咲耶は露草の部屋に入ると、用意された座布団の上に腰を下ろした。
 基本的な部屋のつくりは咲耶の部屋と変わらなかったが、咲耶が下座に座ることは珍しく少し新鮮な感覚だった。
 露草は咲耶の向かいに腰を下ろし、うっとりとした表情で咲耶を見る。
「自分以外の太夫の部屋に入るのは初めてなので、なんだか新鮮です」
 咲耶は微笑んで、素直な感想を口にした。
「初めて……」
 露草は頬を赤く染める。
「そ、そうよね。ふふふ、私も太夫を部屋に入れるのは咲耶ちゃんが初めてよ」
 露草は片手を頬にあてて、うっとりとした口調で言った。
「私の部屋にも今度ぜひ……と言いたいところですが……」
 咲耶はそこで言葉を切った。
 露草が不思議そうに咲耶を見る。
「お忙しいですよね、きっと。……身請けのお話、受けられると伺いました」
 露草は目を丸くする。
「耳が早いのね! さすが玉屋さん」
 露草は微笑んで、咲耶を見つめる。
「私もいい年だから。ここらへんでね。……若い子も育ってきているから、道を譲らないと」
「寂しくなりますね……」
「寂しい……?」
 露草は目を潤ませる。
「寂しいと思ってくれるの?」
「もちろんです。いずみ屋の遊女たちの想いには敵わないかもしれませんけどね」
「咲耶ちゃん……、抱きしめたい……」
 露草は口元を両手で覆った。
「ふふふ、この吉原で露草太夫ほど色気と可愛らしさと賢さを備えた遊女はほかにいませんから。尊敬する太夫がいなくなるのは寂しいです」
 これは咲耶の本音だった。
 露草は咲耶の言葉に一度目を見開いてから、静かにフッと微笑む。
「賢いなんて言ってくれるのは咲耶ちゃんくらいよ」
「見世を見れば、露草太夫がどれほど賢いかなんてすぐわかります」
 咲耶は目を閉じた。
「いずみ屋の遊女は、教育が行き届いていますし、皆明るくて生き生きしています。玉屋とは雰囲気が違いますが、私はいずみ屋の空気も好きなんです。そうした空気をつくってきたのが露草太夫ですから」
「買いかぶり過ぎだけど……そう言ってもらえて嬉しいわ」
 露草はにっこりと微笑む。
「私、ここの妓たちが大好きなの。だから、ここを離れるのは寂しいし、少し心配……」
 露草は目を伏せた後、真っすぐに咲耶を見た。
「さて、そろそろ本題に入りましょうか? 私に聞きたいことがあるのでしょう?」
「はい」
 咲耶はしっかりと露草の目を見て頷いた。
「なんでも聞いて。だいたい予想はできているけど……」
「おそらく予想通りのことだと思いますが……、夕里という遊女の指が直次様に送られた件、送った遊女に心当たりはありませんか?」
 露草は目を丸くする。
「予想通りだけど、ずいぶん直球な質問ねぇ」
「露草太夫を相手に変な言い回しをしたところで意味がありませんから」
「咲耶ちゃん……、そういうところ……好き」
「光栄です」
 咲耶は微笑んだ。

「心当たりは……あるわ」
 露草は少し表情を曇らせた。
「たぶん野風の仕業」
「野風……ですか」
「まだ若い子だから、たぶん咲耶ちゃんは知らないわ。野風は夕里のことを慕っていたから……。それに勘違いもしていた」
「勘違いですか?」
 露草はゆっくりと頷く。
「そしてその勘違いを夕里はそのままにしたの。野風のことを想ってね」
 咲耶は何も言わずに、露草の言葉を待った。
「口にする言葉がすべて本当ではないし、口にしたときは本当でもやがて嘘になることもある。人の心は複雑よね……。野風はね、言葉通りにすべてを受け取る子なの。私が心配していることのひとつよ」
 露草は苦笑する。
「それに、これは私にも責任があるけど……、ちょっと良くない男が野風の客になったの。夕里が亡くなってから野風の落ち込み方はひどかったけど、あの男が来てから野風の様子が変わったから……」
「どんな男ですか?」
「ちょっとひと山当てた商売人ってことだったけど、本当かどうかはわからないわ……。背は少し高めで……顔にはあまり特徴がなくて……首の左側にほくろがあったかな……」
 咲耶は少し考えたが、思い当たる人物はいなかった。
(その男が今回の件を仕組んでいる可能性は高いな……)

「今度咲耶ちゃんが野風と話せるように、私から言っておくわ」
 露草は咲耶を見つめる。
「うちの妓が迷惑をかけて本当にごめんなさい」
 露草は頭を下げた。
「そんな、頭を上げてください。理由があってのことでしょうし」
「どんな理由があってもあんなことをするのはよくないわ。しかも勘違いなの……」
「どんな勘違いなのか伺っても?」
「……ええ」
 露草は目を伏せると、懐かしむように野風と夕里について話し始めた。