? 死ななくて良かったであろう? わしらが貴様の死にたくても死にきれず結局、死ななかったかも知れない状況を慈悲深き心で止めてくれたおかげでこの食事にありつけたのじゃぞ? どうせあのまま死ななくとも貴様がここに辿り着く事は生涯なかったじゃろうから。ここへこれたのは真にわしらのおかげと言えよう。小娘よ。貴様には嗅覚が足りないのじゃ嗅覚が」
 クンクンと嗅ぐ振りをしながら得意気にこちらを見ているが、さっきから口元にご飯粒が二つもついている。言うべきだろうか。いや、言わずに恥をかかせてやろうか。そのまま外に出れば良い。そしてすれ違う人全てにバカにされれば良い。でもこの容姿なら微笑ましく思えてしまうかも知れないな。何せ喋らなければホント笑顔が愛らしい女子中学生と言ったところだ。セーラー服に裸足でスニーカーと言うのが何とも夏らしく爽やかで全てが相まって健康的に見える。健全の見本で紹介されていそうなくらいに。
「葵。ご飯粒がついてるぞ」
 あ、言われちゃった。
 私がこれをどうやって活かそうかと悩んでいる隙に千雨が指摘してしまう。葵も葵で何の恥じらいも無く「おう? そうか」と口元のご飯粒を取ってパクッと食べてしまった。
 千雨はそれを見た後、葵の汚れた口元(私の切り札だった)をティッシュで拭ってあげていた。何と、面倒見が良い男なのだろうか。それら一部始終がごく自然に行われているおかげでこれが日常茶飯事なのだと私に悟らせた。
 何だか妙な気持ちだ。言葉では表せないが、あまり良い気分ではなかった。
「で、結局何なのよ? これで終わりでいいの?」
 私は二人に持て余していたレンゲを向けた。
「終わりな訳ないじゃろ」
「終わりじゃないよ」
 同時に返答される。まだ終わっていないらしい。
「じゃあ何よ? 後、何すんのよ」
「ほんとに貴様は口が悪いのぉ」
 お前に言われたくない。とは返さず、無言でレンゲは置いた。頬杖はついたまま。
「春乃さ。もし良かったら僕たちの仕事を手伝ってみないか?」
 千雨はもう私を呼び捨てだ。あ、そうだ。
「あのさ。あんた初めから私の名前知ってたよね?」
「もちろん。知ってるよ」
「当たり前のように言われると何だか聞きづらいんだけど……何で知ってるの?」
「おかしな事を言いよるの。わしらが助ける者を知らないとでも思ったか?」
「はぁ?」
 千雨に聞いたはずなのに葵が答える。しかもまた微妙に的を外した回答で。
 要は下調べはもう一通り終わっているって事なんだろう。この二人が調べたのか、それともその会社? なのかわからないけど、斡旋? なのかもわからないけどこの二人に仕事をさせている何かが調べたのか。どっちでも良いけど、私は結局何も教えられていないんじゃない事に今更気付いた。
「お断りします」
 手を腿に下ろして丁寧に頭を下げる。一応、奢ってもらったお礼も兼ねて。
「えー? まいったなぁ。どうしても?」
「どうしても。です」
 断る時は敬語で他人行儀な雰囲気を出す。いつの間にか染み付いていた癖だ。目の前で悲しそうな困ったような顔を浮かべる千雨は見ない。いまだに憎たらしい顔をしている葵を見て決心を揺らがせないようにした。
「なんじゃ。貴様、恐いのか?」
「は? 恐いって何でよ」
「出来る自信がないのじゃろう?」
「自信も何も。なんにも分からないんじゃ怖がりようもないじゃない。私は結局あんた太刀が何なのか全く知れていないわよ?」
「だからそれを恐れておると言っているのじゃ。よいか? 知らないから恐い。これは当たり前じゃ。じゃが、その一歩を踏み出せればそれは恐怖の対象ではなくなる。貴様は知らないものに飛び込んだ事があるか? 何かに挑戦した事があるか? 何でもやってみろとは言わん。でも、知らないものを知る事が出来る機会は逃すな。知るだけで良いんじゃ。知っているだけで何もかも違う。零と一の大きな違いじゃ。無と有の違いと言った方がわかりやすいか。ちなみにそこに何か期待するのも間違いじゃぞ。貴様にとってそれが何になるのかは誰にもわからんもんじゃからな」
「……要は、つべこべ言わずに手伝えって事でしょ?」
「お? ようやく栄養が脳に回ったか? 全く持ってその通りじゃ」
 カッカッカと高笑いする葵に最早、ムカつく気にもならない。昨日まではあんなにスムーズだったのに何でだろう。今日は本当に全てが上手くいかない。
 死にきれなかった自分に対しての勝手な劣等感が幕が下りてきたように襲ってきて、私は何だか全てが虚しくなってしまった。
 結局、私は何にもなれないのだ。生きる理由も見つからず、自分で死ぬ事も出来ず。生きていく理由がないのだから死んじゃえば良いんだ。なんて簡単な結論を導きだして、その挙げ句それを理由に生き生きとしてしまうといった矛盾からも目を背け……結果がこれ。
 私はそれをこの二人のせいにするほど愚かではない。現にあの時、そのまま直ぐに飛び降りていれば死ねた。私はここにいなかったのだ。葵の言う通りだ。どうせ私は死ねなかったのだ。
 でも、もう決めたのだ。私は死ぬ。と。
 そうやって今日まで準備してきたのだ。現状を無視して言わせてもらえば、私の気持ちは何一つ変わっていない。私は死ぬ。
「ごめん。美味しいご飯を奢ってもらって悪いんだけど。やっぱり無理。私は死にたいし。今日はもう諦めるけど結局明日は飛び降りていると思うから。今日は助けてくれてありがと。最後に食べたご飯がこれで良かった」
 自分なりの本音を丁寧な言葉で並べた。気持ちは少しだけ嬉しかったような気もするから。
「よし! わかった!」
 千雨は急に机を叩いて立ち上がった。その笑顔は優しさに満ちていた。
「春乃。一回だけ。一回だけ付き合ってくれ。そしたら自分で答えを出せば良い。出さなくても良い。とにかく一回だけ。死ぬ前に。最後に一人だけ人を救うのも悪くはないだろ?」
 と言っても君は最初から自由だから、これは単なるお願いになるんだけど。と付け足して千雨は静かに座り直す。それでも視線はずっと私に向けたまま外そうともしない。
「まぁ。それも良い選択かも知れんぞ? 死ぬ前に誰かの役に立てたらそれこそ心置きなく死ねるかも知れんしな」
 葵の言葉に何となく納得してしまう。私が役に立てるのならそれもアリかも知れない。スッキリしたら気持ち良く死ねるような気もするし。別に心残りなんか何もなかったけど、折角、知り合いもいなかった私の人生に土壇場で関わってしまったこの不思議な二人は、それがたった数時間であったとしてもやっぱり大きい。実際、こんな風に誰かと外食をするなんて初めてだったから。友人でも知り合いでもないのに、何故だか不思議な縁を感じてしまって、それこそが心残りになってしまいそうだ。なかったはずの心残りに……
「……うん。わかった一回だけ」
 私は、決めた。それを承諾した。諦めたように、溜め息をつきながら頷いた。
「やったー! しばらくよろしくね春乃!」
「小娘。貴様には社会の厳しさをたっぷり教えてやるからの」
 まるでアメとムチのような二人は言葉は違えど、顔は喜びに満ちていた。
「言っておくけどほんとに一回だけよ。それ終わったらもうお終い。私たちはもう無関係。いいわね?」
 二人はうんうんと頷く。釘を刺しても表情は変わらなかった。変えたかったのに。
 そんな顔はしないで欲しい。誰かに喜ばれるのは慣れていない。
 私はそのまま店を出る。ちゃんと店主にごちそうさまを伝えて。店主も無愛想ながら頷き、またおいで。なんて言って来る。話を聞かれていたのかな。
 私は引き戸を開けた時に、カウンターの客が食べている物を見てようやくさっきから店主が作っていた物がタンメンだったと知った。
 会計を済ませて後ろから走って追いかけてきた千雨は私を近くの公園へと連れて行く。
 団地に囲まれたその公園は、それなりのスペースを色んな遊具で埋めている。
 等間隔で端に並べられた木製のベンチには読書をしている人や、遊ぶ子供を時々見ながら会話している親同士なんかが座っていて、散歩をしている夫婦なんかがいたりと、賑やかさはそれほどないが、寂しさは全く存在していなかった。
「で。私は何をすれば良いの?」
 私は公園の隅にある、使用方法の分からないすり鉢状をした遊具の縁に腰掛けてベンチに座る千雨達と向かい合う。
「うん。それは協力してもらいながら、その都度、説明していくよ」
「なにそのサプライズ感。別に楽しもうなんてちっとも思ってないから早くネタバレしてよ」
 まいったな。と千雨は苦笑いして頬を掻いた。でも、どうやら話す気もなさそうだ。
