「姐さん、大丈夫……?」
野風が行燈部屋の扉を開けた。
「野風……、ダメよ……入ってきたら……。うつるから……」
夕里は行燈部屋の中で布団に横たわりながら、かすれた声で言った。
野風は夕里の言葉に構わず、中に入ると夕里の枕元まで近づいて腰を下ろす。
「前に言ったでしょう? 麻疹、かかったことあるんです。一度かかったらもうならないって言ったのは姐さんでしょう?」
「でも……」
「声出すのツラいんでしょ? もうしゃべらないでください」
野風は夕里の言葉をさえぎった。
「こんな汚い仕置き部屋に閉じ込めるなんて、楼主は本当にひどいですね……」
野風は低い声で呟いた。
「こらこら……、仕置きでも使われるけど……、この部屋は本来行燈部屋って言って……、病気の遊女を休ませる……場所なのよ……」
夕里は微笑んだ。
「ふふふ……、昔とは逆ね……。昔は……野風がここにいたのに……」
「そんな昔のこと忘れましたよ……。そんなにしゃべらないでください……」
野風は心配そうな顔で夕里を見る。
「水、持ってきました」
野風は竹筒に入った水を器に移す。
「体、起こしますね……」
野風は片手を夕里の背中に添えて起こすと、もう片方の手で水の入った器を手に取り口元に近づける。
「自分で……飲めるわ……。ありがとう」
夕里は野風から器を受け取ると、ゆっくりと器を傾けて水を飲む。
野風は夕里がすべて飲んだのを確認すると器を受け取った。
「姐さん……、また熱上がってない?」
野風が夕里の背中をさすりながら、泣き出しそうな顔で言った。
「そんなことないのよ……。随分ラクになったから」
夕里は微笑む。
「それより……みんなにうつってないといいんだけど……」
夕里の言葉を聞いて野風は複雑そうな表情を浮かべた。
「……あんなやつら……、みんなうつって死ねばいいんだ……」
「野風……?」
野風の言葉に夕里は戸惑った。
「姐さんが麻疹だってわかってから、みんな自分の心配ばっかりで、誰も姐さんのところに来ないなんて……。最低だよ……」
野風は憎々しげに呟く。
「野風……。見世やお客にまで広がったら大変なの……。みんな……それがわかっているから来ないのよ……」
「みんな自分のことが可愛いだけだよ! お客だって……姐さんに年季明けに一緒になろうって言ってたやつだって、最近全然来ないし……。みんな最低だ……」
野風は低い声でそう言うと拳を握りうつむいた。
言葉遣いも以前の野風に戻ってしまっていた。
(ああ……何もかもが裏目に出てしまっている……)
夕里は手を伸ばして、野風の手に自分の手を重ねた。
「みんな……野風が思っているような悪い人間じゃないわ。ここで何年も一緒に過ごしてきて……もうわかっているでしょう……? それに……、直次様は……私からお別れしたのよ……。奥方がいらっしゃる方だから……迷惑はかけられないと思って……。あの方は最後まで私のことを想ってくれていたわ……、本当よ……」
野風は嘘をついた。
直次は手紙を受け取ってから一年は頻繁に見世に来ていたが、少しずつ間隔が空くようになり、半年前を最後に見世に来ることはなくなっていた。
そのことについて夕里は何も思っていなかったが、ここでそれを正直に伝えるのはよくないと夕里は判断した。
「姐さんは……それでよかったの?」
「ええ、後悔してないわ」
夕里は野風の目を見て、しっかりと言った。
「そう……なの……?」
夕里は頷く。
「それより、ほら。時間はわからないけど……もうすぐ昼見世が始まるんじゃないの? もう私のことはいいから……。行きなさい。野風が私のせいでサボっていたら、私が見世に戻ったときにみんなから怒られちゃうじゃない……。ね、お願いだから、もう行って……」
夕里は野風の手を強く握ると、笑いかけた。
「でも、……姐さん……」
「私は大丈夫だから! ね?」
夕里に見つめられ、野風はしぶしぶ頷いた。
「姐さん……またすぐ来るから……」
野風は立ち上がると何度も夕里を振り返りながら、行燈部屋を後にした。
夕里は布団に横になると、ゆっくりと息を吐く。
