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水の中から浮上する感覚が終わり、朱音はゆっくりと目を開ける。
目の前には妖協学園の普通科の校舎があり、自分たちがちょうど門のところに立っていることに気付いた。
クロが言っていた通り、狐面の張った結界の中にいる所為か、人の気配がまるで無い。
そもそもこの学園は理事長先生たちによる、部外者を寄せ付けない結界が張られている。そして狐面のあやかしは内部犯の犯行という線が強い。
なので構造的には今、理事長先生たちの張った結界の、更に内側に張られた狐面の結界の中にいるということになるのだろう。
「真衣と蒼亥の気配はする?」
朱音は不安げにクロを見上げる。
夜空からそのまま生まれたかのように闇をまとわせているクロは、朱音に問われ、校舎をなぞるように視線を動かす。
「朱音のお友達の妖力はわからないけど、弟くんの妖力は少しだけ感じ取れるね」
「ホント? 何処にいる?」
「屋上」
クロの細長い指が上を差す。
ならば急いで屋上に向かわなければと朱音が駆け出そうとするよりも早く、クロは朱音を抱きかかえる。
「えっ、ちょ、なにっ?」
「屋上に行きたいんでしょ?」
「そ、そ、そうだけど」
「急いでるんでしょ?」
「う、うん、でも」
言葉はそこで途切れた。
ふわり、と浮遊感が訪れたと感じた瞬間、視界に映っていた景色が変化した。
つまり、見慣れた地上ではなく、夜景が一望できるほどの上空に、だ。
「きゃあああああああっ!」
こんなふうに叫ぶのは何度目だろうか。
確かに校舎から階段を伝って向かうよりも数倍早いだろうが、それにしたって荒業すぎると朱音は半泣きでクロにしがみついた。
「ほら、いた」
クロの言葉に誘われ、何とか顔をそちらに向ける。
すると、確かに屋上には倒れている真衣と、狐面に首を締められている蒼亥の姿があった。
「真衣! 蒼亥!」
上空にいる恐さも忘れ、朱音は叫んだ。
そんな朱音の意思を汲むように、クロはフェンスを越え、狐面に横から蹴りを入れる。
『ギャッ!』
濁った獣の声が響き渡る。
蒼亥から離れた狐面は、しかし真衣の方へ近寄り、今度は真衣を抱えた。
「何をする気……っ」
狐面は真衣を抱えたままクルリと方向転換をし、屋上から繋がる階段を下りていってしまった。
「待って! 真衣!」
「うっ……姉さ……」
追いかけようとする前に、朱音の耳には咳混じりの蒼亥の声が届いた。
真衣の行方も気になるが、蒼亥をこのまま放っておけない。
すると、クロが朱音の顔を覗き込む。
「狐面はまだこの学園内にいるよ。とりあえず弟くんに何があったか聞いてから追いかけても間に合うんじゃないかな」
「そ……っか。教えてくれてありがとう」
真衣への心配は無くならないが、ひとまず冷静さを取り戻し、朱音は蒼亥へと向き直る。
「ごほっ、ごほ……ごめん姉さん、俺、真衣さんを守れなかった……」
「そんな……っ。一体何があったの?」
蒼亥の体を支えながら朱音は問う。
「姉さんたちがいなくなった後……屋上から去ろうとした俺の前にあの狐面が再び現れたんだ。たぶん、忌神っていう驚異がいなくなったからチャンスだと思ったんだろう」
「それじゃあ……蒼亥はずっと真衣を守ってたの?」
「まあね。ただ、『狗』は力比べに秀でているわけじゃないから、最後の辺りはボロボロにやられてたよ。危うく殺されかけてたけど、姉さんが来てくれて助かった」
「蒼亥……」
朱音は蒼亥をギュッと抱きしめた。
驚きはしたものの、蒼亥も朱音を抱き返す。
たった二人きりで生きてきた双子は、お互いの確かな体温を感じ、落ち着きを取り戻した。
「さっき、なんで真衣を連れて行ったんだろう」
蒼亥を殺し損ねた狐面は、ただ撤退するだけでなく、わざわざ真衣を連れて退散した。
朱音は真衣の行方が心配でならなかった。
「たぶん人質じゃないかな。脅威となる忌神が来たから……」
ちらり、と蒼亥がクロの方を見るが、クロは朱音の方だけをずっと見ていた。
