火消しの男の提案で、一旦全員長屋の中に入ることになった。
 長屋の奥では、新助の家の子どもが眠っていたため、それほど広いわけではない座敷に信や叡正を含めた五人が腰を下ろした。
「突然申し訳ありません……」
 子どもは姿勢良く正座した状態で頭を下げる。
 顔は青ざめたままだったが、唇の震えはもう止まっていた。

「私は利一(りいち)と申します。ひと月前の火事のことでお話しが……」
 利一はそう言うと、正面に座っていた新助の顔を真っすぐに見つめた。
「あの火事……恭一郎さんは関係ありません。あれは……私が……僕のせいなんです」
 利一の言葉に新助と火消しの男は息を飲んだ。
「本当に申し訳ありませんでした!」
 利一は畳に額をこすりつけるように頭を下げる。

「『僕のせい』っていうのは一体……」
 新助がなんとかそれだけ口にした。
「花火をしていたんです……」
 利一はかすれた声で、絞り出すように答える。
「その火が長屋に燃え移って……あっという間に……。本当に申し訳ありません……」
 頭を下げたままの利一の肩は、かすかに震えていた。
「花火……」
 新助は呆然としたまま小さく呟いた。
「僕……動転して……その場から逃げてしまって……。そのとき恭一郎さんにぶつかったんです……」
 恭一郎の名に、新助の肩がピクリと動く。
「だから……恭一郎さんは僕が火事の原因だって……わかってたはずなのに……。何も言わなかったって聞いて……。恭一郎さんには何の罪もないのに……! そのまま亡くなったって……。もう僕は……」
 利一は震える手で頭を抱えてうずくまった。
 利一の丸くなった背中は苦しげに上下している。

「そうか……」
 新助はうずくまった利一を見ながら、そっと呟いた。
(だからあいつ、何も言わなかったのか……)

「本当に申し訳ありません! すぐ名乗り出るつもりだったんですが……父に止められて……。僕が火付けの犯人だってわかったら、店も何もかも終わりだからって……。でも、もう苦しくて……」
「店……?」
 新助の呟きに、火消しの男が口を開く。
「お頭、この子油問屋の子ですよ。ほらあの豪商の大文字屋の……」
「ああ、あそこの……」
 新助でも油問屋である大文字屋の名は聞いたことがあった。

 火消しの男は利一のそばに近寄ると、そっと震える背中をさすった。
「でも、どうしてあんなところで花火を? 大文字屋からはかなり距離があるだろう……?」
 利一はそっと顔を上げて、火消しの男を見る。
 その目は涙を堪えているためか真っ赤に充血していた。
「うちの店に出入りしている業者の人が、あの辺りに今日花火売りが来るって教えてくれたんです……。僕……手持ちの花火を見たことがなくて……。一度でいいから花火をやってみたくて……。父には絶対にダメだって言われていたのに……。本当に申し訳ありません……」
 利一はそれだけ言うと、再び頭を抱えてうずくまった。
「ああ、油を扱う家だからか……」
 火消しの男は悲しげな眼差しで利一を見る。

 重苦しい沈黙が長屋を包んだ。


「どうしてだ?」
 唐突に、信が口を開く。
「どうして、あの長屋の前で花火をしたんだ?」
 淡々とした信の言葉が長屋に響く。
 利一はゆっくりと顔を上げて、信を見た。
「花火売りの人が……。ここは奥まっていて人に見られる心配がないからって……。それに……この長屋は空き家だから……誰にも迷惑がかからないって教えてくれて……。……で、でも、実際には人がいたみたいで……僕のせいで……誰か亡くなって……。本当に……僕は取り返しのつかないことを……」
 利一はそこまで言うと顔を歪めた。
 言葉が続かず、涙が溢れ出す。

「おい、大丈夫か……?」
 新助は慌てて利一に駆け寄ると、火消しの男とともに背中をさすった。

「花火売りはどんな男だったか覚えているか?」
 利一の様子に構うことなく、信は質問を続ける。
「おい、そんなことどうだっていいだろう?」
 新助が信を見て、眉をひそめる。
「どうでもよくない。どんな男だった?」
 信は表情を変えることなく利一を見た。
 新助は思わず舌打ちする。
(何なんだこいつは……!)

 利一は呼吸を整えると、信を見た。
「笠を……被っていて……。あまりよくわからなかったんですけど……。少し面長で……目が細くて……ずっと微笑んでいるような人……でした。どこか……狐のお面みたいな……感じのする顔で……」

 利一の言葉に、信の目元がピクリと動いた。
 隣にいた叡正も目を見開く。
「それって……!」

 叡正の言葉に新助が首を傾げる。
「なんだ? それが何なんだよ?」
 新助の言葉に、叡正がためらいがちに口を開く。
「その……、恭一郎さんが火付けするのを見たって証言した男が……ちょうどそんな感じの男だったんだ……」
「は!?」
 新助と火消しの男は目を見開いた。
「どういうことだ!? じゃあ、花火売りの男が恭一を嵌めたってことか!?」
 新助は思わず立ち上がり、信と叡正を見下ろした。
「ま、まだわからないが……そうなのかもしれないと……」
 叡正はしどろもどろになりながら答える。

 信は目を伏せて何かを考えているようだったが、やがてスッと立ち上がり、長屋の戸に向かって歩き出した。
「お、おい! 待てよ」
 叡正が慌てて引き留めると、信は少しだけ振り返った。
「聞きたいことは聞けた。邪魔したな……」
 信はそれだけ言うと、戸を開けて去っていった。
「お、おい……! ホントに勝手だな……」
 叡正はため息をついた。

 新助と火消しの男は、呆気にとられたように戸口を見つめている。
「そ、そういえば、さっき一緒にいた父親はどうしたんだ?」
 叡正は利一に向かって聞いた。
「ここに来ることは承知しているのか?」
 利一は涙に濡れた目を叡正に向けて、悲しげに首を振った。
「家に連れていかれそうになったところを……振り切ってここに来たので……。父は自分がなんとかするから、おまえは何も言わなくていい、と……。でも……僕がもう黙っているのは限界だったんです……」
「そうか……」
 叡正は目を伏せた。

 新助と火消しの男は顔を見合わせる。
「……今日のところは、一旦家に帰った方がいい。ここまで来て、教えてくれてありがとう。家のこともあるだろうし、これからどうするかゆっくり考えるといい」
 火消しの男は利一の背中をさすりながら優しい口調で言った。
 利一が弾かれたように、火消しの男を見る。
「そんな! すぐに名乗り出ます! ……このままでは恭一郎さんが……!」

 新助はそんな利一の様子を見て目を伏せると、しゃがみこんで利一の頭をそっと撫でた。
「ありがとな……。あいつが何も言わなかったってことは、きっとおまえが罪に問われることは望んでいなかったはずだ……。確かに汚名は晴らしてやりたいが……。おまえが罪に問われることを考えるとな……。その気持ちだけで十分だ……」
 新助は優しく微笑んだ。
(どうすることが正しいのかはわからねぇが……。きっとおまえはこの子が罰を受けることは望んでないんだろうな……)
 新助は目を伏せた。
「なんで俺にも言わなかったんだよ、恭一……」
 新助は小さな声で呟いた。
 かすかに耳に届いた新助の言葉に、火消しの男も叡正も何も応えることはできなかった。