夜遅くに長屋に帰ってきた信は、弥吉の顔に目を留めた。
(あ、これは咲耶太夫が言ってたとおり、本当に気づいたのか……)
「これ気づいた?」
弥吉は頬に手を当てて笑った。
「今日ちょっとゴタゴタがあって……。でも、咲耶太夫が庇ってくれたから。……俺が悪かったんだけど、殴ったことは相手も謝ってくれたし! 俺は大丈夫だから!」
弥吉は早口で信に説明した。
(そういえば俺、誰かに自分の怪我の理由とか話したの生まれて初めてかも……)
なぜかいつものようにうまく話せなかった。
「大丈夫なのか?」
「え、だから大丈夫だって……」
「また、そいつに殴られることはないか?」
信は弥吉に近づき、そっと頬に触れた。
頬に触れた手はゴツゴツしていたが、弥吉が思っていたよりずっと温かかった。
弥吉は自分の顔が熱くなるのを感じた。
「だ、大丈夫だって! 咲耶太夫がそいつと話してくれたから!」
「そうか……」
信は弥吉の頬から手を離すと、そのまま外に出ていった。
(あれ、なんで出ていったんだ……? まぁ、行動が読めないのはいつものことか……)
弥吉は息を吐くと、寝るために布団を敷き始めた。
(今日は疲れたし、もう寝よう……)
弥吉が布団に潜り込むと、戸が開く音がした。
足音が近づき、弥吉の枕元に信が座る。
「どうしたの? 信さん……」
弥吉が不思議そうな顔で信を見る。
信は手に持っていた布をそっと弥吉の頬に当てた。
「冷た!」
弥吉が思わず布団から体を起こす。
「冷やせ」
弥吉は信から布を受け取る。
布はしっとりと濡れていて、腫れた頬に心地良かった。
弥吉は自分の瞳に何かが込み上げるのを感じて上を向く。
(くそ……、優しくされるの慣れてないんだよ……)
「あ、信さん……。ありがとう……」
「殴った相手は始末するか?」
「え、し、始末!?」
弥吉は目を丸くし、思わず噴き出した。
「信さん、冗談なんて言えたんだな! ありがとう。でも、本当に大丈夫だから」
「冗談……」
「信さん、ありがとう。俺、ここに来て本当によかったよ」
弥吉はそう言うと、布団を頭までかぶった。
「さぁ、明日も早いから俺はもう寝るよ! おやすみ!」
「ああ」
弥吉は信が立ち上がるのを待った。
近くに信の気配がなくなると、弥吉は布団の中でゆっくりと丸くなる。
弥吉は鼻をすすると、頬にあてた布で溢れ出る涙をそっと拭った。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「それで、なんでここに来たんだ?」
咲耶は呆れた顔で叡正を見る。
弥吉が殴られてから一夜明けた昼過ぎ、咲耶の部屋には叡正がいた。
「いや……ちょっと話しを聞いてもらいたくて……」
叡正は引きつった笑顔を浮かべて咲耶を上目遣いで見る。
咲耶は大きくため息をついた。
「おまえには私がよほど暇に見えるらしいな。こっちはおまえの色恋沙汰をのんびり聞いてやるほど暇じゃないんだ」
「おい待て、どこが色恋なんだ。丑の刻参りを見て、殺されかけたんだぞ!」
「殺されてないんだから、別にいいじゃないか」
咲耶が面倒くさそうに答えた。
「ひどい……」
叡正が呟く。
叡正は首を強く叩かれたことで一時的に気を失ったが、首に少し痛みが残った程度で、特に怪我もしていなかった。
咲耶が息を吐く。
「いいか、丑の刻参りは人に見られたら、呪いが自分に返ってくると言われている。本気で誰かを呪っていたんなら、今頃おまえは殺されていないとおかしいわけだ。おまえは殺されたのか?」
「い、いや……」
「なら、お遊びだろ。お遊びでないなら、おまえもしくは寺の誰かに見せるためにやったという方がしっくりくる。そうでなければ神社ではなく寺を選んだ理由がわからないからな。ということは……」
咲耶は叡正を真っすぐに見た。
「おまえの色恋に関わっている可能性が一番高い」
叡正はぐうの音も出なかった。
「しかし、俺に心当たりは……」
「おまえは鈍いからな」
叡正は返す言葉もなかった。
「指といい、丑の刻参りといい、おまえの引きの強さにはさすがに同情するが……」