 この男は何とも分かりやすい。出会った中で一番だ。声のトーンや表情、目元や目線の動きなんかでどういう気持ちなのか何となくわかる。きっとお人好しで嘘がつけないタイプなんだろう。
「千雨。そろそろじゃぞ」
 葵の表情が変わる。笑顔が消えると急にどこか大人びて見えた。千雨も一気に雰囲気が変わって何だかキリッとしてしまう。あのほんわかした昼行灯達は一言で私の目の前から去ってしまったみたいだ。
「春乃。ここから君に協力してもらう」
 千雨は座ったまま私の目を見据えて、立てた親指を向かって右側に向けた。
「もうすぐ……あそこで散歩をしている夫婦」
 私は一瞬だけなるべく顔を動かさないようにして目線を右に向けてまた千雨に戻した。
 親指が向かっていた先には、幸せそうに微笑みを浮かべて歩いている新婚オーラ全開な夫婦が居た。
「あの夫の方が倒れる」
「は?」
 と、私が間の抜けた声を出すのと同時に悲鳴が公園中に響き渡った。ビクッと体が反応して、思わず私は振り向いてしまった。
 千雨との会話は途中だったけど、「は?」の後に「何言ってんの?」と言うつもりだったけど、もうその必要はなかった。
 振り向いた先には、さっきの夫婦が居た。
 ただ、妻の方は悲痛な声を上げながら膝をつき、夫はその手に揺すられながら地面に転がっていた。
「春乃! 救急車を呼んでくれ!」
 千雨は私にそう言って、その夫婦の元へと走りだす。
「ちょっと! 私携帯持ってないって!」
「うそ! じゃ、じゃあとにかく一緒に来てくれ!」
 一瞬立ち止まって振り返った千雨は私を手招くと、また走り出した。
「行くぞ小娘!」
「わわ!」
 葵に腕を引かれて私はよろけながら、スタートを切る。小柄な体のくせにすごい力だった。
 公園中の視線がいまだ悲痛な叫びを上げている妻の元へと集中しているが、誰もそばには寄って来ない。むしろ突然の出来事に体が固まっているようにも見えた。みんな時が止まったように動きを止めてただ視線だけを集めている中、私と葵が夫婦の元へと辿り着く。
「春乃! 奥さんを頼む!」
 千雨は振り向きもせず、私にそう言うが「頼む」と言われてもどうしたら良いか分からない。
「葵! 誰かに救急車を呼んでもらってくれ!」
「承知した!」
 葵は風のように去ってしまう。私はただその場に立ち尽くしながら目や手のやり場に困ってオロオロとしている事しか出来ない。
「奥さん! 動かしちゃダメだ!」
 千雨は夫から妻を引きはがす。妻の方はすっかり気が動転していて、引きはがしても倒れたまま何の反応もない夫に縋り付こうとしていた。
「春乃!」
「は、はい!」
 私は千雨の声と一瞬だけ向けられた視線で動き出す。今の光景を見てようやく理解出来た。
 もう一度引きはがされた妻を私は膝をついて抱きしめる。物凄い力でまた縋り付こうとするが、私も全力でそれを押さえ込んだ。
「動かしちゃダメです! 落ち着いて下さい! 旦那さんが死んでも良いんですか!」
 ありきたりな言葉が口から出て行く。別に上手い事を言おうとも思わない、と言うか考えられる状況じゃないのだけど。
 それでも私の言葉で妻の力は方向を変えた。力は依然、強力なまま。夫の方へは向かずに私の腕を掴む手に集中していた。
「大丈夫です。すぐに救急車が来ますから。大丈夫です」
 私はグッと抱きしめる力を強めた。根拠のない「大丈夫」が果たして嘘なのか本当なのかわからないまま無責任に何度も何度も呟いて、何かを確かめている千雨を見つめていた。
 救急車のサイレンが聞こえ始めたのはそれから数分後の事。思ったより早く来てくれた。
 そして担架で夫が運び込まれる頃には周りにいた人達もみんな集まっていて、少しだけ騒がしくなっていた。
 千雨が救急隊員と何かを話している中、私はゆっくりと妻を立ち上がらせて救急車の中へと乗り込ませる。力なく座った妻が私に頭を下げて、何とも言えない気持ちになった。
 それに会釈を返して救急車を後にすると、すれ違いで救急隊員が乗り込み、サイレンはあっという間に遠ざかって行った。それを見送って自然に散って行く人達の中、私たちだけがそこに止まる。千雨と葵はまっすぐ私を見ていた。そして私も見つめ返す。
 救急車が来るまでの間、ずっとかけ続けた「大丈夫」はサイレンが聞こえて来る頃には立派な嘘に変わっていた。結局は他人である私は自分でも嫌になるくらいの速度で冷静さを取り戻し、頭の中が勝手に整理された。そして答えが出てしまった。
「あの人。死ぬんでしょ?」
 千雨は小さく頷いた。視線は外さないまま。
 私はずっとあの人に嘘を言い続けていた。
 私は安請け合いしてしまった事を少し、後悔した――――。



「――――しかし。高校生にもなって携帯電話も持っていないとはなぁ」
 私たちは誰とも無くさっきの場所へ戻り、ベンチに座った途端に葵が私を見て溜め息をついた。
「別にいいでしょ。必要ないんだから」
 遊具の縁に腰掛けて私は葵を睨みつけた。
 そう。私には携帯電話なんて必要ない。かける相手もいないのに持つ必要があるのだろうか。もし、仮に持ってしまったら私はそれを作る為に悩みかねない。電話を持ってしまったが為にかける相手を作らなきゃならないなんてもう訳が分からないじゃないか。
「友達……おらんのか」
 葵は哀れんだ目を向けてきた。それも的をズレている感情だ。
 私は決して哀れではない。友達がいるほうが楽しいなんて感情は最初から持ち合わせていないのだ。もちろん、幼い頃は友達と呼べそうな者も居たけれど今はそんなもの必要ない。むしろ私は人に関わられるのが嫌だった。だから拒み続けた。
「春乃は、もしかして一人が好きだったりする?」
「まぁね」
 千雨は良く分からない表情で頷いた。嬉しそうに、悲しそうに。
「では、貴様は今までどうやって過ごしてきたのじゃ? 学校には行事が沢山あろう? 例えば修学旅行とかじゃ」
「そんなの別に。一応、行ったけど余り物を集めた班だったからほとんど単独行動よ。全体行動以外は全部一人で回ったわ」
「なんとなく想像つくよ。それで宿舎では誰もいないロビーで座っていたりしたんじゃないかな。部屋にも戻らずに」
「ま、まぁそうだけど」
 ズバリ正解だった。私は修学旅行先である京都に着いた瞬間、ホームシックにかかっていた。それもあんまりな話だが、なんだか着いた瞬間に全てが嫌になってしまったのだ。初めて来た場所なのに京都に対して何も期待出来なかった。本当に一人で帰ってやろうかと悩みながら流されるように行動して宿舎へと戻る頃にはその感情もピークに達していて、私はお風呂から上がると一人、部屋に戻らず薄暗い誰も来ないようなロビーで椅子に座りながらぼーっと暗闇を見つめていた。
「いたよねー。そういう子。そんな子に限って春乃みたいに可愛かったりするんだよな。だからついつい男子はチャンスとばかりに声かけちゃうんだ」
 私は何も答えない。確かに何人かの男子に話しかけられたけど、それを認めてしまったら自分が可愛いと認めるみたいで嫌だった。
「可愛い子って何でか知らないけど気付いたら一人でいるし、しかもそれが様になっちゃうからズルいよな。どうしても目が離せなくなる。僕も話しかけに行ったなぁ」
「……あんた。修学旅行行ったの?」
「当たり前じゃないか。言っただろ元人間だって」
「そうじゃ。ちなみにワシは行った事ないがの」
「何だか妙な感じね。つまりは一度死んでいるのね?」
「うん。そうだね。それに近い感じ」
「近いって……じゃあ生前の知り合いに会ったりしたらどうするのよ? それこそパニックにならない?」
 千雨は私の質問に寂しそうに笑うと一呼吸分の間を置いて口を開いた。
「弁離士になるとね。関わった人達の記憶から消えてしまうんだよ」
「つまりは存在していなかった事になるんじゃ。故に死んでいない。生まれていないのじゃからな、死ねる訳がない。だからワシらは幽霊でもないのじゃ。ちなみにワシは弁離人になってもう百年近くになるから生前の知り合いなんぞ会う事もないがの」
 また、ややこしい話が出てきてしまった。千雨の言う通り、少し複雑な存在だと言うのがだんだん掴めて来たけど、逆に難しくも感じた。生きていないから死んでいない。死んでいないから幽霊じゃない。でも、元々人間であって確かに生きていたのは事実。しかしその事実は事象として起こらなかった事になっている。
 ……良く分からない。
