ずっとずっと暑かったのに、往来(おうらい)を行きかう人は、いつしか秋の(よそお)いになっていた。
 
「つばきさん。椿(つばき)あやみさん」
 
 フルネームで呼ばれた私は一瞬、聞こえないふりをしようと思ってしまった。
 でもそんなことをしたってどうしようもないことは、よくわかっている。

「……はい」
 
 振り返ると、店長が立っている。私がアルバイトとして働くこのカフェ、ジャルダンドゥティガに一か月ほど前にやってきた、女性の店長だ。
 
「あっち。あのテラスのお客様の左端のテーブル」
 
 (あご)でしゃくって(しめ)された先には、テラスのテーブル席がある。
 店長が次に言うことを察して、私はつらい気持ちになった。
 
()きに、行けるよね?」
 
 そこには今、品の良いグレーヘアの紳士がゆったりと座っていて、カップを片手に往来を(なが)めている。
 ついニ十分前に、私がホットジンジャーラテをサーブしたお客様だった。
 腕時計を確認する。時刻はいま、十一時二十一分。ランチタイムまであと少しという時間。
 
 店長の言う「テーブルを拭く」は、お客様の退店を(うなが)す意味で使われている。
 つまるところ、もうすぐやってくるピークの前に、一人客を追い出せ、と。店長はそう言いたいらしい。
 
 タッセル付きのガーデンパラソルを立てたテラス席は、デートのお客様や友達同士のお客様に特に人気があった。
 複数人でご来店されるお客様はオーダーの数が多く、そのうえ若い世代であればSNSでの宣伝効果も期待出来るらしい。
 
 だから優先する、そのために一人客には早めに退席してもらう、という考えのもと、店長は私に指示を出している。
 理屈(りくつ)として、理解は出来る。でも、賛同(さんどう)は出来ない。
 だって私は、店長の中では優先順位が低いらしいホットジンジャーラテの紳士に、ゆったりとした時間を過ごして欲しいのだ。
 
「え、えーと、ですね……」
 
 口ごもりながらちらりと店長の顔を見ると、茶色い弓なりの眉を寄せ、非難(ひなん)するような目でこちらをにらみつけてくる。
 顔にははっきりと、感情が浮かんでいた。
 
──指示にすぐ(したが)わない無能が。おどおどしてるんじゃねぇよ。
 
 (のど)がヒクっとして、私はますます口ごもった。
 
 店長の後方では、私と同じ年ごろのホールスタッフが数人、バックヤードから出てすぐのところで立ち話をしながら、私と店長のやり取りを眺めていた。
 
 ここには大学1年生の私とそう歳の変わらないスタッフが数名働いていて、仲が良い。
 というか、私も最初は仲良くしていたけれど。
 彼らが数日前の帰り道、笑い交じりで話していたことを、私は思い出してしまった。
 
 あの時、私は気配を殺して後方(うしろ)を歩いていた。駅の方向が一緒だったから。 
 
「あやみって根本的に頭が悪くない? 客席の回転率とか考えらんないのかな」
「田舎から出てきたんだっけ? そのせいもあるのかもな」
「辞めたらいいのにね。邪魔じゃん」
「でもクリスマスとか年末年始にあの人がいなかったら、休み取れなくね?」
「ちょ、待って笑 その時あやみ出るの確定してるのウケる」
 
 私が後ろにいることに気が付かなかったからって、そこまで言うことはないと思う。
 以前私たちは、仲が良かった。
 けれど風向きが変わったのは、新しい店長が来てからだ。

 
 新しい店長は中学や高校であれば必ずクラスの中心的な位置にいたような、明るくて発言力がある人で、みんなと打ち解けるのも早かった。
 
 私にとって運が悪かったのは、店長が気さくな反面、自分の方針に従わない人には攻撃的かつ徹底的に冷たくするタイプだったこと。
 
 店長の方針とはつまり、客席の回転率を高めて、複数ある姉妹店舗に売り上げで抜きんでること。
 
「競争して勝つ」という目標を与えられたスタッフのみんなは、おおいに(ふる)い立ち、店長に嫌われた私はいつの間にか、「回転率の重要さを理解せず、無駄に丁寧(ていねい)な接客をしている」と、みんなの鼻つまみ的ポジションになっていたのである。
 
 そういう経緯(けいい)があったから、帰り道に自分に対する陰口を聞いてしまったことについて、「ああやっぱりみんなこう思ってるんだ」と納得してしまった。
 
 もっと衝撃的な出来事が起こったのはその後だった。
 
「うーん……あやみってさ、悪い子じゃないんだけど、空気が読めないところがあるんだよ」
 
 ──と。
 私がこのカフェで働き始めた時、優しく仕事を教えてくれた優也先輩が、みんなと一緒になって私の悪口を言っていたこと、そして、
 
「ね、そうだよね。悪い子じゃないんだよ。でもたまに、目立ちたがりのかなーって思う時はある、かな」
 
 と、仲の良い同期のリカが、優也先輩に同調していたこと。
 しかもその時、優也先輩とリカが慣れた様子で手を(から)ませ合っていたのも、衝撃的だった。
 というのは、私は優也先輩のことが好きで──それをリカはよく知っているはずで。
 みんなの態度が変わっても、優也先輩とリカは変わらず優しくしてくれていたはずで。
 私と優也先輩は、今度映画を観に行くことになっていたはずで。
 その報告をした時に、リカは「応援するー!」と言ってくれていたはずで。