そんな朱音の視線が、クロの方を向く。
「ねえクロ」
「なぁに?」
「念のために聞いておきたいんだけど。クロの力であの狐面を消し去ることってできるの?」
「できることにはできるよ。だけど呪いの元を断つ行為にはならないから、『呪い返し』も続行するだろうね」
「そっか……」
ただ力任せにあの狐面をやっつければいいという話ではなくなってきた。
真衣がどうして狐面と関わっているのか知らなければならないし、もしも裏で手を引く人がいるならばその人を突き止めることもしなければならない。
「とりあえず今は真衣を助けなきゃ……!」
「姉さん。俺の『狗』を使って追跡しよう」
「体はもう大丈夫なの?」
「大丈夫だよ。ありがとう」
心配する朱音を安心させるように、蒼亥は優しく朱音の手を握った。
だが、そんな朱音の手を、凄い速さでクロが奪う。
「なっ……」
「クロ……」
呆れる二人を余所に、クロは朱音の手をにぎにぎと触りながら朱音にだけ笑いかける。
「呪い退治、がんばろうねー」
お花でも飛ばさぬ勢いで、ニコニコと笑うクロ。
そんな呪いよりも恐ろしい忌神だというのに何を言っているのだかと思いながら、朱音たちは真衣と狐面を追うために夜の校舎へと入っていくのだった。
夜の学校というのは、どこか特別な空気が漂っている。
普段いるべき時間帯ではない時にいるからか。夜の陰りで彩られた校舎内が美しいからか。それとも明るい時間帯から一変し、人の気配がまるで無い不気味さの所為か。
なんにせよ、夜の校舎内は実に神秘的でそれでいてやや恐ろしかった。
しかも今はあやかしを追っている最中である。些細な物音にでさえも敏感に反応してしまうほど、緊張感が漂っていた。
「この階にはいない。まだ下りているみたいだ」
最上階となる四階で一度止まり、蒼亥が『狗』を使役して探った結果がそれだった。
探索に向いている『狗』は、こういう時にとても心強い。
「何処へ向かっているんだろう……」
「二階……いや、一階まで下りた。俺たちも急ごう」
街灯と月光の明かりだけを頼りに校舎内を動いているため、とくに階段では気を付けた。
が、注意も虚しく朱音が足を踏み外しかけると、待ってましたと言わんばかりにクロが朱音をお姫様抱っこにする。
そしてそのまま一階へと向かい始めた。
「ちょっと!」
「これが一番安全で早いからね」
「姉さんを落としたら許さないからな」
それぞれの反応を見せながら、三人は一階へと急ぐ。
キョロキョロと辺りを探る蒼亥を先頭に、下駄箱を通り過ぎ……そして行き着いたのは購買の近く。
そこは、初めて狐面と出会ったあの場所だった。
購買から少しだけ離れた場所に何かが落ちている。いや、人が倒れている。
「真衣!」
朱音は渾身の力でクロから離れ、一目散に真衣の元へと駆け寄った。
しかし、その時。
「ッ!」
柱の影から黒い何かが飛び出し、覆い被さるかたちで朱音へと襲い掛かる。
それは赤いローブの狐面だった。
「くっ……あ……」
肩を掴まれたまま強く床へと押し倒された朱音は、身動きが取れぬまま狐面と対峙する。
ぽっかりと空いた闇色の目元と、狐になぞらえた模様の描かれた仮面。
ローブの下から伸びるその手は、しわがれた獣の手だ。
このまま殺されてしまうのか。
朱音にかつてない緊張感が走った。
そんな朱音の心臓を掴むように、ゆっくりと狐面がその顔を朱音の耳元に近付けた。
『……ナ』
「え……?」
『コレ、イジョウ、サグルナ』
「っ……!」
明確なメッセージを、唸り声と共に伝えられた。
朱音はそこでゾクリ、と背筋を凍らせる。
それは決して、目の前に迫った狐面に対する恐怖ではなかった。
本当の恐怖は、この世の厄災を固めたようにそこに存在していた。
「……誰の許可を得て?」
廊下の、中央。
朱音たちから少し離れたそこに、闇の塊が……いや、クロが。忌神クロが立っていた。
辺りの闇にその体を溶かし、混ざり合いながら。その蝋のように白い顔を朱音たちの方へ向け、形の良い唇で再び言葉を紡ぐ。
