忌神(いみがみ)……様?」
 聞き慣れぬその単語を口にすると、男は嬉しそうに頷いた。
「そう。オレは、太古から続く呪いや災いによって形成されていた」
「呪いや災い……」
「昔はオレを信仰し、他者を呪ったり祟ったり災いを起こしたりするためにたくさんの祈りが捧げられてきた。だからオレは厄災を司る忌むべき神として存在することができた。だけど……」
 そこで一度顔を伏せ、チラリと朱音の方を見る。
「時が経つにつれ、オレへの祈りは減っていってしまったんだ。他者を呪う気持ちはあっても、祈るほどじゃなくなっちゃったのかな」
 寂しそうに男はそう告げた。
 確かに、例えば鎌倉時代や戦国時代など、そういったお家同士、または身内同士での争いが絶えなかった時代ならば、彼に願ってでも呪いをかけたいという人が多かったことだろう。
 ただ、今はもうそういった時代ではないし、協定によってあやかしを私欲で使役することは基本的に禁じられている。
 そういった背景もあり、忌神と名乗るこの男に誰も祈りを捧げなくなったという流れはなんとなく理解できた。
「十年前……忌神様は消えかけていたの?」
「うん。だけど朱音がそれを聞いてすぐに祈ってくれたよね。オレのために。だからオレは消えずに済んだし、こうして時をかけて元の力を取り戻すことができたんだ」
 朱音の話になる度に、男は屈託の無い笑顔を浮かべる。
 忌神という恐ろしい名前とは裏腹に、男はどこまでも朱音に対して優しかった。
「忌神様のことはわかったけど、それはそれとして私は……」
「名前」
「え?」
 朱音の言葉を遮り、男は首を傾げながら言う。
「名前がほしいな。忌神様だなんて他人行儀な名前、やだな」
 子供のような態度に、朱音は目を丸くする。
 彼は、あやかしたちの中でもトップに君臨する『神』の位を持っているのだ。
 協定が結ばれているとはいえ、『神』ほどの相手になると、さすがに対等のような態度は出しにくくなる。
 だからこそ、基本的に『神』は人間たちにあまり関わらないようにしてくれているのだが……どうやら彼はそうではないらしい。
「名前……私が付けるのですか?」
「うん。あと敬語も無し。ね、お願い?」
 その切れ長の暗い瞳を潤ませながら、男は甘えた表情を見せてくる。
 人間離れしたその美貌でそんなことをお願いされては、とても断れたものではない。
 朱音は困り顔で、必死に彼の名前を考えた。
「えー……えーと、じゃあ……クロ、とか」
「クロ?」
「うん……黒いから……」
 言いながら、自分はなんてセンスが無いんだと密かに朱音は落ち込んだ。
 しかし、クロと名付けられた男の顔は、一気に満面の笑みでもって輝いた。
「クロ! 良い名前だね。朱音がオレのために付けてくれた、オレだけの名前! ありがとう。大事にするね」
 どうやらお気に召したようだ。
 良かった、と安心していたのも束の間……朱音の唇に、何かが触れる。
 それは、クロのスラリと長い人差し指だった。
「ね……朱音。オレの名前、呼んで?」
「えっ……」
「呼んで?」
 誘惑するように、クロは朱音の唇をゆっくりとなぞる。
 朱音は耳まで顔を赤くさせつつ、言う通りにしないとずっとこうして攻められると確信し、意を決してその名を口にした。
「く……クロ?」
「はぁい」
 ご満悦、といった表情だ。
 なんだか完全にクロの手の平の上のような気がして、朱音は照れる気持ちを抑えてクロと向き直る。
「忌神様……クロのことはわかった。あと、学園で助けてくれてありがとう」
「うんうん」
「それはそれとして、私は花嫁なんてならないよ」
 意を決し、キッパリとそう告げた。
 この短時間であっても、クロがとても友好的であることはわかった。それが十年前の出来事によるものなのもわかった。
 しかしそれと、いきなり花嫁になるということは全くの別問題である。
 だからここばかりは流されてはいけないと、朱音はハッキリと物申した。
 の、だが。


「……何故?」


 それは、地の底から湧くような低い声だった。
 クロにまとわりつく影がざわざわと動き出し、よく見るとその中には無数の目があり、全て朱音の方を向いている。
 そしてクロの紅い瞳もまた、朱音を逃すまいと真っ直ぐに向けられていた。
「く、クロ……?」
「朱音、何故? 何故オレの花嫁にならないの?」
「だ、だってそれは……」
「まさか想い人が?」
「えっ」
「その想い人が亡き者になったら? そうしたら朱音はオレの花嫁になる?」
「ちょっ……」
「それとも何か気掛かりなことが? 邪魔な人間がいる? だったら全部オレが排除するよ。大丈夫、安心して。オレたちの婚礼に邪魔者なんて一匹も寄越さないから」
 ニッコリと笑っているのに、少しもその目は笑っていない。
 朱音の手を包み込むその白い両手も、人間ならば絶対にありえないほど冷やかだ。
「朱音……オレの花嫁になるよね?」
 今にも唇が触れそうなほど、クロは朱音の瞳を覗き込む。
 完璧に作られた美術品のような美貌から与えられる圧は、思わずイエスと言ってしまいそうなほど迫力があった。
 だが、それでも朱音は何とか自分を保とうと鼓舞する。
「ま、ま、待って! ちょっと待って!」
 間抜けなほど上擦った声が出た。
 気付けば背中も汗びっしょりで、心臓がバクバクと跳ねている。
 朱音は、恐る恐るではあるがクロの方を向いた。
「あの……は、花嫁っていきなり言われても……だって私はまだあなたのこと何も知らないから……」
「………」
「もう少し、クロのことを知る機会がほしい……です」
 しばし、沈黙のまま見つめ合い。
 先に引き下がったのはクロの方だった。
「……そうか。でも、オレのこと知ってくれたらオレの花嫁になる?」
「えーっと……可能性は高くなるかと」
「そっかぁ」
 ならいいや、といった感じでクロは殺気を消す。
「でも確かに、朱音にはもっともっとオレのこと知ってもらいたいかも。オレも、今の朱音についていっぱい知りたいし」
 さっきまでの様子が嘘のように、またニコニコと笑いながら話している。
 どうにも『神』というのは気まぐれで……そしてその感情のままに、時には人を消してしまうこともあるのだと朱音は肝に銘じた。