引手茶屋の座敷で、喜一郎は三味線の音色に合わせて鼻歌交じりに体を揺らしていた。
「何かいいことでもございましたか?」
 咲耶は銚子を手に取り、喜一郎に微笑みかけた。
「そりゃあね」
 喜一郎は酒杯を手に取ると、咲耶の顔を嬉しそうに見つめる。
「もうすぐ両国の川開きだから!」
 咲耶は酒杯に酒を注ぎながら微笑んだ。
「ああ、そうでしたね」
(そういえば、あいつもそんなこと言ってたなぁ……)
 咲耶はぼんやりと叡正のことを思い出した。

「今年も喜一郎様の花火は上がるのですか?」
「もちろんだよぉ! 毎年、うちの花火を楽しみにしてくれてる人たちがいるからね!」
 喜一郎はそう言うと、酒杯に口をつける。

 両国の川開きで上がる花火には、江戸の大商人たちがこぞってお金を出していた。
 一瞬で散る花に大金を出せるほどの財力があることを示すと同時に、粋で気風の良いところを見せつけられるとあって、商人たちにとっての一大行事だった。

「今年もうちのが一番大きくて綺麗だから! ……本当は咲耶ちゃんと一緒に観たいけど、今年も来てくれないんだろう?」
 喜一郎は少し寂しげな表情で咲耶を見た。
「吉原の外に出るのは、喜一郎様と一緒であってもあまりいい顔はされませんからね……」
 咲耶は曖昧に微笑む。
(まぁ、本当は行けないことはないのだろうが……)
 咲耶が誰かと花火を観ようものなら、一夜にして噂になるのは目に見えていた。
 ほかのお客の気分を害するのは避けたいというのが咲耶の本音であり、咲耶自身花火に興味がないというのが正直なところだった。

「残念だなぁ……」
 喜一郎は酒杯を膳に置いた。
「今年はなんかちょっと張り合いもないし……」
「張り合い、ですか?」
 咲耶が聞き返す。
「う~ん、毎年うちが一番っていうのは変わらないんだけど、いつもうちに花火の大きさで張り合ってくる大文字屋がなんかいまひとつ……」
「今年はお店の売上があまり良くないのでは? 花火にあまりお金が出せなくなったのかもしれませんよ」
「いやぁ、店は好調のはずなんだけどなぁ。つい三月(みつき)前に会ったときには、今年は去年よりもっと金を出すから特大の花火を見せてやるとかなんとかいきがってたのに……。最近はやたらと暗いし、花火の話しをするのも嫌そうな感じで……」
 喜一郎は顎をさすりながら、何か考えているようだった。
「まぁ、お店の状況はひと月でも変わりますし……。どちらにしろ喜一郎様の花火が今年も一番と決まっていますから」
 咲耶は喜一郎の顔をのぞき込むようにして微笑んだ。
「ふふ、嬉しいこと言ってくれるね!」
 喜一郎は咲耶の言葉を聞いて満足げに笑った。
「やっぱり咲耶ちゃんと飲む酒は美味いなぁ! よし、今日はパーッといこう!」


 少し酔いが回ってきている様子の喜一郎を見て微笑みながら、咲耶は信と叡正のことを考えていた。
(火付けの現場で、何かわかっただろうか……)
 咲耶は、恭一郎が火付けするのを見たと証言した男のことが気になっていた。
(なぜ証言を取り消したのか……。それに、釈放させてどうするつもりだったんだ……)

 咲耶はそっと胸に手を当てる。
 胸騒ぎがした。
 咲耶はゆっくりと息を吐く。
(こういった嫌な予感は外れてくれたことがないからな……)
 咲耶は良くない考えを頭から消し去るように、そっと静かに目を閉じた。