(信はまだ何も掴めていないのか……)
鏡台の前に座り昼見世の準備をしながら、咲耶は小さくため息をついた。
大文字屋について信に頼んでから、まだ何の報告も咲耶の元には届いていなかった。
(今日の両国の川開き……何事もなければいいが……)
咲耶は鏡の中の自分を見つめる。
そこにはどこか不安げな顔の女がいた。
咲耶は苦笑する。
(こんな顔で見世に出るわけにはいかないな……)
咲耶は気持ちを切り替えて、唇に紅をさした。
「咲耶太夫、今よろしいですか?」
襖ごしに弥吉の声が響いた。
「ああ、入ってくれ」
咲耶が返事をすると、弥吉が一礼して部屋に入ってきた。
咲耶は鏡越しに弥吉を見る。
「あの……信さんから手紙を預かってきたんですが……」
弥吉が懐から手紙を出しながらそう言うと、咲耶はすぐに立ち上がり弥吉に近づいた。
「ありがとう」
咲耶は珍しく早口でそう言うと、笑顔で手を差し出した。
いつもと違う咲耶の反応に弥吉は目を丸くする。
咲耶は弥吉から手紙を受け取ると、その場で手紙を開いた。
内容はとても簡潔だった。
(今日の夕方しか大文字屋は戻らないってことか……)
咲耶の口から思わずため息が漏れた。
(そこで話しを聞けたとして、間に合うだろうか……)
「……咲耶太夫?」
弥吉が心配そうに声をかける。
無意識に顔が強張っていたことに気づき、咲耶は微笑んだ。
「ああ、ちょっと気がかりなことがあってな。届けてくれてありがとう。少し……急ぎの用だったんだ」
「そう……でしたか」
弥吉はなおも咲耶を心配そうに見ていたが、昼見世の前に手紙を回収するため、一礼して咲耶の部屋を後にした。
「後はもう祈るしかないのか……」
咲耶は手紙を胸に当てて、目を伏せる。
窓から強い日差しが差し込み、畳の上には咲耶の黒い影が落ちていた。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「わぁ、すごい!!」
両国橋までやってきた子どもは、目を輝かせた。
「おい、走ると危ないぞ」
叡正が子どもを呼び止める。
昼過ぎに新助の長屋を訪れた叡正は、そこで三人の火消しの男たちと合流し、隅田川にある両国橋までやってきていた。
まだ日は高く花火まで時間があったが、それでも歩けば誰かと肩が触れ合うほど橋の周辺は人で溢れている。
橋を渡った先の川沿いには隙間なく屋台が並び、それぞれの屋台には人だかりもできていた。
「おい、はぐれないようにしろよ」
火消しの男が、心配そうな顔で子どもの手を取った。
「大丈夫だよ! もう子どもじゃないんだから!」
子どもはそう言うと、火消しの男の手を振り払った。
「大丈夫じゃねぇよ。これからもっと人が増えるんだ。一回はぐれたらもう終わりだぞ」
周りがざわざわとしているため、火消しの声は自然と大きくなった。
「終わりって大げさだなぁ」
「大げさじゃねぇよ。この人混みじゃ絶対見つけられないからな。念のためはぐれたときの待ち合わせ場所、決めとくか」
火消しの男は、子どもだけではなく叡正やほかの火消しの男の顔も見て言った。
「もしはぐれたら、両国橋のたもとに集まろう。今俺たちがいる側な」
「わかった!」
子どもが手を上げて返事をすると、ほかの男たちもそれぞれ頷いた。
(それにしてもすごい人だな……)
叡正が隅田川を見ると、すでに舟の上で宴会を始めている人たちもいた。
(花火の時間が近づいたら、もっと増えるだろうな……)
叡正自身、両国の川開きに来るのは久しぶりだった。
子どもの頃は家族で来ていた叡正だったが、出家してからは一度も来たことがなかった。
叡正の横を通り過ぎていく家族連れを見ながら、叡正はそっと目を伏せる。
「ちょっと! 叡正さんがはぐれてどうするんですか!?」
ふらふらと少しずつ離れていく叡正の肩を、火消しの男が慌てて掴む。
「あ、すまない……」
叡正は苦笑する。
「まったく……、叡正さんは子どもじゃないんですから、迷子とか勘弁してくださいよ」
火消しは呆れた顔で叡正を見た後、辺りを見回した。
「それにしても、毎年のことですけど、江戸中の人間がここに集まってるんじゃないかってくらいの混み具合ですね……。お頭と後で合流できるかな……」
新助は仕事が終わりしだい合流することになっていた。
「ねぇねぇ、見て! あっちに美味しそうなのがあるよ!」
子どもが叡正と火消しの男を見てそう言うと、そのまま走り出した。
「あ! おい! ひとりで行くんじゃねぇ!」
火消しの男が後を追って走り出す。
叡正は二人を見て微笑んだ。
(信の言ってたことはよくわからないが、今はとりあえずあの子のやりたいことに付き合おう……)
叡正はそう心に決めると、子どもと火消しの後を追った。