「せっかく野風が見世に馴染んできてたのに……。私が……こんなふうに台無しにするなんて……」
自分が情けなくて仕方なかった。
そのとき、行燈部屋の戸が開く音がした。
「……野風?」
麻疹の遊女のもとに来る人間など野風以外に思い浮かばなかった。
「ふふふ、私よ」
声の主はそう言うと、まっすぐに夕里の枕元まで歩いてきた。
「露草太夫!? い、いけません! こんなところに来ては!」
夕里は慌てて口を開く。
無理に声を出したせいで少し咳き込んだ。
「こら、大きな声出さないの」
露草は夕里の枕元に腰を下ろした。
「野風と一緒で、私も昔かかったことがあるから大丈夫よ。心配しないで。夕里はちゃんと自分の心配をしなさい」
露草は優しく微笑むと、夕里の額に触れた。
「熱が高いわね……。でも、大丈夫よ。私も発疹が出てからもう一度熱が上がって、その後良くなったの。ここを乗り越えたら夕里も良くなるわ」
「露草太夫……こんなことになって……本当に申し訳ありません……」
「病気はあなたのせいじゃないでしょ? 気にすることないわ。私だって別の病気にかかるかもしれないんだから」
「露草太夫……」
夕里は涙が込み上げてくるのを感じた。
「あの……こんなことを言って本当に申し訳ないのですが……。お願いがあります……」
夕里は真っ直ぐに露草を見つめる。
夕里の言葉を聞いて、露草はこの部屋に入ってきて初めて顔を曇らせた。
しばらく夕里の顔を見つめていたが、やがて諦めたようにため息をついた。
「知っていると思うけど、私とっても面倒くさがりなのよ……。お願い、叶えてあげられるかどうかわからないわ。だから一応聞いてあげるけど、ちゃんと生きて、私が何もしなくてもいいようにするのよ。わかった?」
夕里は目に涙を溜めて笑った。
「もちろん、……そのつもりです! 念のためですから」
露草は目を閉じる。
「わかった……。じゃあ、聞いてあげる……」
かすれる声でゆっくりと話す夕里の言葉を取りこぼすことがないように、露草は身じろぎひとつせずじっと耳を傾けた。
野風が行燈部屋の扉を開けた。
「野風……、ダメよ……入ってきたら……。うつるから……」
夕里は行燈部屋の中で布団に横たわりながら、かすれた声で言った。
野風は夕里の言葉に構わず、中に入ると夕里の枕元まで近づいて腰を下ろす。
「前に言ったでしょう? 麻疹、かかったことあるんです。一度かかったらもうならないって言ったのは姐さんでしょう?」
「でも……」
「声出すのツラいんでしょ? もうしゃべらないでください」
野風は夕里の言葉をさえぎった。
「こんな汚い仕置き部屋に閉じ込めるなんて、楼主は本当にひどいですね……」
野風は低い声で呟いた。
「こらこら……、仕置きでも使われるけど……、この部屋は本来行燈部屋って言って……、病気の遊女を休ませる……場所なのよ……」
夕里は微笑んだ。
「ふふふ……、昔とは逆ね……。昔は……野風がここにいたのに……」
「そんな昔のこと忘れましたよ……。そんなにしゃべらないでください……」
野風は心配そうな顔で夕里を見る。
「水、持ってきました」
野風は竹筒に入った水を器に移す。
「体、起こしますね……」
野風は片手を夕里の背中に添えて起こすと、もう片方の手で水の入った器を手に取り口元に近づける。
「自分で……飲めるわ……。ありがとう」
夕里は野風から器を受け取ると、ゆっくりと器を傾けて水を飲む。
野風は夕里がすべて飲んだのを確認すると器を受け取った。
「姐さん……、また熱上がってない?」
野風が夕里の背中をさすりながら、泣き出しそうな顔で言った。
「そんなことないのよ……。随分ラクになったから」
夕里は微笑む。
「それより……みんなにうつってないといいんだけど……」
夕里の言葉を聞いて野風は複雑そうな表情を浮かべた。
「……あんなやつら……、みんなうつって死ねばいいんだ……」
「野風……?」
野風の言葉に夕里は戸惑った。
「姐さんが麻疹だってわかってから、みんな自分の心配ばっかりで、誰も姐さんのところに来ないなんて……。最低だよ……」