咲耶は憐みの目で叡正を見た。
「その目はやめてくれ……」
叡正は両手で顔を覆った。
咲耶は長く息を吐く。
「それで、おまえが気づいたとき藁人形は残ってなかったのか?」
叡正が顔を上げる。
「ああ、それは木に残っていた」
「おまえの名前が書かれた紙や髪の毛はなかったのか?」
「そんなものがあったら、ここに来る前にお祓いに行ってる!」
寺の僧侶が神社にお祓いに行くのは普通なのだろうかと咲耶は思ったが、口に出すのはやめた。
話しが長くなるのは咲耶にとって、ただ面倒なだけだった。
「少なくとも呪われていたのは俺じゃない。名前があったからな。えっと確か……石川……直次だったかな?」
咲耶は目を見開く。
「誰だって?」
「え……石川直次だけど……なんだ知り合いか?」
咲耶は思わず苦笑する。
「ああ、昨日知り合ったばかりだ」
咲耶は額に手をあてた。
「ああ……そういうことか……」
叡正は困惑した顔で咲耶を見る。
「おまえじゃないよ」
「あ、ああ……だから、俺じゃないって……」
「引き寄せられたのはおまえじゃない。たぶん私だ。しかも人為的にな」
(弥吉が巻き込まれたのも、叡正が巻き込まれたのも、おそらく偶然ではない)
咲耶は確信していた。
(弥吉との関係も、叡正との関係も調べられているな、これは……)
「どういうことだ?」
叡正が心配そうに咲耶を見る。
「狙いは私か……。それとも私が前に出ることで現れる別の誰かなのか……」
咲耶は大きくため息をついた。
「何事もないのは……もう無理だな……」
困惑する叡正を無視して、咲耶は頭を抱えた。
翌日、石川直次の遺体が屋敷で発見された。
庭の木に首を吊って死んでいるところを奉公人が見つけたという。
最近、懇意にしていた遊女が亡くなっていたことを直次が知ったという報告が上がっており、自殺とみられた。
ただ、半年以上前に亡くなった遊女から小指と手紙が届いたこと、直次の名前の書かれた丑の刻参りの跡が見つかったことから、一部で遊女の呪いではないかという噂が広がった。
(あ、これは咲耶太夫が言ってたとおり、本当に気づいたのか……)
「これ気づいた?」
弥吉は頬に手を当てて笑った。
「今日ちょっとゴタゴタがあって……。でも、咲耶太夫が庇ってくれたから。……俺が悪かったんだけど、殴ったことは相手も謝ってくれたし! 俺は大丈夫だから!」
弥吉は早口で信に説明した。
(そういえば俺、誰かに自分の怪我の理由とか話したの生まれて初めてかも……)
なぜかいつものようにうまく話せなかった。
「大丈夫なのか?」
「え、だから大丈夫だって……」
「また、そいつに殴られることはないか?」
信は弥吉に近づき、そっと頬に触れた。
頬に触れた手はゴツゴツしていたが、弥吉が思っていたよりずっと温かかった。
弥吉は自分の顔が熱くなるのを感じた。
「だ、大丈夫だって! 咲耶太夫がそいつと話してくれたから!」
「そうか……」
信は弥吉の頬から手を離すと、そのまま外に出ていった。
(あれ、なんで出ていったんだ……? まぁ、行動が読めないのはいつものことか……)
弥吉は息を吐くと、寝るために布団を敷き始めた。
(今日は疲れたし、もう寝よう……)
弥吉が布団に潜り込むと、戸が開く音がした。
足音が近づき、弥吉の枕元に信が座る。
「どうしたの? 信さん……」
弥吉が不思議そうな顔で信を見る。
信は手に持っていた布をそっと弥吉の頬に当てた。
「冷た!」
弥吉が思わず布団から体を起こす。
「冷やせ」
弥吉は信から布を受け取る。
布はしっとりと濡れていて、腫れた頬に心地良かった。
弥吉は自分の瞳に何かが込み上げるのを感じて上を向く。
(くそ……、優しくされるの慣れてないんだよ……)
「あ、信さん……。ありがとう……」
「殴った相手は始末するか?」
「え、し、始末!?」
弥吉は目を丸くし、思わず噴き出した。
「信さん、冗談なんて言えたんだな! ありがとう。でも、本当に大丈夫だから」
「冗談……」
「信さん、ありがとう。俺、ここに来て本当によかったよ」
