新助が引手茶屋の前に着いたときには、日はすっかり沈み辺りは暗くなっていた。
(マズいな……。もう始まる頃じゃねぇか……?)
 新助は頬を流れる汗を拭うと、必死に呼吸を整える。
(とにかく早く行かねぇと……)

「あ、あの……すみません……。どちらにご用でしょうか?」
 前回強引に引手茶屋に入った新助のことを覚えているのか、引手茶屋の男が引きつった笑顔を浮かべて新助を見ていた。
「ああ……。すまねぇが……またお奉行様に用がある……」
 新助はなんとかそれだけ口にした。
「あの……以前にも申し上げましたが、お通しできないんですよ。申し訳ありませんが……」
「緊急なんだ。今回は俺の私的な要件じゃねぇ。……火消しとして話しだ。今じゃねぇと……人が死ぬことになるかもしれねぇんだ……」
 ようやく呼吸が整ってきた新助は、男にそう言うと強引に中に入った。
「人が死ぬ!? し、しかし……」
 引手茶屋の男も新助の横を歩きながら、なんとか引き留めようと新助の腕を掴んだ。
(これじゃあ、前と一緒じゃねぇか……)
 新助は仕方なく、男を引きずるように歩いていく。
 頼一がいる座敷は、引手茶屋の中でも一番広い座敷と決まっているため、前回と同じように新助はそちらに向かって歩いた。
(でも……信じてもらえるのか……。大文字屋のおっさんを引きずってでも連れてくるべきだったか……)
 新助は何の証拠もないまま、ここまで来たことを後悔した。

 新助は座敷の襖を勢いよく開ける。
 上座に頼一、その横に咲耶が座っていた。
 新助を見て芸者たちは悲鳴を上げたが、頼一と咲耶がまったく驚いていないようだった。
(引手茶屋に俺が来たことに気づいていたのか……?)
 新助は少し不思議に思いながら、二人の前に歩みを進める。

「も、申し訳ございません! すぐに追い出しますので!」
 引手茶屋の男が前回と同じようなことを頼一に言った。
 頼一は苦笑する。
「いい、下がれ」
 頼一は静かに男にそう言うと、視線を新助に向けた。
「今回はどうした?」

 新助は座敷に両膝をついて頼一を見た。
「大文字屋が誰かに脅され、花火に何かを仕掛けたと証言しました。花火を……中止していただくことはできませんか?」
 新助は頼一の顔をじっと見ていたが、頼一の表情は一切変わらなかった。
(やっぱり信じてもらえねぇのか……)
 新助がさらに訴えかけようと口を開くと、頼一が深いため息をついた。

「これで確定か?」
 頼一は咲耶を見た。
「はい……」
 咲耶は目を伏せる。

(なんだ……。どういうことだ……?)
 新助が戸惑っていると、頼一が新助に視線を戻した。
「咲耶からそのような可能性があるという話しは先ほど聞いた。ただ、あくまで憶測ということで最低限の動きしかとれていない……。今はすべての町火消を両国橋に向かわせる手配をしただけだ。しかも、まだ知らせすら火消しの元に届いていないだろう……。今からでは、集まってもおそらく数人。しかも、あくまで花火による火事を警戒するための見回りを依頼したに過ぎない。花火を今から止めるのも難しいだろう……。おそらく知らせが間に合わない」
 頼一は苦しげな表情で言った。
「俺の仲間が現地に直接向かっています! あいつが間に合えば……」
「例年通りなら……両国橋周辺には今、江戸中の人間が集まっている。あの人混みをかき分けて、花火師のところまでたどり着けるとは思えない……」
 頼一が目を伏せ、片手で顔を覆う。


(じゃあ、何もかも手遅れなのか……?)
 新助は呆然と畳を見つめた。
 もし花火が爆発し、屋台に火がつけばそこから燃え広がるのは目に見えていた。
 外とはいえ、人が密集した場所で火事が起これば混乱も避けられない。
 新助はこぶしを握りしめた。
(どうすればいい……。こんなとき、あいつがいてくれれば……。恭一がいれば、何かできたかもしれねぇのに……。どうして……どうして……俺なんかが生き残ったんだ……)


