(もう帰ってくれないかな……)
 夕里は見世の入り口で直次に微笑んでいたが、心の中では舌打ちをしたい気分だった。
 見世に朝日が差し込んでおり、お客のほとんどはすでに帰っていた。
「離れがたいな……、夕里……」
 直次がもう何度目かわからない言葉を口にする。
「私もです……。けれど、直次様の帰りを待っている方がいらっしゃるでしょうから、私がこれ以上引き留めするわけにはまいりません……。さぁ、大門までお送りしますから」
 夕里が大門に促そうとするが、直次は一向に動く気配がなかった。
(何がしたいんだろう……)
 夕里は自分の顔が引きつっていくのを感じた。
「手紙を読んで、改めて自分の気持ちに気づいたんだ……。ずっと一緒いよう! 俺が夕里を身請けするから!」
 直次は夕里の手をとり、顔を近づける。
「い、いえ、身請けは直次様の負担になってしまいますから……」
 夕里は身を反らして、できる限り直次から距離をとる。
「年季明けまでいずみ屋で働くと決めているんです」
 夕里がそう口にしたところで、大門へお客を見送りに行っていた野風が見世に戻ってくるのが見えた。
(あ、気づかれるかも……)
 夕里がそう思うのとほぼ同時に、野風は夕里と直次に気づいた。
「そうなのか……。それなら年季が明けたら一緒になろう!」
 直次がひと際大きな声で夕里に言った。
 夕里は目を丸くする。
(ちょっ……、また野風が誤解するようなことを……)
「いえいえ、直次様には奥方がいらっしゃるではないですか。私のようなものは直次様にはつり合いませんから。ここでお会いできるだけで十分です。また近いうちに会いに来てください。お待ちしておりますから」
 夕里は早口でそう言うと、握られている手とは反対の手で直次の背中を押し、強引に見世の外に誘導した。
「離れがたいな……、夕里……」
 直次が再び同じことを言う。
「私もです」
 夕里は寂し気な表情をつくって応えた。
(これ、あと何回やるんだろう……)
 
 同じことを何度も繰り返し、なんとか直次を大門まで連れていった夕里は、直次が大門を出て姿が見えなくなると、ゆっくりとその場にしゃがみこんだ。
「疲れた……」
 夕里は呟く。
「手紙に髪まで添えたのはやり過ぎだったかな……」
 夕里の予想通り、直次は手紙を受け取ってすぐ見世にやってきた。
 自分が愛されているとわかって舞い上がっているようだったので、まだ何回か見世には来るだろう、と夕里は確信した。
 しかし、思っていた以上に対応に困るやりとりが増えたことに夕里は少しうんざりしていた。
「一緒になるなんて、本当はみじんも考えてないくせに……」
 直次が婿養子であることは、夕里も直次と話しをする中で知っていた。
 婿養子の身で、奥方がいる中遊女を身請けするのはかなり難しいことだろう。
(しかも、私のことが好きなわけじゃないのよね……、きっと。大見世の売れっ妓に愛されている自分が好きなだけで……)
 夕里はため息をつき、ゆっくりと立ち上がった。
「愛ってなんなのかしらね……」
 夕里はひとり呟くと、いずみ屋に戻っていった。

 夕里がいずみ屋に戻ると、野風がなんとも言えない顔で夕里を見た。
 夕里は野風に微笑む。
「ほら、直次様は来てくださったでしょう? 病が流行っても来てくださる方はいるのよ」
 野風は目を伏せる。
「うん……。そうだね……」
 夕里はホッと胸をなでおろす。
(それを伝えるためだけに、直次様に手紙を出したんだから……)
「姐さんは……あいつが好きなの……?」
「え!?」
 夕里はたじろぐ。
(好きじゃない……とは言いにくい雰囲気よね……)
「す、好きよ……。一緒になろうとまで言ってくれるお客だもの……」
 夕里は引きつった笑顔を浮かべながら、なんとかそう口にした。
「そうか……。姐さんがそれで幸せなら、俺もそれでいいよ……」
 野風は寂しそうに微笑んだ。
(なんだかすごい誤解をしているような……。でも、遊女も客と幸せになれるって思ってもらえるのは悪いことじゃないから……。まぁ、いいのかしら……)
 夕里は野風の頭をそっとなでた。
 いつもは嫌がる野風が今日はなぜかされるがままにじっとしている。
(可愛い野風……どうかこの子に幸せな出会いがありますように……)
 夕里は祈るように、そっと目を閉じた。