佑助は長屋でいつものように絵を描いていた。
絵は、構図こそ違ったが描くものはいつも同じだった。
茜が死んだあの日の光景。
その地獄絵図の中で鬼に刺され、捻じ切られ、焼かれている罪人は、常に佑助だった。
佑助は絵の中で何度も自分を殺した。
どれだけ無惨に殺しても、佑助の心は少しも軽くならなかったが、それでも佑助は描かずにいられなかった。
(馬鹿だな……。本当に……)
佑助は苦笑した。
信に鬼は誰かと問われ、佑助と茜の父親だと答えたが、佑助にとって鬼は重要ではなかった。
あの日罪を犯したのは、佑助の父親でも、茜の父親でもなく、茜を見殺しにした自分自身だと、佑助は思っていた。
(こんなもの描いていたって……何の償いにもならないってわかってるんだけど……)
佑助は目を閉じるとゆっくり息を吐いた。
そのとき、長屋の戸を叩く音が響く。
佑助は筆を置くと顔を上げた。
「佑助、突然すまない……。叡正だが、中にいるか?」
戸の向こうから叡正の声が響いた。
「永世様……?」
佑助は慌てて立ち上がると、戸に駆け寄った。
戸を開けると、そこには叡正と信の二人が立っていた。
「永世様と……信様……。どうされたのですか?」
佑助は二人を見て首を傾げた。
「今日は渡すものがあって来たんだ」
叡正は佑助を真っすぐに見つめた。
「渡すもの……ですか? あ、とりあえず、どうぞお入りください」
佑助はそう言うと、叡正と信に入るように促した。
「ああ、すまない。ありがとう」
叡正は礼を言うと、信とともに長屋に入った。
「今、お茶を……」
「あ、渡したらすぐに行くから、何も出さなくて大丈夫だ」
土間に向かおうとする佑助を、叡正は慌てた様子で呼び止めた。
「あ、そうなのですね……。わかりました……」
佑助は叡正と信が座ったのを確認してから、向かい合うように畳の上に腰を下ろす。
「それで、渡すもの……というのは……?」
叡正は、佑助の顔を見つめると、持ってきていた風呂敷包みを佑助に差し出した。
「これ……ですか?」
佑助は風呂敷包みを受け取ると、叡正を見た。
「開けてみてくれ」
叡正はそれだけ言うと、静かに目を伏せた。
(なんだろう……。すごく軽いけど……)
佑助は包みを畳の上に置くと、結び目を解いた。
包みの中には紙の束があった。
佑助は目を見開く。
「これは……」
佑助は震える指先で、一枚の紙を手に取った。
そこには茜がいた。
蓮の花の前で振り返り、無邪気に笑う茜の姿が今、佑助の目の前にあった。
「どうして……? 全部……焼けたはずなのに……」
佑助の目から自然と涙が溢れ出した。
もう茜の顔は二度と見ることができないと思っていた。
最後に見た光景が目に焼きつき、佑助は茜の顔をうまく思い出すことができなくなっていた。
地獄絵しか描けないのは、それが原因でもあった。
佑助は紙の束に視線を移す。
今まで描いてきたすべての絵がそこにあった。
「小屋の床下にさ……」
叡正はゆっくりと口を開いた。
「穴蔵が作ってあったらしいんだ……。商家の蔵じゃないから、そんなに深さはなかったみたいだけど、火事になったときのために、大事な書物はそこに入れてあったらしい……。その穴蔵に、絵が描かれた紙の束と名簿が重ねて入れてあったって……佑助の家の奉公人が言ってたよ……」
叡正の言葉に、佑助の瞳が揺れる。
「では……茜が……これを……?」
「ああ、たぶんな……。絵の裏を見てやってくれ」
叡正はそう言うと、目を閉じた。
「裏……?」
佑助は手に持っていた紙の裏を見た。
『私はずっとあなたの絵の中に』
絵具を指につけて書いたのか、乱れた文字でそれだけが書かれていた。
(絵の……中に……)
佑助は溢れるものを堪えることができなかった。
『ねぇ、いつか私のことも描いてくれない?』
出会ったばかりの頃の茜の姿が、佑助の頭の中に蘇る。
『約束よ……。たくさん、たくさん描いて……』
どこか切実で泣き出しそうな顔で茜はそう言った。
「ああ、そうだ……。僕、約束……してたんだったね……」
佑助の涙が頬を伝い、微笑む茜の上に落ちていく。
「ずっと……忘れてた……」
佑助はしばらくただ絵を見つめていたが、二人の視線に気づくと慌てて着物の袖で涙を拭った。
「す、すみません……。お見苦しいものを……」
佑助はかすかに微笑むと二人を見た。
「届けていただき……ありがとうございます……。うちの奉公人に頼まれたのですか……?」
「ああ、でも……奉公人というより、佑助の父親が指示したみたいだ……」
叡正はそこで佑助を気遣うように微笑んだ。
「おまえのこと……心配しているみたいだった。もしできるなら……屋敷に顔を出した方がいいと思う……」