「おい」
 ふいに、高圧的な女の声がして新助は驚いて顔を上げる。
 いつの間に移動したのか、目の前には咲耶が立っていた。
 以前会ったときと違い煌びやかに装った咲耶は信じられないほどに美しかったが、その分険しいその表情はゾッとするほど恐ろしかった。
「おまえは何をしている?」
「え……、お奉行様に知らせに……」
 新助は呆然と咲耶を見上げた。
「何をウジウジしているのかと聞いている」
 咲耶の視線が新助に突き刺さる。
「え……?」
 ふいに、咲耶の手が新助の胸元に伸びたかと思った瞬間、新助は左頬に強い痛みを感じた。
 視界が揺れ、周りの芸者たちが息を飲んでいるのが目に入った。

「……え?」
 恐る恐る視線を動かすと、新助の胸ぐらを掴む咲耶と目が合った。
(え……、殴られた……のか? しかも、これ平手じゃねぇな……こぶしで? ……結構痛ぇ……。でも、どうして……)
 ふと、咲耶の後ろで頼一が目を見開いて息を飲んでいるのが見えた。
(お奉行様のあんな顔初めて見た……。ちょっと引いてんじゃねぇのか、あの顔は……)
 新助がぼんやりとそんなことを考えていると、咲耶が再びこぶしを振り上げたのが目に入った。
「お、おい! ちょっと待……」
 新助が言い終わるより先に、左頬に再び強い痛みが走った。
「痛ぇ……」
 新助がそう呟くと、咲耶が新助の胸ぐらを強く引き寄せた。
 長いまつ毛に縁取られた瞳が、新助のすぐ目の前にあった。

「もう一度言う。おまえは何をしている?」
 咲耶の威圧感に新助は言葉を失った。
「託されたんじゃないのか? おまえは救ってもらった命を無駄にする気か?」
 新助は目を見開いた。
(恭一のことを……言っているのか……?)

「どうして恭一郎がおまえに何も言わなかったかわかるか? それは、おまえが馬鹿だからだ」
 咲耶の辛辣な言葉が、新助の胸に刺さる。
「黙っていられない、口をすべらす、簡単に想像できただろうからな。だから言わなかった。それからもうひとつ……」
 咲耶は新助を真っすぐに見た。
「言わなくても問題ないと思ったからだ。組のことがどうでもよかったのでなければ、理由はそれしかない。自分が汚名を着せられても組は問題ないと思ったんだろう。おまえがいればな」

 新助は目を見開いた。

「だから、おまえを死なせるわけにはいかなかった。ほかにもいろんな感情はあっただろうが、私が想像できるのはこれくらいだ。おまえは生かされたんだ。何のために? おまえは何だ? 火消しじゃないのか? や組の組頭なんだろ? おまえは何をしている? おまえがいるべき場所はここなのか?」
 咲耶は早口でそう言うと、新助の胸ぐらから手を離した。
「火消しは町の英雄なんだろ? ほら、立て」

 咲耶は新助の腕を強引に掴むと引っ張った。
 新助は呆然と立ち上がる。
 咲耶は新助の胸をこぶしで強く叩いた。
「行け」
 咲耶は新助を見上げた。
「全部助けるんだろ?」
 新助は目を見開いた。

『もう誰も死なせない。全部助ける』
 そう言った恭一郎の横顔が浮かんで消えた。

「ああ、そうだったな……」
  新助は目を伏せた。

「俺、行きます……」
 新助はそう言うと一礼して、足早に座敷を出ていった。



◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇



「ハ、ハハハ……」
 新助がいなくなった座敷に笑い声が響く。
 咲耶がゆっくりと振り返ると、口元を覆って笑う頼一の姿があった。
(珍しいな……)
 頼一が声を上げて笑うところを咲耶は初めて見た。
「頼一様」
 咲耶は頼一を軽く睨む。

「あ、いや、すまない……」
 頼一はそう言いながら、目に涙をためて笑っていた。
「さて、私も仕事をしなくてはな」
 頼一はゆっくりと立ち上がると、咲耶に歩み寄り耳元に口を寄せた。
「咲耶に殴られてしまう……」
 頼一はそう言うとプッと噴き出した。

「頼一様」
 笑い続ける頼一を、咲耶が睨む。
「まぁ、そう怒るな。惚れ直したところだ」
 頼一はそう言って微笑むと、咲耶の肩を軽く叩き横を通り過ぎると座敷の出口に向かった。
「私も私の仕事をしてくる」
 頼一は片手を上げると襖を開けて座敷を後にした。

 咲耶は目を伏せた。
「あとは、頼みます」
 咲耶は祈るように目を閉じた。