「まぁまぁ。そんなに大した話じゃないから深く考えないでよ。要は弁離士になった瞬間に初めてこの世に存在した事になるんだ。生まれたっていったほうが分かりやすいか。まぁ書きかえられたんだよ。生まれ変わったんじゃなくて書き変えられた。そんな感じ」
 千雨はフォローするように噛み砕いて説明してくれるけど、やはり雲を掴むような感覚で漠然としか理解出来ない。彼はそれで良いと言っているんだろうけど、私の性格上、それではあまり納得出来なかった。
「まぁよい。それよりもここからじゃぞ。弁離士の仕事はの」
「わかってるわよ……」
 私は、と言うより私たちはまだ何もしていない。弁を以て離を成す。と言う弁離士の仕事はこの世と死者を切り離すのだから、恐らく死んでからかもしくは死ぬ直前に行動するのだろう。
 と思っていたら概ね当たっていた。
 このままいけばあの男性は一週間後に息を引き取るらしい。私たちが助けに行かなければ、あの場で死んでいたそうなんだけれど。まぁ確かにあんな幸せの絶頂に居ますといった雰囲気のままいきなり死んでしまったら未練も残ってしまうんだろうけど、だからと言ってたった一週間生きながらえた所で何が変わると言うのだ。結局、その死ぬ運命が変えられないのなら結果として同じじゃないか。
 と言う私に葵はまたバカにしたような目を向けて回りくどく説明した。
 これは要約すると、あの男性はもうすぐ意識が回復するらしい。ただ、もう手遅れというのは検査で分かっていて余命も僅か。それでも容態が急変して死期は予想以上に早まった形で死ぬらしいんだけど、男性はちゃんと自分の死期を悟っていて最後の手紙を残すみたい。
 でも、どうやらそれだけじゃダメらしい。
 聞いた感じではちゃんと死ぬ準備も出来ているから余計な未練を引きずらずに済んでいると思うんだけど。
「時が来ればわかる」
 葵はそう言うだけで、千雨もそれ以上は何も教えてくれない。とにかく、後は時が来るまでに予定が狂わないかチェックをしていれば良いそうだ。本当に謎が多い仕事だこと。
「この世の都合に合わせて死期をずらすだなんてまるで神様。と言うよりむしろ死神みたいね」
「うん。確かに近いかも知れない」
 千雨は笑っていた。
「でも、弁離士がその場を離れて一定の時間が経てば関わった人の記憶から存在が消えてしまうんだよ」
「何それ。じゃあ今ここで私が全力で逃げればあなた達の事忘れるってわけ?」
「うん。そうなるね」
「まぁワシらが追わなければ。じゃがの」
 と言う事は……この一件が終われば私は結局、弁離士の仕事を手伝った事を忘れてしまうのではないか。これって意味あるのかな。なんて考えながら私はそれ以上の追求は止めておいた。
 忘れられるなら、その方が自分にとって好都合だからだ。
 公園はいつの間にか、夕陽が包み始めていて私たちの話す内容は今日の夜を明かす場所という一転してえらく現実じみた内容へと変わった。
 私は死のうとしていたのでもちろん、借りていた部屋も全て引き払っていた。まさか生きながらえるなんて夢にも思わなかったから。
 よって私はこの二人が今回の根城にしているという廃ビルで夜を明かす事になる。それはどうやら私がこうして話を切り出す前、もっと言えばこの町に来た時から想定していたらしく、既に準備は万端との事だった。結局、私もこの世の都合に合わせて死期を変えられているだけなのかも知れないな。と思ったけど、それも口にするのは止めておいた。
私たちが公園を後にする頃にはもう太陽もほとんど沈みかけていて、視界の果てには夜の群青と夕方のオレンジによる境目が見えていた。それはハッキリと分かるのに境界線は曖昧で、それを見て私は不意にこの目の前を歩いている二人の存在のようだと思った。曖昧だけど確かに存在している不確かなもの。弁を以て離を成す者、弁離士とは常に何かの間に居てそれを隔てなくてはいけない。だからきっと色々曖昧なんだと感じた。
 単純ではない。複雑なんだ。ハッキリとした答えなんかあるのかも分からない。深く考える必要はないと言った千雨の言葉に従う事にした。きっと生きてるうちに辿り着けそうもない。
 そんな時間もないし。
「春乃。そんなに離れて歩いてないで隣へおいでよ」
「いーよ。ここで」
 振り返る千雨から目を逸らす。千雨は少し呆れたように笑うと前へ向き直った。
 二人の二歩後ろ。私はその距離を保つように歩調を合わせて少しだけ活気を帯びた街並を眺めながら歩いた。
 途中で寄ったコンビニで晩ご飯を買う事にした。小腹が減っている程度なので、おにぎりを二個とお茶を買う。の前に、お金を下ろす。こういう作業がいちいち生きながらえてしまった事を思い出させてくれた。
「ほう。それなりの額が入っておるではないか」
「葵……あんた。人がお金を下ろしている所を覗くなんて常識がないにも程があるわよ」
「ん? パスワードを打っているときは視線を外したぞ?」
「だからって……いや、もういいわ」
 取り敢えず一週間は生きなくてはいけないのでその分くらいは下ろしておいた。手数料が気になるのではなく、何度も再確認したくないからである。生きてる実感をお金を下ろす事で味わえるとは思わなかった。
 根城である廃ビルにはそれから十分程で着いて、私は案内されるまま階段を三階まで上がって元々何かの事務所だったであろう雰囲気を醸し出した部屋に通される。廃ビルと言ってもボロボロな訳ではなく、それなりに物も残っていて電気まで着くから驚きだった。
「えっと、ここは何かの事務所だったのかな?」
 とりあえず入り口前に置いてあるテーブルに買い物袋を置いて中を見回す。テーブルを挟むように置いてある大きめのソファー。高級そうな革張りで少し年期が入っていた。奥にある窓に背を向けるように置いてある事務机と椅子。壁に向かって四つ程、同じようなものが置いてあった。
「事務所だったんじゃがの。もう使われておらん」
 葵はソファーに飛び込んで無邪気な笑顔を向けた。私も真向かいに腰を下ろすと、千雨もやっぱり葵をどかしてソファーに座る。少し広めの部屋の一カ所に固まると余計に広く感じた。
「物とか置いてあるけど。これは?」
「夜逃げ同然だったみたいだね。必要なものだけ持って逃げ出したというか」
「……あんた達が」
「違う違う! 僕たちは人を追い込んだりしないよ! こことは何も関係ない。たまたま都合が良かったから間借りしているだけさ」
「ふーん」
「貴様。信じておらんな?」
「単純な話じゃなさそうだからね」
 私の嫌味に千雨は苦笑いで頬を掻いていた。葵の吐き捨てた「全く可愛げが無い小娘じゃ」は無視してお茶を飲む。あんまり落ち着かない。寒くもなければ暑くもないし、うるさくもなければ静かでもない。全くバランスの取れた殺風景がひどく不自然だった。
 夜が更けると、千雨は別のフロアに移って私は葵と二人きり、ソファーにタオルケットというえらくハードボイルドな形で寝る形となる。まるで映画に出て来る探偵みたいで少し、可笑しかったがここで笑うと葵に突つかれそうなのでそれを押し殺した。
 それから私の弁離士手伝いとしての日々が始まった。
 と言ってもやる事はほとんどないと言っても過言ではない。毎日、病院まで様子を伺いに行くだけだ。千雨と二人で。
 葵は何やら準備をするとかで、あの夜以後は根城にも姿を現さなくなった。となると私はあの広い部屋で一人、夜を明かすのかと少し不満を持ったのも束の間、当たり前のように目の前のソファーで横になる千雨を見てそれ以上の不満を持った。
「千雨もしかして。そこで寝る気?」
「ん? そうだけど。あ、こっちが良かった?」
 こっちに向き直る千雨には私の言いたい事が伝わっていないようだ。大体、同じソファーなのだからどっちが良いもないだろう。
 どうやらハッキリ言わなきゃいけないらしい。
「そうじゃなくて。あんたは年頃の娘と同じ部屋で寝るって事がどれだけ重大な事かわかってるの?」
「え? あぁそういう意味か。でも、そんな事言われても……一人にするのはちょっと心配だしなぁ。あ、葵とは良く同じ所で寝るけど全然平気だよ」
「あいつは年頃じゃない」
「そ、そうだね」
 葵は見た目中学生の中身がご老人なので『年頃』から若干外れる。私調べだから例外もあるけど。でも、なんかそれはそれで嫌だな。
「とにかく。変な事したらただじゃ済まないから。わかった?」
「しないよ。する訳がない。僕はそんな奴じゃないから安心してよ。でも、やけに警戒するね? もしかして……そ、そういうなんか経験があったり……」
「ねーよ! 気持ち悪い事言うな! 変態親父!」
 もー気持ち悪い! 変な想像をさせないでくれ! あるわけないだろそんな経験!