叡正の言葉に、佑助はわずかに目を見張る。
(父上が……。もう完全に見放されたと思っていたのに……)
佑助は静かに目を伏せた。
「そうですね……。落ち着いたら……一度……顔を出します……」
「ああ、それがいい」
叡正はそれだけ言うと、信に視線を向けた。
「じゃあ、俺たちはこれで失礼するよ」
叡正の視線を受けて信も静かに立ち上がった。
「あ……何のおもてなしもできずに、すみません……」
「いやいや、こっちが勝手に押し掛けただけだから……」
叡正は苦笑すると、戸に向かって歩き始めた。
「あ……、永世様」
佑助はあることを思い出し、思わず声を上げた。
「先ほど……紙の束と名簿が入っていたとおっしゃいましたよね?」
佑助の声に、叡正と信は立ち止まり振り返った。
「うん? ああ、そう聞いた。ただ名簿はどこかにいってしまったみたいだったが……」
「……え? そう……なのですか……?」
「名簿が何か知っているのか?」
唐突に信が口を開いた。
「あ、何かはわからないのですが……。あの火事の日、茜が小屋に持ってきて、父上に渡そうとしていたものです……。あ、でも……」
佑助はわずかに視線を落とした。
「茜は永世様に会えていなかったのですよね……? それなら、その名簿はおそらく永世様に渡したかったものなのだと思います……」
「え、俺に……?」
叡正は目を見開く。
「俺に……何か関係のある名簿なのか……?」
「それは……わかりません……。ただ、茜は永世様に何か伝えようとしていました。外出を禁じられて直接行くことができなかったので、父上に託そうとしたのだと思います……」
「そう……だったのか……」
叡正は目を伏せた。
「なくなるはずはないので……僕が屋敷に顔を出したときに探してみます」
佑助はそう言うと真っすぐに叡正を見た。
「茜が最後に残そうとしたものですから、必ず……」
「あ、ああ。ありがとう」
叡正はそう言うと微笑んだ。
「……じゃあ、俺たちはこれで。長居して悪かったな」
叡正は戸に向かったが、信は立ち止まったままその場を動かなかった。
「……信様? どうか……されましたか?」
佑助が信に声を掛けると、信はじっと佑助を見つめた。
「……ひとつ、頼みがある」
信は静かにそう言うと、佑助にある頼み事をした。
絵は、構図こそ違ったが描くものはいつも同じだった。
茜が死んだあの日の光景。
その地獄絵図の中で鬼に刺され、捻じ切られ、焼かれている罪人は、常に佑助だった。
佑助は絵の中で何度も自分を殺した。
どれだけ無惨に殺しても、佑助の心は少しも軽くならなかったが、それでも佑助は描かずにいられなかった。
(馬鹿だな……。本当に……)
佑助は苦笑した。
信に鬼は誰かと問われ、佑助と茜の父親だと答えたが、佑助にとって鬼は重要ではなかった。
あの日罪を犯したのは、佑助の父親でも、茜の父親でもなく、茜を見殺しにした自分自身だと、佑助は思っていた。
(こんなもの描いていたって……何の償いにもならないってわかってるんだけど……)
佑助は目を閉じるとゆっくり息を吐いた。
そのとき、長屋の戸を叩く音が響く。
佑助は筆を置くと顔を上げた。
「佑助、突然すまない……。叡正だが、中にいるか?」
戸の向こうから叡正の声が響いた。
「永世様……?」
佑助は慌てて立ち上がると、戸に駆け寄った。
戸を開けると、そこには叡正と信の二人が立っていた。
「永世様と……信様……。どうされたのですか?」
佑助は二人を見て首を傾げた。
「今日は渡すものがあって来たんだ」
叡正は佑助を真っすぐに見つめた。
「渡すもの……ですか? あ、とりあえず、どうぞお入りください」
佑助はそう言うと、叡正と信に入るように促した。
「ああ、すまない。ありがとう」
叡正は礼を言うと、信とともに長屋に入った。
「今、お茶を……」
「あ、渡したらすぐに行くから、何も出さなくて大丈夫だ」
土間に向かおうとする佑助を、叡正は慌てた様子で呼び止めた。
「あ、そうなのですね……。わかりました……」
佑助は叡正と信が座ったのを確認してから、向かい合うように畳の上に腰を下ろす。
「それで、渡すもの……というのは……?」
叡正は、佑助の顔を見つめると、持ってきていた風呂敷包みを佑助に差し出した。
「これ……ですか?」
佑助は風呂敷包みを受け取ると、叡正を見た。
「開けてみてくれ」
叡正はそれだけ言うと、静かに目を伏せた。
(なんだろう……。すごく軽いけど……)
佑助は包みを畳の上に置くと、結び目を解いた。
包みの中には紙の束があった。
佑助は目を見開く。
「これは……」
