信の話しに耳を傾けていた咲耶は、小さく息を吐いた。
「そうか……」
 信は夜に会った男について話すため、咲耶の部屋を訪れていた。
(妹を助けてほしい……か。そのためにこんな試すようなことを……)
 咲耶は信を見つめた。
「そのときが来たら、助けるつもりなのか……?」
「ああ、俺の目的にもつながる」
 咲耶は目を伏せた。
「そうか……」
(聞くまでもなかったな……)
 咲耶はため息をついた。
「そのときが来ないのが一番だが……気をつけろよ」
「ああ」
 信は短く応えた。

「花魁、叡正様がいらっしゃいました」
 襖の向こうから緑の声が響いた。
「ああ、通してくれ」
 咲耶がそう言うと襖がゆっくりと開き、緑の案内で叡正が部屋に入ってきた。
「緑、お茶と昨日いただいたお茶菓子を持ってきてもらえるか?」
「はい、承知しました!」
 緑はにっこりと笑うと、一礼して部屋を出ていった。

「何かわかったのか?」
 叡正が咲耶に聞いた。
「ああ、あの丑の刻まいりをしていたのは、直次という男の奥方だった。ひとりでは心細かったようで奉公人と一緒に来ていたそうだが、見られたことに慌てておまえを殴ってしまったらしい」
 咲耶は一気に話すと、目で叡正に座るように促した。
「え……?」
「手紙とのつながりはない。全部私の勘違いだったようだ。悪かったな」
「勘違い……?」
 叡正は腑に落ちていない表情で咲耶を見た。
「ああ、勘違いだ」
 咲耶は嘘をついた。
 狙いが信だった以上、話せることはほとんどなかった。信のことを話せば、いずれ叡正の家のことも話さなければならない日が来るかもしれない。
 最近ようやく前を向き始めたばかりの叡正に、また過去のことを話すべきではないと咲耶は考えた。
「勘違い……」
 叡正は座布団に腰を下ろしながら、もう一度小さく呟いた。

「なんだ、何か文句でもあるのか?」
 咲耶は妖しく微笑んだ。
 叡正は慌てて首を振る。
「え!? ち、違う! おまえでも勘違いすることがあるのかと思っただけで……」
「そうか、それならよかった」
 咲耶は神々しいほど綺麗な笑顔で言った。
 叡正は呆然と口を開けて咲耶を見つめる。
「なんだその嘘くさい笑顔は……」
「ん? なんだって……?」
 咲耶は笑顔のまま、小首を傾げて叡正に聞き返す。
「あ、いや、すまない! なんでもない……!」
 咲耶はジトっとした目で叡正を見つめた後、小さくため息をついた。
「せっかく巻き込んでしまったお詫びに茶菓子でも出そうとしているのに……」
「茶菓子……」
 叡正は涙が出るほど辛かった茶菓子を思い出して、顔を青くした。
「安心しろ。あんなもの普通客に出さない。今回はちゃんとした茶菓子だ」
「おい……」
 微笑みながら言う咲耶に、叡正が何か言いかけたとき、襖の向こうで緑の声が聞こえた。

 緑は襖を開けて部屋に入ると、咲耶と信、叡正にそれぞれお茶とお茶菓子を出した。
「私はいいから、私の分は緑がお食べ」
 咲耶は緑を手招きして呼び、自分の横に座らせた。
 緑は嬉しそうに茶菓子に手を伸ばす。
 叡正は出された落雁をまじまじと見ていたが、やがてホッとしたような顔でひとり頷いた。
 しかし、ハッと何かに気づいたように叡正は信を見つめた。
「こ、これよかったら食べてくれ。俺は昔食べてたから」
 叡正はそう言うと、落雁の入った器を信の方に置いた。
(ああ、信の昔の話でも聞いたのか……。思ったより仲良くなったんだな……)

 咲耶はそう思い信を見ると、信は叡正をじっと見つめていた。
(ああ、信は叡正の家のことを気にしているのか……)
 咲耶は納得して信から視線を外す。

 すると、隣で緑が小さく呟いた。
「これが、愛……」
 咲耶が驚いて緑を見ると、緑は頬を赤らめ、目を輝かせて信と叡正を見ていた。
(このあいだまで、そんな反応はしていなかったのに……。ほかの遊女から何か聞かされたか……)
 咲耶はため息をついて少し思案したが、やがて目を閉じた。
「まぁ、いいか……。平和な証拠だ……」

「え、花魁何かおっしゃいました?」
 緑は不思議そうに咲耶を見た。
「いや、なんでもない」
 咲耶は緑に微笑むと、窓の方を見た。
 この近くに巣があるのか、窓の外をツバメが飛び交っている。
 窓から差し込むジリジリとした日差しからは、もう夏の気配がしていた。


◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇



「あれ、おまえ見世は!?」
 いずみ屋の楼主は、夜見世が始まった時間に長襦袢姿で歩いていた露草を見て目を丸くした。
「今日はお休みよ。前に話したでしょう? どんだけ働かせる気よ」
 露草が呆れたように言った。
「そ、そうだったか。悪かった……。しっかり休めよ」
「ええ、もう寝すぎて体が痛いけどね……」
 露草は自分の肩を手で押さえた。
「……まさか、昼見世のあいだもずっと寝てたのか……?」
「……ダメなの……?」
 露草は楼主を睨んだ。
「い、いや……、そんなことは……。あ! そ、そういえば、さっき夕里の客を見たんだ! ほら、このあいだ見世の入口で大泣きしてたやつ! もう夕里はいないのにどうしたんだろうな!」
 楼主は話題を変えた。
「ああ、それなら野風に会いに来たのよ。夕里が手紙でお願いしていたから……。野風、今日の朝はちょっと顔色が悪かったけど、あの人が来てくれてよかったわ。すごく嬉しそうだったもの。今頃二人で夕里の思い出話でもしてるんじゃないかしら」
「そうなのか……」
「ええ」
 露草は嬉しそうに微笑んだ後、そっと目を伏せた。

「……ねぇ、私の……身請け話なんだけど……蹴ってもいい?」
 楼主は目を丸くする。
「これ以上のいい話、もう出てこないかもしれないぞ!?」
「でも私、まだまだいけると思わない?」
 露草はにやりと笑った。
「そりゃあ……、いてもらった方が見世としては助かるけど……」
「じゃあ、決まりね! もうちょっとみんなのこと見ていたいのよ」
 露草は微笑んだ。
 楼主は何か言おうとしたが、言葉は見つからなかった。
「まぁ、もらい手がなくなったら、あんたが私をもらってくれたらいいのよ」
「は!? 俺!?」
 楼主が目を見開いた。
「そうよ、それがいいわ! そうしたら私はずっとみんなを見守っていられるもの! よかったわね! 可愛い嫁が手に入って」
 露草はそう言うと、楼主に背を向けて去っていった。
「あ!」
 露草は何かを思い出したように、楼主を振り返った。
「咲耶ちゃんの姿絵、早くしてよ」
 露草はジトっと楼主を見た後、自分の部屋へと戻っていった。

「……あんな嫁、嫌だ……」
 楼主の悲痛な呟きは誰の耳にも届かなかった。


 翌朝、もう誰もいなくなった夕里の部屋に今年も桜草の花が咲いていた。
 朝日を浴びたその花は凛と輝き、強く強く咲き続けていた。