「野風……、もう夕里を連れていかないと……」
 露草は、夕里に覆いかぶされるように泣き続けている野風の肩にそっと触れる。
 言葉が届いていないのか、野風は夕里から離れようとしなかった。
 露草の後ろには、夕里の亡き骸を運び出すためにやってきた男衆が二人立ち尽くしている。
 二人とも鼻と口元を覆うように布を巻いていた。
「野風、夕里をちゃんと供養してあげないと……」
 露草はもう一度野風に言った。
 野風がゆっくりと露草を振り返る。
 その目は何も映していないようだった。
「野風……」
 露草はかける言葉が見つからなかった。

「露草太夫……、あまりここにいるのはあれなので……。もう連れていきますね……」
 男衆のひとりがしびれを切らして、夕里に近づく。
 口元を覆っていても麻疹がうつることが怖いのか、男衆はできる限り顔を背けて夕里を抱きかかえようとした。
 その瞬間、野風は体を起こし男衆を突き飛ばす。
「姐さんに触るな!!」
 あまりに一瞬の出来事に露草が止める間もなかった。
「野風!」
 男衆に掴みかかろうとする野風を、露草は慌てて後ろから抱きしめる。
「止めなさい! 野風!!」
「姐さんを汚いものみたいに……! おまえが死ねばよかったんだ!! どうしておまえみたいなのが生きてて、見世のために尽くしてきた姐さんが死ななきゃいけないんだよ!!」
 突き飛ばされた男衆は、野風のあまりの剣幕にただ目を見開いて野風を見ていた。
「野風! 止めなさい! 夕里が死んだことと、この人は関係ないでしょう? 落ち着きなさい!」
「どうして姐さんが……。お客に夢を見せるって……お客に尽くして……。もっと幸せになっていい人だった!! どうしてそんな人が……こんな薄暗い部屋で……ひとりで死んでいかなきゃいけないんだ……」
 野風は両手で顔を覆うと床に膝をついた。
「野風……」
 崩れ落ちるようにその場に座り込んだ野風を、露草は包み込むように抱きしめた。
「ひとりじゃなかったでしょう? あなたがいたじゃない……。あなたがそんなに泣いたら、夕里も悲しむわよ」
 嗚咽を漏らしながら泣き続けている野風の頭を露草がそっとなでる。
「あなたが笑って生きることが、あの子の願いなのよ……」
 露草は野風をなでながら、男衆に視線を向け、目で夕里を連れていくように伝える。
 男衆は頷くと、二人で慎重に夕里を抱えて部屋の外に出ていった。

(夕里……、あなたの願いはできる限り叶えるから……、この子をちゃんと見守ってあげるのよ……)
 露草は腕の中で泣き続けている野風を見ながら、そっと目を閉じた。



◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇



「野風、お客だよ」
 張見世に出ていた野風は、ゆっくりと立ち上がる。
 夕里が亡くなって三ヶ月経ち、体調を崩していた野風も少しずつ見世に出るようになってきていた。
 昔のように、反抗して仕置き部屋で毎日過ごすことを夕里が喜ぶとは野風も思っていなかった。
(少しでも姐さんが安心できるように、私がしっかりしないと……)
 野風は二階に上がると、お客のいる座敷の前で襖越しに声をかける。
「失礼いたします」
 野風はお客の返事を待って、座敷に入った。
 お客の前で正座すると、手をついて頭を下げる。
「野風と申します」
「野風か。うん、可愛いね」
 野風が顔をあげると、優しげな顔の男が微笑んでいた。
 目鼻立ちに特徴がなく、印象に残らない顔立ちだと野風は思った。
 流行りすたりのないありふれた灰色の着物は特別上等なものでもなければ、気になるほど粗悪なものでもないようだった。
 何も特徴がない分、首筋にある大きなほくろだけが強く野風の印象に残った。
「俺は庄吉だ。よろしく頼む」
 庄吉はやわらかく微笑んだ。
「庄吉様、こちらこそよろしくお願いいたします」

 野風は庄吉の隣に移動すると、酒の入った銚子を手にとった。
「一杯いかがですか?」
「ああ、もらうよ。ありがとう」
 酒杯に酒を注いでもらった庄吉は微笑んで、ゆっくりと酒を飲み干した。
「そういえばさ……、ちょっと前にここの遊女が亡くなっただろう?」
 野風の体がビクリと震える。
「え、ええ……」
「麻疹だったんだって? 気の毒にな……」
「ええ……本当に……」
 野風は目を伏せた。
 震える手で銚子をお膳に戻す。
「愛する男にまで裏切られたんだって? 本当に可哀そうだよな……」
 野風は弾かれたように顔を上げる。
「え……?」
「俺……、その遊女の客だった直次と知り合いなんだよ。残酷なやつだよな……本当に……」
「どういうことですか……?」
 野風は庄吉を見つめる。
「あれ? もしかして知らない……?」
 庄吉はバツの悪そうな顔で野風を見た。
「余計なこと言っちゃったかな……」
「あの……どういうことなんですか……?」
 野風は庄吉に顔を近づけた。
「ほら……、あいつ一緒になろうとかってここの遊女に言ってたんだろう? あれ、全部嘘なんだよ……。あいつはほら、婿養子だし……遊女と一緒になんてなれるわけないんだ……。ここの遊女が本気にしちゃって困ってるってあいつが言いふらしててさ……。今では別の遊女と楽しく遊んでるよ……」
 庄吉は言いにくそうに、野風から視線をそらして言った。
「それに、こんな手紙ももらったって自慢してて……」
 庄吉は懐から手紙を取り出し野風に渡す。
 野風が手紙を開くと、そこには夕里の懐かしい筆跡で直次への愛が綴られていた。
 手紙を持つ野風の手が激しく震え始める。
「おい、大丈夫か……?」
 庄吉は心配そうに野風の顔をのぞき込んだ。
「あ、はい。大丈夫です……」
 野風はなんとか微笑んだ。
「いらないから捨てておいてくれってあいつが渡してきたんだけど、なんか捨てられなくて……。亡くなったって聞いたから見世に返すのがいいかなって思って、持ってきたんだ……」
「お優しいんですね……」
 野風は口元をゆるめた。
「そ、そんな、たいしたことじゃないさ」
 庄吉は照れたように頭を掻いた。
 そんな庄吉の様子を見て野風は微笑み、再び手紙に視線を落とした。
(許せない……。姐さんの想いを……こんなふうに……! 髪まで受け取っておいて……)
 手紙がクシャリと音を立てる。
「亡くなった遊女は友だちだったのかい?」
 野風の様子を見て、庄吉は心配そうに声をかけた。
「え、ええ……。とても大切な姐さんでした……」
「そうだったのか……」
 庄吉は目を伏せる。
「それなら、ちょっと仕返ししてやるか……?」
 庄吉は野風の手を握った。
「仕返し……?」
「ああ、ちょっと怖がらせてやるのさ……。俺にいい考えがある」
 庄吉は妖しく微笑んだ。
 少し戸惑いながら、野風は意を決したように庄吉を見つめる。
 庄吉は野風の目を見て、満足げに目を細くした。
 庄吉の瞳の奥にある闇に、野風はそのときまったく気づくことができなかった。