佑助は震える指先で、一枚の紙を手に取った。
そこには茜がいた。
蓮の花の前で振り返り、無邪気に笑う茜の姿が今、佑助の目の前にあった。
「どうして……? 全部……焼けたはずなのに……」
佑助の目から自然と涙が溢れ出した。
もう茜の顔は二度と見ることができないと思っていた。
最後に見た光景が目に焼きつき、佑助は茜の顔をうまく思い出すことができなくなっていた。
地獄絵しか描けないのは、それが原因でもあった。
佑助は紙の束に視線を移す。
今まで描いてきたすべての絵がそこにあった。
「小屋の床下にさ……」
叡正はゆっくりと口を開いた。
「穴蔵が作ってあったらしいんだ……。商家の蔵じゃないから、そんなに深さはなかったみたいだけど、火事になったときのために、大事な書物はそこに入れてあったらしい……。その穴蔵に、絵が描かれた紙の束と名簿が重ねて入れてあったって……佑助の家の奉公人が言ってたよ……」
叡正の言葉に、佑助の瞳が揺れる。
「では……茜が……これを……?」
「ああ、たぶんな……。絵の裏を見てやってくれ」
叡正はそう言うと、目を閉じた。
「裏……?」
佑助は手に持っていた紙の裏を見た。
『私はずっとあなたの絵の中に』
絵具を指につけて書いたのか、乱れた文字でそれだけが書かれていた。
(絵の……中に……)
佑助は溢れるものを堪えることができなかった。
『ねぇ、いつか私のことも描いてくれない?』
出会ったばかりの頃の茜の姿が、佑助の頭の中に蘇る。
『約束よ……。たくさん、たくさん描いて……』
どこか切実で泣き出しそうな顔で茜はそう言った。
「ああ、そうだ……。僕、約束……してたんだったね……」
佑助の涙が頬を伝い、微笑む茜の上に落ちていく。
「ずっと……忘れてた……」
佑助はしばらくただ絵を見つめていたが、二人の視線に気づくと慌てて着物の袖で涙を拭った。
「す、すみません……。お見苦しいものを……」
佑助はかすかに微笑むと二人を見た。
「届けていただき……ありがとうございます……。うちの奉公人に頼まれたのですか……?」
「ああ、でも……奉公人というより、佑助の父親が指示したみたいだ……」
叡正はそこで佑助を気遣うように微笑んだ。
「おまえのこと……心配しているみたいだった。もしできるなら……屋敷に顔を出した方がいいと思う……」
叡正の言葉に、佑助はわずかに目を見張る。
(父上が……。もう完全に見放されたと思っていたのに……)
佑助は静かに目を伏せた。
「そうですね……。落ち着いたら……一度……顔を出します……」
「ああ、それがいい」
叡正はそれだけ言うと、信に視線を向けた。
「じゃあ、俺たちはこれで失礼するよ」
叡正の視線を受けて信も静かに立ち上がった。
「あ……何のおもてなしもできずに、すみません……」
「いやいや、こっちが勝手に押し掛けただけだから……」
叡正は苦笑すると、戸に向かって歩き始めた。
「あ……、永世様」
佑助はあることを思い出し、思わず声を上げた。
「先ほど……紙の束と名簿が入っていたとおっしゃいましたよね?」
佑助の声に、叡正と信は立ち止まり振り返った。
「うん? ああ、そう聞いた。ただ名簿はどこかにいってしまったみたいだったが……」
「……え? そう……なのですか……?」
「名簿が何か知っているのか?」
唐突に信が口を開いた。
「あ、何かはわからないのですが……。あの火事の日、茜が小屋に持ってきて、父上に渡そうとしていたものです……。あ、でも……」
佑助はわずかに視線を落とした。
「茜は永世様に会えていなかったのですよね……? それなら、その名簿はおそらく永世様に渡したかったものなのだと思います……」
「え、俺に……?」
叡正は目を見開く。
「俺に……何か関係のある名簿なのか……?」
「それは……わかりません……。ただ、茜は永世様に何か伝えようとしていました。外出を禁じられて直接行くことができなかったので、父上に託そうとしたのだと思います……」
「そう……だったのか……」
叡正は目を伏せた。
「なくなるはずはないので……僕が屋敷に顔を出したときに探してみます」
佑助はそう言うと真っすぐに叡正を見た。
「茜が最後に残そうとしたものですから、必ず……」
「あ、ああ。ありがとう」
叡正はそう言うと微笑んだ。
「……じゃあ、俺たちはこれで。長居して悪かったな」
叡正は戸に向かったが、信は立ち止まったままその場を動かなかった。
「……信様? どうか……されましたか?」
佑助が信に声を掛けると、信はじっと佑助を見つめた。
「……ひとつ、頼みがある」
信は静かにそう言うと、佑助にある頼み事をした。