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 遥か昔――人とあやかしは敵対関係にあった。
 互いに領地を奪い、わかり合えない者として忌み嫌い合っていた。
 しかしそんな中、溢れんばかりの妖力を持っていたとある人間が、あやかしたちに共存の申し出をしたことで、互いの関係は大きく変わり始める。
 神・龍・鬼・狐・狗・妖異……あやかしたちは、始めの頃はその申し出を受け付けなかったものの、時が経つにつれ、少しずつ関係が軟化していった。
 それぞれの治安や文化を守るため、時間をかけてではあったが、慎重にその歩み寄りは成されていった。
 そうして今からおよそ数百年ほど前、ついに人間とあやかしの間に条約が結ばれ、晴れて共存の道を辿ることとなる。
 基本的にあやかし……とくに上位層となる神・龍・鬼は人間に対し積極的な関りは持たない。
 だが、下位層となる妖異たちは個々の恨みや面白半分などで、人間たちに大なり小なり災いをもたらすことがある。
 そういった問題を解決する際に、共存の条約によって、あやかしを使役する許可が出るほどに、互いの関係は友好的なものとなっていった。
 あやかしの使役といっても千差万別で、上位のあやかしとの契約を代々受け継ぐ名家もあれば、個人的な縁によって使役を許された人など様々だ。
 そこから、人間はあやかしついて、あやかしは人間について学ぶべき場所が必要となり……政府は妖協学園(ようきょうがくえん)を建設することとなる。
 始めの方こそ生徒数も教師の数もあまり多くなかったが、今となってはあやかしについて学べる帝都一の名門校として名を馳せていた。
 学園にはエリート科と普通科で分かれており、妖力の強い人間とあやかしはエリート科に、それ以外は普通科に通うこととなる。数字の若いクラスほど力の階級は上、といった基準だ。
 代々『鬼』との契約を交わしている鬼ヶ華家の跡取りである椿姫はエリート科の2年1組に属し、独学で『狗』を使役することができた蒼亥はエリート科の2年2組に属していた。
 一方、無能力である朱音は普通科の2年5組に属しており、妖力が無いながらもあやかしのことについて学ぶ毎日だった。