鏡台の前に座り昼見世の準備をしながら、咲耶は小さくため息をついた。
大文字屋について信に頼んでから、まだ何の報告も咲耶の元には届いていなかった。
(今日の両国の川開き……何事もなければいいが……)
咲耶は鏡の中の自分を見つめる。
そこにはどこか不安げな顔の女がいた。
咲耶は苦笑する。
(こんな顔で見世に出るわけにはいかないな……)
咲耶は気持ちを切り替えて、唇に紅をさした。
「咲耶太夫、今よろしいですか?」
襖ごしに弥吉の声が響いた。
「ああ、入ってくれ」
咲耶が返事をすると、弥吉が一礼して部屋に入ってきた。
咲耶は鏡越しに弥吉を見る。
「あの……信さんから手紙を預かってきたんですが……」
弥吉が懐から手紙を出しながらそう言うと、咲耶はすぐに立ち上がり弥吉に近づいた。
「ありがとう」
咲耶は珍しく早口でそう言うと、笑顔で手を差し出した。
いつもと違う咲耶の反応に弥吉は目を丸くする。
咲耶は弥吉から手紙を受け取ると、その場で手紙を開いた。
内容はとても簡潔だった。
(今日の夕方しか大文字屋は戻らないってことか……)
咲耶の口から思わずため息が漏れた。
(そこで話しを聞けたとして、間に合うだろうか……)
「……咲耶太夫?」
弥吉が心配そうに声をかける。
無意識に顔が強張っていたことに気づき、咲耶は微笑んだ。
「ああ、ちょっと気がかりなことがあってな。届けてくれてありがとう。少し……急ぎの用だったんだ」
「そう……でしたか」
弥吉はなおも咲耶を心配そうに見ていたが、昼見世の前に手紙を回収するため、一礼して咲耶の部屋を後にした。
「後はもう祈るしかないのか……」
咲耶は手紙を胸に当てて、目を伏せる。
窓から強い日差しが差し込み、畳の上には咲耶の黒い影が落ちていた。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「わぁ、すごい!!」
両国橋までやってきた子どもは、目を輝かせた。
「おい、走ると危ないぞ」
叡正が子どもを呼び止める。
昼過ぎに新助の長屋を訪れた叡正は、そこで三人の火消しの男たちと合流し、隅田川にある両国橋までやってきていた。
まだ日は高く花火まで時間があったが、それでも歩けば誰かと肩が触れ合うほど橋の周辺は人で溢れている。
橋を渡った先の川沿いには隙間なく屋台が並び、それぞれの屋台には人だかりもできていた。
「おい、はぐれないようにしろよ」
火消しの男が、心配そうな顔で子どもの手を取った。
「大丈夫だよ! もう子どもじゃないんだから!」
子どもはそう言うと、火消しの男の手を振り払った。
「大丈夫じゃねぇよ。これからもっと人が増えるんだ。一回はぐれたらもう終わりだぞ」
周りがざわざわとしているため、火消しの声は自然と大きくなった。
「終わりって大げさだなぁ」
「大げさじゃねぇよ。この人混みじゃ絶対見つけられないからな。念のためはぐれたときの待ち合わせ場所、決めとくか」
火消しの男は、子どもだけではなく叡正やほかの火消しの男の顔も見て言った。
「もしはぐれたら、両国橋のたもとに集まろう。今俺たちがいる側な」
「わかった!」
子どもが手を上げて返事をすると、ほかの男たちもそれぞれ頷いた。
(それにしてもすごい人だな……)
叡正が隅田川を見ると、すでに舟の上で宴会を始めている人たちもいた。
(花火の時間が近づいたら、もっと増えるだろうな……)
叡正自身、両国の川開きに来るのは久しぶりだった。
子どもの頃は家族で来ていた叡正だったが、出家してからは一度も来たことがなかった。
叡正の横を通り過ぎていく家族連れを見ながら、叡正はそっと目を伏せる。
「ちょっと! 叡正さんがはぐれてどうするんですか!?」
ふらふらと少しずつ離れていく叡正の肩を、火消しの男が慌てて掴む。
「あ、すまない……」
叡正は苦笑する。
「まったく……、叡正さんは子どもじゃないんですから、迷子とか勘弁してくださいよ」
火消しは呆れた顔で叡正を見た後、辺りを見回した。
「それにしても、毎年のことですけど、江戸中の人間がここに集まってるんじゃないかってくらいの混み具合ですね……。お頭と後で合流できるかな……」
新助は仕事が終わりしだい合流することになっていた。
「ねぇねぇ、見て! あっちに美味しそうなのがあるよ!」
子どもが叡正と火消しの男を見てそう言うと、そのまま走り出した。
「あ! おい! ひとりで行くんじゃねぇ!」
火消しの男が後を追って走り出す。
叡正は二人を見て微笑んだ。
(信の言ってたことはよくわからないが、今はとりあえずあの子のやりたいことに付き合おう……)
叡正はそう心に決めると、子どもと火消しの後を追った。