「誰の許可を得て、触れている?」
キシリ、と。
ガラスが軋むような音が周囲に走る。
同時に、朱音の上に馬乗りになっていた狐面が、頭を抱えて悶え始めた。
『ア、ガッ……』
朱音も蒼亥も、ただ黙って二者の成り行きを眺めていることしかできなかった。
起きている事象もそうだが、その身が自然と震えるほどに恐ろしく感じているのは、クロから放たれる純粋な怒りだった。
まさに狐面は、神の怒りに触れたのだ。
「低級が……理解する頭も持ち合わせていないのか?」
『ギ、ギ、ギッ……』
頭を振り、暴れ狂う狐面を前に、クロはただ笑った。
「死んだ方がマシだろう? そう簡単に殺すものか」
口元に浮かんだ三日月のような笑み。
それが消えた瞬間、周囲からガラスの割れるような音が響き渡った。
おそらくそれは、狐面の張った結界が割れる音なのだろう。
実際、周囲の校舎内には何の影響も出ていない。
「朱音はオレのモノだ。オレだけの大切な……大切なただ一人だ」
『ギガッ、ガ、ァ』
「消え失せろ」
狐面の体が、まるでちり紙を丸めるのと同じ動きで、ぐしゃりと潰れてしまった。
そしてそのまま体が闇の粒子となって霧散する。
「………」
しばし、沈黙が続いた。
上半身を起こしながらクロの方を見上げると、その顔は月明かりによって逆光になっていた。
正直、恐ろしかった。
人の及ばぬ力を持ったその強大な存在は、そこにいるだけで周囲を巻き込んでいく。
では果たして、自分も巻き込まれた一人だろうか。
そこまで考え、朱音は違うと思った。
自分は、自分の意思でクロに傍にいてもらっている。
だから朱音はその名を呼んだ。
「クロ」
たった二文字の名前。
それが辺りに響き渡った途端、クロを中心に張り詰めていた空気が一気に緩和した。
そして、今度はクロが朱音へと飛び付いてきた。
「朱音~! 大丈夫? 怪我は無い?」
「な、無いよ。大丈夫」
「もう。お友達が心配だからって無作為に飛び出すのは感心しないなぁ」
「返す言葉も無いです……」
さすがに今回ばかりはクロの言う通りで、朱音は頭を下げた。
ひとしきりクロに抱きしめられた後、朱音は改めて真衣の傍へ寄る。
先程、一時的に狐面は倒したものの、やはりまだその『呪い』と『呪い返し』は続いているのだろう。包帯の巻かれた右腕を中心に、真衣は痛々しげに呼吸を乱しながら気を失っていた。
「やっぱり、他に犯人がいるのかな……。さっき狐面も、これ以上探るなって言ってきたし」
真衣が目覚めれば話は早いのだが、それは『呪い返し』の影響によって叶わない。
もしかしたら黒幕も、それを見越しているのかもしれない。だとしたら実に狡猾な犯人だ。
「真衣……あやかし科の病院に連れていくべきかな」
これは家で療養などというレベルではない。
そう思って朱音が病院へ連絡を入れようとしたその時、廊下の奥から靴音が響いた。
「騒ぎがあったみたいですけど……大丈夫ですか?」
「えっ……と、轟先生?」
現れたのは、『物理』の轟先生だった。
相変わらず覇気の無い風体で、片手にはライトを持っている。
「先生……どうしてここに……」
轟は、ぐしゃぐしゃと頭をかきながら、やや面倒くさそうに話し始めた。
「時房理事長に、内側から結界を張られた話を振られたんですよ。それで見回りに来たんですが……」
ちらり、と轟の視線が倒れている真衣の方を向く。
「もう少し早く来るべきでしたね、すみません」
言いながら、轟は何を言うでもなく自然と真衣を背負った。
「三条さんは私が病院へ連れて行きます。鬼ヶ華のお二人はもう遅いのでお帰りなさい」
「……はい」
「それと朱音さん。色々と頑張りましたね」
「………」
叱られるかと思っていた朱音は、轟からの思わぬ労いに安堵した。
問題は、おそらく今も蒼亥の帰りを待っている椿姫にどう説明するかということだ。たぶん蒼亥が上手く言いくるめてくれるだろうが。
そんなこんなで朱音たちは轟に真衣を託し、夜の校舎を後にするのだった。