「何があったのですか?」
 咲耶が首を傾げながら直次に聞いた。
「あ……えっと……その……」
 先ほどまで饒舌だった直次は、咲耶の姿を見てうまく言葉を発することができなくなっていた。
 直次の顔が別の意味で赤く染まっていく。
 咲耶は微笑むと、玉屋の楼主に視線を移した。
 玉屋の楼主は咲耶の視線を受けて口を開く。
「弥吉がいずみ屋の遊女の名を語って、そちらの旦那様に切られた指を届けたらしい」
「まぁ、そんなことが……」
 咲耶は目を丸くする。
 一見驚いているように見えるが、いずみ屋の楼主にはわかっていた。これは芝居だ。
 見世から見ていて状況はおよそ把握していたのだろう。
(咲耶太夫が出てきたのは場を治めるためか……)
 いずみ屋の楼主はただ黙って成り行きを見届けることにした。
「弥吉、本当なの?」
 咲耶がしゃがみ込んで、弥吉を見つめる。
「咲耶太夫……申し訳ありません! 俺が個人的に遊女に頼まれて届けたんです……。指とは知らなくて……俺が浅はかでした……」
「そう……」
 咲耶は悲しげな表情で弥吉を見た後、立ち上がって直次を見つめた。
「このたびはうちの文使いがご迷惑をおかけしたようで申し訳ございません。見世の太夫としてお詫び申し上げます。お許しいただけるでしょうか?」
 咲耶は潤んだ瞳で直次を見つめる。
「あ、いや、その……、そもそもそんなに怒っていたわけでは……」
 直次は顔を真っ赤にして、首を振る。
(嘘つけ! 顔を真っ赤にして怒ってたじゃねぇか!)
 いずみ屋の楼主は顔には出さずに心の中で毒づく。
「まぁ、なんてお優しい!」
 咲耶は直次の手を取った。
「弥吉は嘘をつくような人間ではないのです。誰かに頼まれたのは事実でしょう。いずみ屋のその遊女はそんなことは頼んでいないと言っているのですか?」
「え!? いや……その遊女はもう……亡くなっていると……」
 咲耶に手を取られたことで全身を真っ赤にしていた直次はしどろもどろで答えた。
「まぁ! そうなのですか?」
 咲耶がいずみ屋の楼主に目を向けた。
「あ!……はい!そうです!」
 突然咲耶に視線を向けられ、いずみ屋の楼主が縮み上がる。
 咲耶をよく知らないものなら、視線を向けられて舞い上がるところだろうが、咲耶の恐ろしさを知っている楼主にとってその視線は恐怖でしかなかった。
「まぁ……、よほど旦那様にお会いできずに亡くなったのが無念だったのですね……。化けて出るほどとは……。愛されていらっしゃったのですね……」
 咲耶は潤んだ瞳で直次を見つめる。
「旦那様、お名前を伺ってもよろしいですか?」
「お、俺の!? あ……、直次と……」
「直次様、弥吉をお許しいただき、誠にありがとうございます」

 いずみ屋の楼主は静かに思った。
 名を聞いたのは、直次に興味があったわけではなく、おそらく引手茶屋から依頼があっても玉屋に取り次がないようにするためだろう。
(今後、直次様がどんなに願っても玉屋の敷居をまたぐことはないだろうな……)
 いずみ屋の楼主は心の中で咲耶を敵に回した直次に同情した。

 咲耶は視線を弥吉に移す。
「弥吉、あなたもきちんと立って感謝を伝えなさい」
 弥吉は慌てて立ち上がると、直次に頭を下げた。
「ありがとうございます! 本当に申し訳ありませんでした!」
「あ……いや……気にするな……」
 直次はなんとかそれだけ口にした。

「あら? 弥吉、頬が腫れているわね。どうしたの?」
 咲耶が弥吉の顔を見て首を傾げる。
「あ……これは……」
 弥吉は頬に手を当てると言葉を詰まらせた。
 直次も咲耶から視線をそらす。
「もしや、直次様が!?」
 咲耶は両手で口元を覆った。
「このように大勢の人が見ている前で、手を上げられたのですか?」
 咲耶の登場により玉屋の周りには人だかりができていた。
「いけません、直次様! 直次様が暴力的な方だと誤解されてしまいます! ここは誤解を解くためにもきちんと謝罪された方がよろしいかと!」
 咲耶はそう言うと一歩下がり、弥吉の背中を押して直次の前に立たせた。

 直次はしばらく視線を泳がせていたが、観念したように目を閉じた。
「あ……その……なんだ……。カッとなって申し訳ない……」
 直次は複雑な顔で弥吉に言った。
「弥吉、許してさしあげる?」
「え!? も、もちろんです」
 弥吉は目を丸くして、大きくうなずいた。
「よかった。これで解決ですね」
 咲耶は嬉しそうに笑った。
「それでは、私どもは夜見世の支度がございますので、これで失礼いたします」
 咲耶は直次にそう言うと、弥吉に目配せして一緒に見世に戻っていった。

 咲耶が去ったことで、事の成り行きを見ていた人々が一斉に動き出す。
 いずみ屋の楼主もホッと息をついた。
 咲耶と間近で話したことで直次は未だに呆然としており、弥吉に対する怒りは完全に忘れているようだった。
 いずみ屋の楼主が胸をなでおろして地面を見ていると、ふっとそこに影が差す。
 恐る恐る顔を上げると、そこにはにこやかに微笑む玉屋の楼主がいた。
「いやぁ、直次様のような心優しいお客様を抱えていらっしゃるいずみ屋が羨ましいですなぁ。こんな良いお客様は絶対に逃がしてはいけませんよ」
 玉屋の楼主の笑顔に背筋が凍る。
 要するに玉屋の楼主はこう言っていた。
 こんな厄介な客はおまえのところでちゃんと管理しておけ、と。
「ははは……、そうですね。逃げられないようにしないと……」
 いずみ屋の楼主は乾いた笑い声で応えた。
(だから玉屋に案内するのは嫌だったんだよ……)
 いずみ屋は口が乾くのと同時に、目が潤んできたのを感じた。