野風は咲耶を見つめ返した。
「は、はい……」
「今回あなたがしたことは本当によくないことです。どうしてだかわかりますか?」
 野風は顔を歪め、目を伏せた。
「たくさんの方にご迷惑を……」
「そんなことではありません」
 咲耶は野風の言葉を冷たくさえぎった。
「あなたは夕里という遊女の名を汚しました」
 咲耶の言葉に野風は弾かれたように顔を上げた。
「あなたがしたことは結果として、お客を想って尽くしてきたはずの夕里を、お客を呪うような遊女と言われるようにしてしまった」
 野風は目を見開く。
「私は夕里という遊女と直接話したことはありませんが、そんな私でもお客に尽くす良い遊女だということは知っています」
 野風の見開いた目から涙がこぼれる。
「あなたは怒りで忘れてしまっていたのかもしれませんが、夕里は見返りを求めて誰かを愛するような遊女ではなかったはずです」
 咲耶は手を伸ばして、野風の頬をつたう涙を拭った。
「それに夕里はたくさんの愛を受け取っています。一度よく周りを見てみなさい。夕里がどんなに愛されていたのか……。夕里を想っていたのはあなただけではないはずですよ」
 咲耶は微笑んだ。
 野風は両手で顔を覆い、その場で泣き崩れる。
「姐さん……、ごめん……」
 咲耶は野風をしばらく見つめた後、ゆっくりと立ち上がると座敷を後にした。

 座敷を出ると、廊下には壁にもたれかかるように露草が立っていた。
 露草は咲耶を見て悲しげに微笑む。
「悪いわね……。汚れ役させちゃって……」
 咲耶も露草に微笑んだ。
「いいえ。あとはお任せしてもよろしいですか?」
「ええ、もちろん」
 露草は笑って頷くと、襖を開けて座敷に入っていった。


◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


「露草太夫……」
 座敷に入ってきた露草を見て、野風が目を見開いた。
「私……本当に……すみませんでした……」
 野風は泣き崩れた姿勢のまま、手をついて頭を下げた。
 露草はゆっくりとしゃがみ込むと、野風の頭をそっとなでる。
「大丈夫よ……。帰ろう、野風」
 露草の言葉の温かさに、野風の顔が歪む。
 止めようとすればするほど、涙は溢れ畳を濡らした。
「は、はい……」
 野風はなんとかそれだけ口にすると、着物の袖で涙を拭った。
「ほら、立てる?」
 露草は立ち上がると、野風に手を差し出した。
「はい……」
 野風は露草の手を取ると、そのまま露草に手を引かれて歩き出した。

 裏茶屋の外に出ると、いつのまにか空は赤く染まり始めていた。
「春が終わって、もうすぐ夏ねぇ……。この時間でもまだ明るいんだもの……」
 野風の手を引きながら露草はのんびりとした口調で呟いた。
「そうですね……」
 野風は露草から伸びる影を見つめながら言った。
「ふふふ、こうしていると夕里のことを思い出すわ……」
 露草は前を向いたまま笑った。
 野風が顔を上げる。
「姐さんを……?」
「ええ……」
 露草は少しだけ野風を振り返って微笑んだ。
「野風は知らないでしょうけど、夕里はあなたよりよっぽど問題児だったのよ」
「姐さんが?」
 野風が目を丸くする。
「あの子が何回見世から脱走したと思ってるの? そのたびにこうやって手を引いて見世まで戻ったのよ」
 露草は楽しそうに言った。
「姐さんが……? 全然想像できない……」
 野風が知っている夕里からはまったく想像できない姿だった。
「ふふふ、でしょうね! あの子は本当にいい遊女になったわ。私の自慢よ。教えた通りに歯を食いしばって自分を磨いて……私が思ってた以上の売れっ妓になったわ」
 露草は自慢げに言った。
 野風はふと仕置き部屋でした夕里との話しを思い出す。
(歯を食いしばり己を磨くべきじゃない? ……あれは露草太夫の言葉だったのか……)
「野風のことも、自分と似てたから放っておけなかったのね、きっと」
 露草は微笑んで野風を振り返った。
 そのとき、露草の瞳に光るものが見えた。
 露草はすぐに前を向いてしまったが、野風にはそれが何かはっきりとわかった。
 野風はつながれた手を強く握ると立ち止まった。
「ん? どうしたの?」
 露草が野風を振り返る。そこにはいつも通りの露草がいた。
「露草太夫……本当にごめんなさい……」
 露草は手を強く握り返す。
「だから、大丈夫って言ってるでしょ! 何度言わせるつもりなの?」
 露草は苦笑すると、野風の手を強く握ったまま、手を引いて見世に向かって進んでいく。

(ああ……姐さんが見たのもこんな景色だったのかな……)
 固くつながれた手は夕日に照らされて赤く染まっていた。
 野風の目に再び涙が溢れた。
「夕日……まぶしいですね……」
 野風が呟く。
 露草は振り返らずにそっと目を閉じる。
「そうね」
 露草もそっと呟いた。
 二人の影は重なるように、長く長く伸びていた。