 それどころか手だって繋いだ事ないわ! 性別問わずね!
「もー喋らないで。黙って寝て。近づかないで。良い? 絶対よ! 絶対!」
「ははは! わかったよ。じゃあおやすみ」
 千雨は嬉しそうに笑うと寝返りをうって私に背中を向けた。私は電気を消してソファーに腰を下ろし、千雨が寝ている方向の暗闇を見つめた。。
 本当に良く分からない性格をしている男だ。今日ずっと一緒に居たけど、何だかどうでも良い事を聞いてくるし、無視しても全然応えない。私より子供っぽい雰囲気あるのに私の方が子供に感じてしまう。この差は何なんだろう。こいつの人生経験が豊富すぎるのだろうか。
「春乃。寝た?」
「話しかけんな! 寝た!」
 くっくっく。と暗闇に笑い声が漏れる。私が言いたいのはこういう事。
 姿は見えないけど楽しそうなのは漏れる声でわかった。私は溜め息をついてソファーの背に顔を向ける。行った事がある修学旅行よりも修学旅行みたいだなって思ったら私も少し笑けてしまった。
 翌朝、私はまた千雨と共に病院へと向かう。
 状況視察をしているうちに男性の名前は「木下純平(きのしたじゅんぺい)」妻は「木下葉子(きのしたようこ)」と言う名前だと言う事がわかった。千雨は最初から知っていたようだったけど教えてくれなかった。まだまだ色々知っている雰囲気なのに彼らの情報は何一つ教えてくれない。それで手伝えと言うのはムシが良過ぎる。なんて思う気持ちはもうなかった。
 これが「諦め」というやつなんだろう。元々、期待なんてこれぽっちもしていなかったからそのタイミングは自ずと早く訪れた。
「良し。今日も大丈夫そうだな」
 病院の廊下に備え付けてある椅子に座って木下葉子が通り過ぎるのを見届けると千雨は大きく伸びをして立ち上がった。この状況視察は全く複雑さが無く、木下葉子の行き帰りを見届けるのと、二時間置きくらいに病室の様子を伺いに行くのみ。後は何もしない。と言うより、何もしてはいけないらしい。
「春乃。何飲む?」
「……ミルクティー」
 千雨は「了解」と笑って少し離れた場所にある自販機へと向かった。
 別にお金がない訳じゃないんだけど、千雨は私に余計なお金を払わせようとはしなかった。私が勝手に何かを買う分には干渉しないのに、こうした弁離士の仕事に付き合っているときだったり、ファミレスなんかに食事しに行くと絶対に払わせない。いい加減、私も何も言わなくなったけどやっぱりそれを当たり前のようには振る舞えず、遠慮がちに物を頼んでいる。頼まなくても余計な物を買ってきてしまうのだからこれが精一杯の行動だ。それに千雨はいつだって楽しそうだから良しとする。さながらデート気分なのかも知れない。
 これが、デートなら私はやっぱり彼氏なんていらないけど。
「お待たせ。はいミルクティー」
「うん……ありがと」
 受け取ったミルクティーの甘みが口いっぱいに広がると、私は少し心の角が削られた気分になる。昔から紅茶味というのが好物で、昔は紅茶味の新商品を見かけたらしょっちゅう買い食いしていた。
「春乃は紅茶好きだよね」
「そうだね」
「僕も結構好きだよ」
「その割にはあんたいつもブラックコーヒーじゃない」
「これはね。一息入れるための道具みたいなもんなんだ。ここぞって時にはいつだって紅茶味だよ」
 全くおかしな事を言うな。と思いながら缶に口をつける。
 ここぞって言う時とは一体どんな時だろうか。
「例えばほら。何かの記念日とか誕生日とかさ」
「あー。そういう事。クリスマスとか?」
「そうそう! 良い事があった時や、良い日にしたい時はいっつもそうだったね」
「へー」
 つまり、今はただの休憩と言う訳だな。まぁ確かに目の前を通り過ぎる様々な人間を流し見ながらボーッとしているだけなんだから、特別でもなんでもないんだろうけど。
 口に広がる甘ったるさに慣れてきた頃、缶が空になった。
「はい。捨ててくるよ」
「……ん。ありがと」
 千雨は嬉しそうに缶を受け取って自販機横のゴミ箱へと向かった。その背中を眺めながら私は溜め息をついた。
 やっぱり、彼氏はいらないな。



 その後も状況視察は滞り無く終わり、ようやく葵が帰ってくる。
「待たせたの」
 葵は何処で何をしていたのか、体全体から「漲っています!」というオーラがほとばしっていた。
「葵。それじゃ予定通り明日決行しよう」
「うむ」
 明日。それは木下純平が死ぬ日。
 二人の顔つきを見る限り、いよいよ本番らしい事が嫌でも分かってしまう。
 この殺風景な事務所の中に何か重苦しい物が蔓延している気がした。二人の笑顔も消えていて、どこか覚悟めいたものを感じる。
「春乃。ここからが弁離士の本領発揮だ。明日、春乃には」

 ――――木下純平に死を告げてもらう。



 ――――……。


 
 翌朝。
 気まずい程の晴天に私は目を細めて今日と言う日が来てしまった事を恨む。
 千雨の指示に猛反発したけど、全く受け入れてもらえず葵にまで諭されてしまった。
 私は結局、一睡も出来ないままこうして朝を迎えている。横でスヤスヤと可愛い寝顔を無防備に晒している葵の神経が今だけはとても羨ましかった。
 昨晩、何故、私にそんな重要な任務をさせるのかとさんざん問いつめたが、答えはまるでな納得のいかないものだった。
 どうやら弁離士にもランクがあるらしく、このツーマンセルも上司と部下って関係らしい。驚くべき事に上司は葵の方だったけど。それで、本来なら死を告げるのは部下の仕事なんだけど、これが千雨の大、大、大の苦手な分野らしく葵曰く素人である私が行った方がまだマシなんだそう。それでも、職務怠慢だ。とか、そんなんだから昇進出来ないんだ。とか、自分で選んだ仕事なんだから責任もってやれ。とかさんざん喚き散らしたけど役割分担は変わらず、私がそれを行い、千雨はサポートに回るといった形に収まってしまった。
 私が折れたのは、葵の豹変した上司っぷりに逆らえなかったってのもあったけど、終始気まずそうな顔を浮かべる千雨があまりに不憫だと感じてしまったのが大きかった。
「おはよう。眠れたかい?」
「寝れる訳ないでしょ」
 部屋へ入ってきた千雨からプイッと顔を背ける。別に納得した訳じゃないのだからこれくらいの仕打ちは当然だ。
「そうか……そうだよね」
 千雨はそれ以上、何も言わず葵に呼びかけて目を覚まさせると、目をゴシゴシさせて気怠そうに起きる少女の頭にポンと手を置き、高らかに叫んだ。
「良し! 朝食だ!」
 朝食と言っても時間はもう十時を回っていた。これをブランチと言う事くらいは知っている。そして私たちのそれは、あの日に行った中華料理屋で行われる事になった。
「ねぇ千雨。ここぞって時には紅茶味なんじゃないの?」
「ん? そうだけど?」
 千雨の目の前には回鍋肉定食が鎮座していらっしゃる。それを豪快に頬張ると恍惚の表情を浮かべて、また頬張るを繰り返した。そして二口目を飲み込み、口を開く。
「今日の終わりに食べようよ。紅茶のシフォンケーキ。美味しい店はもうリサーチ済みだからさ」
「あー……そうね。それはいいね」
 無事に終わればそれも良いのだろうが、私の心はそれくらいじゃもう踊らない。自暴自棄になって頼んだ餃子定食を眺めながら溜め息をつく事しかできなかった。
 これからとんでもない事を『告げる』仕事をするのに……何で、これ頼んじゃったんだろう。
「あ、食べないならちょーだ……」
「ダメに決まってんでしょ!」
 あっ。食べちゃった。
 と思ったのと同時に口中に広がった肉汁と野菜、ニンニクのハーモニー。
 途端に体中から何かが漲ってくる。
 これを知ってしまったらもう遅い。