「おはよう、朱音。朝の会に間に合って良かったね」
 机に突っ伏していた朱音はその声に顔を上げる。
 友人の三条真衣(さんじょうまい)がそこに居た。
 両サイドの肩に付く三つ編みに度の強い眼鏡。その表情や仕草から、控えめな性格なのが読み取れる。
 真衣は朱音にとって、この学園に入学してからできた友達だった。
 家での境遇もあり、蒼亥以外で初めて心を許せる相手でもある。
「おはよー真衣。朝の会始まりかけてたから猛ダッシュしちゃったよ」
「寝坊でもしたの?」
「ううん。朝ちょっとあってね」
 遅れたのも、椿姫の機嫌を損ねた今朝のことが原因だ。
 と、そこで鞄の中にいつもより空いたスペースがあることに気が付く。
「……遅刻はしなかったけど、代わりにお弁当忘れちゃった」
「ええっ! あ……私の分けて……」
「へーきへーき。今の内に購買で何か買ってくるよ」
 朱音は鞄から財布を取り出し、そのまま足早に教室を出た。後ろの方で真衣が何か言っていたような気がしたが、あまりもたもたしていると一限目が始まってしまうので振り返らずに急いだ。
 学園の購買は一階の下駄箱の近くにあり、三階の教室から行くには少々手間である。
 しかしこのタイミングを逃すと次に行ける機会は昼休みとなってしまい、激混みが予想された。購買で売られているメニューはどれも美味しいことで評判なのだ。
「お弁当忘れちゃったのは失敗したなぁ」
 もらえるお小遣いは月に千円程度で、鬼ヶ華家の恥となるからとバイトを禁止させられている朱音にとって、今回のそれは手痛い出費である。
 いつもは、鬼ヶ華家の料理長に頭を下げ、余り物をお弁当として詰めていた。今日もそれを持ってくるはずだったのだ。
「まあ、久々に購買のご飯が買えるからいっか」
 できるだけポジティブに考えるのは、朱音がこれまでの境遇の中で培った処世術だ。
 そうこうしているうちに購買の看板が視界に入ってきた。
 早速メニューを見ようとそちらへ近付いた朱音は、ふと、そこに見知った人物の姿があることに気が付いた。
「椿姫さん……」
「あら。こんなところで何をしているの?」
 そこに居たのは、数人の生徒に囲まれている椿姫の姿だった。
 人目があるからなのか、今朝の玄関での態度とは違い、おしとやかな態度で朱音へと向き合っている。
「あの、お弁当を忘れたので購買で買おうかと……」
 おずおずとそう告げた途端に、椿姫の傍に居る生徒たち……つまり取り巻きと思われる生徒たちが、口元に手を当てて信じられないものでも見るような反応を示した。
「え……購買って……」
「鬼ヶ華家の人が、購買なんかで……?」
 その反応に、朱音は内心、しまったと嘆いた。
 エリート科の、とくに名家の人たちからすると、あまりイメージの良いものではないと聞いたことがある。
 椿姫の様子を伺ってみれば、汚らしいものを見る目で朱音を見下していた。
「購買って……ウチでは専属の料理人がお弁当を用意して下さるのに、どういうことなの?」
 そもそも、出来損ないの朱音の分を用意する必要は無い、と料理長に言い始めたのは椿姫である。
 そのことを知っていながらそんなことを言ってくる椿姫に、しかし朱音は何も反論できなかった。これ以上、事を大きくし、長引かせたくなかったから。
「……申し訳ありません。お弁当を忘れてしまったのです」
「ふぅん。出来損ないらしい理由ね。私はてっきり、鬼ヶ華家に対する当てつけでそうしてるのかと思ったわ。鬼ヶ華家はお弁当一つ用意できない家だ、って言いふらしたいのかと」
「そんな……滅相もありません」
 慌てて否定したが、椿姫がそう口にしてしまった結果、取り巻きたちは朱音に対しどんどん印象を悪くしていった。
 いつもこうなのだ。
 椿姫は、家だけでなく学園でも率先して朱音を出来損ないとして扱い、嫌な人間としての印象を振りまいてくる。
 その所為で朱音は、学園での居場所もほとんど無かった。唯一、真衣だけが仲良くしてくれているようなものだ。
「ほんっと、あなたが居る所為で鬼ヶ華家の品位が下がって迷惑だわ」
「……申し訳、ありません」
「双子の蒼亥さんとは雲泥の差よね。正直、分家からあなたを引き取ったのだって、蒼亥さんがあなたと離れたくないと頑なに仰ったからよ。そうでなければ、あなたのような出来損ないは、今頃路頭に迷っていてもおかしくなかったんですからね」
「……はい。本家の皆様には、心から感謝しております」
 拳を握り締めながらも、それでも朱音は頭を下げて椿姫に感謝を示した。
 耐えればいい。ただ耐えていれば、少なくとも蒼亥は本家で可愛がってもらえる。
 その覚悟を持って朱音は頭を下げ続けた。
 だが、その時。
「きゃあ!」
 誰かがそんな声を上げ、何事かと顔を上げる。
「うわっ、なんだあれ……」
「あ、あやかし……っ?」
 取り巻きたちが指差す方を朱音も見る。
 そこには、一体のあやかしが存在していた。
 赤いフードを被り、狐面をしたそのあやかしは、ゆらゆらと揺れながら四本の腕をぐにゃぐにゃと動かし続けている。
「学園の結界はどうしたんだよ……っ」
 近くにいた男がそう嘆いたように、この学園には許可されたあやかししか入ることができないようになっていたはずだ。
 なのに、どうして。
 誰かが使役するあやかしという線も考えたが、それにしては見た目が禍々(まがまが)しい。何より、こちらを向くその殺意に、誰もが気圧されている。
 そして、狐面がピタリと動きを止め……そのまま一瞬にして朱音たちの方へと突進してきた。
「あぶない!」
 誰かの声と同時に、数人の取り巻きたちが吹き飛ばされる。
「な、なによ……『狐』風情が……っ」
 声を上擦らせながらも、椿姫は狐面を睨みつける。
 おそらく『鬼』を使役し闘うつもりなのだろう。
 だが、狐面の動きはそれよりも早い。
「きゃああ!」
「椿姫様!」
 吹き飛ばされた椿姫を近くの取り巻きが受け止めたが、その衝撃ごと近くの柱へ叩きつけられた。
「あ……あ……」
 残されたのは朱音、ただ一人。
 運動神経が格別に良いわけでもなく、しかも無能力者の朱音に、一体何ができるというのか。
 朱音は顔を真っ青にしたまま、狐面がこちらへ突進してくるのをただ見ていることしかできなかった。
 しかし―――

「誰のモノに手を出している?」

 深い海の底から響くような声だった。
 何か、真っ黒の……例えるなら具現化した影のようなものが、朱音の前に立っている。
「あ、危な……」
 心配の声を上げるよりも早く、突進してきた狐面をその影は軽々と弾き飛ばしていた。
「………」
 次から次へと起こる怒涛の展開に、思考が全く追い付かない。
 そんな朱音の前にいる影が、くるりとこちらを振り返った。
「朱音!」
 満面の笑みと共に、名を呼ばれる。
 影は、男だった。
 フワフワの長い黒髪に、影色の黒い着物とトンビコート。ほとんどの色を黒色で統一している中、唯一目立つ血のように赤い瞳と白い肌。
 男はニコニコと笑いながら……いや、次第に狂喜的な笑みを見せながら朱音に語り掛ける。
「会いたかった。ずっと会いたかったよ、オレの朱音。この時をどれだけ待ち侘びたか。オレのこと覚えてる? いや、覚えてなくてもいいんだ。だって、オレは確かに朱音のお陰で此処にこうして存在していられるんだから」
「え、えっと……何を……」
「そうだね、もう十年も時が経ったんだ。改めて挨拶を交わすべきだよね。おいで。オレの屋敷へ招待するよ」
「えっ」
 笑う男の背後から、津波のように闇が覆い被さってくる。
 一体何をするつもりなのか。
 反射的に逃げようとした朱音ごと軽々と闇が呑み込み、そして音もなくその場を後にしたのだった。