【少し前】

「間に合わなかったか……!」
 新助は爆発音と悲鳴を聞き、足を速めた。
 両国橋はもうすぐそこだった。
 新助が路地を抜けて川沿いの通りに出ると、そこには地獄絵図のような光景が広がっていた。
 川に浮かぶ舟は燃え、対岸ではほとんどの屋台が炎に包まれている。
 通りに沿って植えられた松も燃えており、松の向こうに広がっている長屋に燃え広がるのも時間の問題に見えた。
 そんな中、皆が対岸に逃げようと橋の上で押し合い、怒号や悲鳴が響いていた。

(なんだ……これは……)
 新助は茫然と立ち尽くした。
 対岸の火事以上に、新助には人を押しのけて逃げようとする観衆の方がよほど恐ろしく感じられた。

(とりあえず、火を消そう……)
 新助は気持ちを切り替えて消火のために動き出した。
 土手を下り川に近づく。
 すると、ふいに川の真ん中で大きな水しぶきが上がった。
 新助が驚いて顔を上げると、橋の上から人が落ちてきていた。
 新助は目を見開く。
 橋の上から落ちた男は、少しして落ちたことに気づいたのか手足をバタバタと動かしていた。
 新助は慌てて、半纏を脱いで川に入ると男のところまで泳いでいく。
 もがいでいる男のもとに着くと男の腕を掴み、顔が水面に出るように支えた。
「おい! 大丈夫か!?」
「た、助けて……! ……助けて!!」
 男は混乱しているのか手足をバタバタさせてもがき続けていた。
(このままじゃ沈むな……)
 新助はもがく男をなんとか支えていたが、諦めたようにそっと口を開いた。
「悪ぃ……」
 新助はそう呟くと、男の首の後ろを手刀で軽く叩いた。
 男が一瞬にして気を失う。
 新助は気を失った男を支えながら、川岸まで泳いだ。
 男を岸に引き上げると、新助は橋を見上げる。

(やっぱり、これは違ぇんじゃねぇのか……)
 新助は半纏を羽織ると、こぶしを握りしめた。
(悪ぃな……、恭一。俺はおまえみたいにカッコよくはできねぇよ……)
 新助はきつく目を閉じると、心を決めて川沿いを歩き始めた。
 花火師が花火を上げているのは、両国橋からそれほど離れていない川沿いだった。

 新助が花火師のもとに着くと、花火師たちは座り込んだまま茫然としていた。
(自分たちが上げた花火でこんな火事になれば、無理もねぇよな……)
 新助は茫然としている花火師のひとりに近づく。
「おい、花火を上げてくれ」
 新助が花火師の前にしゃがみ込んで言った。
「……え?」
 花火師は困惑した表情を浮かべる。
「……見ましたよね……? 爆発したんです……。もう花火は……」
「あれはおまえらのせいじゃねぇよ。……のろし花火はあるか?」
 花火師は目に涙を浮かべていた。
「……のろし花火は……ありますけど、あれも……爆発するかも……」
 花火師はそう言うと目を伏せた。
「のろし花火は大丈夫だ。……頼む! このままじゃ火事とは関係ないところでも死人が出ちまう! のろし花火を上げてくれ!」
 のろし花火は、大輪の花を描く花火と違い、武家がお金を出している花火だった。
 商家の大文字屋が何かしている可能性はないと、新助は思った。

「わ、わかりました……。でも、危ないので下がってくださいね……」
 花火師は少し離れたところにのろし花火を準備すると、ためらいながら火をつけた。
 爆音とともに光が空に向かって上がっていく。

 新助は美しい光を見上げた。
 光が上がった瞬間から、辺りは時が止まったような静けさに包まれた。
(……よし! これなら……!)

 新助は大きく息を吸い込んだ。
(頼む!届いてくれ!!)

「……逃げるな!!!」
 耳に響く新助の声に、花火師たちが驚いて一斉に新助を見た。
「生きてぇんなら逃げるんじゃねぇ!!!」
 新助はありったけの声で叫んだ。

「今ここで逃げても、このまま燃え続ければ、この火はいずれおまえたちの長屋を焼くことになる!! どこに逃げる気だ!! いつまで逃げる気なんだ!?? 火消しが死んで火が消えるなら、いくらでもこんな命くれてやる!!!」
 新助は自分の胸を力一杯叩いた。
「けど……そんなことしたって、誰も助からねぇんだよ!! 火消しが何人死んでも、それで救える命なんて限られてる!!」
 新助の脳裏に、源次郎と恭一郎の姿が浮かぶ。
「ここは川だ!! これだけの人間が本気で動けば火は消せる!!! 逃げるな!!! 生きたかったら……守りたかったら立ち向かえ!!!」

 新助の言葉は、静寂の中で観衆の耳に確かに届いていた。


◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


 橋の上では、観衆が戸惑った表情で立ち尽くしていた。
「消せる……のか……?」
「いや、でも危ないでしょ……」
「逃げられるなら、逃げた方が……」
「でも、大火事になるかもって……うちはすぐそこだから……」
「俺たちで消すなんて……」
 観衆は顔を見合わせると、不安げな顔で口を開いた。

 ふと、観衆のひとりが川辺を見て呟く。
「ねぇ、あれ……何……?」
 数人が観衆の指さす方向を見た。

 いつの間に集められたのか、そこには何人もの怪我人が横たわっていた。
 その怪我人たちのすぐそばで、崩れ落ちた屋台が燃えている。
 観衆から小さな悲鳴が上がった。

「あれ……大丈夫なの……!?」
 観衆のひとりが思わず声を上げる。
「ねぇ、あれ!!」
 別の観衆が指をさす。
 そこには、怪我人たちを守るように桶で水をかける子どもの姿があった。
 子どもは、燃え上がる屋台に水をかけては、また川に戻って水を汲み屋台にかけるという動きを繰り返している。

「守っているのか……?」
 観衆のひとりが絞り出すように言った。
 子どものほかに、ひとり大人がいたが、その二人だけで屋台の火を消そうとしているようだった。
 そのとき、子どもが転んだ。桶が転がり水がこぼれる。
 見ていた観衆のあいだで小さな悲鳴が上がった。
 しかし、子どもはすぐに立ち上がると、何事もなかったように桶を拾い川に戻って水を汲んでいた。

「ねぇ……私たち、見てるだけでいいの……?」
 観衆のひとりが振り返って言った。
「いいわけ……ないよな……」
「ああ……。あんな子どもが頑張ってるのに、逃げるなんてできねぇよ……」
 観衆は顔を見合わせると頷き、続々と橋を戻り始めた。
 その波は少しずつ大きくなっていった。