 私はいまだに宝(ぎょうざ)を狙う千雨を警戒しながら、とにかく餃子と白米を口に放り込んだ。物凄く険しい表情で食事をしていたらしく、葵に笑われていたが私の心はそんなの気にならないくらい餃子に奪われていた。
 なんだかんだしっかり食べ終えてご満悦。私はお腹を擦りながらお店を後にした。
 お会計はもちろん千雨持ち。店を出る時に店主が「行ってらっしゃい」なんて言うもんだから、体中を走る餃子パワーと相まって少しだけやる気が出てしまう。
 こうなったらとにかくやって見るしかない。失敗しても別に関係ない。そう思う事にした。
 無責任かも知れないけど、他人の死に関わるのがどれだけの重みになるのかがわかった今、こうでも思わないと直ぐにでも逃げ出して先に死んでしまいたい気分なんだ。
「小娘よ。あまり深く考えるなよ。貴様の悪い癖じゃ。よいか? こういう時はな」
「深呼吸。して、頭を空っぽに。でしょ? あんた昨日から何回同じ事言うのよ」
「……わかっておるのならよい」
 最早、そんな気休めが通じるような局面じゃない。もう直ぐそこまで迫っているのだ。死神じみた行為に及ばなくてはならない現実が。弁離士の手伝いとしての本番が。
 病院に向かって歩いたのだから、時間はそれなりに経ったのだから当たり前なんだけど、私たちは着いてしまった。人の命が終わる瞬間が刻一刻と近づいている。
 どうせ何をしても、何をしなくても死ぬんだ。死んでしまうんだ。
 そう心の中で言い聞かせながら私は病院の中に足を踏み入れる。
 中は視察の時と雰囲気が全く変わらない。働いている人もここで治療を受けている人もいつもと変わらぬ病院の風景になっていた。
 こういった状況に巻き込まれた私は改めて考えていた。歩みを止めずに、それでもいつも以上にすれ違う人や座って何かを待っている人、それらを見回しながら私は当たり前の事を再確認する。
 ここは人が治る場所でもありながら、人が死ぬ場所でもあるのだ。
 ここに来る人の何人がそれを意識しているのだろう。まさか自分が死ぬわけないだろうと高をくくるどころか、考えもしていないんじゃないか。
 そりゃ日常の一部みたいなものかも知れないけど、診察に来ると言う事はそれだけで死の確率が上がっているんだ。少しだけ非日常に近づく場所でもあるのだ。
 もうすぐ私はここで一人の男性にそれを伝える。あなたはもうすぐ死ぬのだと、医者でも言えないような事をつい先日死のうとした女子高生が言うのだ。
 それこそ非日常だと思う。
「……ここね」
 私は部屋の前で足を止める。そっと顔を半分覗かせて中を伺うと、一番奥のベッドに木下純平の姿が見えた。半身を起こしてずっと窓の外を眺めている。一体何を見ているのだろうか。
「春乃。大丈夫。僕たちがついているから安心して。君の言葉で伝えるんだ」
 千雨は私の両肩を強めに握った。ジトッと感じた体温が何だか不思議で仕方がない。この人達は生きている訳でもないのに、温度がある、影も形もある。本当に不思議な存在だ。なんてこんな時にすら考えてしまう自分が冷静なのかもわからない。
「小娘。そんな期待もしとらんから、好きにやれば良い。どうなろうとワシが何とかする。それにどうなろうと、どうにでもなるものじゃから。この千雨ですらそうしてきたのだからな」
「わぁ!」
 パシンと背中を叩かれて、指先まで軽い電気が走ったような感覚とともに私は病室の中へよろけながら足を踏み入れた。
 二、三歩進んだ所で顔を上げると、中の病人全員が私を見ているのが分かった。木下純平も振り返って私の方に顔を向けている。
「あ、その……どうも」
 目が合ってしまい、私が彼に会釈をすると同じように会釈が返ってくる。他の病人はそのやり取りを見て、私が木下純平のお見舞いに来たのだと思ったのか興味を無くしたように視線を外して、また自分の世界へと戻って行った。
 私は背筋を伸ばし、必死に口角を上げて少しずつ木下純平に歩み寄る。彼はまだ私が誰なのか分からないようで(当たり前なのだが)少し首を傾げながら私の目をジッと見つめていた。
 数十秒かけてベッドの横に立つと、私は努めて明るく自己紹介をする。
「あ、あの……木下純平さんですよね? あの、私、あの、あなたが公園で倒れた時、側に居て、あの奥さんとあなたを救急車に乗せて……あ、いや恩着せがましい言い方になっちゃいましたけど、違くて、あ、申し遅れました。私、朝倉春乃と申します。それで、その……あの」
 随分と「あの」が多いなと自分で思った。それでも「あの」は止まらずにポンポンと飛び出してしまう。手の平にジワリとかいた汗を擦りながら私は散々シュミレーションした内容がすっかり飛んでしまったので浮かんだ言葉をただ吐き出すだけの機械になっていた。
「あ……妻から聞いています。その節は……どうも。おかげで助かりました」
「あ、いえいえ。ご無事で何よりです」
 どうやら私が何者か合点が言ったらしく、しどろもどろな自己紹介を遮って木下純平は頭を下げて来た。私も慌てて頭を下げ返す。
 どうやら奥さんから事の経緯を細かく聞いていたらしく、木下純平は私が招き入れて簡単に説明しただけで千雨の事も葵の事も理解してくれた。
 私たちの関係は兄弟と言う事にしておいた。それが見た目で一番無理がない設定だった。
 気になって、お見舞いに来たと言う理由だけで、細かい事は追求せず、突然の来訪にも快く受け入れてくれた木下純平は人が良いのだろう。
「あ、あの。何を見てらしたんですか?」
 千雨と葵も交えて少し雑談を交わした後、私は何となく聞いてみた。窓の外は広めの庭があるだけで、遠くの景色もそこまで見晴らしが良い訳ではない。
「あぁ、これはですね。大した理由でもないんですけど、何となくこの風景を目に焼き付けておきたくて。何があるって訳でもないんですけどね」
 微笑みながら木下純平は窓の外に視線を投げる。私は胸の奥が何かで突つかれたような気がした。
 そうだ。この人は自分の死期を何となく分かっているんだ。まさか、今日とは思っていないかも知れないが、最後の手紙を残しているくらいなんだから。きっと最後に見る景色となるからちゃんと焼き付けておこうとしているんだ。希望を捨てた訳じゃないんだろうけど、準備はちゃんとしているんだ。この人は。
「外……少しだけ、歩きませんか?」
 私の提案に木下純平は笑顔で頷いてくれたが、一応大事を取って車椅子を私が押して外を散歩する事にした。
 看護士が快く貸してくれた車椅子に木下純平を乗せると私はハンドルを握ってゆっくりと進みだす。車輪はスムーズに回るのにずっしりと来る重みがスピードを抑えてくれた。
 正面入り口から外へ出て、病室から見えた庭の方へ向かう。大きな病院特有の緑豊かで穏やかな雰囲気がそこにはあった。ゆっくりゆっくりと流れる時間を色んな患者が思い思いに過ごしている。数はそれこそ少ないけど、そこに居る人達は全員穏やかな顔をしていた。誰かと話す者や本を読む者、音楽を聴いて空を見上げる者。過ごし方はそれぞれでも、その表情は全て病人には見えない明るさがあった。
「今日は過ごしやすい気温ですね。朝倉さんはどの季節が好きですか?」
「季節ですか? そうですね……春。とか?」
「って事は花粉症じゃないんですかね?」
「そうですねぇ。花粉症ではないですね」
「羨ましいなぁ。俺なんか春が来る度、憂鬱ですよ。もう鼻も目も取り外したくなる」
「カートリッジ式だったら確かに自分の好きな顔になれそうですよね」
「そりゃいい! 朝倉さん面白い事言いますね!」
 木下純平の頭が少しだけ揺れた。今のは単なる相槌であって、決してギャグのつもりで言ったんじゃない。でも、彼が楽しそうだからそのままにしておいた。
 過ごしやすい気温にそよ風が心地よく、ちょっとだけ会話を弾ませながら私たちはゆっくりと庭を半周して、小さな池の前にある綺麗な白いベンチに腰掛けた。