野風は憎々しげに呟く。
「野風……。見世やお客にまで広がったら大変なの……。みんな……それがわかっているから来ないのよ……」
「みんな自分のことが可愛いだけだよ! お客だって……姐さんに年季明けに一緒になろうって言ってたやつだって、最近全然来ないし……。みんな最低だ……」
野風は低い声でそう言うと拳を握りうつむいた。
言葉遣いも以前の野風に戻ってしまっていた。
(ああ……何もかもが裏目に出てしまっている……)
夕里は手を伸ばして、野風の手に自分の手を重ねた。
「みんな……野風が思っているような悪い人間じゃないわ。ここで何年も一緒に過ごしてきて……もうわかっているでしょう……? それに……、直次様は……私からお別れしたのよ……。奥方がいらっしゃる方だから……迷惑はかけられないと思って……。あの方は最後まで私のことを想ってくれていたわ……、本当よ……」
野風は嘘をついた。
直次は手紙を受け取ってから一年は頻繁に見世に来ていたが、少しずつ間隔が空くようになり、半年前を最後に見世に来ることはなくなっていた。
そのことについて夕里は何も思っていなかったが、ここでそれを正直に伝えるのはよくないと夕里は判断した。
「姐さんは……それでよかったの?」
「ええ、後悔してないわ」
夕里は野風の目を見て、しっかりと言った。
「そう……なの……?」
夕里は頷く。
「それより、ほら。時間はわからないけど……もうすぐ昼見世が始まるんじゃないの? もう私のことはいいから……。行きなさい。野風が私のせいでサボっていたら、私が見世に戻ったときにみんなから怒られちゃうじゃない……。ね、お願いだから、もう行って……」
夕里は野風の手を強く握ると、笑いかけた。
「でも、……姐さん……」
「私は大丈夫だから! ね?」
夕里に見つめられ、野風はしぶしぶ頷いた。
「姐さん……またすぐ来るから……」
野風は立ち上がると何度も夕里を振り返りながら、行燈部屋を後にした。
夕里は布団に横になると、ゆっくりと息を吐く。
「せっかく野風が見世に馴染んできてたのに……。私が……こんなふうに台無しにするなんて……」
自分が情けなくて仕方なかった。
そのとき、行燈部屋の戸が開く音がした。
「……野風?」
麻疹の遊女のもとに来る人間など野風以外に思い浮かばなかった。
「ふふふ、私よ」
声の主はそう言うと、まっすぐに夕里の枕元まで歩いてきた。
「露草太夫!? い、いけません! こんなところに来ては!」
夕里は慌てて口を開く。
無理に声を出したせいで少し咳き込んだ。
「こら、大きな声出さないの」
露草は夕里の枕元に腰を下ろした。
「野風と一緒で、私も昔かかったことがあるから大丈夫よ。心配しないで。夕里はちゃんと自分の心配をしなさい」
露草は優しく微笑むと、夕里の額に触れた。
「熱が高いわね……。でも、大丈夫よ。私も発疹が出てからもう一度熱が上がって、その後良くなったの。ここを乗り越えたら夕里も良くなるわ」
「露草太夫……こんなことになって……本当に申し訳ありません……」
「病気はあなたのせいじゃないでしょ? 気にすることないわ。私だって別の病気にかかるかもしれないんだから」
「露草太夫……」
夕里は涙が込み上げてくるのを感じた。
「あの……こんなことを言って本当に申し訳ないのですが……。お願いがあります……」
夕里は真っ直ぐに露草を見つめる。
夕里の言葉を聞いて、露草はこの部屋に入ってきて初めて顔を曇らせた。
しばらく夕里の顔を見つめていたが、やがて諦めたようにため息をついた。
「知っていると思うけど、私とっても面倒くさがりなのよ……。お願い、叶えてあげられるかどうかわからないわ。だから一応聞いてあげるけど、ちゃんと生きて、私が何もしなくてもいいようにするのよ。わかった?」
夕里は目に涙を溜めて笑った。
「もちろん、……そのつもりです! 念のためですから」
露草は目を閉じる。
「わかった……。じゃあ、聞いてあげる……」
かすれる声でゆっくりと話す夕里の言葉を取りこぼすことがないように、露草は身じろぎひとつせずじっと耳を傾けた。