「だから、俺は頼まれただけですって!」
 弥吉は男に胸ぐらを掴まれた。
「嘘をつくな! どうしてこんなタチの悪い嫌がらせをしたんだ!」
 男は顔を赤くして弥吉を見る。
直次(なおつぐ)様、落ち着いてください! うちとしても玉屋と揉めるのはまずいんですよ…」
 いずみ屋の楼主が慌てて止めに入る。
 文使いを探すと言ってきかない直次をしぶしぶ玉屋の前まで案内した楼主だったが、ちょうど玉屋から出てきた弥吉と鉢合わせてしまったのだ。
 楼主は辺りを見回した。
 まだ夜見世が始まる前の時間ということもあり、人通りは多くなかったが、直次の声で注目は集まっていた。
「そんなこと言ったって、こいつが指を持ってきたんだ!」
 直次は人の視線を気にすることなく声を荒げる。

「……指? 指って何のことですか……?」
 弥吉は直次の顔を見つめた。
「おまえが手紙と一緒に指を持ってきたんだろ!!」
 直次の言葉に、弥吉は目を見開く。
「指なんて聞いてない! 俺はへその緒だって聞いて……」
 弥吉はそこで言葉を濁した。
「へその緒……?」
 直次が怪訝な顔で弥吉を見る。
「俺は……へその緒を届けてほしいって頼まれただけで……」
「どういうことかちゃんと言え!」
 直次は怒りで顔を赤くした。
 弥吉が直次から目をそらす。
「吉原の仲見世通りを歩いてるときに、女の人に声を掛けられて……。あんたと連絡をとりたいけど、見世から止められてるから俺に代わりに手紙を届けてもらえないかって……。頭巾を被ってたし、顔を見られたくなさそうだったから、名前も聞かなくて誰かはわからなかったんですけど……。ただ、あんたの子を産んだって……。死産だったけど、へその緒だけでも届けてほしいって言われて……」
「……は?」
 直次の腕から力が抜け、弥吉の着物から手が離す。
 直次の顔はみるみる青ざめた。
「どういうことだ……?」
 直次は楼主の方を見て聞く。
「え!?」
 楼主は目を丸くした。
「いやいや、夕里に子なんてできてませんよ! それに半年前に本当に亡くなっているんです! 嘘だと疑われるなら、うちの遊女に確認をとってもらっても構いません! 本当に亡くなっていますし、子なんてできておりませんでしたから!」
 直次はしばらく考え込んだ後、再び弥吉を見る。
「……やっぱり全部おまえの嘘なんじゃないのか? ふざけやがって……」
 直次の顔はまた赤く染まり出した。
「いや、俺は嘘なんて……」
「うるさい!」
 直次は弥吉の頬めがけてこぶしを振り下ろした。
 殴られた勢いで弥吉が地面に倒れる。
「直次様! おやめください!」
 続けて殴りつけようとする直次の腕を楼主が慌てて止めた。
「どうせ、見世同士のくだらない嫌がらせかなんかだろう! 俺を巻き込みやがって、ふざけんじゃねぇ!」
 直次は楼主に止められながらもまだ弥吉に向かって腕を振り上げていた。

「おや、それは聞き捨てなりませんね」
 ふいに穏やかな声が響く。
 玉屋から一人の男が現れた。
「あ……玉屋の……」
 いずみ屋の楼主は、その男を見て顔から血の気が引いていくのを感じた。
「これはこれはいずみ屋さん。なんですか? この騒動は。うちがおたくに嫌がらせをしたってお話しでしたか?」
 男はにこやかに微笑んだが、その瞳はまったく笑っていなかった。
 玉屋の楼主であるその男は、もう二十年以上楼主として玉屋を取り仕切っている。
 五十は超えているはずだが、引き締まった体つきと柔和な整った顔立ちのため、男は三十半ばといっても通るほどの若々しい風貌をしていた。
 この二十年、玉屋が吉原一の大見世であり続けたのは、楼主の手腕であることを吉原の人間ならば、誰もが知っていた。
「いや……、これは……」
 いずみ屋の楼主は目を泳がせた。
「うちの文使いはおたくにどんな嫌がらせをしたのかな?」
「いえ……そんなことは……何も……」
「こいつがいずみ屋の遊女の名を語って、俺に切断された指を届けてきたんだ!」
 いずみ屋の楼主の代わりに、直次が答える。
 いずみ屋の楼主は直次を睨んだ。今すぐにでも直次を黙らせたかった。
 たいして太い客でもない直次より、玉屋の楼主に睨まれる方がよほど問題だった。
「ほぅ。弥吉、そうなのか?」
 玉屋の楼主は鋭い眼差しを弥吉に向ける。
 弥吉は楼主と目が合うと、慌ててその場に正座して頭を下げた。
「申し訳ありません! 知らなかったとはいえ、結果としてはそうなってしまいました……。ご迷惑をお掛けして本当に申し訳ありません!! ただ……」
 弥吉はそう言うと正座したまま直次の方に体を向けた。
「俺が個人的頼まれただけで、見世は関係ありません! 本当に申し訳ありませんでした!」
 弥吉は直次に向かって頭を下げた。

「これは、何事ですか?」
 美しい声が響くと同時にどよめきが起こった。
 玉屋から現れたのは、夜見世の準備を終えた咲耶だった。
 高下駄こそ履いていなかったが、華やかな装いに煌びやかな(かんざし)をつけた咲耶はため息が出るほどに美しかった。
 いずみ屋の楼主は眩暈を覚えた。
 この吉原で敵に回してはいけない上位二人が、背筋が凍るような微笑みをたたえてこちらを見ていた。