「朝倉さんって人気者でしょ?」
「え? 何でですか?」
「そりゃだって、これだけ面白くて可愛い子が居れば男子は絶対に放っとかない。断言出来るよ」
「ははは……どーでしょうねぇ」
 私は首を傾げながら愛想笑いでごまかした。
 木下純平はいつの間にか口調が砕けていた。これは私の会話によって少しずつ彼の素を引き出せたと言う事だろう。こうして距離を近づけるのが果たして良い事なのか悪い事なのかはわからないけど、葵の言う通り自分の思う方法でやってみる。
「木下さんこそモテたんじゃないですか?」
「いやー俺は全然」
「じゃあ学生時代の部活は何やってました?」
「俺はずっとサッカー部だったね」
「あー、はいはい。何かわかります」
「何か言い方が引っかかるなぁ!」
「でも、だとしたら尚更モテたでしょ? サッカー部の人って割と活発で人気がある人が多いイメージです」
「朝倉さんの学校はそうなの?」
「うん、まぁ。はい」
「まぁそりゃそうだよね。実際俺も沢山バカやって目立ちたがってたしなぁ」
「何かイメージしやすいですね」
「朝倉さん。言うね!」
 木下純平は屈託なく笑う。この人は年上なのに笑うと本当に少年のように見えた。嫌味のない明るさは何だかこちらの暗い気持ちを光の方へ引っ張ってくれる引力を持っている。だから、私もいつの間にか力を抜いて自然と笑みがこぼれてしまっていた。
 こういう人が居たら私の人生は変わったのかな? なんて考えてみる。下らない「もしも」だけど、多分変わらないんだろうと思った。きっとこんな人が居ても私はこういう状況じゃなければ話そうともしない。近づかせないだろうから。
「でもさ」
 木下純平は背もたれに体を預けて真上を見上げる。
「バカやって目立ちたがるのって結局、一人の女の子に見てもらいたいってだけなんだよな。高校生の男子なんてそんなもんだ。ってかそれしか考えてなかったな」
「俗に言う『チャラい』ってやつですね」
「そうそう! チャラいって言うよりか単なるバカなんだけどな。もう不器用でさ、それでも何とかしたくてさ、毎日何かしらのキッカケを探してチラチラと視線を送ったりしてね。メールも何度も迷いながら結局、送って。その後はもう一分毎にチェックしてさ。メール来てなくて勝手にヘコんで、今何やってるのかな。気付いていないのかな。風呂かな。飯かな。誰かと会ってるのかな。電話してるのかなって」
 木下純平が見上げた先はきっと空ではなく、過去なんだろう。と思った。私はその視線の先に広がる青よりもっと青々とした彼の目元が何かを懐かしんでいるように感じた。彼は今、まさに少年に戻っているんだ。
「全ての時間がその女の子の為に動いてたな。笑っちゃう話だけどさ、席替えで好きな子が移動するだろ? 例えば後ろの奴と話している時にそれで向きが変わるんだよ。好きなこの席が右なら体を右に向けて後ろの奴と喋る。左にいたら左に向けて喋る。自分だけが知ってる謎の法則」
「何だかそこまでいくと愛くるしさも感じますね。すごく純粋というか」
「動機は不純だけどね。行動は純粋だったかもしれないね。まぁおかげでその努力も実を結んだんだけどさ」
「あ、すごい。その人心を動かしたんですね」
「うん。正に生きていて一番幸せな瞬間だったかも知れない。後半は向こうも俺に気があるんじゃないかって探り探りだったから変にドキドキしている期間も長かったし、ようやく報われた。なんて思わなかったか。ただただ単純に『やったーーー!』って感じだった」
 空に向かって大きくガッツポーズをする木下純平に私は仕事とは関係ない興味本位の質問をぶつけた。
「そのー……水を差すようで悪いんですけど。そうやって沢山努力して付き合えた人と別れる理由って何だったんですか?」
 これは私が前から思っている疑問だ。何だかこういうのって美談みたいに語られるけど、その結末はガッカリするような内容である事が多い。ってか全武そうだ。誰ちゃんが誰君とようやく恋を実らせたって思ったら簡単に別れて違う男の話をしているとか、私には何とも理解が出来ない。その理由が「冷めたから」とかでそれを笑いながら女子同士で話しているのがどうしても納得がいかなかった。
「ははは。別れてないよ。今の奥さんがその人」
「え?」
「朝倉さんの言いたい事は分かるけどね。高校生の恋愛なんてそんなもんだよ。もしかしたら俺は運が良かっただけなのかも知れない。関係が危なくなった時も勿論あったし。それでもちゃんと持ち直してここまでこれたのはきっと色々な事が関係しているんだろうけど、やっぱり運が良かったっていうのはあると思う」
「運……ですか」
 その言葉は私の疑問を解消も納得もさせないまま、全てをまとめてしまった。
 でも、何だかそれで良い気がした。それ以上何もない気がして私は心の吹きだまりから少量のヘドロが浄化するのを感じた。
 木下純平は得意気に親指を立てて笑う。
「そう。出会いからここまでラッキー多めだったって事」
「ふふふ! 何か喋りがどんどんチャラくなってますよ」
「あれ? まいったな。久しぶりに可愛い子と話したから舞い上がっちゃったのかな」
「あー、すごい。チャラさ増しましたねぇ。こんな人と話したのは初めてです」
「そうか? いっぱいいるだろうこんな感じの奴」
「はい。いっぱいいます。だから喋らないんですよ」
「ガードが固いんだねー。こりゃ君を好きな子は苦労しそうだ。どこからチャラいって思うタイプ?」
「知りません。でも、木下さんは平気です」
「お! ラッキー! 何で?」
「本気で思ってないから」
「えっと……?」
「私の事を褒めるのも下心を感じないし、ちゃんと奥さんの事を一番に愛していると感じるからです。声の底に誠実さがありますから」
「あ、愛してるって……」
「そんな照れないで下さいよ。でも、その奥さんとの話をしている時の顔がすごく良い顔でしたよ?」
「そ、そうか?」
 木下純平は耳まで真っ赤にしながら両頬を手の平で数回叩いた。
「まさかバカな思い出が単なる惚気だとは思いませんでしたけど」
「あ、朝倉さん。やっぱりトゲあるね」
「そうですか?」
「うん。変わってるって言われない?」
「わかりません」
 私の返答に木下純平が苦笑いで返すと、私は彼越しに離れた所に座る千雨と目を合わせた。
 そろそろ切り出そう。
 こうして話してみてこの木下純平という人となりが少しだけ掴めた。この人には変に隠さず正直に話した方が良い。きっと大丈夫、受け止めてくれる。そう思えた。
 我ながら良いキャラクターが作れたと思う。ちょっと素も混じっているけれど、いや結構混じっているか。割と本音を言っているのだから。この人は何か喋りやすい。
 このちょっとした打ち解けが、どこまで効果をだすのか。
「木下さん……」
 私は一変して真剣な表情になってしまう。ならなくても作るつもりだったが、その必要はなかった。体がこわばる。膝の上で握った手に力が入った。
「ん? どうした?」
「落ち着いて……聞いて下さい」
 木下純平の目を見れない。私は自分の膝元に目を落としながら歯を食いしばる。
「その……実は……私がここへ来たのはもう一つの理由がありまして」
「もう一つの?」
「はい……その……非常に申し上げにくいんですが。実はあの時……私が木下さんの倒れる瞬間の時に助ける事が出来たのは……偶然じゃありません」
「ん? 何言ってるの?」
 顔は見れない。でも、声が何となく怪訝な感じになったのできっと動揺しているんだと思った。
 それでも、私は話し続ける。全てを伝えなければいけない。