弥吉はそう言うと、布団を頭までかぶった。
「さぁ、明日も早いから俺はもう寝るよ! おやすみ!」
「ああ」
弥吉は信が立ち上がるのを待った。
近くに信の気配がなくなると、弥吉は布団の中でゆっくりと丸くなる。
弥吉は鼻をすすると、頬にあてた布で溢れ出る涙をそっと拭った。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「それで、なんでここに来たんだ?」
咲耶は呆れた顔で叡正を見る。
弥吉が殴られてから一夜明けた昼過ぎ、咲耶の部屋には叡正がいた。
「いや……ちょっと話しを聞いてもらいたくて……」
叡正は引きつった笑顔を浮かべて咲耶を上目遣いで見る。
咲耶は大きくため息をついた。
「おまえには私がよほど暇に見えるらしいな。こっちはおまえの色恋沙汰をのんびり聞いてやるほど暇じゃないんだ」
「おい待て、どこが色恋なんだ。丑の刻参りを見て、殺されかけたんだぞ!」
「殺されてないんだから、別にいいじゃないか」
咲耶が面倒くさそうに答えた。
「ひどい……」
叡正が呟く。
叡正は首を強く叩かれたことで一時的に気を失ったが、首に少し痛みが残った程度で、特に怪我もしていなかった。
咲耶が息を吐く。
「いいか、丑の刻参りは人に見られたら、呪いが自分に返ってくると言われている。本気で誰かを呪っていたんなら、今頃おまえは殺されていないとおかしいわけだ。おまえは殺されたのか?」
「い、いや……」
「なら、お遊びだろ。お遊びでないなら、おまえもしくは寺の誰かに見せるためにやったという方がしっくりくる。そうでなければ神社ではなく寺を選んだ理由がわからないからな。ということは……」
咲耶は叡正を真っすぐに見た。
「おまえの色恋に関わっている可能性が一番高い」
叡正はぐうの音も出なかった。
「しかし、俺に心当たりは……」
「おまえは鈍いからな」
叡正は返す言葉もなかった。
「指といい、丑の刻参りといい、おまえの引きの強さにはさすがに同情するが……」
咲耶は憐みの目で叡正を見た。
「その目はやめてくれ……」
叡正は両手で顔を覆った。
咲耶は長く息を吐く。
「それで、おまえが気づいたとき藁人形は残ってなかったのか?」
叡正が顔を上げる。
「ああ、それは木に残っていた」
「おまえの名前が書かれた紙や髪の毛はなかったのか?」
「そんなものがあったら、ここに来る前にお祓いに行ってる!」
寺の僧侶が神社にお祓いに行くのは普通なのだろうかと咲耶は思ったが、口に出すのはやめた。
話しが長くなるのは咲耶にとって、ただ面倒なだけだった。
「少なくとも呪われていたのは俺じゃない。名前があったからな。えっと確か……石川……直次だったかな?」
咲耶は目を見開く。
「誰だって?」
「え……石川直次だけど……なんだ知り合いか?」
咲耶は思わず苦笑する。
「ああ、昨日知り合ったばかりだ」
咲耶は額に手をあてた。
「ああ……そういうことか……」
叡正は困惑した顔で咲耶を見る。
「おまえじゃないよ」
「あ、ああ……だから、俺じゃないって……」
「引き寄せられたのはおまえじゃない。たぶん私だ。しかも人為的にな」
(弥吉が巻き込まれたのも、叡正が巻き込まれたのも、おそらく偶然ではない)
咲耶は確信していた。
(弥吉との関係も、叡正との関係も調べられているな、これは……)
「どういうことだ?」
叡正が心配そうに咲耶を見る。
「狙いは私か……。それとも私が前に出ることで現れる別の誰かなのか……」
咲耶は大きくため息をついた。
「何事もないのは……もう無理だな……」
困惑する叡正を無視して、咲耶は頭を抱えた。
翌日、石川直次の遺体が屋敷で発見された。
庭の木に首を吊って死んでいるところを奉公人が見つけたという。
最近、懇意にしていた遊女が亡くなっていたことを直次が知ったという報告が上がっており、自殺とみられた。
ただ、半年以上前に亡くなった遊女から小指と手紙が届いたこと、直次の名前の書かれた丑の刻参りの跡が見つかったことから、一部で遊女の呪いではないかという噂が広がった。