(もうすぐ日が暮れるのか……)
 大文字屋は重い足を引きずるように店に戻ってきた。
(何もかも、もう終わりだ……。私は今まで一体何のために……)
 大文字屋は自分の足元から伸びる黒い影を見つめる。
 影に飲み込まれるような感覚に襲われ、大文字屋はようやく自分が倒れかかっていることに気づいた。
 慌てて足を踏みしめて上体を起す。
(いや、あの子だけは……あの子だけは守れたんだ……。私や家が破滅しても、あの子さえ無事なら……)
 大文字屋は店を見上げた。
 夕日を浴びて赤く染まった店は、まるで燃えているようだった。

 大文字屋はゆっくりと息を吐いた。
「……っ!」
 その瞬間、強い力で口元を塞がれた。
 声をあげるより先に路地に引きずり込まれ、喉元に冷たいものが当たる。
(な、なんだ……!?)
 大文字屋は恐怖で一気に体が冷えていくのを感じた。
 恐る恐る視線だけ動かして喉元見ると、小刀が妖しく光っている。
(だ、誰か……!)
 視線を動かして通りを見ると、両国の川開きということもあってか路地から見える範囲には誰も歩いていなかった。

「質問にだけ答えろ」
 大文字屋の背後にいる男はそう低く呟くと、大文字屋の口元を覆っていた手を離した。
 その変わり、小刀の腹は先ほどより強く喉元に当てられる。
「おまえが何をしたのか言え」
 男は淡々とした声で言った。
「な、何のことだ……」
 大文字屋は本当に何のことかわからなかった。
「おまえ、花火に何かしたか?」
 男の言葉に、大文字は目を見開いた。
(あの件……もうバレているのか……!?)
「したんだな……」
 大文字屋の反応を見て悟ったのか、男は小刀を握り直した。
(ど、どうすれば……! 花火が上がる前にバレたら、あの子の秘密はバラされるのか……? それだけはなんとしても避けなければ! どうせ私はもう終わりなんだ……。ここで死んでも……)

 背後で男が小さくため息をついた。
「おまえの息子は、さっき火盗のところに行った」
「な!? なんだと!?」
 大文字屋は驚きのあまり、思わず振り返りそうになった。
 小刀が喉に触れて鋭い痛みが走ったが、そんなことは今どうでもよかった。
「罪を償うそうだ。さっきそう言っていた」
(な……!)
 大文字屋は全身の力が抜け、その場に崩れ落ちた。
 男は座り込んだ大文字屋から手を離し、ただ静かに見下ろした。

「私は一体何のために……」
 大文字屋は額を地面につけて頭を抱えた。
「あの子さえ、あの子さえ守れれば……幸せになってくれれば、それでよかったのに……」
(どうしてこんなことに……! 私は一体……)
 男は大文字屋を見つめた。

「幸せかどうかは他人が決めることじゃない」
 上から聞こえた声に、大文字屋は思わず顔を上げた。
 薄い茶色の瞳が静かにこちらを見下ろしていた。
「少なくとも、あいつは自分が後悔しないように火盗に行ったんだ」
(後悔しないように……)
 大文字屋は目を伏せた。
 最初から息子が名乗り出たがっていたのは事実だった。
 それを止めたのは大文字屋自身だ。
「ああ……私は何もかも間違えたんだな……」
 大文字屋の顔がゆっくりと歪んでいく。

「花火に何をした?」
 男はもう一度静かに聞いた。
 大文字屋は首を横に振る。
「わからないんだ……。知らない男から渡された小さな火薬の玉みたいなものを、花火玉に入れただけだから……。だが……おそらく爆発するんだと思う……」
 大文字屋は地面を見つめていた。
 自分がしたことを思うと顔が上げられなかった。
「それから……大量の……油を渡している……」
 大文字屋は言葉が続かなかった。
 自分がしたことで何が起こるのかは容易に想像できた。
「……わかった」
 それだけ言うと、男は通りに向かって歩いていった。

 ふと、男が足を止める。
「おまえは、息子のために生きる気はあるか?」
 男の言葉に大文字屋は顔を上げる。
 男は背を向けたままだった。
(私に生きる資格はない……ただ許されるなら……)
「ああ、もう少しだけ……生きて償いたい……」
 大文字屋は絞り出すように言った。
「そうか……」
 男はそれだけ言うと、通りに消えていった。


◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇



 仕事を終えた新助は、火消しの男とともに通りを歩いていた。
(ちょっと遅くなっちまったなぁ……)
 沈んでいく夕日を見ながら、新助はため息をついた。
 両国橋までは、まだかなりの距離がある。
(間に合うかなぁ……)
 新助としてはそれほど花火が見たいわけではなかったが、行かなければ子ども拗ねてしまいそうだったため仕方なく行くことになった。
 新助はもう一度ため息をつくと、通りに視線を戻す。

(ん……? あれって……)
 路地から薄茶色の髪の男が通りに出てくるのが見えた。
(このあいだ来てた信とかいうやつか……)
 新助が見つめていると、向こうも気づいたのか男はこちらに向かって歩いてきた。
(なんだ? 挨拶でもするつもりか……?)
 このあいだ、明らかに新助に興味がなさそうだった男が、目が合っただけで近づいて来るのは予想外だった。

「……お」
「引手茶屋に行ってくれ」
 新助がとりあえず挨拶しようと口を開いた瞬間、信が早口で言った。
 新助は目を丸くする。
「……は?」
「咲耶のいるところに、頼一という男がいる。花火を止めるよう言え。俺は別の用事ができた。代わりに行ってくれ」
 淡々とした口調だったが、急いでいることだけはわかる言い方だった。
「え……? なんだ?? どういうことだ? それに頼一って??」
 急ぎの要件なのはわかったが、何を言っているのか新助にはまったくわからなかった。
 隣にいた火消しの男が新助に呟く。
「頼一って……朝倉様のことじゃないですか……? お奉行様の……」
「ああ! え……お奉行様のことか!?」
 新助が目を見開く。
「大文字屋が脅されて花火に何かを仕掛けた。おそらく爆発する。花火を止めるよう言え」
 信が早口で言った。

「爆発!? 脅されたってどういう……」
 新助はそこまで言って、大文字屋の息子のことを思い出した。
「……息子の……火事ことか……」
 新助は小さく呟いた。

「お頭……これって本当のことなんですかね……」
 火消しの男が新助に小声で聞いた。
 新助は必死で頭の中を整理していた。
 大文字屋の息子に花火を売り、恭一郎を火付けの犯人に仕立てた男。すべてがこのためだったと考えると辻褄が合う気がした。
「おそらく……本当なんだと思う……」
 新助は絞り出すようにそう言うと、火消しの男の顔を見つめた。
「おまえは、両国橋に行ってこのことを伝えてくれ。この時間からなら直接現場で止めた方が早ぇだろう。吉原に行ってそこからお奉行様に動いてもらってたんじゃ、たぶん間に合わねぇ」
「わ、わかった……!」
 火消しの男はそう言うと、慌てて両国橋に向けて走り始めた。

 信も去っていこうとしたところを、新助が呼び止める。
「おい! ……聞きたいことがある」
 信は振り返って新助を見つめた。
「恭一は今回のことに巻き込まれたのか……? 巻き込まれたせいで……死んだのか?」
 新助はこぶしを握りしめた。
(それなら、恭一の死は自殺でも事故でもない……)
 
 新助の言葉に、信はわずかに目を見開く。
「おまえ、気づいてなかったのか?」
 信は静かな声で聞いた。
「何のことだ……?」
「巻き込まれていたとは思うが、死んだこととは関係ない」
「関係ない……のか……?」
「ああ。叡正から聞いた限りでしかわからないが、恭一郎という男が火の中に飛び込んだのは、おまえのためだろう?」
 新助は目を見開く。
「俺の……?」
 何を言われているのか理解できなかった。

「おまえが飛び込まないように、先に飛び込んだんだろう? もしくは飛び込んでも助けられるように先に入ったんじゃないのか?」
「……え……?」
 新助は自分の唇がしびれていくのを感じた。
「俺のため……?」

 そのとき、潰れかけた長屋に飛び込んで殴られたときのことを思い出した。
『もう二度とこんなことするな! 二度とだ!!』
 ひどい剣幕の恭一郎の顔が目の前に浮かぶ。


「おい、それより急げ。もう時間がない」
 信はそう言うと、新助に背を向けて去っていった。

「あ、ああ……」
 新助はなんとかそう呟くと向きを変えて走り始めた。
 ときどきもつれそうになる足をなんとか前に進める。
(ああ、そうか……。俺のせいだったのか……)
 走っているはずなのに、まったく前に進んでいないような感覚に襲われる。
(くそっ……今は考えるな……。とにかくお奉行様のところに……)
 新助はすべてを振り払うように、ただ足を動かすことだけに集中した。