「木下さんが病気に倒れる事。もっと言えば、あの日、あの時間あの場所で倒れる事を私……じゃなくて厳密に言えば向こうに座っている二人なんですけど……知っていたんです」
「あ、あのさ。急に何か方向性変わってるけど。どうしたの?」
「ごめんなさい。信じられないかも知れないけれど。ちゃんと全てお話ししますから聞いて下さい。お願いします」
 私は力が入り過ぎたのか、体が震えだした。押さえ込むようにグッと力を込めるんだけど、全然効果がない。
「……わかった。わかったよ。全部聞くから。どうぞ」
 木下純平の言葉で少しだけ緊張が和らぐ。私は俯いたまま小さく頷いた。
「実は私は木下さんが倒れた日、別の場所で自殺しようとしてました。でも、その……あの二人に邪魔されてしまってこうして失敗に終わったんですけど……まぁ端から見れば助けられたような感じです。私は邪魔されたとしか思ってませんけど。でも、不思議な事があって。私、あの日、あの場所で死ぬ事を誰にも言っていないんですよ。なのにあの二人はそれを知っていて、私の名前まで知っていて。ちょっと普通じゃないんですあの二人。そして私は今、流れで彼らの仕事を手伝っていて……それで来たんです。ここへ」
「俺に……会いに?」
「はい。私にはあなたに会って伝えなければならない事があります。木下さん」
 私は顔を上げて隣に座る木下純平に振り向く。彼は真剣な表情で話を聞いてくれていた。


「あなたは……今日、亡くなります」


 とうとう言ってしまった。随分と回り道しながらだったけど、私は木下純平にハッキリと死を告げた。
「あ、えー……と」
 木下純平は私から視線を外して小首を傾げた。悩みと言うよりも葛藤しているようだった。
「すいません。突然告げられても困ると思いますが……どうやら本当みたいなんです」
「ど、どうやらって……えっと……どうすりゃいいんだ? あ、あの一つ質問良い?」
「はい。どうぞ」
「なんかこう霊感商法と言うか、高い壺とかお札を売りつけようとかじゃないんだよね?」
「違います」
「そう……だよね。だよなぁ」
 木下純平は深い溜め息を吐いて背もたれに寄り掛かって見上げた。そしてもう一度、そうだよなぁ。と呟いた。
「朝倉さんは詐欺師とか、そんな感じしないもんなぁ……」
「はい……本当です」
「そうか……俺、今日死ぬのか……まぁ何となく準備はしといたんだけどさ。もう少しは生きれるのかと思ってたよ……俺、本当に死ぬんだよね?」
「はい。今日、死にます」
「ははは。まさかこんな可愛い子に死の宣告をされるとは思わなかったな……」
「……すいません」
「謝らないでよ。別に覚悟がなかった訳じゃない。ただ、まさか今日だとは思ってなかっただけだから。大丈夫だよ。気にしないでくれ。むしろ教えてくれてありがとう。まぁ、うん。そうだね。幸い、準備もしておいたし。少しは心置きなく死ねるかな。本当にありがとう。じゃあ最後は妻との時間を楽しむかな」
「……木下さ……」
 私はそこで言葉が詰まってしまった。木下純平は空を見上げて泣いていた。
「あー、ははは。ごめんね。情けない所見せちゃって。いやぁ大の大人が恥ずかしい。全然ダメだね。本当に。ごめんね」
「……そんな」
「いいんだ。でも、少しの間一人にしてもらっても良いかな」
 私は頷いて、席を立とうとするが、肩を押し戻されてしまいストンとまたベンチに落とされてしまった。
「申し訳ないんですが、そんな時間も無いんですよ」
「千雨?」
 振り向くと、千雨はにこやかに私の肩を掴んで木下純平と視線を交わらせていた。
「ど、どういう事ですか?」
「お気持ちはお察しします。この春乃から多少の説明はあったと思いますが、私達は弁離士という少々変わった仕事をしてまして。その内容というのが死ぬ者、死んだ者の未練を断ち切る仕事をしています。まぁ諸々限定されていますが。私達弁離人は言えなかった別れの言葉を言わせてそれを成す仕事です。つまり、木下純平さんのお別れを言わせてあげる為に来ました」
「い、いや。いきなり言われても。それにこうして教えてくれたんですからちゃんと周りには別れを告げますよ。そりゃ少しは未練もありますけど。ちゃんと言えるだけ幸せです」
 千雨は首を振った。
「それがですね。どうしても今日は会えない人が居るんです。そしてまた厄介な事に死者は死後二ヶ月は霊体としてこの世に止まってしまうんですよ」
「ちょっと千雨。一体何が言いたいのよ」
 私はこの回りくどい言い方にイライラして手を払いのける。千雨は払いのけられた手をどうしようともせず、ダランと下げたまま木下純平をジッと見つめていた。また、木下純平も千雨を見つめていた。
「木下葉子さんは妊娠しています」
「は? ちょっと千雨どういうこっ! むぐ!」
 後ろから口を塞がれる。辛うじて見えた背後には葵がいた。その手で私の口を塞ぎながらも視線は千雨の顔を見上げていた。
「木下純平さんは死後二週間経った頃にそれを知ります。もちろん葉子さんも同時にそれを知ります。そしてあなたはどうしてもそれが気になってしまい、この世に止まってしまう。心配で仕方がなく地縛霊となる」
 木下純平は黙ったまま千雨を見つめていた。私は葵の手を振りほどいて立ち上がり千雨を指差す。
「べ、別にいいじゃない! 心配ならその生涯を見届けるくらいしたって。そうしたらそのまま成仏するんじゃないの!」
「春乃……そんな単純な話なら僕たちもこんな事していないよ」
 千雨はとても悲しそうな目で私に視線を移した。私はその目を見て何も言えなくなってしまう。
「小娘。バカな貴様には直接的に伝えるしかないのかの。あまり邪魔されても困るからの。いいか。地縛霊は成仏出来ん。自分の力ではな。そして地縛霊はその存在だけで近しい人に不幸を呼び込んでしまう。それは関係が近しい者も物理的に近い距離に来た者両方に言える。つまりじゃ……」
「木下さんは、このままだと妻の葉子さん、そしてお子さんもろとも死に追いやってしまいます……」
「そして、その苦しみがそなたを更にこの世へと縛り付けてしまうのじゃ。これが地縛霊の因果じゃよ。まぁ一例に過ぎんがな」
「そ、そんな……」
 私はまさかの真実に何も言えないまま、指差した手をそのままどうする事も出来ず、ただ千雨を見つめていた。千雨は少しだけ私に微笑むと視線を木下純平へと戻した。
「木下さん。私たちはそうさせない為にここへ来ました」
「そ、そうさせないって……?」
「ふん。別れを言わせるのが仕事じゃと言ったであろう。なら答えは簡単じゃろうが」
 木下純平は千雨と葵へ交互に視線を移す。千雨は木下純平の手を取り、そしてもう片方の手で私の人差し指を握った。
「葵。頼んだ」
「良し。では行くかの」
 葵はベンチをまるで風に乗るように軽やかに飛び越えて私と木下純平の腕を掴んだ。そうして私たちはイビツな円上になって繋がると、葵が何かを呟きだす。小声で聞き取れないけど、念仏でもないけど良く分からない言葉の羅列だった。
「ね、ねぇ。千雨! 行くって何処へ?」
 私は徐々に体中が光を帯びていく葵と千雨に何度も視線を移す。
 千雨は木下純平に顔を向けて微笑むと、その表情のまま真っ直ぐ私に向き直った。
「未来だよ」
 瞬間、私は目も開けていられない強い光に包まれて、フッと地面が抜けて落ちて行くような感覚に捕われる。どうしてかわからないが、目も開けられなければ声も出なかった。ただ、葵には腕を千雨には指を掴まれたままなのはわかった。
「きゃっ!」
 着地。と言うより尻餅をついて私は目を開ける。ほんの一瞬の出来事だった。時間にしてホントに数秒。なのに視界に入って来た風景はまるで変わっていた。
「ここ……どこ?」
 私はお尻を擦りながら辺りを見回す。木下純平も同じように尻餅をついていてキョロキョロと視線を移していた。
「未来の公園。って言い方が分かりにくいか。木下純平さんが倒れたあの公園だよ。ただ、五年後の。だけどね」
「ちょっと何言って……」
 私は視界に入った木下純平の顔に目を留めて言いかけた言葉を飲み込んだ。
「よ、よう……こ?」
 目の前で尻餅をついたままの木下純平が私の後方に視線を投げたまま固まっていた。
 私もつられて後ろへと振り返る。
「え?」
 そこには確かに木下葉子の姿があった。そしてその手は小さな女の子と繋がれていて、二人は笑顔をこぼしながらゆっくりと歩いていた。
「これってまさか……本当に?」
 向き直ると千雨は静かに頷き、そして私に手を差し伸べた。
 葵は木下純平の肩に手を置いて、真っ直ぐ木下葉子の方を見据える。
「木下純平よ。時間は十五分。それがタイムリミットじゃ。時間が経てば自動的にわしらは元の場所へと戻ってしまう。早う行け。娘に会える最後のチャンスじゃ」
 私が千雨の手を取って立ち上がるのと同時に木下純平は走り出した。
 それはもう驚く程の早さで、バタバタと不格好で寝間着姿のまま飛び出した。そして少し離れた所で歩いていた木下葉子が彼の姿に気付いたのも束の間に、木下純平は会えるはずの無かった、その手に抱けるはずの無かった自身の娘を跪いて抱きしめた。そして木下葉子と木下純平も言葉にならない声を上げた。
「春乃。僕たちは向こうに行っていよう」
 千雨が指差した場所はあの訳の分からない遊具とベンチがある場所だった。
 私はもう一度、木下親子の方を振り返って頷いた。
 彼が最後のお別れをしている間に私はもう少し詳しい話を聞かせてもらった。
 どうやら、葵にはと言うより葵のランクに居る者は時空を超えられる能力が備わっているらしい。それでも、力を貯めて尚かつ増幅しないと行けないらしいのだが。葵はそれをする為に戻っていたのだと知った。他にも色んな能力があるらしいのだけど、そこについては教えてくれなかった。ただ、千雨にはその能力が無く、ランクは下の方だと言う事はわかった。
 チラチラと親子の方に視線を移しながらも私の質問は続いた。
「でもさ。これって未来を変えちゃう事にならない? いいの? そんな事して」
「案ずるな小娘。この十五分間はワシらが元の時代に戻れば関わった者、今回で言えば木下葉子とその娘の記憶から綺麗サッパリ消えるようになっておる。つまりは無かった事になるのじゃ」
「でも、それじゃ……」
「いいんだよ春乃。これは残される者を救うんじゃない。残して消える者を救う仕事なんだ。だから木下純平さえ救えればそれで良い。だからこの事は内緒だよ」
「それって何か……」
「良いのじゃ。それで。全く貴様は何でも知りたがり納得したがるのう。悪いとは言わんが良くもないぞ。大体、その年で全てを理解しようとするのがおこがましい。貴様はまだ子供なんじゃ。ゆっくり考えれば良いじゃろうて。ホントにガキじゃの」
「うっさいわねぇ……見た目は私よりガキのくせに。納得出来ないんだからしょうがないでしょ!」
「まぁまぁ春乃。見てごらん。木下親子をさ。あの姿を見てもこれが間違っていると思うかい?」
 千雨に言われて私はもう一度振り返る。そこには涙を流しながら抱き合う夫婦と笑顔で頭を撫でられている娘の姿があった。
「間違ってるとは……思わないけど」
「だろう? いいもんだよねぇ。父親の不器用な愛情ってのはさ。きっと記憶に残らなくても何らかの感触は残るんじゃないかな」
「そうなの?」
「そうであって欲しいと思うよ。実際はわからないけどね」
「ふーん」
「なんじゃ。えらく無関心じゃの」
「だって知らないもん」
「知らないって何を?」
「父親の愛情」
「そっか……ごめんね」
 千雨はその後、何も言わなかった。きっと知っていたんだろう。そりゃそうだ、調べはついていたに決まっている。口を滑らせてしまったと気にしているのがわかった。今まで沢山見て来た。私の身の上を知る者はみんなそんな顔をした。その何とも残念そうで悲しそうな表情はとっくに見飽きているのだ。哀れむような顔も見たくはない。そうやって気遣われるのはもう十分だ。だから私は他人と関わりたくないのだ。
 私の絶対に触れられたくない場所。
 心の奥にある絶対に誰にも触らせたくない大切で痛々しい思い出。
 私の母はシングルマザーだった。
 そして、私が小学校に入学する寸前に他界していた。



 ――――元の時代、元の場所に戻る時も私は尻餅をついた。
 木下純平は泣きじゃくりながら何度も私たちに頭を下げた。私はそのお礼の言葉を素直には受け取れなかった。だって結局は会えてなかった事になっているのだから。私たちが未来に行った事を覚えている者はいない。それを木下純平は知らない。五年後に妻と娘は自分と会えるのだと思っている。
 でも、その事は口が裂けても言えなかった。
 木下純平の姿を見ていたら、とてもじゃないが言えない。
 私が車椅子を押して行こうとしたら、やんわりと断られた。自分の足で戻るからと言って車椅子を近くに居た看護士に預けて戻ってしまった。
 彼は残りの時間をどうやって過ごすのだろうか。もしかしたら残した手紙を書き換えるのかも知れない。五年後に会えると書いてしまっているのかもしれない。
 弁離士と関わった者の記憶は消えてしまう。私の事も忘れてしまうとの事だった。関連した記憶は全て書き換えられてしまう。
 だから口で伝えた所で意味は無いのだけど、木下純平は口では伝えず、手紙に残す。そんな気がした。不器用に始まった恋はきっと不器用に締めくくるんだと思う。
 木下純平を見てるとそう思えた。
「それはそうと。あんた達ってさ。別れの言葉言わせるだけ言わせて自分達は最後にさよならの一言も言わないってどうなのよ?」
 私はさきほどの出来事を掘り返す。何度も頭を下げながら「さようなら」と言った木下純平に対して二人とも頭を下げるだけだった。結局、忘れられると言っても冷たすぎる気がした。
「そうだ。言ってなかったね。僕たちはその、別れの言葉を言えないんだよ」
「はぁ? どういう事よ」
「言ったであろう。弁を以て離を成すのじゃと。つまり、ワシらがそれを言ったら消えてしまうのじゃ。弁離士の別れの言葉には強い力が込められている。故に言えばたちまちその存在を消してしまうが、代わりにそれを言われた者にのみ記憶を残せるのじゃ。特権のようで呪いのようでもある。まぁしきたりじゃよ」
「何だか色々ルールが多過ぎるわね。じゃあなに? さよならは言わせるもので言えないって訳?」
「そうだね。意味の同じ言葉も使えないんだけどね」
「じゃあね。も?」
「うん」
「またね。も?」
「そうだね」
「グッバイ。は?」
「貴様。ホントにバカなのか?」
「……最後はふざけただけよ」
 私はベンチに座って背もたれに寄り掛かりながら空を見上げる。さっきまで木下純平が見ていた景色。
 青々とした視界には雲が一つ。ゆっくりと流れていた。
 深く息を吐き出し、体を脱力させた。
 これで私の仕事は終わった。役目を果たしたのだ。
「で? 貴様はこの後どうするのじゃ?」
 隣に座る葵に私は振り向きもせず口だけ開いた。
「さぁね。今は肩の荷がようやく下りて頭が真っ白だわ」
「春乃。どうだった? 人の死を近くで感じてみて」
「だから何も考えられないって」
 千雨は私の顔に影を落としてクスッと笑った。
「どいてよ。空が見えないじゃない」
「そうやってすぐ黄昏れるのも十代ならではなんじゃろうな」
「うっさい」
「春乃。じゃあとりあえずさ」
「何よ?」
「紅茶のシフォンケーキ食べに行こうか」
 私は体を起こす。そして浅くフッと息を吐いて後ろに振り返った。
「二個。奢りね」
 千雨は微笑みながら頷いた。